106 迷宮
106
再生に使用される生命力は身の内にばかりあるわけではなかった。
噎せ返りそうなほど濃い、大気に混ざる魔精が多頭竜の再生を手助けしている。
最下層、迷宮の最奥は終端の魔物の母胎である。目に見えぬ臍の緒が多頭竜に結ばれて、空気の流れとなるほどに魔精が多頭竜の傷口に注がれてゆく。
だが羊水のごとき魔精の恩恵を受けるのは多頭竜ばかりではなかった。
魔道を扱う者、レティシアやリリララもそうだった。
しかしその助けを得ても、彼女たちの消耗度合いが酷い。それは魔精との親和性の優劣や戦闘の見通しの甘さからくるものではない。
最大限に辛く見積もった戦闘予想の、その更に上を大老多頭竜が超えたのだ。
戦闘は長期戦に片足をどっぷりと踏み入れている。ランタンの勘が、それが悪手であると警鐘を鳴らしている。
「――ふう、ふう」
ランタンは深く呼吸を繰り返す。
地上十五メールから少し大きな水溜まりを跳び越すように足を踏みきって、ランタンは眼下に広がる竜の背に向かって落下していた。
――これは生命の、魔精の奪い合いだ。
突入当初、大気に飽和していた魔精は多頭竜とレティシア、リリララの大量消費によって幾分も薄くなっていた。
だが枯渇にはほど遠い。魔精はまだまだたっぷりと残されていた。
そして魔道を使うのはレティシアやリリララばかりではなかった。
落下し、景色がゆっくりと流れるのは神経が研ぎ澄まされているからであり、それはランタンの内にある魔精の活性化が著しいためであった。
研ぎ澄まされた意識。引き延ばされた時間。
落下の緩慢さは、もはやもどかしいほどである。
水か、あるいは油の中に飛び込んだかと言うほどの緩慢さにランタンは捕らわれていた。それを引き剥がすことは簡単だった。空中での方向転換や再加速にランタンは爆発をいつだって活用している。
だがランタンはそれをしなかった。ただ重力に身を任せた。
加速のための一撃すら惜しい。次第に近付く竜の背を見るとそう思った。
遠目からでは溶けたように、粘液のようにすら思えた丸みを帯びた背筋が近付けば近付くほどに険しく切り立った山肌に似ていることに気が付く。地殻変動によって地表から迫り上がり、恐ろしいほどの圧力で圧縮された重厚な大地に。
しかしそれでいて首のうねりがはっきりと視認できる。
硬さのあるままに背はうねり波打っている。炙るような熱となって竜の体温がランタンの肌を撫で、爬虫類に似た独特の臭気が嗅覚に触れる。死の臭い。
死肉喰らいめ。切り離されて死んでいく自己を喰らう竜を睨む。
実際の落下時間はものの数秒に過ぎない。だがその数秒の中でランタンは深呼吸を繰り返した。
エドガーに乱暴に仕込まれたように、リリオンと一緒になってリリララから教わったように、身の内と外の区別を無くし感覚の枝葉を広げる。多頭竜に貪られてゆく魔精を、横から掻っ攫い腹の内に収める。
「――ひゅう」
ランタンは鼻からゆっくりと長く息を吸い込んで、痛いほどに膨らんだ肺にだめ押しの一呼吸を口で行った。
頬が丸く、真一文字に唇を結ぶ。
大量の酸素と魔道たる爆発の源が身の内で意志と混ざり合っていく。
熱。
空から細く垂らしたような赤光の軌跡が螺旋に歪む。瞳は燃えるような赤に染まっていて、それは肚の中で練り上げられた魔道が外界に顕現しようと暴れる濃い赤だった。
身体を捻り、ランタンはエドガーを真正面に捉えるように向き直った。
足の裏が触れ、膝を突き、戦鎚の鎚頭の根元と柄を握った両手が叩き付ける。固くぶ厚い鱗の積層であるはずなのに、まるで皮膚を剥いだ肉そのものに触れているようだった。竜の毛細血管に、魔精を這わせる。奥深くに潜り込む。
視界が一瞬、地獄のような血肉に染まった。亡者が蠢くような。
――百万回殺してやる。
多頭竜の背に着地したランタンは獣の如く。
四足獣のような身のこなしは一瞬にして光と熱の炸裂に包まれた。
まさに爆撃だった。
多頭竜は背に異物を感じた瞬間にランタンに襲いかかろうと四つの首を振り返らせたが全てが遅い。
幾百幾千幾億もの鱗の積層も、ぶ厚い皮下脂肪も関係なかった。
ランタンの肉体を包んだのは余波に過ぎない。戦鎚の鎚頭から柄の先まで一直線に放たれた爆発は、その一メートルに満たない直線だけにでは到底収まらず、険しい山肌を両断して多頭竜の肩幅から溢れた。
身体から力の失われる感覚。はっきりと魔精の抜ける感覚があった。そしてそれに見合った破壊の感覚も。
僅かな気怠さ。
自らの肉体を焦がしかねない超高温の熱と、後ろに吹き飛ばされそうなほどの衝撃に身体が痺れる。
爆発は多頭竜の首根っこをごっそりと焼夷した。頸椎と脊椎の繋がりを飲み込んで、高熱の衝撃は肉体を斜めに抜けた。焼き切った。人で言えば項から鎖骨の下を抜けての両断であり、多頭竜は八つの首の全てを一気に失おうとしていた。断面が地崩れのようにずるりと滑った。
ランタンの身体が強烈な揺れに襲われた。多頭竜の心臓の鼓動が一気に激しくなった。ぶちまけたように傷口から青黒い血が溢れ出す。
ぞっとするような生への執着。
胴体側も首側も、黒く焼け焦げた断面から溢れた血が、まるで手を取り合い引き寄せるように絡みついていた。
「――があっ!」
爆音がこびりつく鼓膜は痛いほどの耳鳴りに支配されていた。だが熊の咆哮が聞こえた。
じゃらりと多頭竜の首に棘鎖が絡みついた。中央の三つの首を十重二十重とぐるぐる巻きにして、棘が隙間無く並ぶ鱗の重なりをこじ開けて深々と食い込んだ。暴れれば暴れるほど自然と棘は深く、戒めは厳しいものになる。
ランタンの視線が鎖を伝う。ベリレが長尺棍を翻す。
それは修練の結晶だった。
みしみしみし、と絡み合う血が軋みをあげる。
長尺棍をベリレと、そしてリリオンが二人して握っていた。ランタンに完全に背を向けている。
二人は技量もへったくれも、それこそ息を合わせようなどという気すらない。長尺棍を抱きつくように握り締めて、ただ必死に全力で鎖を引っ張っていた。多頭竜との全力の綱引きだ。
荒縄が引き千切れるような鈍い音が響き、肉に変質しかける青黒い血が引き千切れていく。棘鎖も。
同時に二人の喉から苦悶の声が漏れ出した。
「うがっ!!」
リリオンとベリレの背中が揃って膨らんだ。背中ばかりではない、身体の全てが一回りも大きくなった。
リリオンの耳が真っ赤に染まり、ベリレの肩から指の先までに掛けて弾けんばかりに血管が浮き出た。多頭竜の血の結びつきが急に強まったのだ。
多頭竜も必死だった。
断裂と結合を繰り返す血が複雑に変質していた。
身体の組織、脂肪や表皮、筋肉に鱗、骨に牙、神経、そういったものが混然一体となって複雑に絡み合って恐るべき強度と張力を生み出していた。死にもの狂いだった。
リリオンの目が真っ赤に充血して、少女はついには鼻血を出した。
ベリレの額に浮かんだ血管が破裂して、右の眦から血が伝った。
息みすぎたせいで酸欠を引き起こし、二人とも視力はすでに無い。ただ暗闇の中で必死に脚を動かして、しかし駆ける足が地面を滑る。その背後に首を拘束されていない五つの竜頭が襲いかかろうと――
――やらせはせん。
エドガーがどのような歩法を用いたのかランタンにはわからない。
ベリレとリリオンに抗い、繋がりつつある断面に竜骨刀が奔った。
それは一瞬のことで、太い鋼索が切断されるような音が聞こえた時にはすでにエドガーの姿をランタンは見失っていた。
血の結びつきは一刀のもとに切断されて、リリオンとベリレが一気に首を引き剥がした。鎖がばらまかれるように引き千切れるのと同時だった。
けれど切り離された首の生命は未だ失われず、その生命がいつ失われたのかも知ることができない。
気が付いた瞬間には首はなますに切り刻まれ、無数の肉片と化している。
急に負荷を失ったものだから年少二人が揃って顔面から転びそうになっていた。エドガーがそんな二人を脇に抱えるのがようやく視認できる。
老探索者は呼吸を荒く二人を脇に抱えたまま跳躍して距離を取った。
そして入れ替わるように、否。それよりも早く前衛に上がっていたのがレティシアだった。ともすればランタンの爆発に巻き込まれていたかもしれない。
最後衛でリリララが崩れ落ちるようにして地面に片手を突いている。顔は土気色で赤錆の目だけが執念に色づいている。レティシアを前衛まで運んだのはリリララだった。
レティシアの足元が隆起して、その先端で突き飛ばすように押し出していた。一歩間違えばレティシアを串刺しにしかねない速度と質量だったが二人は言葉も、視線すら交わさずそれをやった。
レティシアの膝が沈んだ。強烈な空気抵抗に押さえつけられるように。だがレティシアはそのまま剣を構えた。
鋒がぶるぶると震える。鍔元に嵌められた瞳と同じ色の緑柱石が深みを増して、鋒が空気の壁を裂いた瞬間にレティシアは溢れる血で真っ黒な竜の断面に躍りかかった。
全体重を速度に乗せて、固まりきらない瘡蓋のような断面に剣は突き刺さった。
まるで水面を割るように一切の抵抗がなく、鍔元の宝石が完全に血の中に沈み込んだ。
「はああ――」
黒い液体の中で幽玄な緑の灯りが透け、肉体の内に轟雷が鳴り響いた。多頭竜が激しく痙攣する。
「――あああっ!!」
断面の血がまさしく沸騰して泡立ち、真っ黒で生臭い蒸気がレティシアの姿を覆い隠した。ランタンは爛々と明るいレティシアの緑瞳だけを目印に、爆撃の虚脱感から回復して跳躍した。
レティシアの頭を抱きかかえ、女の身体ごと剣を抜き取る。リリオンよりも少し重たい身体を胸に抱え直して、彼女をここまで運んだ足場を走った。女の荒い息遣いが耳を打った。
最短一直線にレティシアを運んでいた足場が捻れていた。雷撃刺突の穿った傷に、入れ替わるように先端が深く打ち込まれる。足場には螺旋を描いた溝があり、肉に埋まった突起部分には穴があり、ランタンの足音が反響していた。螺旋が肉に絡みつき、また内部が空洞になっているのだ。
そして穴を伝って空洞に大量の血が流れ込んでいた。
穴や空洞が大きすぎれば強度が足りず、かといってそれらが小さければ血液が詰まってしまう。そして突き刺すタイミングが早すぎればレティシアを貫き、あるいは雷撃がそれを伝って地面に逃げる。
一瞬の時を見逃さず、精巧にして強固な大槍を作り出したリリララは喘ぐような呼吸のために口を大きく口を開き、覗いた唇や舌が乾燥してひび割れていた。
赤錆の目がランタンの背後を見る。そしてレティシアの指先がランタンの肩に食い込んだ。
「兄さま……!」
レティシアの呟きが耳に聞こえた。
目蓋の裏に僅かに残った亡者の気配が、強く。
ランタンの胸の中でレティシアが藻掻くように暴れて転げ落ち、ランタンは舌打ち混じりに振り返った。
レティシアは打ちのめされたように膝を突き、振り返ったランタンの視界に飛び込んできたのは異様な盛り上がりをみせる多頭竜の傷口だった。炭化した肉がぐずぐずと剥がれ落ち、青黒い血がぐらぐらと煮立っている。
再生は、深々と食い込むリリララの魔道が邪魔をしていた。
盛り上がりは魔道のすぐ傍にあった。頭部を再生させる時とは明らかに様子が違う。それは血の塊のままである。鍾乳石が成長するように、おどろおどろしい血の塊が傷口から盛り上がっていた。
骨も、肉も、神経も。皮膚も、鱗も何もない。それでいて再生異常を引き起こしているわけでもない。
ある明確な意志に基づいて、血の塊は不格好な粘土細工のように形を作った。
人の形。
半人半竜とでも言うべきか、竜の胴体から人間が生える。血の塊は人間の上半身を練り上げる。
まるで亡者が地獄の底から這い出ようとしているようだ、とランタンは思う。
腰から下は傷口の中に沈んでいる。逞しい胴回りと、広々とした肩幅がそれを男だと認識させる。血溜まりを掻くようだった太い腕がずるりと抜き取られ、べちゃりと嫌悪感を沸き立たせる水音を響かせて突き刺さる螺旋に手を掛けた。
「やめろっ、なんで、やだっ……」
リリララが青い顔をして、追い詰められたように捲し立てた。
傷口に突き刺さっているはずの螺旋が、まるで傷口から生えて地面に突き刺さっているように錯覚させられた。
傷口から生え、地面に突き刺さり、両手を突くリリララに繋がっているように。血の塊は螺旋の溝に指先を引っ掛けて、そこに血が流れる。青よりももっと濃い、黒い血が流れた。
魔道を連発して真っ青になったリリララの顔がさらに色を失った。赤錆の瞳が血の塊の色を映して、裂けるほどに目を見開くと血の涙が零れていた。
血の塊は力任せに螺旋をへし折ると、傷口からその先端を抜いた。先端には肉の組織が付着していて、大きく開いた傷穴は流れる黒い血によって満たされ、塞がれた。何もなかったように。
それは顔なのだろうか。
真っ黒でどろどろに流れ続けるそれがリリララを見て、怨嗟の声を上げたような気がした。
奪われた。
リリララに僅かに残った魔精が、酷く乱暴で、残酷な方法で。女が無理矢理に貫かれるように。
血の塊は人の形をしていた。だがそれだけだった。
ランタンには少なくともその形からは、特定の誰かを想像することはできなかった。
だがリリララは、そしてレティシアも、ベリレもエドガーもそれを、ヴィクトルだと誤認した。
「あ、ああ、あああああああああああっ!!」
レティシアの喉から叫び声が迸った。そこには慟哭のように切実な響きがあり、喉を切り裂かれたような悲痛な色があり、同時に憤怒の唸りを伴っていた。
多頭竜に幾度となく撃ち込んだ雷撃が、その形を作ったのだとレティシアは思ったのかもしれない。つまり多頭竜はレティシアに打たれるよりも先に、雷の痛みを知っていたのだと。兄の敵なのだという、確信を抱いたのかもしれない。
兄妹であるが故に魔道の性質が似ていたのか、多頭竜は痺れをもたらされる度に、爬虫類に成り下がったはずの知能が、それでも鮮烈に焼き付けられた強者を思い出し、人の形として再現した。
それを形作った真意を察することはできない。
だが不完全な形でありながらも、レティシアたちに動揺をもたらすには効果が絶大だった。
そして探索者たちを打ち崩すには完璧なタイミングだった。
レティシアは感情のうねりに制御を失った身体をどうにか持ち上げ、全身から激烈な雷光が吹き上がった。
レティシアはそれと戦おうとしていた。幼子が泣くような、喚き散らすような叫び声を上げ、それと呼応するように雷光はいっそうに激しくなった。
だがそれを放つことができないでいる。
粘性を帯びた黒い血で作られた表情も何もない顔が、リリララから興味を失ってレティシアへと首を回す。そこには無いはずの目があった。片目だけだったがレティシアによく似た、色鮮やかな緑色の目が黒い顔の中にあった。
――れてぃしあ。
空気の震えだった。真夜中に吹いた風鳴りが、亡霊の声に聞こえるような錯覚に過ぎない。
だがランタンの耳にも血の塊がレティシアの名を呼んだように思えた。
「―――――っ」
もうレティシアの喉から声は聞こえなかった。
髪を纏めていた金の髪飾りが弾け飛んだ。
身に持ちすぎた雷が我が身を焦がしていて、それでもレティシアは雷撃を放てずにいた。右手に提げた剣が雷を支えきれずに嘶く。鍔元にあるはずの宝石が失われていた。魔道を制御するための緑柱石を失った剣は白熱化し、そこから溢れた熱がレティシアの右手に火膨れを起こしている。
血の塊は手を伸ばした。まるで手招きするように。片目の宝石が顔の中に飲み込まれ、それは掌に浮かび上がり不吉な輝きを帯びた。
レティシアの身体から雷撃が取り上げられた。
残酷なほどに優しく。まるで火遊びをする妹を窘める、本物の兄のように。レティシアの手の中から剣が零れ、妹は兄に向かって一歩――
ランタンに、掛ける声はなかった。
ただレティシアの襟首をその紅い髪ごと乱暴に掴んだ。
覚束ない足取りのレティシアを力任せに後ろに引き寄せ、叩頭するように意識を失っているリリララの傍にまで引き転がした。
血の塊は醜悪な笑みを浮かべる。唇はなく、それはただの裂け目で、だが確かに笑ったように思えたのは白い歯があったからだ。それは体内に埋められたはずの竜骨刀の残骸だ。それがエメラルドを咥え、いとも容易く噛み砕いた。
大雷。
吹き荒れたのは奪い取ったリリララとレティシアの魔精、――激発した感情に他ならない。
最下層全てを覆った稲光と雷鳴に視力と聴力の一切を失い、水平に降る落雷をランタンは爆発で迎え撃った。
ひゅっと鋭く息を吸ったのは喉が痙攣したからか。
ランタンの身体を包み込んだ爆炎は落雷を減衰させるも、完全に防ぎきることはできなかった。筋肉が痺れによって収縮し、引き攣るような痛みが全身に駆け巡った。ベルトに挟んでいた魔精薬の瓶が割れる。
そして爆炎とランタンの身体を経由した落雷は、その背後にいるレティシアとリリララにも襲いかかった。レティシアは苦悶の声を上げ、リリララは声の一つも漏らさなかった。ただ一度大きく身体を痙攣させた。
ランタンは反射的に振り返る。
感電による筋肉の収縮が戻りきらず、全身が切り裂かれたように痛むがリリオンを探さずにはいられなかった。
リリオンはベリレによって守られていた。ランタンが爆炎を纏ったのとまったく同じ体勢で、ベリレは大の字に両腕を広げてその巨躯で雷撃を受け止めていた。
ベリレはレティシアたちと同様に血の塊にヴィクトルの面影を重ねて身動きを取ることができなかった。
だがベリレは血の塊が人の形を作るよりもずっと前から、少女を守るように仁王立ちになっていたのだろう。
右の眦から垂れた血が熱に黒ずんでいて、だが比較的軽傷で済んでいるのは手に持った長尺棍に繋がれた棘鎖が地面に垂れているからだろう。図らずも雷撃はそこから地面に逃げていったのだ。
ほぼ無傷なのはリリオンと、そしてエドガーだった。
リリオンはそもそもとして血の塊にヴィクトルを思うことなく、エドガーは動揺こそすれどそれから立ち直るのに時間を要するような若造ではなかった。
エドガーは疾風のごとき速度でランタンの脇を通り過ぎた。そしてリリオンもベリレの背から矢のように飛び出して、少女はすでに大剣と大盾を構えている。
ランタンの足が感電の影響で動かなかった。脹ら脛と太股が交互に激しく痙攣し、足底が地面に張り付いたような脚を根性で動かすと、足の裏の皮膚が引き千切れるような痛みがあった。
ランタンの行動が、二人の突撃から一秒以上遅れた。
リリオンは大剣を逆手に握り締め、盾でそれを支えていた。盾の表面に真っ直ぐ、刃が切り立った。そして少女は髪を棚引かせて、少しも速度を緩めることなくレティシアたちの方へ向かい、更なる加速をもって駆け抜けた。
何かが唸りを上げて恐ろしい速度で近付いてきていた。
リリオンはそれにいち早く、――ランタンよりも早くに気が付いて、立ち向かおうとしていた。
九つ目の首。
いや、それはスカートの下に巻かれ、隠されていた多頭竜の尻尾である。
完全無傷の強固な鱗に包まれた尻尾が鋼鉄の大地を削り取り、火花と鉄粉を撒き散らしながら左回りに全てを薙ぎ払おうとしていた。誰も避けることはできない一撃だった。
「やあああああっ!」
甲高い声が衝突音に消えた。
盾に支えられた大剣は鱗を押し切ると尻尾の半ばまで斬り込み、そして真ん中から砕けた。大盾に青黒い血が撒き散らされて、表面が拉げてへこみ、リリオンの身体が押し返されて宙を舞った。
白銀の髪が宙に広がる。表情は見えず、だが血を吐いたのだろうか赤が舞っていた。手から剣も盾も零れ落ち、リリオンを打ち据えた尾が反発するように押し返される。
リリオンの身体は鋼鉄の地面に肩から叩き付けられ、人形のように二度三度も跳ね転がった。
動かなかった。
そしてランタンの動けぬ時間を動いたもう一人であるエドガーは、定位置とも呼べる正面に立ち二刀を構えた。
間髪入れずの二発目の雷撃を相打ち覚悟で切り伏せ、しかし血の塊を見せびらかすように中心に置いて再生を果たした八つの首に阻まれてヴィクトルもどきを斬ることは適わなかった。
探索者たちの中で齢七十の老探索者は最大戦力だった。その殺傷効率は他の追随を許さず圧倒的。
だがどうしても老いによる衰えは隠しきれない。探索者たちの負担を減らそうと、一人で多くの首を引きつけ続けることは老身に極度の負担を強いた。
ランタンがそれに気が付いてしまうほどの、重い疲労が老骨を軋ませていた。
だがエドガーは刀を振ることを止めなかった。
かつて探索者見習いの運び屋だったエドガーが、そうしたように。
エドガーの一刀は、まず右肩担ぎの斬り落としから始まる。
幾億となぞったその剣線は三ツ眼と一本角を一度に斬り飛ばし、次いでの斬り上げで四本角と剣牙を、横薙ぎで黒口の吐き出した火球を、袈裟懸けに四本角を、そして逆袈裟に紅眼と紫眼を斬って捨てた。
護剣五芒。
だがそれだけでは止まらなかった。
角無しはリリオンを、ひいてはその近接にあるレティシアやリリララさえも狙い、同時に黒口が再び火球を吐き出そうとしている。エドガーは呼吸の間もなく飛ぶように後ろに下がりそのまま角無しの首を落とし、背を向けたまま火球を斬り払った。
六つの首が瞬く間に再生し、また首の一つが再生した。
独楽のように身体を回し、エドガーは再び多頭竜に向き直った。骨が軋む、肉が軋む。
過去幾度となく、そうしたようにエドガーは再び前進した。
竜骨刀の二刀が同時に動き始める。
老い萎んだ身体から力を絞り出す。瞬く間に八つの首が刻まれ、エドガーは折れてしまった右の竜骨刀を血の塊に投げつけて雷撃を牽制した。
そして最後の一刀を引き抜く。
「――かあっ!」
その裂帛は己に活を入れるものだったのだろう。
多頭竜は須臾に二十を超える首を刎ねられたことで、一度ランタンへ移した警戒を、あらためてエドガーへと注いだ。
寄らば斬られ、だが遠間からの雷火さえも斬って払われる。
八つの首全てが、血の塊を包み込む蕾のように鎌首を持ち上げる。再生の手間を惜しんだのか、それとも身の内外に有する魔精の減少からか頭部は地上十メートルで顎門を開いた。
地獄が再び溢れる。
八つの顎門から吐き出された雷火は、まるで夕焼け空が雷を伴って落ちてくるようだった。見上げる天井が煌々と赤く燃え、最下層が焦熱に蹂躙される。
それはただ一人の老人を焼き尽くすために用いられた殺意の固まりだった。
捌く。まるで剣風に吹き散らされるように炎が斬られる。だが圧力にエドガーの膝が沈む、しかしそれでも真白い二刀は止まらない。
黒竜の芯骨より削り出した純白の竜骨刀が見る間に痛んでいく。
――これとも長い付き合いになる。十二本も拵えた竜骨刀も、今やたった二振りだけだ。
エドガーは黒竜を討伐して英雄と称されるようになった。滅び行く街を救うために幾千の戦士を率いて、ついにあの暴虐の権化である黒竜を討ち取った。救国の英雄だった。
――彼らに黒竜の前まで連れて行ってもらったのだ。率いてなど、決してない。
黒竜の討伐に至るまで、一体どれ程の戦士が死んだだろうか。
若くして探索者としての頭角を現したエドガーに目を付けたのは探索者ギルドだった。
ギルドがエドガーを英雄に仕立て上げた。
勇敢な戦士たちが死に、勝てる見込みのない黒竜に及び腰となった戦士たちを、再び死地に赴かせるためには英雄が必要だった。
かつて運び屋として世話になったあの探索班が未帰還となったように。
探索に失敗した場合は撤退するようにと厳命を受けていた隊長たちがヴィクトルとともに戻らなかったように。
希望を預けるに足る英雄が必要だった。望んで命を捨てさせる必要があった。
エドガーが炎を斬る。己の背にいる、探索者たちのために。
骨が悲鳴を上げ、靱帯が千切れる寸前まで伸び、絶え間ない無酸素運動に筋肉が鉄の塊のようだった。
二刀を手にしたのはいつだったか。片手では足りぬと気付いたのはいつだったか。連動する二刀は、しかしただ一つ剣線を増やすだけで手一杯だった。
退魔六芒。
炎に混じる雷が霧散する。だが未だ炎の空は厚い。
エドガーに希望を抱き、一体どれ程の戦士が死んだだろうか。熟練の探索者が当たり前のように身を捧げた。気位の高い騎士が死兵となった。若年兵が笑いながら逝った。
黒竜へと至る道に伏す夥しい数の戦士の骸をエドガーは踏み越えた。
エドガーを英雄にするために、まだ英雄ではない男を英雄だと信じて誰も彼もが死んだ。
力が足りなかったから。必要に迫られて用意された借り物の英雄だったから。
英雄と呼ばれるようになってから積み重ねられた年月によって、後悔は決して動かすことのできぬ敷物のようにエドガーの心の底に敷かれていた。エドガーは常にそこに立っていた。
あの日、あの時、あの戦場で輩の骸を踏み付けたように。
彼らの死を意味あるものにするために、彼らの信じたものを真実にするために、英雄になるためにエドガーは戦い続けた。肉体に刻まれた戦いの記憶は、古傷となって絶え間なく鈍痛をもたらす。七十年という時間が背中にのし掛かって身体が重たい。羽根のように軽いはずの竜骨刀が鉛の塊のようだ。
だが、そんなことは知ったことか。
――ベリレ。なぜあの子を拾ったのだろう。
視界の全てが赤熱に染まった。エドガーはしかし瞼を閉じなかった。ぎりぎりまで引きつけて、炎の中に手を突っ込むようにして夕空を斬り伏せて、その奥から突っ込んできた八つの首に更に一歩を踏み込んだ。
老身が限界を超えた速度で動き、爪の尽くが弾け飛び指先から血が噴き出した。竜骨刀と腕が区別を失う。五体は全て戦いのために鋭く研ぎ澄まされた。
時間を置き去りに剣閃が奔る。
斬魔八芒。
八つの首が刹那の間に斬り刎ねられて、左の竜骨刀が役目を終えた。
そしてエドガーの右から、竜の尾が紫電を纏って襲いかかった。全てはこの一撃のための布石だった。血の塊を狙えばエドガーはそれを躱せる。
だが躱せば、躱してしまっては。
雷熱に鋼鉄の大地が溶融して尾の先端は音を超える速さに霞んでいる。
エドガーが躱せば、あるいはエドガーが打ち負ければ、そのまま全ての探索者に死をもたらす形ある絶望。
だがエドガーは左の掌にそれを受け止めた。
触れた瞬間にエドガーの全身から炎と雷が溢れ、衝撃に老人の足元から左の向こう側までがひび割れ波打ち、真白い閃光と轟音の中で英雄は一歩も退かなかった。
絶望を押し止めた。
白煙揺らめき、灼けた喉が呟く。
「……やらせはせんと、言ったはずだ」
――ああ、愛おしい黄金の子熊がまた泣いている。
「エドガーさまああああっ!」
――頭を撫でて、あやしてやらねば。
エドガーの炭化した左手から、まず指が崩れた。
次回更新は25日です。
カボチャ頭のランタン02の発売日でもあります。




