107 迷宮
107
夥しい数の骸の中に足が埋もれている。這い出ることのできない沼に足を踏み入れたように、身動きが取れないでいる。それゆえにエドガーは尾の一撃に一歩も退かなかったのではないか、とそう思えるほどランタンははっきりと英雄エドガーとそれに殉じた戦士たちの姿を見た。
リリオンを振り返り、そしてエドガーに視線を戻して見た景色はまるで白日夢のようだった。
時間の感覚は狂っている。長く身動きが取れないでいたような気がするが、それは六十秒に満たない時間の中で全てが行われた。
夢ならば良かった。だがエドガーが対峙するのは黒竜ではなく多頭竜で、紛れもなく英雄の左腕は肘の近くまで完全に炭化している。指はもう一つも残っていない。
左の掌から尻尾がずるりと離れていくと、その緑の鱗にはべったりと焦げ付いた手形があり、尾に支えられていた手首から先が地面に落ちて砕けた。
多頭竜は全ての脳を失って、しかしそれでも攻撃の手を緩めないことはすでにわかっていた。
尾が一旦離れたのはただ助走を付けるためであり、鞭のように引き絞られた尾は再びエドガーへと襲いかかった。
エドガーの意識は辛うじてある。対応しようと右手が動いたのは探索者として染みついた習性だ。竜骨刀をきつく握った。本能と呼ぶべき反射行動は、けれど高圧電流に全身の筋肉と神経を灼かれたせいで年相応の老人のように震えるばかりだ。
「がああっ!」
錯乱したように泣きじゃくるベリレがエドガーの左から入った。
水平に構えて震えるだけの竜骨刀を巨躯を折り曲げて潜り、エドガーを背に庇うように大きく一歩踏み込む。
両足で地面を踏むと鋼鉄が拉げる。震脚に跳ね返った体重が大腿部を二倍近くに膨らませ、伸び上がった膝に長尺棍が足元から跳ね上がって尾の一撃を迎え撃った。
大気が震えた。破裂した衝撃にベリレの眦から涙が拭われた。涙は拭われて、また溢れ、けれどベリレの呼吸が乱れなかった。
先端に脳や眼を持つかのように縦横無尽に襲いかかる尾の攻撃をベリレは確実に受け、捌き、撃退する。
エドガーが腕を失ったことによる恐怖と混乱の衝撃は抜けてはいない。次から次へと零れる涙がそれを証明していた。
だがベリレの身体は、背に守るエドガーからの教えが根付いていた。恐怖に麻痺することなく、身体は最適な行動を取り続けた。
「ランタンッ!」
ベリレが涙声に叫ぶ。
状況に動けたのはベリレと、ランタンだけだった。
「どうしたらっ、どうしたらいいっ!?」
そう叫びながらもベリレは攻撃を止めない。
「そのまま捌き続けろっ!」
「でもっ、エドガーさまがっ!」
「お前ならできるっ!」
ランタンは振り返りもせずに応え、真っ直ぐに最短を駆けた。
エドガーが斬り刻んだ八つの首が大地を血に濡らし、湖のような血溜まりはランタンの疾走に王冠のような飛沫と波紋を浮かべる。まさしく水面を駆けるように。
何という剣技か。進むランタンの外套が破れ、服が斬れ、皮膚が裂けた。
竜骨刀が通った空間が断裂し、剣線の残滓がありありと残っている。多頭竜の再生が、先端に生み出される黒い卵が未成熟のまま断ち裂かれる。再生が妨げられていた。
萎れた花弁のように八つの首が重たげに垂れ下がり、その中心にはまだ人の形を保ったままの血の塊がその表面に雷光を走らせていた。
緑の瞳は噛み砕いたまま、もう無い。粉々になった宝石の破片が絶えず流動する塊の表面を泳いでいる。その小さな粒が近接の粒に雷の線を繋げていた。弱々しく、けれど次第に大きく。
その明るさに照らされていっそうに暗い眼窩の闇がはっきりとランタンの姿を見た。
ランタンの接近に反応して血の塊が胸の前に腕を交差させる。人間の真似事だ。交差を鋭く解くと表面にあった雷光が指先に収束し、斜め十字の雷撃となってランタンに襲いかかった。
爆発での迎撃はしなかった。咄嗟に戦鎚を翻し、鶴嘴に外套を引っ掛けて巻き付ける。喉元の結びを解く。
ランタンは外套包みの戦鎚を前に突きだして雷撃を受けた。耐魔加工の外套が発火し、一瞬にして灰となり戦鎚を伝った雷に視界が白く染まって、ランタンはそのまま進み続けた。
視力は戻らない。だが血の臭いが近く、跳躍。
ランタンは歯を食いしばると、そのまま血の塊に突っ込んだ。燃えるように身体が熱い。それゆえに腹部に滑り込んできた痛みの冷たさにはっと視界が戻ってきた。竜の血に汚され、朽ちかけの竜骨刀が血の塊の胸から突き出されていた。
それはランタンの腹に刺さっていて、しかし貫通していない。ランタンはそのまま腹筋を収縮させ、竜骨刀を絡め取った。痛みごと。
「――っ!」
ぞぞ、と一寸深く先端が腹に埋まり、だが血の塊の頭部を叩き潰せる距離まで竜骨刀を押し返す。ランタンは貫かれたまま戦鎚を振りかぶった。肉が抉れる。
「ぐっ!」
問答無用に振り落とした戦鎚の袈裟懸けは、血の塊の頭部を飛び散らせて胸の真ん中にまで沈み込む。そして竜骨刀を炭化させるほどの熱量と衝撃を撒き散らした。
その衝撃で後方に吹き飛んだランタンは荒々しく着地し、ずるりと竜骨刀の先端が腹から抜け落ちた。
ランタンは腹部を左手で押さえ、指の間から赤い血が滲む。
問答無用に傷口を灼いて血を止めた。そしてランタンは振り返る。
座り込んだままでいるレティシアの襟首を血染めの手で掴まえると、乱暴にそれを引き寄せた。あまりの勢いに額がぶつかり、互いの顔が血に汚れた。その赤さにレティシアの緑瞳がはっと意識を取り戻す。暗い、鬱蒼とした色の瞳。噛み付くような距離でレティシアの瞳にはランタンの姿しか映らなかった。
炎の瞳が暗緑の瞳を睨む。
「約束通り、お兄さんは地獄に叩き落とした」
多頭竜の首、その中心にあった血の塊は見る影もなく、それがいたはずの場所は再生できぬ火傷に未だぐらぐらと煮立っている。
「もう迷う必要はない、あれが貴女の敵だ! 目的を果たせ!」
ランタンは吠えるようにそれだけ言って、突き放すようにレティシアから手を離した。
そしてランタンは視線だけでリリオンとリリララを見る。可能ならば抱き上げて、声を掛けてやりたかった。
だがそんな余裕は今は残されていなかった。
状況が二転三転とひっくり返った。
爆撃、雷撃、剣撃。
状況を痛み分けと呼ぶにはいくらかも分が悪い。だが多頭竜の再生能力に限界が近付きつつあることも確かだ。
再生した首は変わらずに八つある。だがその首は当初よりもだいぶ短く、身体を覆っていた鱗と脂肪のドレスは皮下脂肪を分解して肉体の維持に回したのか、幾分も貧相になっていた。
そして隠されていた尾は雷撃を制御しきれていないようだ。ベリレを打つ度に己の身も焦がし、再生と同等かそれ以上の消耗をもたらしている。
ベリレの棍と打ち合っては鱗が燦めき、雷撃に灼けた鱗が黒々と剥離する。ベリレが尾を打ち返し、ランタンがそれに追撃を掛けた。
「代わる、おじいさま連れて下がれ。すぐ戻ってこい」
「わか――」
「――不要っ!」
かっとエドガーの目に光が戻った。引いた尾を目がけて竜骨刀を投擲した。雷速を越えて放たれた刀は尾を鋼鉄の地面に縫い付ける。ベリレが驚きに目を丸くした。火傷した掌で涙を拭った。
「エドガーさま!」
「――ぐ。ランタン、腰のを寄越せ。ベリレ、集中しろ」
有無を言わさぬ迫力にランタンは腰の狩猟刀をエドガーに渡し、しかしそんなエドガーにランタンは告げる。
「おじいさまは後衛の守りを。ベリレは前、やれるね」
有無を言わさないのはランタンも同様だった。エドガーの消耗は酷く、前衛は任せられない。ランタンの強い口調にエドガーは頷いた。
ランタンがベリレの尻を引っぱたくのと同時にエドガーはリリララと、リリオンの守護に回る。
そしてベリレとランタン、レティシアが前衛に立った。
「――悪かった、情けない姿を見せた」
レティシアはそれだけ言った。気位の高い緑の瞳がランタンとベリレを見つめる。
「反省は後回し。レティシアさんは雷撃は最小限に。また盗られる。顔は全部、僕が引きつけるから二人は尾を捕まえて――」
尾を縫い止める竜骨刀がかたかたと震え、ぴんとそれが抜き取られた。
「もう鎖がない、どうやって」
「根性。――捕らえたら、奪い返せ」
ランタンは問答無用にベリレの腕を叩き、レティシアを見上げる。レティシアは深く頷いた。
三人が散開した。
ランタンは宣言通り八つの頭部を引きつける。エドガーがそうしたように。足りない技量は根性で補う。
息つく暇もない全力運動に身体は痛む。ぎしぎしと骨が撓り、腹の傷口が開いた。焦げた皮膚に血が染み出す。
だがこれ以上深く傷口を灼けば、止血効果よりも火傷の影響の方が大きくなる。ランタンは戦鎚の柄に残った外套の切れ端を傷口に押し込んだ。これで多少ましだ。
ランタンは奥歯を噛み締めて、一本角の鼻面を蹴って跳び、戦鎚を横一閃し剣牙の牙を折り、紅眼の鱗を一枚剥がして落下し、着地と同時に黒口に火球を撃墜する。
撒き散らされた炎に頬が赤く染まった。密度の薄い炎に頭から突っ込む。この程度の熱量は微風も同然。皮膚は火膨れを起こしたが痛みはない。青眼の顎下を這うように潜り抜け、四本角の一つを圧し折る。折れた角を掴まえ、角無しの瞳を狙って投げる。
機を焦って状況を悪化させたのは自分だ。
ランタンは心の奥底にわき上がる思いを無視する。多頭竜の膨大な生命力を観測して、爆撃に至った考えは間違いではない。ランタンは自分に言い聞かせる。結果は結果。
身体に染みついた戦闘経験を疑ってはいけない。
それは間違いなくランタンの背骨だ。この世界で身に付けた自信だ。
反省は後回し。戦え、戦え、戦え。後悔は勝ってからすればよい。
ランタンは突き動かされる。涙の代わりに血と汗が流れる。
ランタンは獰猛な笑みを口元に浮かべた。奥歯を噛み締めると自然と口角が吊り上がり、犬歯が露わになる。
強がりに浮かべた笑みはいつしか顔に馴染んだ。
ずっと名前を呼ぶ声が聞こえる。
――ランタン、ランタン。
身体を強打されてからぴくりとも動かず、倒れ伏すリリオンの声が耳元に聞こえる。幻聴かもしれないし、本当に名を呼ばれているのかもしれない。
だがその声に名を呼ばれるだけで、ランタンは迷わずにすむ。
状況を無視してリリオンに駆け寄れば戦線は崩壊し蹂躙は免れない。
ランタンは火力を絞る。出し惜しみをするのではない。必要なことは多頭竜を殺すことではなく、引きつけること。火力を高めることは簡単で、火力を絞ることは酷く精神を消耗させる。だが可能な限り長く、レティシアとベリレから多頭竜の眼を逸らすためには無駄遣いはできない。
それに片腕を失ったエドガーには後衛を任せることすら、やや躊躇われた。老人の肉体はすでに限界を超えている。老身は英雄という背骨にのみ支えられ、身を動かすのは気力だけだ。
ランタンがどうしても対応しきれない、リリララやリリオンを狙った火球を捌くだけでかなり辛そうだった。
まだか、とランタンは一瞬だけ視線を飛ばした。
レティシアとベリレは多頭竜の後方へ回り込み、暴れ狂う尾を掴まえようと四苦八苦している。
ベリレの長尺棍が唸りを上げて、レティシアの剣技が冴え渡っていた。襲いかかってくる尾を打ち返し、斬り結ぶことはできていた。だが捕らえるとなると難しい。
尾には雷撃に焦がした火傷が残っていた。そしてリリオンが付けた傷も再生せずに残っている。ベリレがその傷口を狙って長尺棍を振り下ろすと、ずっぱりと長尺棍の先端が切断された。
あの尾の中には、ひどく鋭利で、雷を宿すものが埋め込まれている。そしてそれを多頭竜は御しきれていない。それは多頭竜の持ち物ではない。
正当な持ち主を模してみても、それはあくまでも模造品に過ぎなかった。
「レティシアさまっ!」
ベリレは覚悟を決め、長尺棍を腕に支えた。打ち返すのではない。受け止めるのだ。
音の壁を越えて振るわれた尾の一撃が長尺棍を両断し、ほんの僅かな減速。ベリレはその強烈な一撃を胸に受け止め、その内に僅かに残っていた雷精が暴発し、雷に包まれたベリレはだが両腕でがしりとそれを握り締めた。
意識が繋がっている。ベリレは煙る息を噛み締めて、暴れるそれを押さえつけた。
「たあっ!」
レティシアはリリオンのつけた傷の反対側に剣を振り下ろした。雷撃に痛んだ鱗が断たれ、レティシアの暴走に耐えきった剣が斬り負ける。
「があああっ!」
だがベリレが吠えた。涙はすでに乾き、棍の代わりに握り締めた尾がベリレの握力に潰れる。
そして頼もしい大熊の騎士はしぶとく繋がれた竜の尾を引き千切った。
「――!」
黒い血の溢れる断面に、それはあった。
十指に余る柄。鍔はなく、僅か鍔元だけ露出した刀身は血脂が水のように流れ汚れがない。
「兄さま……」
レティシアが呟き、それを握ると一息に尾から引き抜いた。ランタンと戦っていた八つの首が揃って大音声で吠える。引き抜くと同時に、それはごっそりと多頭竜の魔精を奪い取った。
あるべき場所に、正当な持ち主の元へとそれは現れる。
失われる以前の姿形とはまるで違う。だが紛れもなくネイリング家の至宝。
宝剣、万物流転。
うっすらと弧を描いた片刃の刀身は緑を一滴垂らしたような緑銀で、レティシアの身の丈に迫るほどの長剣だったがよく似合った。
風が渦巻く。嵐の前触れのように肌寒さと、むわっとした湿気を感じた。それは未だ残る空間内の魔精が貪られる感覚であり、刀身から発せられた雷の熱量にレティシアの流した涙が蒸発した所為だ。
ランタンが一歩退いて距離を取った。身動きの取れぬはずの多頭竜が八つの首を一気に振り回して強引に身体の向きを変えた。そして一斉に襲いかかる。
八つの首は互いに絡み合い、濃い緑の鱗が一斉に枯れたように色を黒くし、編み上げられたその姿はレティシアと同じ肌色をした男の姿。ランタンからは男の背を見ることしかできない。
だが憤怒に歪んだベリレの表情が何を見たのかをはっきりと物語っている。
レティシアは剣を握って睨み返した。恐れ、迷うことはもう無かった。
「兄は死んだっ、貴様は違うっ!」
レティシアは一歩も退かず迎え撃つ。
緑雷一閃。
左下から跳ね上がった緑銀の刀身は、鮮やかな緑の雷を引いて多頭竜の首を一刀に蒸発させた。剣線の延長線上があまりの高熱に深々と溶断され、多頭竜は首の根元から鼻先までの一切が焼失している。
強烈な破壊に多頭竜の身体が一回り小さくなった。
「ベリレ! レティを連れて退けっ!」
ランタンが怒鳴る。高熱の大気に喉が灼ける。
宝剣は多頭竜の肉の内で鍛え上げられ、それは魔剣とでも呼べるものになっていた。大気の魔精だけでは足りず所有者たるレティシアの魔精も使い切って、彼女は剣を振り切った形のままに意識を失った。
ベリレは黒々と火傷した胸にレティシアを抱きかかえると、猛然と駆けてランタンと場所を交代する。
再生が速い。多頭竜も必死だった。魔精だけではなく肉体を分解して傷口を塞いだ。身軽になった分だけ首も細く、自重に動けぬはずの多頭竜が四つの足を動かして方向転換を――
「させないっ!」
ランタンが再生し、まだ一塊の横っ面を殴りつける。リリオンの方へ向かせるものか。
八つの顔つきの差異が薄れていた。若返っているのかもしれない。一回り以上小さくなった身体には若草色の鱗がつやつやとしている。
だが脅威は未だあり。若い分、早い。ランタンは次々に襲いくる八つの猛攻に立ち向かう。
身体が軋む。戦鎚が軋む。
あの竜骨刀ですら耐えきれなかった負荷に晒され続けた戦鎚が悲鳴を上げる。
――ランタン、ランタン。
大丈夫だから、任せておけ。
一本角の顔を砕き、ランタンは紅眼の鼻面に飛び付いて大きな目玉に腕を突っ込んだ。爆発、跳躍。
大口を開けて飛びかかる剣牙の口腔に戦鎚を咥えさえ爆発。三ツ眼は蹴りつけ距離を取り、四本角の角に捕まって黒口の火球を誘った。着弾と同時に離脱。地面に叩き付けられるように着地をして、左から襲いくる紫眼を戦鎚で受け止めて、ついに鎚頭の根元に罅が入った。
爆発を起こせるのは肉体と、その延長。
ランタンは咄嗟に戦鎚を引いて紫眼の眼に手刀を叩き込んで脳を沸騰させ、爆発の奥から突っ込んでくる三ツ眼の眉間に戦鎚を叩き付けそれはついに壊れた。
「――っ」
火球を放とうとしていた黒口が炎を咥えたまま噛み砕こうと向かってくる。
ランタンは鎚頭を失い、破断して切り立った柄を逆手に握り込む。そのまま仁王立ちになり、力任せに黒口の鼻面から下顎までを地面に縫い止めた。口腔に破裂した火球と、柄から放たれた高熱が顔面を焼夷した。
そしてリリオンへと一直線に向かう角無しを殺すに間に合わない。
ランタンは柄ばかりになった戦鎚を八つの首の根元へと投擲した。手放す瞬間、掌に痛みがあった。
肉体が失われるような。
エドガーが、そしてレティシアが命を削ってぶ厚い鱗を削り取った。
「消し飛べっ!」
戦鎚はランタンの身体の一部だ。だから、できないはずがない。ランタンの血と汗が染みつき、小さな手の形に摩耗した柄は若草の鱗に突き刺さり、三度目の破壊をもたらした。
八つの首を纏めて吹き飛ばし、だが未だ血泡がそこに。
それは、果たしてなんだったのか。
もう多頭竜ではない。
幾つもの首が捻れ絡まり、剥き出しの筋肉のような、荒縄のような、大樹のような一つの首を形成していた。
尖端には何もかも丸呑みにできるような顎門があり、それでいて至る所に頭部があり、木の洞のように無数の眼窩があり、口があった。その全てがランタンを睨み、牙を鳴らしていた。
再生異常を引き起こしたのか。若返って、成長し直したのか。それともランタンを殺すのにその形にならなければならないと進化したのか。
黒いほどに赤い口腔が全開に開かれて、牙から滴る涎は強酸以外の何ものでもなく、喉奥から聞こえる轟きは雷のものに間違いなく、ランタンははっきりと己の死を自覚して、だが拳を固めた。
あの子のためなら何でもやる。
それはあの白日夢で見た、英雄の背中。全てを投げ打ち、我が身を省みず、ただ独り先頭を――
――ランタン、ランタン。
名を呼ばれる。鈴を転がしたような可憐な声。
ランタンはリリオンの声を聞いた。
――わたしの、お願い。
魔精は意思の溶媒。多頭竜に、そして魔剣に奪われて薄くなったはずの大気の魔精が、それを伝えたのだろうか。
もう後には戻れない。それが正しい行いかわからない。
だが呼ばずにはいられなかった。ランタンは独りではいられなかった。
「リリオン!」
叫ぶ。
背後から足音が聞こえる。
思わず振り返ると、銀の髪を振り乱し頬を上気させて駆け寄るリリオンがいた。尾に打たれ、問答無用に転がった所為でずたぼろになっている。まるで出会った頃のように。けれど。
「ランタンっ!」
武器を何一つ持たず、だが妙な頼もしさがある。姿形は変わらない。だが何かが違う。笑っている。
ランタンの耳に遠くから舌打ちが聞こえた。
それは兎の舌打ちだ。
――くそ、そんなわけねえのに、反応しちまった。
名前に同じ二つ音を持つリリララは死人のような顔で、リリオンの背中とランタンの顔をことさら優しく見た。
――妹分がきばってんだから、死んでられるか。
リリララはもうまともに魔道を発動させられない。だがリリララはまともではない方法を知っていた。
血は魔精の溶媒なればこそ。生きている限りそれは流れる。
リリララはへたり込んだまま、己の身体を抱きしめるように腕を交差させて両の肩を掴んだ。
そして一気に手首までを掻き毟った。皮膚が裂け、肉が裂け、血が溢れる。十の爪が全て剥がれた。その真っ赤に染まった手を鋼鉄の大地に添えて、リリララは祈りを捧げる。
大地が波打つ。四方から波が押し寄せるようにリリオンの手元へ。
「ぶちかませっ!」
それは拉げた大楯であり、千切れた棘鎖であり、砕けた魔道剣であり、斬れた長尺棍であり、役目を果たした竜骨刀であり、少年が少女に買い与えた大剣である。
波打つ大地は転がる武器の残骸をリリオンに集め、鋼鉄の大地に沈んだかと思うと、混ざり合って浮かび上がった。リリオンは見慣れた柄を当たり前に掴む。
刀身は地面に埋まっている。リリオンが走っても走っても、それが引き抜かれることはない。
長い。大きい。
すでにリリオンの身長を大きく超え、それでも鋒が顔を出さない。リリオンの膂力を以てしても振り上げられないほどの重さであるはずだ。だがリリオンはそれを身体に引き寄せる。
「ランタン!!」
リリオンは竜に立ち向かう。かつて神話の時代、そうしたように。
大きな一歩の踏み込み。ランタンは振り返って、自分を追い越した少女の大きな背中を見た。
「わたしに――」
姿形は変わらない。だがそれは不可逆の変容。少女の中に流れる巨人族の血の顕現。圧倒的な力の気配。
「――まかせて!」
掬い上げるような一刀。鋼鉄の大地を斜めに切り裂きながら引き抜かれたそれは多頭竜の首を下から刎ね、それだけでは終わらない。
高々と振り上げられた大剣が真っ直ぐに振り下ろされる。鋼鉄の大地から引き抜かれたそれは、迷宮を割った。
天井を削って、竜の背骨を縦に割って、再び大地に戻るように深々と鋒を地面に沈める。リリオンは大きく息を吐いて、肩を脱臼し、肘の靱帯が伸び、衝撃を支えきれず右の手首が挫けた。巨人族の力に、肉体が耐えきれなかった。
「リリオン、リリオン、リリオン!」
ランタンはリリオンの名を何度も呼んでやり、切断の衝撃に異形の竜頭はレティシアたちの背後にまで跳ね飛んだ。追撃の一撃はついに多頭竜の巨大な心臓を露出さるばかりか、鋒が届いていた。
剥き出しの心臓は切れ目が入り、しかしそれでもどっく、どっくと暴れるように鼓動している。傷ついたそこから瀑布のように血が溢れた。
血は魔精の溶媒で、魔精は意思の溶媒。
なればそれは迷宮の意志そのものが溢れ出したのかもしれない。
探索者を殺すこと。
血のうねりが二人を飲み込まんとして、ぞっとするような殺意にリリオンは奥歯が噛み合わなかった。
少女の前にランタンは出た。どれだけ意志を振り絞ろうとも、両腕が損傷した状態ではリリオンはもう戦えない。
それに充分に役割を果たしてくれた。
ここから先は、ここからさきこそがランタンの役目だった。
竜の首を思えば何とも細い血の一撃を掌に受け止め、それは甲を突き破って喉を狙った。ランタンは血の棘を噛み砕く。
それを吐き出しながら、吠える。
「ベリレっ!」
「おう――なんっ……!」
リリララがそれを造ったのだろうか。細い鎖がリリオンの腰に絡みつき、そしてランタンはそれを避けた。
ベリレの顔が驚愕に歪む。
多頭竜はもう放っておいても死から逃れられぬように見える。
心臓の傷は再生せず、ただ大量の血を溢れさせるだけ。
だがランタンの勘が、楽観を許さない。殺意を伴う血の津波は、そのうねりに暴龍の姿を思わせる。
引き離されるリリオンが、ランタンに手を伸ばした。ランタンはその指先に一瞬だけ触れた。
「ランタンっ!!」
ランタンは振り返って意識が戻ったレティシアに笑いかけ、リリララに微笑み、ベリレを頼もしく見つめ、エドガーに頷いた。
「リリオン」
そしてリリオンの名を呼んで、少女に触れて熱を持った指先に口付けた。
「あとは任せて」
振り返ると、もう視界は血の一色。
掌を穿った血の一撃は先走って飛んできて飛沫の一つに過ぎない。多頭竜はもうランタンに、そしてその後ろにいる皆に襲いかかろうとする津波のごとき殺意の塊である。迷宮そのものが襲いかかってきている。
ランタンは轟々と流れる血の音を聞いた。竜の血ではない。自分の血潮の音色だ。
それは炎が燃えさかる音に似ている。
百億回殺してやる。
鮮やかな橙の瞳のランタンから血が吹き出すように大炎が迸った。
襲いかかる血の津波は触れることもできずに焼け焦げ蒸発し、だがそれでも逆巻きランタンを飲み込もうとする。
背後でリリララとレティシアが力を合わせて防御壁を生成した。
ランタンの発する高熱に鋼鉄の表面が溶け、レティシアはリリララに魔精を注ぎ、リリララがそれを制御して溶解や蒸発に合わせて鋼鉄を足し続ける。防御壁の周囲がみるみると痩せてすり鉢状に陥没する。
リリオンの泣き声が聞こえる。何度も名を呼ぶ声が聞こえる。
ランタンの爆発は収まらない。
常ならば一瞬の閃光である爆発が、収まることなく断続的に発生し続けていた。
大炎の中にあり続けるランタンの身体から、身に付ける装備が次々と焼失していく。
剥き出しの白い身体。誰も触れることができず、ただ見ることしかできない。
熱量を上げ続ける爆発に、しかし血の津波は勢いを衰えるどころかむしろ増して、だがランタンは何もかもを燃やした。破壊と再生が幾度となく繰り返される。
ランタンは牙を剥いて笑う。
超硬不壊を誇る右手の探索者証がついに蒸発して、身を焦がす熱も、痛みもなく、身体の感覚は失われた。
血の津波が押し返されて、多頭竜の残った肉が消し炭になり、鼓動する黒玉のような心臓が炎に晒される。
何もかも光に飲み込まれる。
目が眩むほど明るく、近付くものを焼き尽くす圧倒的な熱量。
「リリオンを泣かす奴は、百億万回殺してやる!」
ランタンの姿は一つの熱の塊になって、それは太陽そのものだった。
もうランタンの耳にリリオンの泣き声は聞こえず、ランタンは多頭竜を殺しきった。
カボチャ頭のランタン02の発売日だよ! よかったらどうぞ。
次回更新は30日ですが3000文字ぐらいです。




