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カボチャ頭のランタン  作者: mm
05.Sunrise
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 貴族であるレティシアや影響力の強いエドガーではなく、そして巨人族の血が流れるリリオンでもなく、女はランタンを狙った。胸に仕込んでいた爆薬はランタン一人だけではなく、半径数メートル内に存在する人間に致命的な損傷を与えるほどの威力を有していた。それはもちろん女自身の命も消し飛ばす威力である。

「熱烈、だね」

 ランタンは女から視線を逸らしたまま呟いて、指先を唇に触れさせた。火傷は見られないが、熱を持っていてじんじんと痺れる。杖を使って爆発を発動させた時とは違って、なかなか上手くいったと我ながら思う。いや、正しく言葉にするのならば、しっくりきた、だろうか。

 先に巻き起こった爆発を飲み込んで、盛大な花火のようだった。範囲が広い分だけ、けれど密度は薄い。実戦では牽制か威嚇程度にしかならないだろう。だがそれでも、しっくりきたのだ。

 きっと発動までの過程に、自分は何かしらかのこだわりがあるのだろう。

 ランタンは唇に触れさせていた指を、そのまま頭上まで掲げてリリオンの頬に触れた。指を滑らせて、前髪が焦げていないことを確かめる。

「火傷してない?」

「うん、大丈夫よ。ランタンは?」

「ご覧の通り」

「――言ってる場合かっ! このくそあま! 何のつもりだ!」

 探索者の群れの中で、彼らを害そうとしてそれに失敗した女は徹底的に拘束されている。組み伏せられ、一人が腰椎の上に膝を立ててのし掛かり、乱暴に髪を掴んで顔を持ち上げる。両の腕は踏み付けられていた。離脱した探索者たちも戻ってきて、抜き身をちらつかせている者も散見する。

 これほどの探索者の中で、敵意を悟られず目標に近付いたその手腕はきちんとした訓練を受けたものだ。露わになった胸は女の柔らかさを失ってはいないが、鳩尾のあたりから盛り上がる腹筋は素人のものではない。

 探索者たちが臨戦態勢を取ると、空気が痺れるような物々しさが渦巻く。呼吸は苦しく、善良な市民は野次馬に集まろうという気さえ起きない。瘴気のようだ。

 女から男好きのしそうなしなやかさは失われ、敵意に染め上げた瞳から狂気がちらつく。

「そんな目で見ても、あなたと心中するつもりはないよ」

 ランタンは素っ気なく言い放った。

「汚らわしい! 迷宮を破壊する悪魔め!」

 女に罵倒されて、ランタンは目を丸くした。

 それから少し考え込むような素振りを見せたかと思うと、あ、と手を叩いた。

「それ、久し振りに聞いた気がする。もしかしてお仲間の敵討ち? あんまり覚えてないけど――」

「――ランタンは悪魔じゃないわ! あんな危ないことしてっ、あなたの方がひどい人よ!」

 暢気なランタンに代わって、リリオンが声を張り上げた。淡褐色の瞳を見開いて、大上段から睨み付けるとかなりの迫力があった。今にも飛び掛かろうとするかのように、ぐるると喉を鳴らす。

 それでも女は怯むことなく、ランタンに向かって唾を吐きかける。

 ランタンはそれに含み針がないことを()()()()、掌で防いだ。

「汚らわしい、なんてどの口が言うのか」

 生温い唾液をポーチからハンカチを取り出して丁寧に拭う。

「黙れっ、侵略者がっ!」

「――こいつ、迷宮解放同盟だっ!」

 取り押さえる探索者の一人が叫ぶと、ランタンの爆発とともに空に消え去ったざわめきが再び湧き出した。

 迷宮解放同盟とは迷宮共存同盟を母体とする、その名の通りの思想団体であり、反探索者組織の一つであり、襲撃者(レイダー)組織の一つでもある。

 迷宮共存同盟は人類と迷宮の共存、現状の一方的な搾取ではなく、を標榜する組織である。多少押しつけがましいところはあるのだが街角に立って布教活動をしたり、探索者を講師に招いて迷宮についての勉強会を開いたり、探索者ギルドと会合を開いたりと割合平和的に思想を広めようとしている。

 だが、迷宮との共存、その思想があらぬ方向へと極まった一部の人間は迷宮を神聖なものと見なし、それを攻略する探索者を侵略者や破壊者などと侮蔑して憚らない、人類による管理から迷宮を解放するべく戦う迷宮解放同盟なる組織を作り出した。

 迷宮攻略数の多いランタンは、彼らからするとまさしく悪魔であり侵略者と言っても過言ではないのかもしれない。

 そして迷宮解放同盟の中には女のように過激な行動に出る者も少なからずいた。このような自爆攻撃をしかけてくる輩は過激派の中でも更に少数だが、その成功率の高さからそれなりの数の探索者や、引き上げ屋を始めとする迷宮とかかわる人間が被害を受けているし、迷宮を取り囲む周壁も何度も標的になっている。

 迷宮解放同盟は迷宮関係者を狙う攻撃的思想から、襲撃者として認識されている。

 一般的な襲撃者は基本的に金銭の奪取を目的として探索者に襲いかかるが、彼らは思想、あるいは理想の成就のために探索者に襲いかかる。襲われる方からしてみれば、大した違いではないので一括りに襲撃者なのである。

 そして探索者からしてみても、彼らは怨敵である。

 探索者たちの中に、ランタンたちを迎えた時とまた違う昏い熱気が鎌首を擡げた。

 空気の痺れが毒薬じみて濃さを増す。一人の感情と、また別の一人の感情が共鳴していく。感情の連鎖はあっという間に群衆の隅々にまで行き渡って、呆気なく爆発した。

「――殺せっ!」

 一人の叫び声が、探索者全ての意志によって発せられた。おおお、と群衆が、まさしく一つの群れのように唸った。

 獲物を前にした肉食獣が喉を鳴らすように、それは生臭い歓喜の音色だ。

けだものめ……っ!」

「……たしかに」

 悪魔、侵略者、そして獣。ひどい言われようだと思うが、ランタンは思わず頷いてしまった。それは他人事のように呆気なく、けれどどことなく真摯な響きがあった。

 今まで視線を逸らしていたランタンはあらためて女を見下ろした。金の髪は染めたもの。緩やかな巻き毛は解けてきていて、汗ばんだ胸元が砂や工房からの鉄粉に汚れている。

 伏せた焦茶色の瞳に女の顔が映ると、女は太陽を見たように目を(すが)めた。そしてその目が苦痛に歪んだ。

 女の腕を、探索者が折ったのだ。ランタンが止める間もなかった。探索者は淀みなく、躊躇いなく、容赦がない。

「ぐうっ……」

「おいおい、さっきの減らず口はどうしたよ。まだ腕の一本だけだぜ」

「……貴様っ」

 ランタンと談笑していた探索者が、先の豪快な笑みとは違う昏い笑みを浮かべる。嗜虐的で、暴力を喜んでいるのだとはっきりと判った。

 彼は近しい探索者が迷宮解放同盟に殺されたことがあるのかもしれない。その復讐を喜んでいるのかもしれないし、迷宮解放同盟とはまったくかかわり合いがなかったのかもしれない。殺されそうになったのだから、その仕返しをしていいと思っているのかもしれない。生物、もしくは人間、もしくは女性を痛めつけることに興奮を覚える類いの嗜好を有しているのかもしれない。

 あるいは何も考えていないのかもしれない。

 探索者たちは、ほとんど皆がこの探索者と同じ顔をしていた。同じ表情の仮面を被ったようだ、とランタンは思う。

 さっきまで見分けが付いていたはずなのに、女の腕を折ったこの探索者がさっき談笑していた男に間違いないだろうか、と疑いたくなった。

 探索者に暴力や破壊を好む傾向はよく見られる。この女のように大義を持ってそれを振るうのではなく、感情の制御が利かない幼子のように、あるいは呼吸をするように、ごく自然にそれを振るう。善悪の区別なく、考えなく。

「ちゃんとぶっ殺してやるよ。だが安心しな、死体はてめえの大好きな迷宮に放り込んでやるからよ」

 川の水のようにつらつらの暴言が流れ出る。一つの言葉が寄り集まって、止めることのできない激流と成り果てる。

 止めなければ、と思う。

 しかし果たして、ランタンにこの蛮行を止める道理はあるのだろうか。

 自爆攻撃を選んだ時点で女はすでに命を捨てている。おそらくそれを失敗した時に己がどのようなことをされるのかも理解しているのだろう。広範囲を無差別に殺傷せしめる自爆攻撃は、それが失敗に終わったとしても死罪か、それる類する刑罰は避けられない。

 そして探索者たちには命を狙われたという事実がある。ランタンこそその標的であるし、命を狙ってきた相手を返り討ちにしたことも数えるのも億劫なほどにある。暴力と殺しを生業にしながらも、暴力も殺しも好ましいとは思わない。が、この女だけを別扱いする理由は何だろうか。

 殺すなら躊躇わず殺せばよい、と思う。

 腕を折ったのはただの憂さ晴らしか、それとも後顧の憂いを立つための見せしめか。

 止めなければならない、と強く思う。

 しかし興奮したこの探索者たちをどのように。

 今ある感情をそのまま肥大させるのは容易い。炎に木をくべるように、風を送り込むように煽ってやればよいだけだ。だが真逆の感情へと導くには。

「やめてっ、どうしてそんなことするの!」

 ランタンの肩越しに手を伸ばしてリリオンが探索者の肩を押した。驚くほど腕が長い。まるで槍だ。鈴の付いた、儀礼用の綺麗な槍。女の背に乗っていた探索者が僅かに体勢を崩して、その間隙を突いて女が片腕で体を跳ね起こした。

 逃走ではなく、あくまで闘争を選んだ。どこに隠していたのか匕首を腰だめに突っ込んでくる。

 ランタンが右腕を横振った。人差し指と中指の爪が、女の顎先を音もなく打ち抜く。ぐるんと白目を剥く。紅を引いた唇を半開きに開け、女は膝から崩れ落ちる。長く糸を引く涎を垂らして、そのまま自らの踵に尻を乗せるように座り込み、動かなくなった。

 誰も女を取り押さえなかった。ランタンを挟んで、リリオンと男が睨み合った。

「――ああ、どうしてかって? んなこと教えなきゃわからねえのかっ!」

「わからないわ!」

「じゃあ教えてやるよ、このあまが、ここにいる全員を丸焼きにしようとしやがったからだよ! てめえも含めて!」

「でも、笑いながら腕を折る必要なんてないじゃない!」

「じゃあなにか? てめえの大切な相棒(ランタン)が、実際丸焼きにされてもてめえは止めてなんて言うのか!」

「ランタンは丸焼きになんかならないし、わたしがさせないわよ!! それに、それはそれ、これはこれよ!」

 顔を真っ赤にして虎のように吠えるリリオンの気勢も、けれど虎よりも恐ろしい生物たちと戦い続ける探索者にとってはさしたる問題ではないようだった。

 彼らは少しの驚きと、迷宮の奥で恐ろしい魔物に出会った時のような高揚感と、煩わしさを感じている。好戦的な顔つきをしている。突っかかってくる相手は踏みつけにして当然だと思っている。

 ちょっと試してやろうか、なんて。

 息を吐くように。

 探索者の手がリリオンに伸びた。

 いや、すでに短剣を握っている。ごつごつした手に似合わず短剣の造りは華奢で、蜥蜴の尾先のようにのたくって鋭い。先端が最短を走ってリリオンの鎖骨を狙った。

「――なんだよ、ランタン」

 ランタンは男の手首を掴んだ。腕が押し込まれる、なかなか強い。男が短刀の柄をぐっと握り込むと、骨と腱と血管を皮膚で包んだだけの手首が抗うような興りを見せた。手の甲に血管が浮く。ランタンの血管も青々と。

「やめろ」

「……喧嘩ふっかけてきたたのはお前の女だぞ」

 このまま肘を挫くべきか。この男に油断はないが、さりとて難しいことではないだろう。腕を拉いだら、次は脚か。そうでもしなければ止まらない。争いに水を差されて、それがいっそうの熱を生んだ。男ばかりではない、男を止めたことで、その周囲の探索者たちからも不満が上がった。

「あー、……なんだ、どうしようかな」

「なにがだよ」

「関節、外していいか?」

「はあ?」

「間違えた、違う、違う。関節は外さない」

 ランタンは舌打ち一つ、言葉を探す。

 痛み、暴力を以て害意を遠ざけることなど腐るほどやってきたが、今必要なものはそのような類いの手段ではないのだ。一つ声を掛ければ、関節を外す許可がもらえるわけもない。関節を外せば一先ず男の戦力は削げるが、関節を外したところで事態が解決するわけではない。

「――考えすぎだ」

 ぽん、とランタンは叩かれて髪が揺れた。ふと男を拘束していた手が緩み、男は慌てて短剣を二の腕に縛り付けていた鞘へ収めた。

「エドガーさま!」

「まったく、これしきのことで何を騒いでおるのだ」

「だけどこの女が」

「黙れ」

 エドガーは手の甲で男の鼻っ柱をぴしゃりと叩いた。そして太い顎を親指と人差し指と中指で、猛禽が獲物を捕らえるよに掴むと、冴え冴えとした眼差しでほんの少し鼻の赤くなった顔をじろりと眺めた。

「鼻っ柱が少し焦げたぐらいで女のようにぎゃあぎゃあと喚くな」

 探索者たちから不満の声が消えた。バツの悪そうにして、頭を掻いたり視線を逸らしたりしている。

 場を呑む、とはこのようなことを言うのだろう。

「術者の方はリリララに追わせた。もう戻ってくるところだ」

 エドガーは世間話でもするように言った。そしてリリオンに押しつけるように、ランタンを後ろに下がらせる。リリオンは背後から胸元に腕を回すと、そのままランタンの小躯を自らの腹に密着させた。まだ男に言いたりないことがあるのかもしれないが、それを飲み込んで腹がぐるりと鳴いた。

「あれほどの爆発だ、直に衛士隊も騎士団も駆けつけてくるだろう。その時に、この女を殺したとして何か申し開きはあるのか?」

「あの……その……」

「第一、俺とネイリングの眼前で私刑など許されるわけがなかろう」

 エドガーは探索者の隅々まで目を行き届かせるように、ぐるりと首を巡らせた。エドガーは探索者だが、その活躍により爵位を賜っている。腕を折る程度の憂さ晴らしを見逃しても、殺してしまうような無法を見逃すことは出来ない。

「でも、こいつ、俺らを殺そうとしたんですよ」

「ああ、そうだな」

「――それに迷宮解放同盟です」

 取り合わぬエドガーに対して、男はまるで挽回でもするように切実な声でそう言った。

 仇なすものに血の報いを与えるのは、探索者に限らずこの世界では未だに根強く残る風習である。復讐の義務は、近世まで明文化されていた法律だ。

「それがどうかしたのか?」

 それだけで、あたりは水を打ったように静まりかえった。

「俺とリリララが残ろう。レティシア、ランタンたちともに先に帰れ。ベリレ、お前もだ」

 エドガーはそう言って手を叩いた。

「ほら、お前たちもさっさと散れ。いらん取り調べを受けたくはないだろう。この女には然るべき罰が下される。ほら、――行け」

 エドガーはしゃんと背を伸ばして、獣を追い払うように手を振った。

 探索者たちが大人しくその場から離れていくのを、ランタンはじっと見ている。




「迷宮解放同盟ですか。エドガーもあれにはずいぶんと困らされたものです」

「ダニエラさんは?」

「もちろん、私もです」

 ランタンの教師役を任じられたネイリング家の侍女長であるダニエラ・メイラーは落ち着いた声音でそう言った。

 六十幾つだというのに背筋は真っ直ぐで、ひっつめにした髪は真っ白で、顔に皺もあるがどことなく若く見えるのは切れ長の瞳がいやに鋭いからか、あるいは探索者であったことによる魔精の保若効果のためか。

 いつもと変わらぬぴりっとした上品な口調に、ランタンの背筋も真っ直ぐに伸びた。

「そんなに昔からある集団なんですか?」

 ランタンの質問にダニエラがくっと喉を鳴らした。

「――確かに私は年寄りですが、それほど昔ではありませんよ。ほんの四十数年前のことです。――黒竜討伐戦を終えた後、探索者ギルドは多くの人員を失いましたが英雄と祭り上げられたエドガーに憧れた若者により、失う以前よりも探索者の数は飛躍的に増えることとなりました。もちろん、その全てが活躍したわけではありません。安易な憧れにより命を失った者は多い。ですが母数が多いと言うことは、それだけ有能な若者も多かったと言うことに他なりません。事実、次代を担う素晴らしい探索者が多く、本当に多く生まれたのです。その結果、当時の迷宮攻略は隆盛を極めることとなりました」

 迷宮特区内に尽きることなく生まれる迷宮。現在、この都市でも多くの探索者により迷宮は攻略され続け、けれど枯渇することはない。ランタンも含めた探索者たちは、迷宮の喪失など考えたことがない。

 だが過去には日夜、攻略される迷宮を前に、いずれ迷宮は失われてしまうのではないか、と考える者たちがいた。

 迷宮攻略を生業にする探索者ギルドの面々や、貴族、そして迷宮共存同盟、迷宮解放同盟。

「それを防ぐために探索者を殺そう、と迷宮解放同盟は過激さを増していったのです」

「短絡的ですね」

「人とはそう言うものです。迷宮信仰はもともと散発的には見られた思想ですが、エドガーの影響の大きさに焦りと危機感を彼らは纏まり、集団となりました。違った考えを持つ者が集まれば議論も生まれましょうが、同じ考えを持つものが集まればあとは行動に移すだけです」

「エドガーさまは――」

 どうにもダニエラはランタンやリリオンがエドガーをおじいさま、おじいちゃんと呼ぶことが好きではないようだった。ダニエラの前でエドガーをそう呼んだ時、冷厳なダニエラの表情に罅が入ったのだ。

 ランタンはそれ以来、彼女と二人の時はエドガーを様付けで呼ぶようにしている。

「――他にどんな目にあったんですか?」

「今日あったように周囲を巻き込んだ襲撃はもちろん、大勢による待ち伏せ、政治的な謀も、暗殺者を差し向けられたことも、魔物を嗾けられたことも、料理に毒、火付け」

「火付け……」

 下街にあるランタンが塒にしていた廃虚は焼き払われていたらしい。失火かもしれないし、迷宮解放同盟の仕業かもしれないし、サラス伯爵の仕業かもしれないし、他の者の仕業かもしれないし、遊び半分の放火魔の仕業かもしれない。

 どちらにしろ混迷極まる下街からいぶり出されたと言うことには変わりない。無法地帯の下街と比べて荒事はし辛くなるが、ランタンを狙う者にとっては動向を掴みやすい方が大事である。

 廃虚の有様をランタンは見ていないが、リリララが確認をしに行ってくれた。焼け崩れた瓦礫以外に、何も残ってはいないようだ。狭い湯船や、愛用の枕を失ったことは痛手であるが、あくまでも借宿かりやどであるのでランタンとしてはそれほど気に病むことではない。ネイリング邸には本邸だけでも脚を伸ばせる風呂が四つもある。

 ただその事実にリリオンが思いの外、ひどく傷ついていた。

 あの狭い部屋で二人で過ごした日々は短く、だがその記憶が甘美なものだったのだろう。

 エーリカに上街に家や部屋を探して貰ってはいるが、なかなかどうして普通に過ごすことは難しいのかもしれない。ネイリング邸の守りは、一個人に用意できる物ではない。しばらくは厄介になるしかなさそうだ。

「なかでも、よく引っ掛かっていたのは色仕掛けでしょうね」

「色仕掛けですか」

「ええ、ランタンさん。あなたは決して、決してエドガーのようになってはなりませんよ」

 鋭い目を見開いてダニエラがランタンの瞳を覗き込んだ。縦に割れた虎目の虹彩が、老メイドが猫科に準ずる亜人であることを伝えてくる。自由気ままな小型の猫ではない、誇り高く気性の荒い大型の肉食獣だ。

 ダニエラの忠告はただの忠告ではなく、どことなくエドガーに対する感情が見え隠れした。

 五十年来の中であるらしいので、きっと何かあったのだろう。

「今さらになってベリレ相手に親の真似事など――ともかく迷宮解放同盟はそれなりに面倒な相手です。一人殺すために十人死んでもいいと考えるような相手ですからね」

「それでよく今日まで残ってますね」

「だから面倒なのです。リリオンさんのこともあります、気をつけなさい」

「はい」

「では、今日も地理と、そして歴史を学んで頂きます。前回お教えしたことはお忘れではありませんよね」

「八割ぐらいは完璧だと思います。二割は見聞きすれば思い出せるような、出せないような」

「充分でしょう」

 井の中の蛙ではないが、迷宮の中のランタンは世界を知らなかった。

 今を生きるのに精一杯で興味がなかったのか、それとも知る必要がないと考えていたのかもしれない。

 いや違う。

 この世界の暴力的な理の中でそれに従い生を繋いできたくせに、知識を拒絶することで世界に馴染むことを拒んでいたのだ。読めない文字だって、勉強すればランタンはあっという間に覚えてしまった。

 ただ読もうとしていなかっただけで。できるのにあえてやらなかったのは、この世界で本当に生きていく覚悟が決まっていなかったからに他ならない。

 ダニエラとの勉強は、なかなか面白い。

 例えば大陸の中央に王都アストライアがあり、それを大きくぐるりと取り囲むように八つの大都市があり、その八つを結んだ円の内側に内側に小都市やら街やら交易所やら荘園やらが無数に、そして小規模な迷宮特区がいくつか存在して、円の外側にもぽつぽつと農村や廃村やらが点在している。

 大陸は西側にかつてエドガーが黒竜を討伐した竜の山脈だか渓谷だかが長々と、そして高々と国境代わりに横たわっている。それ以外はほとんど真っ平らな平野である。

 なぜなら山々は巨人族によって全て切り崩されてしまったからだ。そのため鉱石を始めとする地下資源のほとんどを迷宮によって賄わなければならないようだ。起重機のような内燃機関で動く車があるのに、産業の機械化がそれほど進んでいないのはその辺りが理由なのだろう。

 国教は地聖母教。地母神を最高神として奉る大地信仰の宗教だった。ゆえに地下資源を掘り返し尽くした巨人族は忌むべき存在であり、母なる大地にぽんぽんと穴を開ける迷宮を、不届き極まりない地獄の穴だとか不浄の穴だとか呼んで、それを攻略する探索者に祝福をくれたり、攻略の快楽を不道徳となじったりしている。

 政治形態はその根底は王制らしいのだが、事実上は合議制に近しいものであるらしい。

 八つの大都市は王より任じられた王権代行官を議長に置き、貴族、教会有力者、各組合(ギルド)の政事担当者、民間の代表者等々の話し合いによって運営されている。

 それ以外の街々は基本的に貴族の領地であり、その大半は真っ当に治められているが、一部は懐と征服欲を満たすための場と化している。

 この都市は八つの大都市の内の一つであり、なんとランタンはそれすらも知らなかったのだがティルナバンという名で、王都の東側に位置し古い歴史があり、迷宮発祥の地であるから迷宮都市などと呼ばれている。その通り名の方が耳馴染みがあった。

 迷宮が生まれ、それを攻略する探索者が集まり、探索者を相手にする商売人たちが集まり、やがて規則が生まれ、都市となった。正確に言うのならばここよりも更に東に、かつて都市があった。前王朝の王都であるが、超巨大迷宮の出現により全ては飲み込まれてしまい、その都市とともに前王朝は滅びた。この都市から東は、かつての王都の名残は人を狂気に陥れる魔境である。

 現王朝が生まれたのがほんの二百四年ほど前。治世二百年の祝宴はそれはもう大変な騒ぎだったらしいのだが、ランタンはまったく知らない。四年前はまだこの世に存在していなかったから。

 たった四年前のことを知らない。なので、そこから更に二百年以上前のこともまったく知らない。

 歴史の授業は今から二千年前に遡って、現代に近付いていった。

「この地は常に戦いに晒され続けています。今より二千年ほど昔に迷宮が発見されたと考えられています。そしてそれによって人々が巨人族に対する力を得るのは、それよりも更に三百年後、対等に戦えるまでに力を蓄えるのにさらに二百年、極北の地に追い詰めるに百年の時を有しました」

「六百年も継戦したんですか? 途中で止めようとかは」

「ありません。恨み骨髄、支配の屈辱を我々の祖先は忘れられなかった。それに、まだ、たかが六百年です」

 たかが六百年。そうだ現王朝が領土を平定するまでに、まだ千二百年もある。

 この大陸の人々は飽きもせず戦い続けていた。

 極北の地に巨人族を追い詰めた人族と亜人族の連合軍は、その後、領土分割の問題に当たって内乱を起こすことになる。次の支配者にならんとして、泥沼の深みにはまっていく。

 一時の平和がなかったわけではないが、基本的には飽きもせずに殺し合いをし続けていた。

 その内乱の最中、極北の地で牙を研いだ巨人族の再侵攻があり、それによるそれなりの期間に及ぶ内乱の平定と連合軍の再結成があり、巨人族の撃退、つまり全種族合同での巨人族の管理が定められてから七百年近く経っている。

「一番最初から数えて二千年なら、もう三十世代ぐらいも過ぎてる。管理、……っていうのをして七百年なら、誰一人として巨人族との戦いを現実には知らないはずでしょう? どうしてまだ人々は巨人を恐れているのですか?」

「長命種である巨人族にとって二千年前の出来事は曾祖父や、祖父が体験している程度に身近なことです。我々の七百年と、彼らの七百年は同じ長さでありますが、同じ感覚ではありません。そして彼らが忘れないかぎりは、我々も忘れられない」

「どうして、あなたがたは忘れられないのですか?」

 皮肉ではなく、切実な響きを伴ってランタンは再び聞いた。

 ダニエラは困ったように眉を顰めて、歴史書をぱたんと閉じた。

「どうして鳥は空を飛べるか? 魚は溺れることなく泳げるのか? 蜘蛛は巣を張れるのか? いつそれを覚えるのか、ランタンさんはご存じですか?」

「いいえ」

「私も知りません。私は巨人族を見たことがありません。話には何度も聞いたことがあります。彼らの強さや、――嘘か誠か定かではない残虐性などを。でもあまり興味はなかった。ああ、そんなものなんだな、とこの歳まで聞き流してきました。リリオンさんのことも、会うまで知りませんでした。けれど彼女を前にした時、この老いぼれた心臓が跳ねました。私はリリオンさんに違和感を」

 ダニエラは首を振る。

「いえ、言葉を取り繕ってもしょうがありませんね。私はリリオンさんに対して危機感を覚えたのでしょう。あの無邪気で愛らしい少女に、恐怖を」

「生まれながらにして、あの子は人に――」

 思わず呟いたランタンだが、そこから先を口に出す気にはならなかった。

 迷宮解放同盟の女から向けられた、そして女に向けられた敵意を思い出していた。二千年続く戦いの、あれらも一つなのだろう。

 エドガーのように止められなかった。口が回らないとか、そういう問題ではない。

 ランタンは項垂れ、拳を握った。

 だがすぐに机に落としていた視線を、はっと上げる。

「リリオンだ」

「そのようですね」

 扉の向こうからどたどたと慌ただしい足音が聞こえる。ああコラ待て、とリリララの声も聞こえたが、リリオンからの返事は聞こえない。猪突猛進、だが律儀に扉をノックする音が二回。返事を待たずして扉が開け放たれる。

「ランタンっ!」

 跳ねるように名前を呼ばれた。三つ編みにした髪が実際にぴょんぴょん跳ねているのは、リリオンが身体を揺らしているからだ。ランタンは淡い笑みを浮かべて、頬の赤い少女に問い掛けた。

「今日は何してきたの?」

「おじいちゃんに剣術を教えてもらったのよ」

「そう、よかったね。楽しかった?」

「うんっ! でも厳しかったわ!」

「リリオンさん、前にも注意を――」

 ダニエラの言葉を遮るように、ランタンは椅子を蹴って立ち上がった。

 辛抱堪らないと言うように、飛び掛かって近付いてくるリリオンを抱きしめる。腰に手を回し、引き寄せた。リリオンが熱っぽい息を漏らした。

 体温が高い。身体が汗ばんでいる。胸が顔を押し返す。肉体が柔らかい。

 たぶん身長が一九〇センチを超えた。

 違和感、で済むのはいつまでだろうか。

「勉強、疲れたの?」

 リリオンはぎゅうっとランタンの顔を胸に抱き込み、髪の毛に頬ずりしながら尋ねた。

 胸を食むようにランタンは頷き、リリララに尻を蹴られた。


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