103 迷宮
103
前衛特化はエドガーを筆頭にランタンとリリオン。
棘鎖付きの長尺棍を操るベリレは前衛、中衛とそつなくこなし、雷の魔道を駆使するレティシアは中、後衛でもっとも火力が高まるが、前衛でも高水準の働きぶりを見せた。
レティシアは力でこそリリララを上回る程度であるが、兄ヴィクトル仕込みの正当剣術は一級品で、手元や刀身に張り付く雷は触れるだけで相手を感電させる。そして触れずとも紙一重で躱すような真似をすれば、紫電は蛇のように飛びかかってくるので厄介だ。
もうからかわないようにしよう、とランタンは思った。
そしてリリララは対人戦闘はさておき、耐久力の高い魔物相手となると後衛に徹しなければならない。
地の魔道は非常に便利だが、その攻撃力は操った材質に寄るところが大きい。
もちろん本人の得手不得手もあるが、例えば脆く柔らかい土を操り形作ることは容易くとも、それで剣を造ったとして竜種に傷を負わせることは難しい。エドガーの程の技量があればあるいは、と言うほどだ。
迷宮路の材質は悪いものではなく竜種を傷つけることを可能としたが、それでも大量の質量と、竜種の突進力を利用して致命傷には届かないのが実情である。
最終目標相手ならば、おそらくもっと効きは悪くなるだろう。
もちろん最下層を構成する物質が迷宮路よりもリリララと適合して、硬度、靱性、重量比等々が最終目標相手に充分な潜在能力を有する一級品である可能性もあるが、そうでない可能性もある。
楽観は、捨て鉢にならない程度を維持するのが最良である。
ただでさえ負担の大きい魔道使い。その役割を土壇場で二転三転させることは愚の骨頂。
ゆえにリリララの最終目標戦での役目は徹頭徹尾、探索者たちの補助に固定される。
最終目標の姿は千差万別であるが、強い竜種は基本的に巨大である。巨大な魔物の相手をする際に足元を切り崩すことは基本であるが、その首を落とす、頭部を叩き割るために石を積み重ねた方が効率が高いこともある。
それに一人で戦うわけではないのだ。上下から同時に攻めたならば、敵意は分散される。
魔精薬を半瓶服用したリリララは、瓶に蓋をしてベルトに挟んだ。
ぺろりと唇を舐め、掌で拭い、その手を壁についた。
「ランタンっ!」
「はいっ」
ランタンは壁に幾つも生成された、小さな足場の階段を跳びはねるように駆け上っていく。
足を踏み外せば真っ逆さま、体勢を崩せば側頭を壁にすりおろされかねない。身体は斜めで、殆ど壁を走っているようなものだった。
ランタンは意識を天井近くに旋回する飛竜に向けて、けれど視線は足元に落ちている。当たり前だが地面を走るのとは勝手が違う。ちょっとだけ間隔が狭く、加速が充分に乗らない。
そんなランタンの気持ちがリリララに伝わったのか、次の足場が一つ遠くに出現した。
「わっ」
望んだ距離だが、歩幅がずれた。
ランタンはつんのめるように身体を前に突っ込ませて、無理に歩幅を合わせた勢いで股関節が痛い。しかし足場を右足に捉え、片足で全体重を持ち上げるように無理矢理に踏み切った。
足場は蹴落とされて、跳躍しても飛竜までは遠い。届かない。
だがランタンには、大気を足場とする術がある。
「うっ、らあっ!」
靴底に生み出された爆発を踏み付けて、爆風に体勢を崩しながらもランタンは真上にすっ飛ぶ。斜め前方に飛び込むつもりだったが、なかなか上手くはいかない。ランタンは当初の目標とは別の飛竜の背中に降り立った。
飛竜はぐるんと蛇のような首を翻し、鰐のような顔を背に向ける。大きく口が開かれて、そこから溢れたのは咳き込むような咆哮だった。
「え、ちょっと……」
飛竜の首に、それこそ首輪を付けるようにベリレの棘鎖が巻き付いていた。
砕こうと狙いを定めた背を彩る青い鱗から視線を逸らし、ランタンは地上で暴れる熊を見た。
当たり前だが悪意などこれっぽっちもない。おそらくランタンが背にいることも知らず、純朴多感な見習い騎士は、ただ頑張ってエドガーに褒められたいだけである。
肩から背中の筋肉がはっきりと盛り上がっていて、それがよく見えるのはベリレがすでに背を向けているからに他ならない。
「おらあっ!」
叫び声が遅れて聞こえた。
おらあじゃないよ、とランタンは思う。
絡まったランタンと飛竜の視線は、それはまるで互いに慰め合うようで、勢いよく引き絞られた棘鎖によって呆気なく散り散りなった。
飛竜の首は真横に二回転して頸椎はずたぼろにねじ切れ、しかし竜皮が雑巾のように絞られているだけなのが、さすがの耐久力を物語っている。勢いよく羽ばたいていた翼は暴れるように二度藻掻き、途端に力を失って、巨体が錐もみして落下を始める。
その直前にランタンは飛竜の背から投げ出されるように離脱した。
ランタンは左右に首を巡らせて、落下する己に狙いを定めたであろう飛竜を見つけ、これ幸いと手招きをした。
ちょっと小さく痩せているが、ランタンは小腹を満たすには丁度良い大きさをしているし、なかなか美味しそうであった。飛竜は鼻先にぶら下げた人参に食らいつくように大きく口を開けて滑空加速。
ぎざぎざの牙は恐ろしいが、まあどうにかなるだろう。弱個体の飛竜は巨体であったが、特殊な能力を有しておらず、魔道を使わなければ、火の息も吹きもしない。
あの飛竜に飛び乗って命を繋ごう。しかしどうやろうか、鼻面に鶴嘴でも引っ掛けようか。そんな風にランタンが考えていると、飛竜の口腔に紫電が飛び込んで唾液が蒸発し、舌から口蓋垂が真っ黒に焼け焦げる。
振り回した戦鎚は約束事を袖にされたように虚しく空を切って、きっと声帯も焼けたのだろう飛竜は悲鳴の一つも上げずに回れ右して去って行く。
「大丈夫か!」
大丈夫ではないです、とレティシアの叫びにランタンは思う。
レティシアの行動は完全に善意であるが、完全に裏目でもある。だが、まあしかたがない。
何せこれは連携を高めるための実戦訓練なのだから。
成功するにしろ失敗するにしろ、命ある限りそれは今後の糧となる。命を繋ぐためには、この場で失敗していた方がよいのである。
ランタンは腰を切って俯せになり、突如真横から突き出された金属の棒に鶴嘴を引っ掛けてぐるんと大車輪を一回転。衝撃に金属の棒は折れて、ランタンは再び投げ出されたが大きな弧を描いて速度は緩やか。
右に大剣、左に方盾を装備したまま両腕を広げるリリオンの胸に危なげなく飛び込んだ。
装備を含めて五十キロ有るかというランタンの小躯も、飛竜の旋回する天井近くから落下すると、途中で速度を落としたとはいえ、落下点での重量たるや半端ではない。
強靱な臂力を誇るリリオンですらそれを受け止めることは困難である。
何の強化もしていない身体であるのならば。
リリオンは戦闘前に魔精薬を一瓶服用している。
「むぐうっ!」
ランタンを胸に抱きとめたリリオンは変な呻き声を上げて、たった三歩後ろに踏鞴を踏んだだけで平然としていた。
魔精の活性化した身体は馬鹿みたいに熱っぽい。細胞の一つ一つが震え立っているようで、荒い鼻息をふんふんとならしてランタンの旋毛を揺らし、飛竜を見上げる視線がぎらぎらとしていた。
肉体の強化は十全になされていて、症状は魔精酔いというほど酷くはない。ランタンの初めてよりも余程に上等であり、それは少女の潜在能力の高さの表れだった。
ランタンは探索時、最下層に突入するときにさえ魔精薬を服用しない。
こだわりがあるわけではなく、習慣がないだけであるが、そんなランタンと行動を共にするリリオンも魔精薬を服用する習慣はなく、そういった探索者は珍しい。
最終目標と相対するのならば万全を期すのは当然のことで、金銭的に困窮するか体質的に相性が悪いかしない限り、これを使わない手はないらしい。
ランタンは魔精薬が効き過ぎる体質のようだった。半瓶飲んだだけでも酩酊状態になってしまうのは、魔精との相性が良すぎるかららしい。エドガーなどは、安上がりで良いじゃないか、と笑っていたが探索者の健康状態を管理するシュアは渋い顔をしていた。
力の制御が効かず、身体を痛める者は後を絶たない。
「ふう、ふう」
果たしてこれは力の制御ができているのだろうか。
ランタンの肋骨はリリオンの腕に抱きしめられてぎしぎし鳴っているが、落下の衝撃はまるで硝子を受け止めるように柔らかく少女の胸に溶けていった。背を叩く心臓の鼓動や頬の上気は、その状態にまだ慣れぬだけのもので適正値内であるらしい。
「リリオン、前衛交代」
ランタンはリリオンの胸から解放されて、入れ込む少女の背を宥めるように撫でたかと思うと、今度は活を入れるように尻を引っぱたいた。
「蹴散らしておいで」
「はいっ!」
エドガーが飛竜の翼を破って追い立て、地上を這う三匹の竜種が津波のように襲いかかってくる。
盾を左前に、大剣を引きずるように後ろに構えて突っ走るリリオンはその一歩目から地面を粉砕した。
鋼鉄の地面が硝子のように砕けて、破片が舞い上がったその時にはすでに竜種と肉薄している。圧倒的巨体を眼前にして、速度を緩めることはない。
がちん、とリリオンが奥歯を噛んだ音が聞こえた。
少女は竜種の鼻面に叩き込むように大盾ごと激突して、身体が振り回されたのは衝撃に吹き飛ばされたからではない。
慣性に倣うように、背後に引きずる大剣が右に大きく弧を描いて飛び出した。
その磨かれた刀身は襲いかかる竜種の首を抵抗無く両断して止まらず、大盾との衝突で脳震盪でも起こしているのかぐったりとする真ん中の胴を切り裂いて、その鋒が鋼鉄の地面に突き刺さってようやく暴れるのをやめた。
飛ぶ。
大剣が撓ったように見えた。
今度は大剣の速度に身体が引きずられたように、リリオンは地面に突き刺さる大剣を支柱に、縫い止めたそれをまさしく飛び越える。そして地を這い襲いかかる三匹目ではなく、飛来した四匹目に宙返りするような縦斬りを見舞って着地反転。
慌てて振り返った三匹目は、己がどのように斬られたかも定かではなかったのではないだろうか。飛来した四匹目が真っ二つになって地面に青い血溜まりを生み出すより先に、すでに絶命していたのだから。
三十秒に満たぬ間の出来事である。
「すげえもんだな。巨人族の血は」
「凄いのはリリオンですよ」
「ああ、悪い。そう言う意味じゃないんだ」
「はい、わかっています」
他意もなく賞賛にぱちぱちと手を叩くリリララだが、ランタンが思わず訂正した。
血は少女の内包する要素にすぎない。けれどあの身のこなしを見てしまうと、リリララがついそう表現してしまったのもわかるような気がした。巨人族が恐れられる理由を。
「魔道を教えてくれって言われてるけどよ、やっぱりあいつは肉体の強化を極めた方が絶対いいぜ。レティに妹弟子をつくるのも悪かないと思ってたけど、困ったな。ありゃ生半可に抜く術を覚えるよりも、内々で回した方が効率いいわ」
「効率?」
「殺傷効率。見りゃわかんだろ。素早く、大量に、確実に。あたしが保証するまでもねえな。まだ慣れてない分、身体が振り回されてるけど、慣れりゃおまえより強いんじゃねえのか?」
「それはないし、させないです」
「……やっぱり妹分にしてやろう。こいつを越えるのは大変そうだ。ちっ、大人げねえとも言えんのがむかつくぜ」
ランタンの顔つき、身体付きをじろじろ舐め回すように見て溜め息を吐き、リリララはどんと足を踏み鳴らした。
遅れて生み出された血溜まりに取り残されるリリオンが汚れぬように、少女の足元がなだらかに隆起して、それは湖面に浮かぶ小島のようだった。円環状に血溜まりがリリオンを取り囲み、少女は縋るようにランタンを振り返る。
「ほら、ぴょんって跳びな」
「うん!」
「大剣とか投げ寄越してくれてもいいよ」
「だいじょうぶ! すぐ、いくから!」
助走無し、両腕を振り子にすることもなく、その場で足を踏み切ってリリオンは血溜まりも竜種の死体も容易に跳び越える。着地は右足で、そのまま左足を地面に着けるときにはすでに駆けだしていた。リリオンはランタンの傍に駆け寄ると衝突寸前に急停止して、背中に垂らした三つ編みだけが少女を追い越した。
「ランタン!」
身を焦がす興奮にうずうずと落ち着かなげにしている。
「戦闘終了、よくできました。大剣しまって、汗拭いて、深呼吸」
ランタンの背を見て探索のイロハを学んだせいか少女の戦闘行動の殆どは本能に基づいているようだった。
魔精の活性化の影響もあって、より本能的になっているのだろう。ランタンが一つ一つ行動を指示してようやく、リリオンは戦いが終わったことを理解したように大剣を方盾に収めた。
だが少女の興奮は収まらない。
「あのね、あのねっ、ランタンっ、ランタンっ」
「どうした?」
「すごいのよ! 身体がねびゅんって動いて、景色がゆっくりでね、剣がぶあって、血がぶくぶくって、竜種がぎゃあって。わたしやっつけたのよ!」
「うん、見てた。すごかったよ」
「ほんとう?」
「うん」
「やった!」
声が大きい。少女の甲高い声が迷宮路にびりびり響いて、魔精結晶を回収しているエドガーたちが苦笑するような視線を寄越した。リリオンはその視線を敏感に察知して、ぐるんと振り返る。何故かぶんぶんと手を振って、レティシアだけが律儀に答えてくれる。リリオンは嬉しそうだ。
ランタンはリリオンから装備を取り上げどうにか宥めながら、小走りに駆け寄ってくるシュアを振り返った。
「多少ましになりましたかね?」
「ああ、そうだね。これは戦闘との相乗効果かな。思った通りに身体が動くことは、強い快楽だから」
思い当たる節があるランタンは、小さく頷く。
「うん、でも慣れつつあるよ。汗が多いかな」
拭ったはずの額に、玉の汗が浮いている、ランタンはリリオンの手を掴まえて少女をじっとさせるが、リリオンは犬のように頭を振った。きらきらの汗が飛び散って、ランタンは目を瞬かせる。
「水を飲んで。水分補給はしっかり」
シュアが水筒を口にあてがってやると、リリオンはそれをこくこくと飲んだ。そしてリリララがリリオンの下腹部に手を伸ばして、月のものの痛みを取るように撫でている。
三人がかりで興奮する少女を落ち着ける様子は、まさに至れり尽くせりという雰囲気だ。充分に水分補給をすますと、満足気にぷはと大きく口を開けて、そのまま口呼吸になった。
「深呼吸そのまま。自分の身体の内側、血が流れるのを意識。目を閉じろ。澱まないように、心拍数維持」
「どうやって?」
「ドキドキすることを思い浮かべてろ」
「うん」
少女は薄目を開けてちらとランタンを見て、再び閉じた。唇に笑みを浮かべて、次第に呼吸がゆったりと深く落ち着いて、激しく上下していた肩が穏やかさを取り戻す。
「――よし、落ち着いたな」
「じゃあ、もう一戦いきますか」
ランタンは少女の手を離し、外套を脱いで戦鎚と腰に差した狩猟刀をシュアに預けた。気合いを入れるように腕まくりをして、そして少女もそれの真似をする。
竜種との戦闘だけでは、経験が圧倒的に足りない。
戦闘時の一瞬、誰が何をどのように感じ、考えているのかが。
「あれ、リリララさんは僕の味方では」
「ばっか、妹の味方をするのは姉の務めだろうよ」
名前に同じ音を二つ持つ少女たちはランタンと相対して、ぎらぎらとした視線を向けてくる。リリララは半分残った魔精薬のさらに半分を服用し、残りをランタンに押し付けた。受け取ったそれを飲まず、ランタンはベルトに挟んだ。
「それにこれは連携の練習なんだからよ、お前とはさっきやったろ。よし、リリオン、やっつけてやろうぜ」
リリララはリリオンの背を叩き、少女は叩かれた勢いのままに飛びかかる。弓を引くように引き絞った左の拳が、遠慮無用に打ち下ろされた。
ぼっと前髪が吹き上がり、ランタンは辛うじて躱す。そして手首を掴まえると、まず一度少女を投げ転がした。痛みもなく転がされた少女はにこにこしている。
「薬、いや竜のお酒飲んだとき僕もこんな感じでした? そう言えば」
「まあニコニコしてたよ、気分よさそうに。似た者探索者だな」
似ているのか、となると。
ランタンはその場で跳躍して、寝転がったままランタンの足を刈り取ろうとしたリリオンの蹴りを読み通りに躱し、それをさらに読んだ少女は臥した姿勢から虎のように飛びかかってランタンの胸元を鷲掴みにして掴まえる。
それを好機とみたのかリリララが動いた。
「よっしゃ、リリオン。殺すぞっ!」
「それはダメっ!」
ランタンと二人がやりあっていると、結晶の回収を終えたベリレが当たり前にランタンの敵として参戦する。
「え、ずるい。っていうかさっきの借りを返してよ、危うく落下死するとこだよ」
「知らん話だっ!」
「ばーかっ、恥知らず、むっつりすけべ!」
「なんだとう!」
気が付けば三対一になり、そして遂にはレティシアさえもがランタンの敵に回った。
「当家のものを愚弄して無事にすむと思っていたら大間違いだ。ふふふ、ネイリング家の力、目にもの見せてやろう!」
からかったことを根に持っているのかレティシアは不敵に笑っている。
剣術ばかりではなく格闘術も修めているらしいレティシアは腰布が飜るのも遠慮無用に、ランタンに蹴りかかってきた。ランタンは覗き見る暇もなくそれを躱し、電離した大気の焦げ臭さに戦慄した。魔道もありか、とリリララが呟く。
「当家のって、リリオンは僕のです」
「えっ、ランタン、わたし――!」
「あ、うそ。言葉間違えた」
「――ランタンっ!」
裏切られたようにリリオンは怒鳴り、ベリレを跳び越えて襲いかかってくる。
ランタンは大慌てでそれを避けて、傍観しているエドガーを振り返った。
「味方してください」
「いや遠慮しておこう。ここまで来て馬に蹴られたくないからな、自業自得だ」
素っ気なく言ったエドガーは明らかに笑っている。
苦虫を噛み潰してリリララからもらった魔精薬を全て呷り、拗ねるような淡褐色の瞳に見つめられランタンは頬を綻ばせた。
わたし怒ってるのに、とリリオンが頬を膨らませ、ランタンは堪らない気持ちになった。
「――どうして笑うの?」
「僕に勝てたら教えてあげる」
ランタンはそう言って、一番冷静に機を窺うベリレの眼前に空の容器を放り投げ、まずはリリララに狙いを定めた。
魔精薬をざぶざぶと服用することに理由は幾つかあったが、その最大の理由は魔精の活性化した肉体に慣れるためではなく、ついに出現する魔物ばかりではなく探索者の身体にも魔精減衰の影響が出始めたからだった。
内包する魔精が奪われる。
ただ進行するだけで疲労が余分に折り積もり、戦闘時に身体を振り回せばいつもより重く、回復も遅い。そして探索者ですらそうなると、攻略の最後尾を付いてくる姉弟二人は余計に辛い。
ただでさえ金属の室の冷気が蔓延る迷宮は、気が付けば身を寄せ合わさなければ眠れぬほどに温度を下げて、壁の表面にはうっすらと結露が見られるところもある。そして連携の確認も程々と言ったところで竜種の出現がぱったりと止み、迷宮路は広々として、天井は霞むほど高く、左右の壁は遠くなった。
探索者たちの足音が失せたのは、立ち止まり振り返ったからだった。
「申し訳ありません……、体調を管理すべき私が」
「……は……は」
青い顔をしてシュアが、言葉すらなくドゥイの足が止まった。
鍛え上げられた探索者たちとは違う、姉弟はレティシアのためにやってきた普通の人だ。
シュアは騎士団付きの軍医であるが地上の戦場には出張っても迷宮には降りてこない。ドゥイに至ってはシュアの口利きによってネイリング家に雇われる雑用夫にすぎない。
それを思えばよくぞここまで堪えたと思う。
戦闘は探索者の役割で、二人は後ろで守られている。二人は命を探索者に全て委ねていると言っても過言ではない。生き死にを自分で決めることができない状態というのは、それは恐ろしいものである。
もしかしたら、万が一、などという気持ちは常に付きまとい、いずれ戦場に立つと心に決めた探索者見習いの運び屋であっても、守られている間に心が折れることもある。
そういったものをおくびにも出さなかった。辛いとも苦しいとも言わず、何だかんだとリリオンの告白にさえ、怖いとは結局口にせず、そして今、探索者の身体からすら魔精が奪われるこの異常な場で、口にするのは自省である。
この姉弟をランタンは気に入っていた。
真面目で黙々と働くドゥイも、挑発的な言動とは裏腹に理知的で優しいシュアも。
ランタンはがさごそと荷物を漁り毛布を引っ張り出すと二人の肩にかけてやった。戦鎚で壁を砕き。爆発で程良く熱したそれを懐に放り込む。白む息を吐く二人は、腹にそれを抱えて頬を緩める。
「ここいらが限界か、いよいよ底だ。最終陣営はここに張る――」
言いながらエドガーが竜骨刀をずるりと抜いた。そして常在戦場の老探索者は珍しく準備をするように呼吸を整えて、下から上に一刀を振るった。地面から霞む天井の先まで、大気が斬れた。
「まあ、こんなものか」
大気どころか空間が断裂したのかもしれない。目には見えないが、エドガーの剣が通った跡に何かしらの断層が生まれていた。ランタンは目を瞬かせ、ふと気が付く。
減衰の影響が、薄まっている。それはいつかランタンの爆発を斬ったあの一刀と同種のもの。
エドガーが斬ったのは魔精、いや魔そのものである。
ランタンが振り返るとふっと姉弟の顔つきが和らいでいて、二人は肩を並べながら事前に用意しておいた、非探索者用に薄めた魔精精製薬を重湯のように啜っていた。
「さあ、防げるのも一時のことだ。その間に陣営の設置を済ませるぞ」
刀を収め、エドガーが号令を掛けた。今までのようにただ毛布を敷いて、寝転がるだけではない。大きな天幕を張るのだ。
ここを拠点とし体制を整え、おそらく最下層、最終目標に臨むこととなる。
「ランタン、見えるか?」
リリララがランタンを呼びつけ、地面を指差す。
ランタンはただ黒々とした地面を見て首を横に振り、今度はリリララが爪先で描いた模様を清書するように鶴嘴で地面を引っ掻いた。描いたのは木の根のように幾つも枝分かれし、放射状に広がる紋様だ。
ランタンはその中心に立ち、リリララは離れ、他の皆々も遠巻きに眺める。
紋様はリリララが魔精を通す際に意識する地脈の流れを可視化したものであるらしい。
ランタンは爆発を起こせるが、それは肉体とその延長にのみ発現させられる技である。腕の延長である戦鎚や、皮膚の延長である馴染んだ服や靴は発現可能部位であるが、まだ僅かに馴染まぬ狩猟刀はそれを破壊しかねないので試す気にはならない。いずれは狩猟刀にも爆発を起こせるようになるのだろうが。
爆発は、魔道である。
その意識を持てば、あるいは肉体から離れたところに、それを発現させることができるかもしれない。言ってしまえば戦鎚さえ、ランタンは肉体の延長と感じていても、実際にそれは手に持った無機物でしかない。血の通わぬ道具である。
手に持った戦鎚に爆発を起こせるのならば、肉体に触れる、この大気の隅々に爆発を発現させられぬ道理はない。
魔精を抜く。足元の肉体が解け、血管や神経の束が絹糸のように解け、それこそ根のように地脈に絡みつき一体化するように。そこに血が流れ出すように。
どっ、と鈍く巻き起こった爆発は果たして掻き傷を沿うように破裂しただろうか。ランタンは諦め半分にリリララを見て、兎の少女は首を横に振って肩を竦めた。ランタンを手招きして呼び、入れ替わりに絨毯を抱えたリリオンとベリレが模様の中に駆け込んだ。
「強弱は上手くなったけどな。まあ、一週間かそこらでできたらあたしの立つ瀬がない。最終目標戦では、遠距離攻撃は諦めろ。うん、でも地面が暖かくなったからよしとしよう」
素手では触れないほどに熱くなった地面に、それが冷めぬ前に年少二人が手早く絨毯を敷いている。それが敷き終わるとベリレは、エドガーが馬鹿みたいな投擲能力で壁に打ち込んだ楔に紐を通し、空間を遮る幕を広げる。それは特殊な布で、魔精結晶の保存袋に使われるものと同種のものだ。
リリオンは寝床となる毛布の準備をしている。ランタンは戦鎚を戻して、膝を突いてそれを整えるリリオンの頭を撫でた。リリオンが振り返って頬を緩め、またせっせと毛布を整える。ランタンが邪魔にならぬように、優しくもう一撫でするとエドガーに呼ばれた。
「ランタン、付いてこい。斥候だ」
「はい」
ランタンが頷くと、火の用意をし始めていたベリレが立ち上がる。
「エドガー様、俺も――」
「いや、二人がくたばっているからベリレは陣営の設置を頼む。数が少なくなると無理をしたがるからな。探索者でもなく、ここまで来たのだ。それにまだ帰りにも働いてもらわねばならんからな、今ぐらいは楽をさせてやらねば」
「……はい」
「最終目標が確認されたら、どうせ見に行かねばならんしな。今回は留守番だ。それに万に一つ魔物の出現がないわけでもない」
「そうそう、お嬢たちを頼むぜ」
リリララが斥候に行く気満々に、ぴんと耳を立てる。
しかしそんなリリララにもエドガーは首を横に振った。
「お前も留守番だ」
「いや、斥候っつったら、あたしでしょう」
「ここまでだいぶ無理をさせたからな、お前の回復を待って底に入る予定だ。身体を休めておけ。役目はそうだな、あれの目付だ。レティシアの料理に口だけ出して、食える物を作らせておけ」
「あー、はい、了解しました。けどそりゃ休めねえっすよ」
「聞こえてるぞ、まったく。口出しもいらん。私一人でやってやるさ」
レティシアはぶつくさ言って、リリオンは黙々と自分の仕事をしていた。
「……リリオン、それ終わったらレティシアさんのお手伝いね」
「うん。ランタン、いってらっしゃい」
「いってきます」
リリオンは振り返って、小さく手を振った。そしてまた自分の仕事に戻った。
皆が顔を寄せ合うように、満開の花のように丸く寝床をつくって、そしてそうやって眠るのが当たり前だというように一カ所だけ二人でいっしょに寝られるようにと、縫い合わせた大きな毛布を用意している。
ランタンが身体を冷やして戻ってきても、平気なように。
エドガーはすでに進み始め、ランタンは慌ててその背を追った。
一歩進むごとに迷宮は寒気を増して、凍り付く金属が悲鳴を上げ始めていた。




