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カボチャ頭のランタン  作者: mm
01.Take Me By Storm
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012 迷宮

012


 深度計と呼ばれる探索道具がある。その形態は様々だが大抵は装飾品の形をとっており、ランタンが使用しているものは革の紐に涙型の深度計を垂らした首飾り(ネックレス)状だ。深度計は計りなどとは名ばかりに目盛りの一つもなく、それは安物の宝石に見えなくもない。

 ランタンは服の中にしまっていた深度計を手繰り寄せるとリリオンに見せるようにつまみ上げた。

 迷宮を探索する際に、その構造は上層、中層、下層の三つに分けて考えられるが、実際に迷宮が三分割されているわけではない。そこに漂う魔精の濃さを深度計で測り、出現する魔物の変化を見極め、あとはこれまでの経験則から、ここからは中層だな、と頭の中の地図に線を引くのだ。

 深度計は水色を薄めたような微かな光を放っている。青が薄ければ大気中の魔精は薄く、青が濃ければ大気中の魔精が濃い証拠だ。

「うーん、……まだ、上層……?」

 リリオンは深度計をじっとりと見つめて、おそるおそる呟いた。さながら授業中に余所見をしていた少女のようだ。となると僕は先生か、とランタンは一つ咳払いをした。

「残念ながら、もう中層です」

 深度計の色の変化は非常に曖昧で淡いものだ。例えば深度計を黒いほどの青に染めようと考えるのならば最高難易度の最下層にでもいかない限りそれを叶えることはできない。この迷宮の最下層に到達したとしても深度計は青になるかどうかといった所だろう。

「もうぜっんぜんわからない。さっきと色変わってないわよ!」

「さっきはもっと薄かったよ。……といってもまぁ判んないよね」

 ランタンが色の変化に気が付けるのも、何度もこの迷宮に潜った経験があり、どの程度の変化が起こるのかを知っているからだ。迷宮深度を推し計る、また別の目安となる魔物も出現していないので、初探索であるリリオンが迷宮深度を推測するのは難しいだろう。

「と言うわけで、もう手は離すよ」

 ランタンがぱっと指を開いた。リリオンは未練がましさを隠そうともせずにゆっくりとランタンの手から指を離した。まるで皮膚の癒着を無理矢理に引き剥がすような苦痛に顔を歪めている。

 大げさなことだ、と思考の浅い所で思い、しかしランタンもまたその表情から視線を外すことに、必要以上の精神力を要していた。駄目だ駄目だ、と頭を振って雑念を振り払い、しかしこびり付いた(じょう)がランタンにリリオンの腕を掴ませた。

 ランタンは深度計を首から外すと、片手で器用にリリオンの腕に巻きつけた。

「これ預けるから、我慢してね」

「――うん、我慢する」

 ランタンはリリオンの手首を飾る水色の光を指で弾き、リリオンはその幽光に眩しそうに目を細めた。その光の熱を確かめるようにちょいと指で(つつ)く。ランタンはその様子に顔を(ほころ)ばせた。

「熱くはないのね」

「熱かったら火傷しちゃうよ」

「そうね、そうよね」

 リリオンはここが迷宮ではなく装飾品店(アクセサリーショップ)か何かと錯覚しているように、腕を前に付き出して見せびらかしてみせた。ぬっと眼前に現れた手をランタンは思わず捕まえて、それが毒虫でもあるかのように、慌ててぽいっと放り出した。

 ランタンはリリオンに悟られないように、自分とリリオンの汗で湿った掌をズボンで拭った。汗はズボンにあっという間に吸い取られたが、掌には暖かさも柔らかさも生々しく残っている。

 これではまるでリリオンが手を繋ぎたがっているのか、それとも自分がそれを望んでいるのか判らない有様だ。

 だがもし、万が一、何かの気の迷いで、まぁそんな事はないのだけど、自らが手を繋ぐことを望んでいたとしても、それを実行に移すことは耐えなければならない。

「ぜんぜん魔物って出ないのね」

 つまらなそうにリリオンが言った。

「まぁ処理済みだしね。 ――でも、そんなこと言ってると出るんだよねぇ、ひひひ」

「わたし、こわくないわ!」

 ランタンが脅かすように囁くと、リリオンは虚勢を張った。

 リリオンは魔物と相対したことがあるが、これと剣を交えたことはないらしい。着の身着のままで魔物の眼前に放り出され囮役をやらされてはいたが、実際の戦闘行為はあの男たちの役割だったようだ。それでもリリオンは、動物なら殺した事があるわ、と喚いたがそれは向かってくる猛獣を相手にした戦いではなく、食事のために小動物を狩猟したという程度のものらしい。

「僕にしたら武器も持たずに魔物の前に行くほうが怖いけどね」

 それは、僕にしたら、ではなく大多数の探索者、いや、ほぼ全ての人類が何の守りもなく魔物の前に立つことのほうが恐ろしいと感じるだろうに、リリオンの感覚はどこかずれている。いや、ずらさなければやっていけない境遇に身を置いていた、と言うことか。

 ランタンは表情を変えずに口の中で舌打ちを転がした。

 この意識のずれは早いうちに直しておいたほうが良いだろう。とは言っても口頭で伝えるだけで直るようなものではないだろうし、失敗して戦闘行為だけではなく、魔物そのものに恐怖を覚えるようになってしまったら目も当てられない。

 ランタンにも、上層に出現する魔物程度ならば片手間でどうにでも出来るという自負がある。

 だが中層以下となると、片手間では済まない。リリオンを戦場に引きずり出し、戦果を挙げさせる。そんなお膳立てが出来るだろうか。

「やらなきゃ、だよね」

 中層の魔物は前回探索時に殲滅済みで、再出現(リポップ)までには猶予がある。となるとリリオンの初戦闘が下層になり、そうなると更に舞台を整えることは難しい。だが運が良ければ、あるいは悪ければだが、魔物が出現している場合もある。

「でもでも、前の探索の時には再出現してたんでしょ?」

「まぁそうだね。だいたい十日前後って言われてるけど、それも絶対じゃないし、はぐれって呼ばれるんだけど、一匹だけが出現してる場合はまぁまぁあるんだよね」

「一匹だけなの?」

「うん。魔物は群れを作る奴もいるけど、そいつは絶対一匹だけ。迷宮兎だったとしても一匹だけしか出ないんだ。もし出たらリリオンにやってもらおうかな」

「一匹……、わたしがんばるわ!」

 リリオンはぐっと拳を握って、その拳を天井に突き上げて吠えた。

 はぐれ、と呼ばれる変則的に出現する魔物は、通常の魔物の平均値から大きく外れた強さを持っている。迷宮が魔物を生み出すときに分け与えられる魔精を独り占めにしているのか通常時よりも強い種の場合もあるし、逆に魔精が足りずに、未熟児であるかのように弱い種の場合もある。

「うん、がんばってね」

 ランタンは極めて気軽にそう口に出した。プレッシャーを与えすぎて、本人のやる気や勢いを削いでは元も子もない。強い種が出ればランタンが処理し、そうでなければリリオンに差し向ければよい。

 ランタンは腰に下げた戦鎚(ウォーハンマー)の柄を握り締めた。柔らかくもなければ、温かくもない。硬い金属の棒だ。だがそれもまた掌には馴染んで、ランタンに安心感を与えるものである。

 例えば最終目標が何らかの理由で最下層から抜け出し突然目の前に現れたとしても、リリオンを逃がすか、あるいは盾を構えさせる程度の時間ならば余裕で稼げる。前衛としてのランタンの力量は、控えめに言っても並の探索者に引けを取らない。

 だがそれだけが探索者に求められる能力ではない。

 探索者ギルドよりの情報を元に探索計画の立案やそれについての最終決定を下す指揮者としての仕事は、その仕事の質はさて置いて、単独(ソロ)探索者として避けて通れないのでなんとかこなしてはいるが、いざ迷宮に入ってしまえば足りない能力というのは浮き彫りになる。

 その最も顕著なものが、索敵能力だった。

 魔物に発見される前に魔物を感知し、奇襲からの先制攻撃を与えることが出来るというのは、戦闘行動において重要な要素となる。上手く事が運べば相手に攻撃の機会を与えることなく魔物を殲滅することも可能であるし、仕留めきれなかったとしても不意の一撃というものは致命的(クリティカル)な損害を相手に与える確率が大きく上昇する。そうなれば続く戦闘を非常に有利に事を運ぶことが可能となり、結果的に味方側の消耗を抑えることに繋がる。

 一度の探索につき戦闘が一度だけならば消耗を度外視してもいいが、そんなことが可能なのは最終目標(フラグ)までの魔物の殲滅のみを行う探索班(チーム)と最終目標との戦闘だけに特化した探索班といった複数の班を組むことが出来る人員を抱える大規模探索団ぐらいのもので、ランタンどころか普通の探索班には縁遠い話だった。

 通常の探索では魔物との複数回の遭遇、戦闘は避けられないものだ。戦力の消耗を恐れるがあまり、身を隠し、またその魔物を避けて進むということも過去には考えられたらしいが、撤退時ならまだしも、現在では挟撃の危険性を増やすだけの愚かな行為だと言われている。

 つまりランタンが魔物に遭遇した瞬間には、幸運が重なるか魔物がよほどの間抜けでもない限り、もう既に戦いの火蓋が切って落とされているというわけだ。

「――リリオン! 戦闘用意!」

「え――はいっ!!」

 ランタンが叫ぶ。

 背後で盾を構え抜刀する金属の音色が聞こえ、それが聞こえた瞬間にはランタンはすでに地面を蹴っていた。流れる景色の中で鋭く目を細める。

 灰色の景色の中に、濃い茶色の塊が一つ。それはランタンを目掛けて一直線に突っ込んでくる。ずんぐりとした丸い体をいかにも硬そうな毛皮で覆い、口から溢れる牙は短く、ラッパ状の鼻が特徴的だ。どこかコミカルな印象を受けるのは、毛に埋もれた黒い瞳がつぶらなせいだろうか。

 はぐれ魔物。それは巨大な猪だった。

 なんという名前だったかな、と思考の隅で考えながらランタンは戦鎚を握りこみ、身体を捻るように振りかぶった。名前は思い出せないが、前に戦ったことがある。大きさはその時とさほど変わらないように思えるが、外見から強弱を推し計ることは出来ない。

 毛は針金を編んだように硬質で、その下の肉はゴムのように弾力があり打撃に対して高い耐性を持っていたはずだ。突進速度はなかなかのもので、牙が短い代わりに鼻が黒鉄のように硬化しており、速度の乗った巨体と合わせた突進を真正面から受け止めることは難しい。

 だが所詮は猪だ。巨体に埋まるように生えた短い足は、ただひたすらに体を前に推し進めるだけに付いており、急停止どころか方向転換もままならない。避けることは容易い。

 だがしかし背後には初陣のリリオンが居る。イノシシはどこから走ってきたのか充分に加速しており最高速度と言ってもいい。視界の先で拳大ほどの大きさだった姿が、もう目前にいる。こうなるともうコミカルどころではない。岩の塊が突っ込んでくるような圧力がある。猪はランタンの腰ほどの体高があり、これをこの速度のまま、無傷でリリオンへ通してしまっては先輩風を吹かせていたランタンの沽券(こけん)に関わる。

「どっ、せぃっ!」

 ランタンはすれ違いざまに猪の横っ面を戦鎚で引っ叩いた。醜い悲鳴が上がり、硬い毛皮を潰し、弾力のある肉を押し分け、硬い頭蓋の感触が掌に伝わってくる。

 一瞬、猪の前足が二つとも地面から離れ、巨体がわずかに横にずれた。だが猪の突撃は止まらない。ランタンは叩いた衝撃で自らも横に跳んで猪の攻撃を避けた。

「重い」

 だがそれだけで、強くはなさそうだ。ランタンは、カモだな、と下品に上唇を舐めた。

 ランタンは槌頭(ハンマーヘッド)に付着した魔物特有の青い血を振り払い、即座に振り返って視線で猪を追い、それを追い越してリリオンを見た。

「リリオン!」

 リリオンはランタンの言いつけ通りに盾を左前に構えて、最初の位置から動かずにじっと魔物を伺っている。盾の影に隠れて表情は見えないが、どうやら落ち着いているようだ。まずそのことに安堵し、さらにきちんと猪を視界に捉えて、ほっと一つ息を吐いた。

 猪はリリオンに到達する前に足を縺れさせて、後ろ足が前足を追い抜くような形ですっ転んだ。丸い体も相まって二つ三つと転がって、起き上がり小法師のように立ち上がると再び走りだした。その先は、壁だ。

 猪はランタンの打撃によって一時的に脳震盪を起こし錯乱しているのだ。

 戦鎚の鶴嘴を使えばいかに猪の強固な頭蓋であろうとも孔を開けることもできただろうがランタンが片付けてしまっては意味がない。それに虫の息にまで追い込んで、はいどうぞ、でもリリオンの自信には繋がらない。

 猪は硬い鼻で何度かガリガリと壁を削り、しかし持ち前の頑丈(タフ)さですぐに正気を取りもどした。こめかみから流れる青い血を振り払うように頭を振って、耳障りな音で鼻を鳴らし、攻撃的に鳴いた。

「リリオン! 二分の一だ! そっちに行ったら任せる!」

 猪の突進は脅威だが、それは十分に加速していればの話だ。猪はちょうどランタンとリリオンの中間地点で、どちらに狙いを定めるか迷うように落ち着きなく円を描いた。

「落ち着けば大丈夫だから!」

 ランタンはリリオンに向かって叫ぶと、こちらを向いた猪に向かって走りだした。憎悪に濡れたつぶらな瞳を覗きこむように睨みつけ、殺意を注いだ。ランタンの焦茶色の瞳が、明るくなった。

 その瞬間。

 ひときわ甲高い鳴き声を発すると猪は踵を返し、猛然とリリオンに向かって走り出しだした。ランタンはそれを追い立てるようにその後ろに続く。

 ランタンから逃げるように猪の蹄が硬質な地面の上で空回る。それでなくとも満足な助走に必要な距離は存在しないので、猪は中途半端な速度でリリオンに向かわざるをえない。落ち着いたリリオンならば盾で受け止めることは容易いだろう。

 なのに。

「リリ――」

 リリオンが空を払うように盾を横に薙いだ。目測を誤った、いや、視界が狭いのを恐れたのか。何にせよリリオンは全くの無防備だ。

 ランタンの叫び声は間に合わない。リリオンは盾に身体を引き摺られるその勢いのままに、剣をおおきく振りかぶっている。まだ、猪まで遠い。

 盾から体を(さら)け出したリリオンをランタンは引きつった表情で見つめた。リリオンは全然、まったく落ち着いてなんかいなかったのだ。

 顔は真っ白で、一文字に結ばれた唇は青く、瞳には全く余裕がなく猪だけを見つめている。リリオンは言いつけ通りに盾に隠れて冷静に猪を伺っていたわけではない。緊張と混乱で一時的に凍り付いていたのだ。それが向かってくる恐怖の対象を見て、急速に解凍された脳髄が、本能的に身体を動かしている。

「踏み込めっ!!」

 ランタンはほとんど悲鳴のような怒鳴り声を上げた。

「はいっ、ぃいやぁぁああっ!!」

 ランタンの命令がリリオンの本能行動の隙間にねじ込まれて、リリオンは猪に向かって大きく一歩を踏み込んだ。リリオンの左足の下で地面が砕け、右腕が(しな)ったかと思うと、剣がまるで投擲されるように振り下ろされた。

 壁に反響するリリオンの気合を、爆音が吹き消した。

 力任せに叩きつけた(きっさき)が地面に埋まっている。外したのではない。顔面をまるごと失った猪が弾けるように転がって、数回大きく痙攣すると青い血の海の中で静かに横たわった。

「わぉ」

 猪の頭蓋骨の中に仕掛けた爆弾が爆発したような有様にランタンは小さく声を漏らした。

無残な猪の死骸を飛び越えてリリオンに駆け寄った。

 リリオンは地面に埋まった剣を抜こうとしているのか、それとも柄に張り付いて剥がれない掌をどうにかしようと、肩で息をしながら必死に腕を動かしている。猪の有様も、近寄るランタンにも気が付いていない。

「リリオン」

「――ひっ」

「その反応はちょっと傷付くなぁ」

「えっ――きゃあっ!」

 声を掛けたランタンにリリオンは怯えた表情を見せて、それがランタンだと気がつくと柄から手が滑って盛大に尻餅をついた。手の中から盾が零れ落ちて銅鑼のような音が響く。ランタンはその音に顔をしかめながら手を差し伸ばした。

「よくがんばったね」

 ランタンは手を掴んだリリオンを抱き起こして、そのまま胸の中に収めた。剣を握っていた右の掌には剣撃の熱がこびり付いていたが、指先は氷のように冷たく震えていた。優しく背中を撫でてやると、そこからゆっくりと溶け出すようにリリオンの体から力が抜ける。

「どうだった?」

「……わかんない」

「ふふふ、初体験なんてそんなものだよ」

 胸の中でポツリと呟くリリオンにランタンは意味深に笑いかけたが、リリオンはぽかんとした表情になっただけだった。ランタンは口元の笑みだけはそのままに抱きしめていたリリオンを開放して、さてと、などと呟きながら地面に刺さった剣を抜いた。

 がむしゃらな一撃だったので、覚えていないのも無理はない。

 剣はあれほどの勢いで叩きつけられたのにも拘らず壊れてはいなかった。地面に埋まった部分の刃は若干潰れてはいるが、生半可な品質では折れるか(ひしゃ)げるかしているような一撃だったことを考えれば、さすがはグラン工房と言わざるを得ない。いい仕事をしている。

「盾拾って――はい」 

 リリオンに盾を拾わせて差し出されたそれに剣を収める。ランタンでは腕の長さが足りずに一人では剣を抜き差しすることができないのだ。

 ランタンは羨ましそうな表情を隠して、すらりと手足の長いリリオンを眺めた。あの脚の、あの腕の、あの剣の長さのどれか一つでも欠けていたら、今ごろリリオンの膝から下は猪によって破壊されていたかもしれない。

 それを思うと胃が痛い。

 きちんと防御を固めろだとか、盾があるのだから有効活用しろ、と本来ならばリリオンに説教をかますのが厳しい先輩探索者としては正しい振舞いなのだろう。だが、せっかくの初陣を、ともかくとして傷一つなく無事に終えたのだから、水を差すような真似もしたくはなかった。説教か称賛か、悩ましい。

「これ、リリオンがやったんだよ」

 二人は猪の死骸を取り囲み、青い血を踏まないようにそれを覗きこんだ。

 猪は首から大量の血を流し、巌のようだったその巨躯は一回りも二回りも小さく萎びている。だがそれでも十分に巨大だ。頭部を失っているのにもかかわらず二メートルはある。

「これを、わたしが」

 リリオンは感慨深げにその死骸を眺めて、盾の角で死骸が再び起き上がるのを恐れるように軽く(つつ)いた。触れた毛並みの硬さに驚いている。この剛毛と厚い脂肪をまとった肉体は天然の鎧と言って差し支えないし、強固な頭蓋骨は兜さながらだ。

「これを一撃で仕留められれば、探索者として上等だよ」

「ほんと?」

 猪の有様を見ればその一撃の凄まじさは語るまでもない。その一撃に至るまでの過程には、上等、などという形容詞は付けることが出来ないがランタンはそれを口に出さなかった。何しろ自信を付けさせることが目的なのだ。

「ほんとほんと」

 ランタンは、はっきりとした手付きで力を込めてリリオンの腕を叩いた。ばちん、といい音がなってリリオンは驚いた様子で目をまん丸にしてランタンの横顔を見た。

「頼りにしてるよ」

 リリオンは叩かれた腕の痺れを撫でると、まるでその痺れが愛撫によってもたらされたものかのように頬を(とろ)けさせて、猪さながらの押し倒すような勢いでランタンに抱きついた。

「――ランらんっ!」

「誰だよ……むぐぅっ」

 胸の中に掻き抱かれると生々しく冷たい汗の匂いがした。

 そういえば自分の初陣でも、こんな風に冷や汗を掻いたような気がしなくもない。リリオンのことを兎や角言う事の出来ないような狂乱を晒していたというのははっきりと覚えているが、その印象が強すぎて相対した魔物もどのような種類かは定かではない。

「ちょっと、っ。倒れる! 死体と添い寝なんてやだよ」

 だが今は思い出を引きずり出して感傷に浸っている場合ではない。

 盾を持ったリリオンの体重を支えるには体勢が厳しすぎる。押し倒そうとする加重の向こう側には青い血の海と猪の死骸がある。皮を剥いで敷物にしたとしても最低の使い心地であることは想像に(かた)くない。

「えいっ」

 必死にバランスを取ろうとするランタンを、リリオンはいとも容易く持ち上げてダンスでも踊るかのように身体を入れ替えた。そして微妙な顔をするランタンに笑いかけると、仕切り直しとばかりに再び胸に抱いた。

「ねぇランタン、これはどうするの?」

「そうだねぇ」

 リリオンは死骸を指さし、ランタンは片手で人形のように抱えられたまま頭を揺らした。

 普通の探索者ならばまず最も価値の高い、大抵の場合は、魔精結晶を第一に収集し、そして順次積載量の余裕を鑑みながら、例えば牙や爪、毛皮などの値段がつきやすい素材の剥ぎ取りを行う。

「猪の結晶ってどれなの?」

 魔精結晶はその魔物によってそれを備える部位が異なる。基本的にはその魔物の最も特徴的な、長所(ストロングポイント)と呼ばれる部位に魔精は込められており、絶命と同時に長所が結晶化するのだ。

「ええっと、それって」

 ランタンが顎をしゃくって剣が叩きつけられた地面を指し示すと、そこには薄ぼんやりと光る砕けた魔精結晶が散らばっている。リリオンは、きゃあ、と一つ叫んでランタンを抱えたままそちらに走った。

 地に足が付いていないのは落ち着かない。ランタンが身体を捻って拘束から抜けだすとリリオンはその場にしゃがみこんだ。ランタンは地面に跪いてせっせと欠片を拾い集めるリリオンの肩を優しく叩いた。

「気にしなくていいよ。珍しいことじゃないから」

 リリオンは掌に魔精結晶の欠片を乗せて、悲しむような瞳でランタンを見上げた。ランタンは薄く苦笑するとポーチから特殊な布で編んだ小袋を取り出して、リリオンの掌から欠片を小袋へ払い落とした。

「あ……」

 再び拾い始めようとするリリオンの目の前で魔精結晶の欠片が次々と地面に溶けるように消えていく。魔精が迷宮に還っていったのだ。そしてそれはまたいつか生まれる魔物の源となる。

「……きえちゃった」

「そんなもんだよ」

 魔物の長所をすみやかに潰すことが出来れば戦闘を有利に進めることが出来るが、だがそれは同時に魔精結晶の価値を大きく減ずることを意味する。安全を考慮して長所ばかりを狙うような戦闘を繰り返せばいずれは探索で消耗した装備を賄うことが叶わなくなり、また欲に目がくらめば寿命が縮む。

「どうしたらいいの?」

 ランタンはリリオンの疑問に肩を竦めた。金銭を取るか、それとも安全をとるか、と言うのは全探索者にとっての永遠の課題でもある。正解が存在するのならば大枚を払ってでも教えを請いたいものだ。

「ランタンはどうしてるの?」

「僕はあんまり気にしてない、かな。余裕があれば避けるけど、怪我したくないし」

 肩を貸してくれる仲間もいない単独探索者じゃあ小さな怪我も命取りだからね、とランタンは笑った。だがその実、思いの外ランタンが無茶をすることを察しているのかリリオンはランタンの手を握り締めて、ぬっと顔を近づけた。

「わたし、がんばるから」

「――えぇと、うん」

「わたしがんばるから、たよりにしてね!」

 うん、と頷くと唇が触れそうな程の距離に、ランタンはただ曖昧に笑みを浮かべた。

 少しだけ煽りすぎたかもしれない、とそう思いながら。


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