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カボチャ頭のランタン  作者: mm
04.Value Of Life
100/518

100 迷宮 ☆

100


 レティシアが苦しんでいるのはわかるのだが、それに触れることができなかった。

 黒曜石もかくやという彼女の肌は、まさに高潔で、硬質な精神の表れなのだと思う。彼女の芯の硬さは、けれど壊れる時の脆さの表れに他ならない。そして黒曜石は砕ける時に、鋭く尖り、鋭利な刃物のごときとなった破片を、彼女は彼女の矜恃によって身の内に押さえ込む。

 あれからのレティシアは出現する竜種の尽くを己が雷撃によって仕留めて、取り繕った明るさに前進する姿は痛々しい。人なりし竜種の死骸は炭化どころか蒸発さえして、散らばった彼らの装備に彼女の兄の痕跡は微塵もない。

 その時に、彼女は自分に言い聞かせたのだろう。

 彼女の前進は、すでに独断専行である。エドガーはもちろん、皆々はレティシアを後ろに下がらせようとしたし、実際に非戦闘職二人の傍に置いたのだが彼女の魔道に距離などは関係ない。非戦闘職二人にレティシアを止める術などないのである。

 だがそれだけ強力な魔道を連発すれば、どう足掻いたって肉体に影響は出る。こめかみに浮いた冷や汗や、形のいい唇から聞こえる呼吸は、無理やり肺を押さえつけて平静を装っているに過ぎない。顔色を窺うことも出来ぬ黒曜石の肌は、だが今は泥濘の雰囲気すら浮き出ていた。

 そんな顔色の中で緑の瞳だけが、使命感に煌々としていた。レティシアはふっと疲労を吹き散らすような強い呼気を吐き出して、エドガーを睨み付けた。エドガーの後ろにはランタンとリリオン、そしてベリレが困ったように佇んでいた。

「何故ですか。最終目標が今もなお力を蓄えていると仰ったのはあなたでしょう。ならば今は多少の無理をしても前に進むべきです。手が付けられなくなる前に」

「多少無理をした程度では誤差のようなものだ。それに最下層に着く前にこちらが参ってしまっては、その強行軍に意味はない」

 明日で迷宮十四日目。一週間ぶり、二度目の休養日であるのだが、レティシアは取り付かれたように先を急ぎたがった。彼女の言い分もわからないではない。ただでさえ強敵である竜種の最終目標。それが刻一刻と強さを増すというのならば、先を急ぐのも一手である。

 戦闘はレティシアが孤軍奮戦し、ランタンたちにある疲労はただ進むことだけによってもたらされたものだから、まだまだ余力があった。

 だが、きっと彼女はそれを認めないが、どう見てもレティシアは疲れているし、すでに多少の無理を超えている。

 レティシアは自分を勘定に入れていない、自分を見られていないのだ。

「レティシアさん」

 ランタンはエドガーの背から、そっと声を掛けた。緑の瞳がすっと細められてランタンに向けられた。

「そんなに焦らずとも、今は休みましょう?」

「焦らずになどいられない。脅威は少ない方がいいだろう」

「弱い敵に会うために、こちらが疲れて弱くなっては意味がないですよ」

 緑の瞳が色を濃くした。ランタンは表情を変えずに、小さく、ほんの小さく唇を緩める。我ながら性根が悪い、と思う。どうやら今の言葉のどこかが彼女の繊細な部分に触れたようだった。黒曜石に入った罅をするりと抜けて。

 ふうむ、と考えを巡らせて、隣からすっと動いたリリオンに呆気に取られた。

 リリオンはレティシアの手を取った。いつもみたいに顔を近づけて、淡褐色の瞳が真っ直ぐに緑の瞳を覗き込む。少女の声はいつだって甘い。それはほっとするような、砂糖みたいに真っ白な優しさなのだろうと思う。

「ねえ、レティシアさん。わたしも、ランタンも、みんなもレティシアさんの力になりたいの。わたしは、ランタンに守ってもらってばっかりだけど、レティシアさんが剣を探しに行くってそう言った時、あなたの力になりたいって思ったのは、そのことだけじゃないのよ」

 大切な兄を喪ったレティシアの力になりたいとそう思った。

 息を呑み、唇を噛んだ。レティシアは優しい言葉に傷ついているようだった。

 ランタンはつい思わずリリオンの外套を引いて、レティシアは後悔を滲ませながらリリオンの手を解いた。リリオンは妙に大人びて、それでいて納得するような困った表情をしていた。ちらりと淡褐色の瞳がランタンを見て、ランタンが不思議がると小さく笑った。

「すまない。ありがとう――」

 レティシアは言って、エドガーに視線を向ける。鼻から大きく息を吸って、落ち着きを取り戻したような静かな瞳をエドガーに。

「申し訳ありませんエドガー様。ならばわたしは一人で先行しましょう。皆は休まれるとよろしい」

「よろしい、ではない。まったくお前は、――心を見せるのがそんなに怖いか。……お前の魔精の流れは頑なだな。なかなか身から離れようとはしない、贅肉のようなものだな。ああ、そう言えば魔道の修得にも難儀したのだったか。よく雷撃を飛ばせるようになったなあ」

「――心を、読んだのですか」

「そんなことはせんし、そもそもできんよ。魔精を読んでの心聴心眼など、戦闘勘に後から理由を付けるためのものだ。しかしなんだ、読まれて困ることでも思っていたのか」

「そんなことは――」

 リリオンが大人びた表情を見せたせいか、ちょっとだけレティシアが子供じみて見えた。レティシアは口を噤み、エドガーは老人らしい溜め息を吐き、ベリレがおろおろとしていて、沈黙を破ったのは会話に参加していないリリララだった。

「おう充分だ。二人とも離れてな」

 声の方へ視線を向けるとリリララはぴんと耳を立てて、兎の少女の指示によってシュアとドゥイが小走りに小さな背中の後ろに避難した。姉弟がいた場所には何かが、目を凝らすと地竜の金属質の鱗が散らばっていた。いや、綺麗に並べられている、まるで毛足の長い絨毯のように、幾つも重なって厚みがある。

「なにを」

 そう呟いたのは誰か。

 ランタンとリリオンが揃って小首を傾げて、レティシアすらもが怪訝そうにリリララを見ていた。

 リリララの四肢を細く締め付ける鱗皮の装備が青い燐光を発した。魔道の行使を示す発光に、ここまでリリララに一つも魔道を使わせなかったレティシアが呆然とするように名を呟いた。

 その瞬間、金属質の磁性体である地竜の鱗がどろりと溶けて地面に広がり、その金属の水溜まりは地面に浸食するように深さを増して、波打つように一気に迫り上がって形を作った。

 それは直方体から始まる。上面の中心が見えざる手によって押さえつけられたように窪み、地面に接地する下面その四つ角に足を造り直方体を、いや箱を持ち上げる。

 その角張った箱は、内も外も次第に角を失い丸みを帯びて、箱を持ち上げる足さえもが猫足のように形を変えた時、リリララの顔色ははっきりと真っ青だった。そしてその箱を目隠しするように、すっと壁が。

「リリララっ!」

 何の目的か、しかしその魔道に呆気に取られる中、いの一番に反応したのはレティシアだった。彼女はリリララに駆け寄ると膝をつき項垂れるリリララの身体を胸に抱きしめて顔を覗き込んだ。ランタンとリリオンが揃って彼女に駆け寄ると、リリララは赤錆の瞳で悪戯っぽく笑った。

「お嬢。お嬢が一人で先に行くんなら、あたしも付いてく」

「リリララ」

「大丈夫、あたしはレティを一人にしないよ。けど、ちっと疲れたから今日明日は休みてえな」

「……わかった」

 レティシアは焦っていても、結局はそう言える人間だ。頓着しないのは自分のことで、気配りのできる人であることに変わりはない。

「じゃあ、ランタン。水、張って一発かましてくれ」

「はい。……はい?」

 リリララが急にそんなことを言ってランタンは反射的に返事をしたが、意味がよくわからなかった。ランタンは思わずリリオンの顔を仰ぎ見て、少女もまた理解はしていない。そんな二人にリリララが唇を歪めて、当たり前のように呟いた。

「はい? じゃねえよ。入りたいって言ってただろ」

 一番風呂はくれてやるからよ、とリリララは言った。




 迷宮に生み出されたその空間は完膚なきまでに風呂であった。

 迷宮の構成物質である黒鉄だけではない、やや曇った風合いの銀の壁は地竜の金属鱗と黒鉄の合金である。空間の中心に生み出された浴槽は、肌に引っ掛かることのない滑らかな肌触りをしており、濡れると何とも柔らかい質感を帯びた。

 内に溜めた水はランタンの爆発によってやや熱めの温度になり、それを保つのは浴槽の底に仕込まれた熱源だった。飛竜の可燃液による煙のない、多少の水気にも消えぬ青い炎だ。

 浴槽は総金属造りでありながら、炎の熱が全てに伝播し、触れられざる浴槽に成り果てることはなかった。黒鉄と鱗の合金は、一度全て混ざり合ったように見せて分離しているところもある。所々によって熱の伝導率が違い、底面の熱が側面を上がってくることはなく、また浴槽は二重構造になっていて内に座り込んでも尻を火傷するようなこともない。

 ランタンは感嘆の吐息を漏らした。

 二重構造の内部を湯が巡っている。内部に何かしらの細工があるのだろう一方向への水の流れが生み出されていて、浴槽内側下部に空いた小さな穴から湯が吸い込まれて、対面上部に造られた耳を寝かした兎の細工、その口から流々と溢れていた。

 湯船の縁に腰掛ける兎の細工は、下半身が魚だった。ランタンはその細かな鱗に触れながら、内側に濾過装置らしきものが組み込まれていることに気が付いた。指先に曝気(エアレーション)のような気泡が弾ける振動が伝わる。

 リリララのあの青い顔も頷ける、恐ろしく精緻な魔道細工だった。

 ランタンは興味深そうにその造りを指先に確かめていた。

「ねえ、どうして見てくれないの?」

「見てるよ」

「お風呂じゃなくて、わたしを」

 ねえねえ、とリリオンがランタンの肩を揺すった。ランタンはしばらくそれを無視していたが、リリオンはしつこい。ランタンは縁に齧り付くように頬を押し付けて、一瞬の逡巡。そして諦めたように溜め息を吐き出す。

「リリオン、肩までつかりな」

 そう言って振り返り、ランタンは視線を逸らした。

 リリオンは四つん這いになるみたいに前のめりで、鎖骨が湯面より上にあった。首から伸びる背骨のラインが美しく弓形で、丸い尻がちらりと見えた。ランタンはお湯を掻き回してから、手を伸ばしてリリオンを湯に沈める。少女がすっかり肩まで浸かると、ようやく視線をそちらに向けた。波打ち、光を反射する鏡面状の湯面に安堵する。

 リリオンの鎖骨はくっきりと浮かび上がり、けれど少し前まで同じように浮いていたはずの胸骨の陰影がすっかりと見当たらなくなってランタンは戸惑ってしまったのだ。

 胸骨を埋もれさせた、まだ幼くともはっきりと柔らかそうな胸の膨らみに。

「ほら、見てるよ。なんだよ」

 ランタンは戸惑いを隠すように不遜な感じで呟いて、近付いてくるリリオンを押し返した。

「なんで」

「広いんだから、別に寄らなくたっていいでしょ」

 ランタンはじゃぶじゃぶと顔を洗って、濡れた手で前髪を後ろに掻き上げた。丸い額が僅かに色づいている。

 住み家の浴槽とは違い、リリオンの足が伸ばせて余り、二人が重なり合うことなく隣に並ぶことができる。なかなかに豪華な浴槽は、つまりリリララの中にある浴槽のイメージ、ネイリング家に備えられているのだろうそれの豪華さを表すものなのだと思う。

「あー、あったかいなあ」

「うん、レティシアさんも入ればいいのにね」

 リリオンは湯に浮かべたオレンジを手に取って、すんすんと匂いを嗅いでいる。古くなったオレンジをなんとなしに浮かべたのだ。どうしてもある浴槽の金臭さが、気が付けばすっかりと消えていた。

「さすがに僕と一緒にはね……、あとで入るでしょうよ。リリララさんあたりと」

「どうしてランタンも一緒だとダメなの?」

「普通は男と女は一緒に風呂には入らないんだよ」

「そうなの?」

「そうだよ。だから……」

「だから?」

 ランタンは鼻下まで湯に浸かってぶくぶくとして、リリオンはその顔を覗き込んだ。長い髪をタオルで纏めて、それでもしまいきれない銀の髪が零れている。淡褐色の無邪気な瞳に見つめられて、ランタンはぶくぶくしながら呟いた。

「……なんでもない」

 リリオンはランタンの隣に座って、どうしてか触れ合う足を絡ませたがる。上にのし掛かると言うよりは下に滑り込んで、もしかしたらこのまま身体を滑り込ませてランタンを膝の上に抱こうとしているのかもしれなかった。湯の中で皮膚表面に微細な気泡がくっついていて、触れ合うと異様に艶めかしくぬるりとする。

 ランタンは浮力のある水中にあって重心を落とし、その小さな尻が底面から浮くことはなかった。リリオンが素知らぬ顔を装いながらも、次第に乱暴にぐいぐいとランタンを押したり引いたりして、しかしランタンが頑ななのでやがて諦める。

「……レティシアさんは、少しランタンに似てるね」

 リリオンが急にそんなことを言った。

「どこが」

「つらいとか、くるしいとか、言わないところ」

「そうかな、そんなことはないと思うけど」

「ほら、すぐそう言う。レティシアさんもそうよ。ううん、レティシアさんの方が素直だわ。ランタンは嘘を言うけど、レティシアさんは黙るんだもの」

「嘘なんか言わないよ」

 ランタンがつんとして言うと、へえ、と嗤うような声があった。

「じゃあ、さっきまでベタベタしてたのに、リリオンに素っ気なくするのは何でだ?」

 まだ顔色の悪いリリララがにやにやしながら浴室の中に入ってきた。手袋やタイツは脱いで、けれど服を着ている。

 床に跳ねた水の冷たさを踏んで顔を顰めて、兎人族の軽やかな身の熟しで浴槽の縁に座って湯の中にするりと足を入れた。冷えて白い足の膝頭が火を付けたように赤くなった。

「なあ、なんでだ」

「素っ気なくしていませんよ。あ、お風呂先にいただいてしまってすみません」

 ランタンは身体を隠すように膝を抱えて、あからさまに話題を逸らした。

「とってもあったかくて気持ちいいわ、足だけじゃなくてちゃんと入ったらいいわ。そうすればランタンがくっついてくれるかもしれないもの」

「素直なのも考えもんか……、いや、ううん。まあいいか、喜んでもらえてよかったよ。こっちの都合もあってのことだからな」

「レティシアさんのことですか」

「んー、それもあるが、どうだろうな。あたしの都合さ。迷宮内じゃなかなか込み入った話はできないからな」

 浴槽を真ん中に、視線を遮る四方の壁。出入り口の扉があるが閉ざされ、通風口がちらほらとあるがどれも小さく内部に溜まった湯気がまるで濃霧のようにも思え、兎の口から吐き出され続ける水音が断続的に響く。声を落とせば、外にその内容が伝わることはないだろう。

 そわそわするような緊張が感じられて、自然とランタンとリリオンの背筋が伸びた。

 そのことにリリララが慌てて手を振った。

「ああ、やめてくれよ。まあ、なんだ。ただ、あたしの話を聞いて欲しいんだ」

 リリオンはリリララを見上げて、結露した湯気か、それとも汗か。ほっそりとした喉元を一粒の滴が滑り落ちて、湯面を揺らした。

「あたしはさ、孤児だったんだ。悪いなランタン。お前とエドガー様の話を聞いちまった。記憶がないとかって」

「ああ、……あの時か。特に隠すような話でもないのでお気になさらず。その耳には助けられていますし」

「自慢の耳なんだ。これをくれた親の顔なんて知らないけどな」

 リリララは平然として言う。

「気が付いた時はゴミを漁って暮らしてた。それも、まあまあ幸せだったよ。けどなたぶん四つか五つの時に、あたしの悪運も尽きた。正確にはわからないが、たぶん反探索者ギルド同盟の、それに類する襲撃者(レイダー)の集団に回収された」

「回収、ですか」

「珍しい話じゃない。ゴミ漁りのガキなんて、大抵の奴らにとっては物も同然だからな。世間と繋がりのないガキを掻き集めて、ちょっと教育すりゃ身元不明の襲撃者の出来上がりだ。……それにしてもあたしを回収した集団はなかなかの糞野郎どもでね。何人居たかな、たしか二十かそこらの孤児を集めて、まず最初にされたことは手首を切ることだった」

 血が流れ出る感覚は、魔精が抜ける感覚に似ている。

 血液は魔精の溶媒であり、魔精は意思の溶媒であり、ゆえに死に抗うとき魔道は発現しやすい。

 血が止まらなければ人は死ぬ。だが孤児なんて山ほど居るから、どれだけ死のうが壊れようが、そいつらにとっては知ったことではない。二十の内の一人が、死に怯えて魔道を発現させれば儲けもの、そうでなかったら再び回収すればいい、というわけだ。

「結果はご覧の通りだ。あたしは生き残って、暗殺者の真似事をさせられるようになった。あたしの魔道は非武装を装えるし、物質的な魔道は魔精の干渉を受けがたい。目標にはなんってったって竜の血が混じってるからな」

「それって……」

「お嬢じゃないぜ。それの兄君、あたしの主人、ネイリング家の押しも押されぬ筆頭跡取りのヴィクトル様よ。八つの頃さ、あたしはやせっぽちで出自も出自だから物乞いを演じるのもお手の物だ。あの人は薄汚いガキでも分け隔てない人だったから近付くのは容易かった」

 結末にはらはらするように、リリオンが湯の中でランタンの手を握った。

「仕込みは腕輪で、それを命に届く針に変えるまで、あの当時でも一秒かからなかった。毒も染みこませてあったから、ちょっと突けばそれで済む話だったんだが、気が付けばあたしは失敗してた。ほら、見ろよ」

 リリララは襟首を引っ張って、くっきりと浮き出た右の鎖骨の、その傍に傷跡があった。

 おそらく斜めに、胸の谷間を横断して脇腹まで抜けているのだと思う。リリララはもっと胸元までを露わにしようとしてランタンが慌てて視線を逸らすと、少年の見ぬ所でリリオンと目配せを交わして笑いあった。

「やったのはお嬢だ。肋骨に守られたし、ついでに雷で焼かれたから出血も少なかったらしいが、まあ問答無用だった。死にたくなるような訓練の果てに送り出されたあたしは貴族なんてぬるま湯に浸かってる甘ちゃんだと思ってたが、レティは本物の竜だった」

 リリララは襟元を正し、懐かしむように目元を緩める。少しの沈黙があり、リリオンが湯面を揺らす音が響いた。

「それからあたしはヴィクトル様に拾われて、ネイリング家で侍女をやることになった。意味不明だよな、自分の命を狙った暗殺者を傍に置くなんて。当人がよくても、普通は家がそれを許さない。でも、それが許されるだけの才覚があの人にはあった。口が上手かったわけじゃないが、この人が言うんならそうなんだろうって思わせる人だった」

 そんな人だからこそ、誰も探索に失敗するなんて思いもしなかったのだろうし、未だにその哀しみから抜け出せないでいる。リリララはヴィクトルに拾われたことを誇りに思っているのが、口調から見て取れた。その才覚に、いやその人に認められたのだということに。

 ゆらゆらとリリララの足が湯に漂う。湯面に立った波に揺られるように。

「ねえ、侍女って何をやるの?」

「んー、まあ身の回りの世話だな。と言っても最初に仰せつかったのはレティの魔道の先生だけどな。レティに宿った雷は強力で、あの子はそれを制御しきれていなかったから。あたしはあの子の雷を一発食らったおかげか、レティの魔精がよくわかった。本当に雷雲みたいに、レティシアは嵐みたいな気性をしてたし、まあそれは今もか」

 それからリリララはレティシアの昔話をよくしてくれて、その中にはいつだってヴィクトルが居た。ヴィクトル様がとか、あの人がとか、そうやって言葉にする度にリリララはほろ苦い笑みが口元に浮かぶ。

 リリララとレティシアは、ヴィクトルが未帰還になってから互いに慰め合っていた。わざと平気ぶって、互いに互いを支えることで、歪に自立していたのだろう。

「あたしはさレティの先生やったり、暗殺諜報(そっち)の方にも詳しかったから、なんだかんだとヴィクトル様の傍に置いてもらえもした。でもさ、あの人の世話をするのは地上でのことで、あたしは一度もヴィクトル様と迷宮に行くことはなかった。――今でも思う。あたしが付いていけばもしかしたら、ってな。一緒に迷宮に行った隊長どもの実力は折り紙付き。結局は留守番くらったことが悔しくて、それを口に出せなかったことへの後悔だ」

 リリララは前屈みになって湯面を一撫でし、ランタンの首筋に触れた。舌を這わせ、もうすっかり何もない傷跡に、そっと。

「あたしは素直じゃなかったから、感謝はあっても口を開けばいつでも憎まれ口を叩いていたような気がする。ヴィクトル様はそれを聞いて笑ってた。あたしは、――お前らみたいに素直になりたかったんだ。素直になって、あの人の役に立ちたかった」

 リリララは細めた視線でリリオンを見た。言葉を素直に受け取らないランタンに何度も、あなたのためなら、と繰り返した少女を羨むように。

「愛していたの?」

 リリオンの言葉を、ランタンは一瞬なんと言ったのかわからなかった。

 リリララもきょとんとして、それから笑って頭を掻いた。

「それはもちろん。命の恩があるし、その後も世話になったからな。命の恩は結局返せず終いだ。あーあ、やんなるぜ」

 リリララは湯の中から片足を引きずり出して膝の上に濡れた足をどさっと置いて肘を突いた。彼女の言う愛が、いわゆる男女なのかは不思議とわからなかった。

 リリララはすっきりしたよう一度背伸びをして、ありがとな、と一言言った。

「さあて死んだ人のことはもういいんだ、あたしは。……リリオンはさ、レティがランタンに似てるって言ったよな」

「うん」

「でも、あたしはちょっとヴィクトル様に似てると思った。一目見たときから、たぶん。なんつーか」

 ああ言いたくねえなあ、とリリララははっきりと聞こえるように呟いてから。

「こいつにはちょっと目で追ってしまうような魅力がある。あたしは弱い女だから、強い男を見ると頼りたくなるんだ。レティには少しだけそのことが我慢ならなかったようだけど、レティを頼みたい」

「リリララさんから見て、レティシアさんは何を焦っているように思えますか?」

「んー、一番にあるのはやっぱりヴィクトル様のことだと思うんだよ。哀しみが原動力の一つだってのは間違いないと思う」

「でもある程度までは普通に、というか焦りを隠していたじゃないですか。きっかけは何でしょうね」

「んー、レティは弱音を口に出すのがあんまり上手くないから、溜め込みすぎてこんがらがっているんだと思うんだよ。余裕があれば無理に破裂させてもいいけど、状況が状況だからな。……あたしはさレティがお前に、泣き言を漏らしたって聞いて少しだけほっとしたんだ。まあ少しやっかみもしたけど。ああ、ようやくこの子も弱音を吐ける男に出会えたんだって」

 リリララは濡れた手でランタンの髪をくしゃくしゃと撫でて、ランタンはレティシアの心を思い浮かべた。

 たぶんリリオンの言うようにランタンとレティシアは似ているのかもしれず、それゆえにランタンは後一歩の踏み込みをどうするか迷っていた。内に隠している弱みを曝かれるのは、それなりにきつい。矜恃に土足で踏み入るような真似は。

 ランタンとリリララが悩んでいると、湯だったように肌を赤くしたリリオンが不意に立ち上がった。ランタンは目を閉じて、目蓋の下で眼球を動かし、そして開いた。視界をリリオンの鎖骨から上に固定する。

「わたしも、みんなに言う。だからレティシアさんにも言ってもらう。何を考えてるのか」

「何を急に」

「やっぱりランタンはレティシアさんに優しくしたいんだわ。でもランタンは優しいから、レティシアさんをできるだけ傷つけたくないのよ」

 リリオンはランタンの肩を掴まえて、ぽっと火照った額を擦りつける。

「だからわたしが、できることをするのよ」

「――わかった。じゃあ百まで数えてから上がろうか」

 ランタンはリリオンの腰に腕を回し、抱きかかえるようにして身体を引き寄せる。

「――頼むよ、二人とも」

 リリララは言ってそこから離れ、二人はたっぷり百秒、互いの体温が溶け合うまで身体を温めた。


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