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カボチャ頭のランタン  作者: mm
01.Take Me By Storm
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011 迷宮

011


 湯疲れからすっかりリリオンを回復させて、朝食とも昼食ともつかない大量の食事を済ませて腹ごなしの一休みを挟み、服を探索用の戦闘服に着替えるとランタンは気合を入れるように自らの頬を叩いた。

「行こうか」

「……うん!」

 ランタンが用意を始めるのを見て、リリオンもまた自分の身支度を終えていた。ランタンが腰に戦鎚(ウォーハンマー)を下げれば、リリオンは盾を背負った。

 部屋を出て扉の鍵をかけると、鍵をかけるランタンの背中からリリオンが手元を覗きこんで呟いた。

「その鍵、意味あるの?」

 ランタンもこの行為が、他者の侵入を防ぐ、という本来の役割を果たしてはいないということを十分に承知している。そもそも施錠を破って室内に侵入した張本人の内の一人がすぐ背後にいるのだから、いやでも実感させられる。

「開けっ放しにするとなんか気持ち悪いんだよ」

 一度、部屋の鍵をかけずに迷宮を探索したことがある。その時は特区へ行く道すがらですらなんだか妙に落ち着くことができずに、迷宮へ潜り魔物と戦っている時ですら頭の片隅に靴の中の小石のような煩わしさがあり続けたものだ。

 空き巣に入られようとも貴重品は置いていないし、無断居住者(スクワッター)に居座られようとも暴力に物言わせればいいだけなので、多少の面倒ではあるが大した問題ではない。

 だが鍵のかけ忘れというのはランタンの精神状態に多大な影響を与えるのだ。家を空けるときに鍵をかける、と言うのはランタンの身体に染み付いた習慣だった。

 リリオンは判ったような判らないような気のない相槌を打って、ランタンの両肩に手を置いて押し出すようにして廊下を進んだ。

 まるで遠足にでも行くかのように気が(はや)っているが、その軽い足取りのせいで階段を突き落とされてはかなわない。ランタンは肩に置かれる手を取って、妙に慣れた仕草でエスコートするように階段を下った。

 手が温かく、柔らかい。

 こうやって手を繋いで先導できるのも地上にいる時だけだ。いざ迷宮に潜ってしまえば、手を繋いでいるような余裕はないだろう。ランタンはなんとなしにそんなことを呟くとリリオンは今さら気がついたというように足を止めた。

「もうここから一人で歩く?」

「いじわる!」

 手を引っ張って無理に歩かせても良かったが、自主性というものは大切だ。ランタンは意地悪に、繋がった手を離した。

 するとリリオンはランタンの腕を絡めとるとその勢いのままランタンを引きずるように歩き出した。だが勢いがあったのは歩き始めだけで、リリオンはランタンの温もりを惜しむようにゆっくりとした、脚の長さに差があるのでランタンとしては丁度いい、歩調になった。

 だがどれだけゆっくりと歩こうともいずれは迷宮特区へと辿り着いてしまう。特区を取り囲む堅牢な外周壁がその色を濃くし、大口を開けた門が大勢の探索者を飲み込んでいく。

 これから迷宮に潜る探索者たちは気が立っており、いかにもな荒々しい気配を振りまいている。男女の二人連れで、それも買い物でもするかのような手繋ぎ姿のランタンたちにすれ違う探索者たちの一瞥が痛い。胡乱(うろん)げなものから、軽蔑、敵意もある。

 探索前に無駄な体力の消耗を招くような真似をする者は居ないので絡まれるようなことはさすがにないが、その気配に当てられてリリオンはランタンにしがみつく力を強めた。ランタンはリリオンを安心させるようにしがみつく腕を撫でてやり、少し歩みを早めた。精神的な消耗も回避できるならばした方がいい。

 二六二番地というのも別段目印があるわけでもなく、ギルドで確認した地図に見たような分割線が引かれているわけでもない。

 迷宮特区は、下街の廃墟じみた景観も大概だが、それに輪をかけて混沌とした景観が広がっている。元は上街のような上品な町並みが広がっていたという名残が消し炭ほど残っているだけで、あとは火竜(ファイアドラゴン)の群れに蹂躙されたかのような有様だ。背の高い建物は一つもない。そしてそこかしこに迷宮口が顎門(あぎと)を開き、またそれを閉ざした後にはぽっかりと円形の更地が広がっている。

「もしかして迷子?」

「ちゃんと着いたよ、ほら」

 辻を曲がり、左右を見渡し、立ち止まって振り返り、また歩き出すランタンにリリオンは不躾に尋ねたが、ランタンは指さしてそれを否定した。指の先には小型の起重機(クレーン)に寄りかかるミシャの姿があった。

 前と同じ暗黄色(オリーブ)のつなぎに身を包んでいて、顔の油汚れはなかったが、ランタンに気がつくと大きく手を振って迎えた。

「いつもながらお早いお着きで、今日はよろしくっす」

「うん、よろしく」

「よ、よろしくお願いします!」

 ランタンとミシャが軽く挨拶を交わし、リリオンが大きく頭を下げた。

「……なんかお二人似てるっすね、服が」

「やっぱりそう思うよね、ったくだから言ったのに」

 ランタンとリリオンを見比べたミシャが呟いて、ランタンはそれに同意するようにぶつぶつと文句を垂れてリリオンの脇をつついた。

「ひゃん!」

 リリオンは一つ悲鳴をあげて後ずさり拗ねたように唇を付き出して、外套(マント)をはためかせた。そして外套ごと自分の身体を抱きしめる。

「もうっ、だって、いいじゃない! 真似しても!」

 防具と呼べるようなものは足を包む黒革の戦闘靴(ブーツ)ぐらいなものだ。収納の多い石色のズボンを頑丈そうなベルトで留めて、フードの着いた暗色の外套に覆われた上半身も似たような装いで纏めている。

 無論、探索者用の装備なのでただの布で裁縫されたものではない。戦闘服は上下ともに靭やかで動きやすく、尚且つある程度の魔物に噛まれたとしても貫通しない強靭さもかね合わせていて、外套にいたっては耐火、撥水、防刃、退魔というちょっとした一品だった。

 だが金属鎧どころか、皮の小手や肘当てすら着けていない軽装で迷宮へ下るのは賭博場(カジノ)で身ぐるみを剥がされた間抜けか自殺志願者ぐらいのものだ。

 ならば何故、そのどちらでもないランタンがこのような格好をしているかというと、単純にそういった防具が肌に合わないというだけのことであった。金属アレルギーなどという話ではなく、身体を守るための防具の硬さが逆にランタンの身体に食い込み、擦れて傷を残すのだ。現在、装備しているこの戦闘靴でさえ、その中には厚手の靴下を二枚履(にまいば)きにして、さらに(くるぶし)脹脛(ふくらはぎ)に布を当てている有様だった。

 ランタンはそんな自らを虚仮(こけ)にしてまでリリオンに防具の大切さを切々と説き、また露骨に真似されるのを嫌がったのだが、リリオンはそれに反抗した。性別も体格も違うのだから同製品で揃えることは無理だったが様々な店を彷徨い歩き、結局はお揃い(ペアルック)風装備が完成してしまった。

 探索班(チーム)を同じ装備で固めている探索者も居ることには居るのだが、それは騎士団や戦士団に憧れを持っている夢見がちな連中や、仲間の結束は血よりも濃いなどと恥ずかしげもなく吹聴する小僧どもぐらいのもので、ランタンはそういった連中を何とも言えない微妙な気持ちで眺めていたのだが、まさか自分がそれらの仲間入りをすることになるとは思いもよらなかった。

 満足気なリリオンと沈鬱なランタンを見比べたミシャはそこに渦巻く感情の波を読み取ろうとしていたが、結局はランタンの肩を軽く叩いて慰めの視線を送るに(とど)めた。自身の不用意な一言が今の表情を引き出したのだ、と言うことだけが理解できたからだ。

 迷宮に入ってしまえば誰の視線もない。ランタンがそう自分を慰め、立ち直る頃には迷宮への降下まであと十五分というところだった。

 その十五分はただ過ぎ去るのを待つ待機時間ではなく、最終確認の時間だった。

 探索者の中には降下時間ギリギリに来て、引き上げ屋との最終打ち合わせも早々に切り上げ、会話もそこそこに迷宮へ降りる者も居れば、毎回毎回に神への祈りを捧げる者、瞑想や仲間同士で手合わせを行う者、この場で最後の食事を摂る者も娼婦を買う者など、様々な習慣を持つ探索者がいる。

 ランタンはと言うと食料や薬の類がきちんと揃っているかを確認して、早まる鼓動を抑えるように軽い柔軟体操(ストレッチ)を繰り返した。その脇でリリオンは池の鯉でも眺めるように迷宮口に身を乗り出してその暗闇をのぞき込んでいる。今にもそのまま転げ落ちそうな雰囲気だ。

「リリオン、落ちたら死ぬよ」

 迷宮への転落というものは有りがちな死亡要因だ。初探索で浮かれた新人探索者がリリオンと同じような状況から転落したり、あるいは疲労困憊に帰還した所で気を抜いて身体をふらつかせて転落したり、不運としか言いようがないが急に足元に迷宮口が開いてそのまま、ということもある。迷宮口の深さによるが、無事であることはまず無い。

 リリオンは慌てた様子で迷宮口から後退り、ミシャに笑われていた。

「ミシャ、リリオンにロープ着けてあげて」

「はいっす!」

 降下用意の準備をするにはいい時間だったし、ロープを着けていればとりあえずは転落の心配はなくなる。

「でもリリオンちゃんって起重機は初めてっすよね」

「ああそっか、単独(ソロ)じゃなくて二人用(タンデム)のロープって……」

「そんなこともあろうかと! ちゃんと用意してあるっすよ」

 ミシャは親指を立てると二人を連結する分厚いベルトに、バラ鞭のように複数の先端を持つロープを取り出した。そうなると用意をするのはリリオンだけではなくランタンも、となる。ランタンはべたりと開脚していた足を閉じると、跳ねるように立ち上がりミシャへと近づいた。

 ベルトで固定される前にすべき事があった。ランタンがベルトに固定された時計を外すとミシャも意を得たりと首に掛けた時計を取り出した。

 ランタンはミシャとおでこをくっ付けるようにして互いの時計の針を、秒針まで正確に、合わせている。今回の引き上げはおよそ二日後である。互いの時計の時間がずれていて、待ち惚けを食らうぶんにはまだいいが、超過料金やあるいは引き上げ屋の延長待機時間すら過ぎて置き去りを食らう羽目に陥らないようにするための作業だった。

「うん、これでいいね」

「はいっす」

 時計を合わせ終えるとランタンはリリオンに腕を引っ張られた。どうかした、と尋ねても何も応えずに腕をとったままじっとミシャを見つめた。ミシャはミシャでその視線を受け止めて平然とした仕草さで時計をしまった。

 ミシャはベルトを片手にランタンとリリオンを見比べて、眉間に皺を寄せて考えるような仕草を見せた。

「なにか問題?」

「いえ、経験者が補助する場合は、――ランタンさんが後ろから支えるようにするのが普通なんすけど……」

 ミシャが言葉をそこで切ったので、ランタンはリリオンを見上げ、そして想像した。リリオンの背中にベルトで固定される自分の姿を。それは母猿の背中にしがみ付く小猿の姿に他ならなかった。傍から見る分には愛らしく癒されるが、いざ自らがするとなると情けない姿である。

「嫌だな」

「なんでよ!」

 ランタンが呟くとリリオンが怒鳴った。

「一緒がいいわ!」

 リリオンがしがみ付くようにランタンを抱きかかえた。初めての起重機や、そこから垂れる親指ほどの太さのロープを見るとその不安も判らなくはないが、リリオンはともすればこのまま身投げしそうな勢いでありミシャが慌ててその間に割って入った。手刀をランタンとリリオンの間に突き入れて、まぁまぁまぁ、と言葉の柔らかさとは裏腹な力強さで二人を引き剥がした。

「で、結局はこうか……」

 ランタンは息苦しそうに首を伸ばした。それは小猿ではなく真緑の池に藻掻く鯉の姿に似ている。ランタンとリリオンは向かい合うようにしてベルトで固定されていた。風呂場でそうしたようにべったりと身体を密着させて、リリオンはランタンの背中に腕を回している。顔面のすぐ前にあるリリオンの小ぶりな胸からは早鐘にも似た心臓の鼓動が響いていた。

 起重機によって中空に釣られている。身体を支えるものはベルトの左右に引っ掛けられた金属ロープと補助用の(アブミ)だけだ。一度、体勢を崩すとロープはそれ自体が振動するように震えて、身体が一回転してしまう。

 ランタンはリリオンの背中をあやすように叩いて、起重機を操縦するミシャに合図を送った。

「降下開始するっす! リリオンちゃん、安全に送るので身体の力を抜くといいっすよ! ――降下開始!」

 リリオンの肩から力が抜けて柔らかくなった瞬間に、ロープが軋みを上げてゆっくりと起重機から吐き出され、降下が始まった。ランタンはミシャに軽く手を振って、縦方向に流れる景色を眺めた。

 リリオンの身体からは良い感じに力が抜けているように見えたが、ランタンの外套を握り締める手にはかなりの力が入っているのが伝わってくる。戦闘をこなす前に外套がしわくちゃになりそうだ。

「リリオン大丈夫だから。下を見ずに、視線はまっすぐ壁を眺めて」

 視線を下げるとどうしても重心が前に寄ってしまう。それでなくともリリオンは重量のある盾を左肩に背負っているのだから、ランタン一人でバランスを取るのは難しい。だがそれでもそれ程の揺れがなく降下出来ているのは、ミシャの起重機の優れた操縦技術の(たまもの)である。ロープを通して起重機に伝わる探索者の揺らぎを、さも目の前で吊られる探索者を観察しているかのように感じ取り、それに合わせて起重機を巧みに操っているのだ。

「いいよリリオン、上手いよ。その調子、その調子」

「う、うん!」

 揺れなければ、それだけでリリオンにとっては自信になる。自信が付けば降下を怖がることもなくなり、怖がらなければ身体から力が抜け、結果バランスは安定する。

 降下を開始して六十秒がゆっくりと時間をかけて流れていった。すると静かに降下が停止した。上を見上げると小さな穴に、青空が広がって見える。だが足元には。

「リリオン、目線だけで下を向いて」

 足元には乳白色の濃い霧が広がっている。ランタンは雲海に立っているような不思議な気分になるが、リリオンはごくりと唾を飲んだ。この先がいよいよ迷宮になることを、鄙迷宮にもこの霧はあるのだから当然と言えば当然だが、知っているのだ。

「魔精酔いに気をつけてね」

「……」

 気をつけたからといって避けられるようなものではないが、気持ち悪くなることを知っていれば、それに対して身構えることは出来る。リリオンは何も言わず再び強くランタンにしがみついた。ロープが揺れるが、無理に引き剥がせば揺れるどころではないので仕方がない。

 そして冷たい水に足をつけるように、ロープが再びゆっくりと動き出し、そろりと爪先から霧の中へと飲み込まれてゆく。

 この霧は境界線だ。

 迷宮口は地上にその穴を穿つが、迷宮はこの地下に広がっているわけではない。もし迷宮が都市の地下いっぱいに広がっているのなら、今頃この都市は削岩龍(ベッドロックイーター)に地盤沈下を起こされて滅んだどこぞの国と同じような有様になっているだろう。

 迷宮は異界だ、と誰かが言ったらしいが誰が言ったのかをランタンは知らない。曰く魔界だと言う者も居れば、精神世界だと言うものも居るし、異世界だと言うものも居るのだからいちいち覚えてなぞいられない。酒場で管を巻く探索者それぞれが好き勝手なことを言っているのが迷宮だ。

 そもそも迷宮が何であるのかを知っている人間はいないとされている。国も都市も探索者ギルドも、真実はどうであれ、迷宮についての正式な見解を発表していないのだ。むしろ未知のものだからこそ、阿呆な男たちがこぞって迷宮へ(ロマン)を求めて旅立ち、そして魔精結晶(ロマン)を見つけてしまったものだから探索者などという職業が成り立っているわけだ。

 中には迷宮の真相を探ることを命題とする探索者も居たが、ランタンとしては迷宮が何であるかなど知らなくても、そこを探索し財を持ち帰ることは出来るのだから、未知のものが未知のままでもなにも問題はないと思っている。

 だが、この霧を越えれば現世ではないということは、ランタンですら肌で感じ取ることが出来る。

 魔精を含んだ霧の中に頭まですっぽりと飲み込まれた。霧は肌にまとわりつくが、冷たくも暖かくも、湿っても乾燥してもいない。ただ少し酒精を嗅いだ時のような酩酊感はある。目の前のリリオンを目視することすらできない濃い霧の中では自分が今、降下しているのか静止しているのか上昇しているのかさえ定かではない。時間の間隔さえも曖昧だ。

 ただ顔面に押し付けられる柔らかさだけは目の前にリリオンが居ることを告げている。

 不思議な感覚だな、とランタンは思った。

 迷宮に降りる際はいつでも一人だったので、他者が近くにあるのは妙な気分だった。魔精の霧の中では自己というものが曖昧になるものだと思っていたのだが、リリオンが居るだけで随分と自分の輪郭がはっきりしている。背中を撫でると背骨のオウトツや薄い肉の強張った感覚が、胸に顔を押し付けると柔らかさや甘い匂い、体温や心臓の鼓動が聞こえた。

 ランタンはふと安心している自分に気がついて、これじゃあ本当に小猿だな、と皮肉げに唇を歪ませた。

「リリオン、抜けるよ」

 足元から蛇のように冷やりとした気配が這い登ってくるのを感じると、程なく霧の中を抜けた。乳白色に覆われていた視界が開かれると、仄かな明るささえもが眩しい。そこにはまるで白磁器の壺の中のような、丸みを帯びた空間があった。

「うぅ……」

 地面に足を着くと硝子質の硬い音が響いた。リリオンが青い顔をしてランタンにしがみついて自分の身体を支えている。ランタンが手早くベルトを外してリリオンを連結から開放すると、リリオンは口を抑えてぺたりとへたり込んだ。

「きもちわるい」

 霧の中に含まれる魔精が急激に体に吸収された事による魔精酔いと呼ばれる症状だった。魔精は探索者、ひいては魔物の並外れた身体能力の源のようなものだ。それを急激に取り込むことによって起こる感覚の鋭敏化に、脳の処理が追いついていないのだ。今のリリオンには小鳥のさえずりさえ煩わしく、平地さえもが荒波に晒される甲板のように感じるだろう。

 ランタンはポーチから掌に収まる大きさの円形の金属缶を取り出して、その中から小さな丸薬を手の中に転がした。丸薬は麻の実ほどの大きさで、鮮やかな緑色をしている。ランタンは丸薬を指先に摘むと、にやにやとしながらリリオンの唇の間にそれを押し込んだ。

「奥歯で噛んで」

 囁くように告げると、リリオンの奥歯から丸薬が砕ける音が響いた。瞬間、虚ろとしていた表情が、正しく苦虫を噛み潰したような険しいものへと変じた。

「う゛!?」

 限界まで目が見開かれ、眉根に深い皺が刻まれた。

 リリオンの口に押し込んだ丸薬は、探索者の必需品である気付け薬だ。薄荷を煮詰めたような鼻に抜ける冷酷な清涼感と舌を灼く残酷な辛味が一気に意識を覚醒させる代物で非常に高い効果を誇るが、難点としてとびきりの不感症だとしても確実に落涙するという刺激物でもある。

 リリオンは見開いた瞳からぽろりぽろりと涙を流し、頬と鼻とおでこを赤くさせてランタンを睨みつけた。そこに魔精酔いによる鬱屈とした表情はみられない。酔いを覚まさせてやったというのに、ずいぶんと失礼な反応をするものだ。

「ひとこと言ってくれてもいいじゃない!」

 リリオンはやや緑に染まった舌を出したままに、ひぃひぃと息を吐きながら喚いた。だがランタンはどこ吹く風といった様子で、それどころか悪戯小僧のように楽しげですらあった。

「これの味を知ってこそ、真の探索者だよ」

 悪びれる様子もなく、そんなことを吹聴する始末である。

 リリオンも結果としては悪夢のような気持ち悪さから開放されたので、これ以上の抗議はできないといったように渋々と立ち上がり、多少の(わだかま)りを残したまま盾を背負い直して辺りを見回した。

 迷宮内部の構成物質は、その迷宮によって様々である。人工的な石組みの迷宮もあれば、原始的な岩を刳り貫いただけの迷宮もある。中には燃え盛っていたり凍り付いていたりということもあるらしい。もっともランタンはまだそのような迷宮を探索したことはないが。

 この迷宮は硬質な物質で作られており、戦闘靴が踏む地面が磨り硝子のように固くざらついて、しかしやや滑りやすい。壁一面は灰白色で、蛍のようにほのかに光を放っている。リリオンがその壁に近づいて、そっと手を触れた。

「……冷たい」

 発光しているが壁に熱はない。迷宮内にはわずかに肌寒ささえもが立ち込めている。

「リリオン、集合!」

「はい!」

 声が壁に反響している。リリオンは駆け足でランタンの傍らまで来ると、ビタリと急停止した。まるで命令を待つ訓練された犬のようだ。ランタンが事前に迷宮内では絶対服従と言い含めていたのだが、ここまで従順だと逆に気後れしてしまう。

「後ろ向いて」

「はい! ……あ」

 二人を吊り下げた金属ロープが姿を消していた。無事に二人を下ろしたことを確認したミシャがロープを回収したのだ。

「これでもう帰還するすべはないよ。――明日の夜までね」

 今回の探索の予定は一日目に下層を攻略し、二日目に最終目標(フラグ)の撃破そして夜までに帰還という言葉にすれば単純なものだった。

「――はい!」

 だがリリオンは震える声を気合で押さえつけるように凛と返事をした。言うは易く行うは難し、と言う慣用句を知っているのかは判らないが、少なくとも言葉ほど単純な探索ではないことは想像できたようだ。

「上層中層の魔物はたぶん再出現(リポッップ)してない予定だし、下層だってわりと撃破してあるから、そんなに張り切らなくてもいいよ、今はね。経路(ルート)も険しいところはないし、まぁ滑って転ばないように気をつけるだけで十分だよ」

 迷宮核が健在な限り迷宮内に魔物は無限に湧き続ける。だがそれは断続的に生まれているというわけではない。魔物は迷宮自身が迷宮を守るために配置した兵隊であり、一定の上限数をもって、その上限自体は迷宮毎によってまちまちなのだが、迷宮内を徘徊している。一度魔物を撃破すれば、再び魔物が湧出するまでに幾ばくかの猶予時間が存在し、目安としては撃破時より数えて一〇日前後と言われている。

 再出現にはまだ十分余裕がある。だが張り切らなくていい、と言うのは気を抜いていいと同意ではない。最初から最後まで十の力を発揮しようとしていては、道の半ばで気力が尽きてしまうことは明白だった。

 ランタンが落ち着かせるように軽くリリオンの肩を叩いた。

「あ、……ランタン」

 するとリリオンは反射的にその手を取って、自らの行動に戸惑うように視線を泳がせた。

 リリオンの手は冷たく、ランタンの手を握ったまま離さなかった。

「あの、ランタン」

「なぁに?」

 ランタンは言いながら、頬に苦笑が滲みでるのを抑えられなかった。それは自分に向けてのものだ。リリオンの瞳を真正面から見ることができない。だが視界には、その視線が飛び込んでくるのだ。

 縋るような、震える子犬にも似た瞳をしたリリオンが呟いた。

「手、少しだけでいいの。……つないだら、だめ?」

「――……上層だけね」

 魔物は出ない予定だし、と誰にともなく吐き出した言い訳が虚しく壁に響いた。


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