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カボチャ頭のランタン  作者: mm
05.Sunrise
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 穏やかな景色の中、四人を乗せた馬車は車輪を軋ませながら風を切って進んでいく。

 都市から離れると街道だけが人の気配を感じさせて、辺りには手つかずの自然が広がる。

 かつて巨人族が地表の尽くを引っ剥がし、また人族亜人族連合との総力戦によって、ここに限らず大地は荒廃し血に染まってたらしい。だがそんな歴史を感じさせないほど自然豊かであり、生き生きとした野生動物の姿も見られた。

「はあ、穏やかだ。すごい」

「ランタン、そればっかりね」

「いや、だってすごいよ。こういうの好きかもしれない。風が気持ちいいなあ」

「ふふふ、無理に連れてきたか甲斐が、これだけでもあったかな」

 レティシアがリリオンと目配せを交わして、無邪気なランタンを見て微笑む。

 平野であるが、まったく起伏がないわけではない。波打つような自然の隆起や、幾千幾万の人の往来に沈み込んだ石の舗装に馬車が揺れる。

 それを退かせなかったのだろう大きな岩を避けるように道が弧を描き、未だ枯れぬ草々の緑が鮮やかで、紅葉の華やかさに染まりつつある森林もある。

 迷宮内にもこういった緑の迷宮が生まれる。だが似ていても、どこか違う。

 空が見えるからかもしれない。

「あ、狼だ。大きいなあ、うわ、兎追ってる」

「……あたしを見るんじゃねえよ。っていうか魔物に比べたら小さいだろ」

「あれ、兎消えた。丸呑みにされた?」

「巣穴に戻ったのよ」

 リリオンの言う通り、よく見れば狼が地面を嗅ぐように頭を下げ、前脚で地面を掘ったりしながらうろうろしている。諦めきれずに巣穴の周囲を彷徨いているようだった。

「兎って穴掘るんだ。よく知ってるね」

「わたし狼よりも上手に捕まえられるのよ。ほら、手が長いから」

 リリオンは自慢げに腕を伸ばした。迷宮でのことにはランタンが一日の長があるが、外での経験はリリオンの方が遥かに豊富だった。レティシアが感心したように頷く。

「ほう、それは素晴らしいな。あれは害獣だからな」

「狼ではなくて?」

「人や家畜を襲えば害獣となるが、この辺りは奴らの餌が多いから狼による食害はそれほどでもないんだ。魔物に比べれば脅威は低いしな。その点、兎はいかん。作物は食い荒らすし、あのように穴を掘るから柵も役に立たん。それに巣穴が厄介なんだ。足を取られて家畜が脚を折ったり、街道を穴だらけにするし、それで馬車の横転事故も起こったりな。……なかなか厄介な奴だよ。見た目は愛らしいんだがな」

「だから、あたしを見るんじゃねえよ」

 先行するベリレが時折振り返るのは、その巣穴があるからだった。巣穴はちょうど馬蹄ほどの大きさで、角度をつけて掘られているのでなかなか視認が難しい。ベリレはそういった巣穴を見つけると巧みに馬を回転させて、巣穴の位置を教えてくれた。

「馬車もいいけど、ベリレも気持ちよさそうだな」

 自在に馬を操る様子は、見てみて羨ましくなるほどだった。馬術にはまったく疎いランタンだが、それでも下手でないことが理解できる、ただでさえ大きなベリレが、巨馬に跨がる様子は絵になった。馬はベリレの体重を苦にした様子もなく軽やかだ。

「乗ってみるとそうでもないぞ。股ぐらズタボロになるし」

「――なったの?」

「治ってるよ! 一緒に風呂入ったとき見ただろ!」

 怒鳴られたリリオンがなぜ怒られたのかわからぬように目をぱちぱちさせた。リリララはちらとランタンを見て視線を逸らす。

 ズタボロになることにはなるんだ、とは口に出さなかった。

「……それはやだな」

「ランタン、すぐに皮剥けちゃうものね。わたしが抱っこして乗せてあげようか?」

「いい、いらない。っていうか馬乗れるの?」

「練習するわ、ねえだから」

「嫌だって」

 今日のリリオンは、何だか妙にランタンを子供扱いしてくる。

 物言わず、身動きもしない人形を相手に遊ぶことによって、母性の成長著しいのか。女の子にとってそれは通過儀礼のようなものなのかもしれず、また喜ばしいことなのかもしれないが、それを向けられるランタンにとっては恥ずかしさを通り越して鬱陶しい。

 景色に視線を向けていたリリララがふと立ち上がった。兎の耳をぴんと立てて、それは警戒の合図である。車上に緊張が走り、速度を落とそうとする御者をレティシアが制した。

「構わん。速度を上げろ」

 視線の先は上り坂、その頂点でベリレが弓を引き絞っている。坂の向こう側に敵がいるようだった。それは人か獣か、それとも魔物か。

「盗賊だ。数が多いな。襲われてるのは行商だ」

「せっかくの休みを、ランタン。すまないな」

「いいえ、レティシアさんの所為じゃないですよ」

 レティシアは困ったように眉根を寄せた。馬車の脇を後続の騎士たちが追い抜いてゆく。ベリレはすでに坂を駆け下りておく。

 馬車が坂の頂点に達すると、坂を下りきった先で二十名ほどでの戦闘が行われていた。人馬の死体が横たわり血溜まりが広がり、横転した馬車の積み荷が散乱している。一方的な虐殺の、その寸前だったのだろう。

 盗賊の編成は騎馬が八騎に歩兵が十と少し。対する行商は見る限りでは二名であり、護衛はもしかしたら横たわる死体かもしれない。

 だがベリレがその戦闘に介入するだけで状況は一変した。続く四人の騎士はだめ押しだった。抵抗する盗賊たちは容赦なく切り伏せられて、逃走を図ろうとするも次々に捕らえられた。

「ばあか、逃がしてんじゃねえよ」

 だが一人包囲を破った盗賊がいた。馬術に長けるというよりは、馬の頑強さに助けられたという感じだった。

「ほら、的当てだ」

 リリララが手持ち無沙汰のランタンたちに打剣を放り渡した。中指の先から手首ほどの長さで、太釘のようだった。当てたら死ぬな、と思いながらランタンはそれを振りかぶる。

 自分を納得させる大義名分さえあれば躊躇いはない。

 二人は揺れる車上に立ち上がり、背と腕の力だけでそれを投擲した。距離は約百メートル。だが探索者の臂力を以てすれば、さしたる距離ではない。それは減衰することなく、致命的な速度で盗賊へ迫った。

「全部外れじゃねーか!」

「おっかしいなあ」

「ううう、むつかしい……」

 迷宮内とは勝手が違う。こちらもあちらも動いているし、何より開けた平野には、敵の行動を制限する天井も壁もない。打剣は地面に突き刺さり、断末魔代わりにリリララの叱責を響かせる。

「いや、充分だよ」

 レティシアが雷撃を放った。二指から迸った雷光は、地面に刺さった打剣の数だけ枝分かれして、まるで網を掛けたように広範囲に広がった。それに絡め取られた馬が声もなく硬直し横倒しになり、投げ出された盗賊にベリレが槍を突き付けた。

「いいなあ、魔道」

 リリオンが羨ましそうに呟いた。ランタンは軽く拍手をして、それから手首を揺らす。偏差射撃以前の問題だ。

 行商は三人組で護衛を一人雇っていたようだが、行商一人と護衛は盗賊に殺されてしまったようだ。横転する馬車を引いていた馬も射殺されていて、けれど生き残った行商は気丈だった。こういう仕事をしていれば珍しいことではないらしい。

 散乱する荷は、食品や鍋釜、洗剤、それに農具などの雑多な生活用品だった。小さな町や村を転々とする行商であるらしい。

 レティシアが慰めの言葉を掛けると、まずその家名に驚き、レティシアが止めなければ血溜まりに平伏するところだった。

「よい。命があって何よりだ。この者たちはきちんと埋葬してやらねばな」

 死んだ行商と護衛は、荷を寄越せば助けてやる、と脅した盗賊に反抗したようだ。だがその反抗がなければ、荷も命も奪われていただろう。

 盗賊は捕らえられ、争いの最中死んだ者は衣服を剥かれて、首を落とされ、膝を割られて野に晒される。死体は野生動物の餌となり、風雨によって土に還る。それは母なる大地に還るということだ。だがそれができずに亡者となることもあるらしい。

 屍食鬼(グール)腐人(ゾンビ)などがそれだが、それは魔精によって偽りの命を与えられた魔物であるとされている。もっともそれらは、そうなってしまっても、あまり長く現世に留まれはしない。だが運悪く出会ってしまうと、魔精に釣られて人を襲う。

 首を落とし、膝を割るのは、そうなった時の脅威を減らすためだ。

「教会の作法だ。野蛮だけど、特別な技術は要らないからって」

「おじいさまが?」

「ううん、シド隊長が言ってた」

「ふうん」

 リリオンとベリレが横転した馬車を起こし、ランタンは散乱した荷を集めて馬車に積み込んだ。リリララが盗賊の装備を使って馬車の破損を直し、また補強していく。

「ありがとうございます、騎士さま」

「あたしはそんなんじゃねえよ。騎士さまはあっち、見習いだけどな。ちっ、痩せた土地だな」

 リリララは視線だけをベリレに向け、更に檻を作っていた。じわりと額に汗が浮く。

「まあ、多少、狭いが詰め込めばどうにかなるだろ。入りきらねえなら首だけにしちまえばいいしな」

 その脅し文句を聞いた盗賊は我先にと檻へ飛び込んでいく。それは物凄くむさ苦しい光景で、ランタンはうんざりしたように顔を顰めた。これを見世物にすればかなりの犯罪抑止効果があるのではないかと思う。

 盗賊たちの馬は行商の馬車に繋がれ、それでも余った馬たちを騎士が一纏めにした。

「では彼らを都市まで送り届けてやってくれ。盗賊(こやつ)らも」

「かしこまりました、レティシアさま」

 一人の騎士が命令を拝受し、商人たちは重ねて礼を言った。

「ありがとうございます。ネイリングさま、騎士さま方」

 行商はランタンに向けて相貌を崩した。年の頃で言えばランタンほどの息子がいてもおかしくない壮年の男である。向けられた視線の穏やかさは、幼子へと向けるそれだ。

「いや、さすがは勇猛名高きネイリング騎士団。これほど年若くあられて、まったく戦に動じないとは。末は竜殺しか、はたまた巨人殺しか!」

 ただの褒め言葉である。だがランタンはどのような顔をすれば正しいのか判らなかった。リリオンはまったく平気そうにしているが、それが意識してのことかの判別も付かない。

 場違いなほどあっけらかんとリリララが膝を叩いて笑った。

「末どころかもうすでに竜殺しだよ、そいつ。この辺を回ってんなら名ぐらい聞いたことあるはずだぜ。単独探索者――」

「――ランタン! ほう、この子が。なるほど噂通りに小さい、……これほどお若いとは!」

「……今、小さいって」

「滅相もない!」

 名前と一緒にどのような噂がされているのだろうか。ランタンは不満を隠そうともせずに、女騎士か何かと勘違いされ、それに気をよくして澄まし顔のリリオンを引き寄せる。

「もう単独(ソロ)じゃないから、間違えないで」

 澄まし顔を一転させ、蕩けるような笑みを浮かべたリリオンが誇らしげに鼻を鳴らした。




「やっぱりランタンはすごいなあ」

「半分悪名みたいなものじゃないか。なんだよ、悪さをすると現れるって」

 ランタンからすると悪人の方からやってくるので、しかたなくそれを撃退しただけだ。

 行商から少し話を聞いたら迷宮探索の功績も語られているようだが、同じぐらい下街での乱暴な振る舞いも語られていた。そりゃあ血祭りに上げたけど、とランタンはぐちぐち呟く。

「悪名は無名に優るとも言うしな、まあいいじゃないか。それに最近の働きは姫さまのお耳にも届いているぞ。頑張っているみたいだな」

「悪口ですか?」

「ランタンはすぐにそう言うな。自分で思うよりも君は好かれているよ」

 ほんとかよ、と思うと、そんなランタンを励ますようにリリオンが体重を預ける。ランタンが逃れようと身体を傾けると、そのまま一緒に倒れ込んできた。

「わかったから。もう、――重くなったなあ」

「あら、ランタン失礼しちゃうわ」

 意味をわかって使っているのだろうか。リリオンはオママゴトの台詞を読むみたいに言って、怒るでもなくにこにこ笑っている。ランタンはリリオンを押し返して、車外に腕を垂らして景色を眺めた。

 街道を進むと、たまに分かれ道に出くわす。それらは本道に比べると簡素な造りで、舗装はされていたり、いなかったりで道幅も幾分狭い。その先に視線を向けると道の出来に比例した発展具合の農場や町村があるのがわかった。

「んーふふーふー」

「ごきげんだな、おい」

「んー、ふふー」

 リリオンはランタンにもたれ掛かる代わりに、その背中にべったりとくっついた。頭上に顎を乗せて鼻歌を奏でている。体温が高いので風除けにはちょうどいいかもしれない。

「でもやっぱり重いな……」

「あたしが代わってやろうか。このリリオンより十キロぐらい軽いぜ、ちなみにレティと比べると」

「ダメよ」

「聞いてるじゃねえか。ってごめんてレティ、おお怖こわ」

 リリオンはリリララにからかわれてもどこ吹く風だ。むしろレティシアが怖い顔でリリララを睨んでいる。

 目的地である飛行場にはまだ辿り着かない。食物連鎖序列に魔物が横入りして久しいが、それでもその頂点には竜種が君臨し続けている。竜種はやはり生物にとって畏怖の対象だ。飛行場の付近では家畜の飼育が難しく、そのため飛行場は人里離れた場所にある。

 その道すがらリリオンは動物が現れる度に指差してランタンに教えてくれた。

「あ、かえる!」

「蛙だね。いや、それぐらいは僕も見たことがあるよ」

 迷宮内でも、都市内でも見かけることのある牙蛙だ。それほど珍しい生き物ではないがリリオンは歓声を上げるように叫んだ。そして振り返ってレティシアに尋ねる。

「もうそろそろ?」

「ああ、そうだな。あの坂を越えれば見えてくるんじゃないかな」

 蛙が目印なのか、とランタンが不思議そうな顔をしているとリリオンは得意げに教えてくれる。

「飛行場には大きな湖があるのよ」

「へえ」

「あの蛙は竜種のごはんなんだから」

 生態系の頂点たる竜種が蛙食いとは、妙な侘しさがある。

 牙蛙の炭火焼きなどは下街ではよく見られる逸品だ。ランタンもそれで飢えを凌いだことがある。見た目の気持ち悪さを無視すればそう悪い味ではない。外れを引くと泥臭いが。

「じゃあわざわざ繁殖させてるんだ」

「ええっと、たぶん……」

「ふふふ、水場さえあれば放っておいても増えるからな。魔物の血が入ってるから多少凶暴だが、おかげで竜種にあまり怯えもしないし」

 確かに牙蛙は不貞不貞しい。馬蹄の轟きに反応することもなく、道の真ん中に座り込んで動かず、踏み潰されそうになると逃げ出すどころか襲いかかってくる始末である。

 先行するベリレが槍を巧みに操って蹴散らしてくれるが、すぐに道の真ん中へとのそのそ這い出てくる。

 だがそんな蛙が凍り付いたように動きを止め、そして隠していた跳躍力を発揮して散り散りになった。

 坂の向こうから大きな咆哮が響き渡った。

 馬が怯えて嘶き、御者が懸命に宥めている。

「すごい声ね」

「最終目標級のでもいるの?」

「さて、どうだったかな」

 ランタンは顔を顰めた。自意識過剰とわかっていても、まさか自分に、と思ってしまう。猫に引っ掻かれるぐらいならばどうと言うことはないが、竜種となると腕が千切れ飛ぶ。最終目標級ともなると原形を留めるのも難しい。

「平気だとは思うが、現に迷宮ではそうだろう。魔物はランタンを恐れないじゃないか」

「……それこそ襲われちゃうじゃないですか」

「わたしが追い払ってあげるから大丈夫よ」

「っていうか竜殺しだろうがよ、てめえは」

「――エドガーさまの話か?」

 ベリレが速度を落として馬車に並んだ。リリララが大げさに肩を竦めた。

「ちげえよ、こいつがエドガーさまに取って代わろうって話だよ」

「それも違うから。――そう言えば、最近見かけないけどおじいさまはどうしてる?」

「リハビリ中。もう目も腕も――っと」

 ベリレは慌てて口を押さえた。目も腕もどうしたんだよ、と聞いても答えてはくれない。ランタンの知らないところで皆エドガーの見舞いに行ったらしい。リリオンでさえも。

「誘ってくれればいいのに」

 ランタンがなんとなしに呟くと、みんなの視線が一斉に注がれた。友好的とは言い難い視線だ。

「ランタン」

「なにかな?」

 空々しいランタンにリリオンが唇を尖らせる。

「もう、どの口がそんなことを言うのかしら」

 ランタンの唇を人差し指でちょんと触れた。

 誘わせなかったのはランタンだ。言わせすらしなかった。今日でさえ、レティシアのお膳立てがなければ迷宮特区へと足を運んでいただろう。リリオンは唇を触った指でランタンの頬を突いたり、引っ掻いたりした。

「リリオン、もうそれぐらいでいいだろう? 機嫌を直しておくれ。ランタンも久々の休みなんだから」

 レティシアがリリオンの頭を撫で、極薄く赤みを帯びたランタンの頬に触れた。

「さあ、着いたぞ」

 坂を下ると黄金の樹林が現れる。まるで巨大な花のようだった。枝がしなるほど、目に鮮やかな黄色い葉を茂られた広葉樹林へと道が続いている。金木犀に似た少し甘い香りが風に運ばれた。

 道は落ち葉で満たされて金糸の絨毯を敷いたようだった。上も下も黄金に染まり、ランタンとリリオンは眩しそうにひらひらと降る落ち葉を見上げている。

 頭上の黄金が不意に失われ、青空が広がった。

 その空間は樹林に抱かれて外界から遮断されている。その現実感のなさは、初めて迷宮へ潜ったときに感じたそれに似ている。

「きれい……」

「ほんとうに、……はあ、すごい」

 二人は何故だか手を取り合っていたが、本人たちはきっとそれに気が付いていない。表情を無垢に染めて、ぽけっと口を開いていた。

 大きな湖があった。茂る葉を反射して黄金を湛えているようだった。湖の縁でのんびりと身体を横たえる竜種が長い尻尾で湖面を揺らしている。世話役たちが竜種の背をブラシでごしごし擦っていて、竜種は気持ちよさそうに欠伸をしたり、更にせがむように顔を擦りつけたりしている。

 鎖に繋がれることなく放し飼いだ。

 それは見事な景色以上に現実感のない景色だった。

「なかなか凄いだろ?」

 レティシアが自慢げに言った。そして息を吸って豊かな胸を膨らませると、凜と通る声で呼ぶ。

「カーリー!」

 それが火竜だと一目見て理解できるのは、燃えるような赤い鱗を有しているからだ。巻き毛(カーリー)という名の通り、鱗と同色の鬣たてがみが炎のように波打っている。強い羽ばたきで一つ巨体を浮かし、もう一度の羽ばたきで湖面すれすれを滑るように飛んだ。

 強烈な風圧で湖面に水柱が立ち、それに巻き込まれた牙蛙が失神して腹を見せて浮かぶ。何頭かの竜種が首を伸ばし、あるいは尻尾を操ってその蛙を捕らえていた。

 激突しそうなほどの速度で突っ込んでくるカーリーは、けれど直前で翼を目一杯広げて減速すると、巨体に似合わぬ軽やかさでレティシアの前に降り立った。

 レティシアは髪が吹き荒れるのも気にせずに、笑みを浮かべた。

 ぎゃおう、とカーリーが鳴いた。

「ああ、久し振り。こら、噛むんじゃない。拗ねるな、拗ねるな。会いに来てやっただろう」

 レティシアは喉元を引っ掻くように擽り、乱暴な手つきで鬣を撫でて、穴が開きそうな甘噛みを押し返した。あやすように鼻頭を叩く。カーリーは嬉しそうに見えた。

「犬みたい」

「猫みたい」

 ランタンとリリオンは同時に呟く。

「お前に甘えるリリオンみたいだな」

 そしてリリララが言い、ベリレが笑った。

「これはカーリー、なかなか可愛いだろう。こんな小さい頃から慣らしてあるから噛んだりはしないよ。――たぶんね」

 手を伸ばしかけて、リリオンが躊躇った。カーリーはその指先に鼻を近づけてふんふんと匂いを嗅いでいる。

 体高はリリオン二人分ぐらいか。翼開長はその倍近く、鼻の先から尾の先まで合わせると更に倍。そんな巨体に迫られてリリオンは戸惑っているが怖がってはいなかった。

「ねえランタン、鼻息が熱いわ。うーん、どうしたらいいの?」

「美味しそうな匂いでもするんじゃない?」

 リリオンの戸惑いを無視して匂いをかぎ続けるカーリーは、指先から腕を辿り、腋の下をくぐって背に回り込もうとした。その背中には探索用ではない、可愛らしい籐の背嚢が背負われている。

「ダメ! これはランタンのお弁当なんだから!」

 逃げ出すリリオンをカーリーは追おうとした。だがその前にランタンが立ちはだかると、立ち止まりすっと首を伸ばした。そしてランタンを睨むように見下ろした。

 その脇でレティシアが戸惑っている。

「これは僕のだ。盗るんじゃない」

 リリオンを背に隠して、ランタンは仁王立ちになって言い放った。朝食を取っていないので空腹だ。ぐるる、とカーリーは喉を鳴らす。

「こら、カーリー、おやめ。ちゃんと土産を持ってきてある」

 ベリレとリリララが馬車から荷物を引きずり下ろす。カーリーは、ぐる、と再び不満気に喉を鳴らす。

 ――こいつじゃないな。

 樹林の外で聞いた咆哮の持ち主は別だ。ランタンは視線を巡らせた。十数頭の竜種が、そこでは思い思いに過ごしている。なんとなくこちらを窺われているような気がするのは気のせいではないだろう。けれど襲いかかってくることはない。

「――ほら、これを捕らえたのはランタンだぞ」

 カーリーへの土産は巨大な蟹の脚だった。干物にされていて大きさの割には軽そうだ。カーリーはそれが眼前に転がされた瞬間に飛び掛かったが、だがはっきりと人語を理解しているようでぴたりと動きを止めた。蟹を口に咥えたまま、じろりとランタンを見つめる。

 知性的な眼差しをしているが、やはり人とは違い、あるいは人と同じく何を考えているのかはわからない。

 一つわかるのは迷宮の魔物とはまったく違うということだ。迷宮の魔物の眼差しにあるのは底知れぬ敵意と憎悪だけであるが、この眼差しは妙な人間臭さがある。

 カーリーは喉を揺らし鳴き声とも呼べぬ細い音色を奏で、それで礼が済んだとでも言うように蟹脚に食らいついた。水分が抜けたそれは鋼の硬度だが、苦もなくばりばり噛み砕いている。

「いつもはもっと人懐っこい子なんだが」

「いや、いいですよ。噛んでこないし、ねえ」

 ランタンが手を伸ばすと、カーリーは食べかけの蟹脚を咥えて顔を背けた。

「まあ、食事中ですし」

「いや、ほんとうに、どうしたんだ。すまない、ランタン」

 レティシアは困ったように頭を掻いた。

「私は管理者に挨拶をしなければならんのだが」

「お気になさらずどうぞ」

「そうか。二人ともわたしと一緒に来い。リリオン、ランタンとカーリーが喧嘩をしないように見張っておいてくれ」

「まかせて!」

 リリオンがどんと胸を叩いた。

「喧嘩なんてしないよ」

「さあ、どうかしら?」

 二人は蟹に夢中のカーリーを放っておいて、黄金の湖に近付いた。湖の縁は鼠返しのようになっていて、容易に蛙が逃げ出せないようになっている。湖面を漂う落ち葉が風に集められて一カ所に集まり浮島をなし、その下に無数の蛙が隠れている。

「うへえ、うようよいる」

 水の透明度は高く、だが底が見えないほど深く、蛙ばかりではなく大きな魚も泳いでいた。黄金の湖の中で色取り取りの鱗が光る。丸い輪郭はもしかしたらオタマジャクシかもしれないし、水底深くを泳ぐ竜種の影なのかもしれない。

 リリオンが髪を押さえて湖面を覗き込んでいる。湖面に映る顔が、色取り取りの影を見つけては驚きに百面相している。

「綺麗ね、泳げるのかな?」

「夏なら泳げるんじゃない? 蛙と泳ぐなんて僕は御免だけど。間違えて食べられるかもしれないし」

 ランタンが笑いながらそう言うと、ぼこんと湖面が爆ぜた。蛙どもが湖の縁に集まっている。中心から現れる何かを避けるように。

 黒い影。本当にあの影は竜種の影だったのか。

 ――大音声で吠えたのはこいつか。

 姿を現したのはカーリーよりも二回りほど巨大な竜種だ。冠のような角があり、濡れた鬣が黒色で、鱗は茶と緑の斑模様で赤い隈取りが浮き上がっている。

 縦に裂けた虎目がランタンを捉えた瞬間、それは猛然と突進してきた。

「なっ……!」

 予想はしていたが、カーリーの穏やかさに少しだけ気を抜いてしまった。

 世話役たちが物凄く慌てている。やはりこれは珍しいことのようだ。

 ランタンはリリオンを突き飛ばして冠竜の角に手を掛けた。さすがにこれほどの質量は受け止めきれない。ランタンはその速度に身を任せ、また同時に身体を振り子のように使って竜種の首を捩った。

 ねじ切ることは出来ないが、方向を逸らすことは出来る。

「うるさい! 暴れるな! くそ、躾のなってない!」

 冠竜は咆哮し、樹木に追突する直前、真っ直ぐに飛び上がった。ランタンごと。

 ランタンは掴んだ角を引き寄せてその首に跨がる。振り落とそうと暴れるが、頭上を取ってしまえばこちらのものだ。

「ランタンっ!」

「は?」

 冠竜が羽ばたく。聞こえた声は幻聴ではない。ランタンは振り返り、翼の向こう側、尻尾の半ばにリリオンが掴まっているのを見て目を丸くした。

「なにやって――馬鹿っ、降りろ!」

「いやよ!」

 尾が長いおかげで、今ならば飛び降りてまだ間に合う。だがリリオンは尻尾をよじ登る。

「置いてかないで、ランタンっ!」

 竜種の咆哮に負けない叫び声。

 地上が、黄金の湖がみるみる遠ざかって、青空が近付く。

 リリオンの髪が風に広がった。


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