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カボチャ頭のランタン  作者: mm
01.Take Me By Storm
10/518

010 ☆

010


 ソファに座って眠っていたランタンの瞼が薄く持ち上がる。朝が来て自然と目が覚めた。中途半端に開いたその瞼の下で、眼球が蜥蜴のように辺りを見渡した。

 リリオンがベッドの上で眠っている。ベッドが小さいのか、リリオンが大きいのか。リリオンは膝を抱えて丸まり、解いた髪の中に埋まるようにして寝息を立てていた。

 ランタンはソファから身体を起こすと、四肢の末端に残る擽ったい痺れにも似た眠気を振り払い、ぐっと身体の筋を伸ばした。欠伸が零れて、眼尻に一粒の涙が溜まり、それを指先で払い落とす。

 水筒から水を煽り、ベッドに近づいてリリオンの顔を覗き込んだ。

 リリオンはぐっすりと眠っていた。昨晩にグラン武具工房から受け取った盾と剣を身体に馴染ませるために前々日に工房で行ったような組手をしたのだが、少し張り切りすぎてしまった。本日の探索に支障が出ないようにと軽く流す程度にしておこうと思っていたのだが、興奮したリリオンにランタンも当てられてしまった。

 ランタンはちらりと壁に立てかけられた方盾を眺めた。

 盾はリヒトによって見事に仕立て上げられていた。棺に似た形の一枚の厚い鋼に左右に反る柔らかな丸みが付けられていて、その丸みは盾が攻撃を受け止めた際に衝撃を分散するように計算されていた。

 食後の軽い運動のつもりだったんだけどな、とランタンはムキになってしまった自分を反省した。

 盾はよく見ると一部分が歪んでいるのが判る。それは組手の際に攻撃があまりに綺麗に受け流されたものだから、ランタンが少しだけ本気で盾を叩いてしまったその爪痕だった。

 ランタンを本気にさせたのは盾の性能だけではなく、リリオンの技術もあっての事だった。リリオンは重量級の盾を巧みに操り、その技は手を叩いて褒めていいほどに冴えていた。技術がなければ盾の傷は、あのわずかな窪みだけでは済まなかっただろう。

 それにそれほどの衝撃を受け止めて、なお向かってくる気概もいい。命に届きそうな攻撃を受けてもリリオンは怯えなかった。それどころかぐっと足を踏ん張って、剣での一撃を返してきた。それもまたランタンの熱さを加速させた。

 その時のことを思い出したのかランタンはにやりと口元を歪めて、その歪みを確かめるようにはっと口を手で押さえて、唇を拭った掌を首に当てた。肌が熱く、汗でベタついている。

 だからと言う訳ではないがランタンはリリオンを起こさないようにそっと部屋を出て、隣の浴室に向かった。迷宮を探索している間は落ち着いて身を清めるような暇はないので、探索当日の朝に風呂に入るのがランタンの決まり事だった。

 水精結晶を割り浴槽に水を満たして、湯気が出るまでそれを熱してランタンは裸になった。かけ湯をすると肌にすっと赤みがさす。皮膚の表面の汚れを軽く流して、ランタンは年寄りじみた呻き声を漏らしながら湯船に肩まで沈んだ。

 この世界でもこの気持ちよさだけは変わらない。

 肉から皮膚が剥がれ、骨から肉が離れ、その骨さえも硬さを失って溶け出し、やがて一粒の丸い剥き出しになった魂だけが、暖かな湯の中に浮かんでいるような気分だった。

 開放されている、と思う。

 ランタンは膝を折り曲げて、浴槽にもたれ掛かった。まるで沈んでいくようにぐらりと顎が持ち上がって、天井を見つめる。その顔からは表情が失せていた。

 外を歩く時はいつも緊張している。どんなことがあっても身を守れるように。暴力を振るうときに嫌悪感を押し殺している。それを行使することに躊躇がなくなったことに。この世界に馴染むほどに、郷愁を忘れつつある。寂しさも薄れてきた。

 水面がなだらかに盛り上がったかと思うと、ぬっと腕が浮き、持ち上がった。肌の上を湯の珠が幾筋もの線を引いて水面へと吸い込まれていく。ランタンは掌を透かすかのように、二の腕から肘、前腕を通り甲から指先までをぼんやりとした瞳で眺めた。

 二の腕は脂肪が仄かに垂れていて、色が白くいかにも柔らかそうだ。前腕は淡く浮き出た筋肉の筋に緑色の血管が絡まっている。手首は女のように細い。掌は肉刺(まめ)もなく、指は産毛もなく先端を飾る爪はつやつやしている。暴力とはまったく無縁そうだ。

 ランタンは外気に冷えた腕を再び湯に沈めた。暖められて広がった毛細血管に血が流れ込み肌が痺れる。その痺れたままの手で身体を撫でた。

 脂肪が削ぎ落とされた身体は細く、わずかに発達した胸板とぽっこりと盛り上がる六つの腹筋は、筋繊維が剥き出しになっているようだった。リリオンのことを笑うことができない貧相な身体だ。それは実年齢よりも何歳(いくつ)か下の子供の体だった。

 この世界に来てからランタンはほとんど成長していない。

 それは精神的負荷(ストレス)によって成長が阻害されているのか、それとも魔精を体内に取り込むことによる抗老化効果(アンチエイジング)の所為なのかは判らない。もともとの身体的成長が遅い方だったので、ただそういう身体だっただけなのかもしれない。

 ランタンは首の座っていない赤ん坊のように頭をぐらぐらと左右に揺らしてそのまま湯船にずるずるとすべるように沈んだ。息を止めて、ゆっくりと瞼を閉じて、胎児のように膝を抱えて、頭の先まですっぽりと湯に浸かった。

 浮力に持ち上がる身体を湯の中で自然とバランスを取り、水中で漂う髪が頬や首を撫でるくすぐったさに唇の端から細かな気泡が零れる。耳の穴の中に入り込んできた湯がざばざばと音を立てて、耳内の全てを満たすと自分の血液の音が低く響いた。

 血液が心臓から押し流されて、全身を巡り、また心臓へと戻ってくる。まるで塗り絵でもするように瞼の裏側に自らの全身像が思い浮かんだ。元の世界にいた時と、少し痩せて筋肉質になっただけで、殆ど変わらない自分の姿。洋服を着せて隠してしまえば、何も変わらない、はずだ。

 もし元の世界へと帰還できたとしても、きっとだいじょうぶだ。

 ぼこぼこぼこ、と口から大きな気泡が零れて水面で弾けた。

 その泡を追うようにランタンは溺れたみたいに顔を上げた。濡れた髪が頭蓋にベったりと張り付き、毛先から表情を消し去るように湯が流れた。ランタンは涙でも拭うように手のひらで顔を覆い、ゆっくりと大きく息を吐きだした。

 指の隙間から、視線が零れる。水面に映る自分の瞳は、遠くを見ているような、何も見ていないような。意志のない瞳が重たそうな瞬きをしている。睫毛から水滴が弾けた。

 肌は薄紅色に染まっている。

 そろそろ上がるか、とランタンが浴槽の縁に手を掛けた瞬間に扉が悲鳴を上げた。蝶番が軋み、扉の下部が無遠慮に床を削った。そちらに目を向けると解いた髪に寝ぐせをつけたリリオンが逆光の中で仁王立ちをしていた。

「見つけたわっ!」

 ぐっすりと眠っていたのでまだ暫くは起きないだろうと思っていたのだが、リリオンの瞳がカッと見開き、声は腹からしっかりと発声されている。声は部屋の中で跳ねまわるように鳴り響くと、微かな残響を残して天井の穴から空へと抜けていった。うるさい。

「……おはよう」

 ランタンはまるで先程までとは別人のように柔らかな表情を顔に貼り付けて、肌を隠すようにそろりと湯の中に肩まで浸かった。

「おはよう。探したわ、ランタン!」

「どうかしたの?」

「いなかったから!」

「うん?」

「いなかったから探したわ、ここにいたのね」

 ランタンはちゃぷちゃぷと音を立てて湯船の中ををかき混ぜた。

 何かランタンを必要とする用事でもあったのかと思ったが、どうやらランタンを見つけること自体が目的だったようだ。それならばリリオンの用事はもう済んだのだから、部屋から出て行くだろう。

 再び蝶番が軋みを上げて、扉が閉まる。

 しかしリリオンは部屋の内側に居た。

「……どうかした?」

 両手の掌で湯を掬い、卵でも割るように、再び湯を浴槽の中に落とす。ランタンがその流れを追って視線を浴槽に沈め、そして再び持ち上げるとすぐ脇でリリオンがランタンを覗き込んでいた。

 リリオンは湯気を顔に浴びるようにして大きく息を吸い込むと熱っぽい吐息を漏らした。そして遠慮なく手を伸ばして湯船の中に指を沈めると温度を測り、渦を作るようにかき回した。

「わたしも入っていい?」

 ダメ、と言いたかったが、リリオンの身体から立ち上る甘酸っぱい汗の匂いに開きかけた口が言い淀んでしまった。ベタつく肌の気持ち悪さを、一刻も早く落としたいという心情をランタンは十二分に理解している。

 その逡巡の隙を突いてランタンが返答するより先に、リリオンはあっと言う間もないほどの素早さで全裸になっていた。

「は、……! せまいから、むりだから! せめてかけ湯を!」

「ランタン、そっちに寄って」

 リリオンはランタンの言葉による防波堤を軽々と跨いで湯船に片足を沈めた。

 爪先から脹脛(ふくらはぎ)そして太股が白い大蛇のような艶めかしさをもって水面を割って沈んでいく。あの鶏ガラのような足からは想像も付かなかった女性的な肉付きにランタンは息を呑んだ。ランタンの目の前を真っ白な尻がシャボン玉のように落ちてゆき、それが沈みきると浴槽の縁から滝のように湯が溢れた。

「なっ……!」

 柔らかさを感じ取った瞬間にはリリオンの尻がランタンの腹を滑るようにして股の間にすっぽりと収まった。視界一面がリリオンの白い髪で埋まり、それを掻き分けるとなお白い背中が顕になって、ゆっくりとランタンの胸にもたれ掛かってきた。

「あったかぁい」

 リラックスしているリリオンとは裏腹に、全身が一塊の岩にでもなったかのようにランタンは息すらも止めて固まった。

 リリオンはまるでランタンが安楽椅子(リクライニングチェア)であるかのように、べったりと背中を預け、股の間に尻を納めて、割った足の間に自らの足を折りたたんで収まっていた。水面からちょこんと膝頭が顔を出している。

 リリオンはランタンの鎖骨辺りで首を支え、後頭部をこてんと肩に転がした。

「……痛い」

 ランタンは小さな声で呟いて、それはリリオンには届いていないようだった。

 肉付きが良くなったとはいえそれでも、剥き出しになった肩甲骨が胸に、体重をかけると肉を押し分けて尻の骨がランタンの太股に食い込んだ。柔らかくはあるのだが、だがやはりまだ未成熟な果実にも似た硬質さがある。

 リリオンはランタンの手を取って、抱きしめられるように、両手を(へそ)のあたりで握り締めた。胸に張り付いた背中が熱く、リリオンの(うなじ)には玉の汗が鈴生りに連なっている。もさりとした髪や頭皮が湯気に炙られて蒸れた甘い匂いを放っていた。

「なぁにランタンくすぐったいわ」

 項の汗が滑り落ちるとリリオンはその擽ったさをランタンの仕業だと勘違いをして、ぐるりと身体の向きを替えた。未発達の柔らかな胸がランタンの胸の上で乱暴に押しつぶされる。リリオンの顔は目の前にあって頬が上気している。

「ねぇランタン、今日行く迷宮のことを聞かせて」

 リリオンは昨日の夜も寝付くまで迷宮の話をねだった。まるで幼児が母親に絵本の朗読をねだるように。リリオンは組手の疲れもあってすぐに寝てしまったが、そのことを未練に思っているのかしれない。

 迷宮特区へ向かうまでにまだ時間は十分に残っていたが、風呂に浸かりながら語るような話ではない。こんな頭に血が上るような場所では、何も覚えられないだろう。だがランタンはリリオンを押しのけることが出来なかった。すべすべした皮膚刺激には、ランタンには理解の及ばない抗い難さがあった。

 ランタンは滑るようにリリオンの背中から項までを撫で上げて、海藻のように漂う髪を後頭部で一掴みにして絞り上げた。浴槽の縁にかけていた手ぬぐいを使って、器用にそれを纏めた。

「今日行く迷宮はね」

「うん」

 その迷宮は一ヶ月ほど前に迷宮特区に迷宮口を開けた。迷宮口はやや小さめでそこから小規模の迷宮と判断され、探索ギルド直属の先見偵察隊により中難易度獣系小迷宮との指定を受けた。

 探索者は大きく(こう)(おつ)(へい)の三つの階級に分けられる。ギルド証を受け取ったその瞬間から探索者は丙種探索者として登録され、探索者ギルドを通し迷宮を探索しこれを攻略、またはギルドから提示される依頼(ミッション)の遂行やギルドでの一定額以上の売買取引など、ギルドから評価を得ることにより乙種、甲種と階級が上がっていく。まだ何もなしていないリリオンは丙種探索者、ランタンは乙種探索者だ。

 中難易度の獣系小迷宮というのは、その迷宮構造と出現する魔物の強さにより複合的に判断されるがおおよそは、乙種探索者の探索班による攻略を推奨される獣系魔物が主として出現する小規模の迷宮、と言う訳だ。

 ランタンは既にこの迷宮へ三度潜っている。一度目は偵察のためだ。

 先見偵察隊の仕事ぶりは迷宮のさわりを確かめるという程度のものでしかないので、いざ探索者が迷宮に潜ってみると中難易度と指定されていても実際は子供のお使いのような簡単なものから、未帰還率が七割を超えるような地獄の可能性も存在する。

 先見偵察隊を、ギルドの探索難易度指定を信じて未帰還になる新人探索者というものは意外と多く、それを乗り越えた先の探索者たちはギルドの攻略難易度を、偵察難易度と呼び変えて皮肉ることを(はばか)りなく、自分の目で、肌で感じたものしか信用しない。偵察にかかる一手間は余計な出費ではなく必要経費だ。

 偵察の結果から言うとギルドの難易度指定は間違ってはいなかった。迷宮の構造自体はなだらかな地形の続く単純なもので、魔物の強さもランタンなら問題ない程度のものだった。幾つもある先見偵察隊のうちの辛口な評価を下す部隊ならば低難易度と指定したかもしれない。

「らんたんはすごいね」

「なにがさ?」

 リリオンは甘い口調で呟いた。浮力に身体を固定しバランスを取ることが難しいのか、それとも浴槽に浸かる習慣がないせいかリリオンは落ち着きなくもぞもぞと体勢を変えた。その度に触れ合った肉体がぐにぐにと押し合い、ランタンはその柔らかさを敏感に知覚していた。柔らかさが離れていく。

 リリオンはランタンの胸元にうつ伏せになっていた身体を起こして、向かい合うようにランタンの逆側に背もたれた。長い足が窮屈そうに身悶えて、ランタンの足に絡まるとそここそが置き場所であるかのように落ち着いた。

「だって一人で探索してるんでしょ? じゃあランタンは強さは探索者五人分だわ!」

 五人分という数字がどこから湧いて出てきたのかは謎だが、ランタンは極めて平静な顔付きで肩を竦めた。ちらりと水面に視線を落とし、変な表情をしていないか確かめる。向い合い互いに表情を差し出し合っている状況下では、皮膚の接触面積が低下しようとも気が抜けなかった。

「……探索者の強さ、――質ってのはそんなものじゃあないよ。どんな迷宮だって時間をかければ少人数でも攻略できる」

 小迷宮を三度も探索すれば、乙種に相応しい一定の能力を有する探索者を複数揃えた探索班ならば余程の問題が起こらないかぎり攻略を終えているだろう。反面ランタンはと言うとまだ下層の踏破すら済んではいない。

 初回の偵察探索では一日かけて上層の行ける所までをゆっくりと進み、十分な余裕を持って一日かけて帰還した。二度目の探索では二日かけて中層を踏破して、予定通りに一日かけて帰還。そして三度目は下層を攻略して、あわよくば最下層を守護する最終目標(フラグ)の撃破を、と思っていたのだが不運な事に殲滅したはずの中層の魔物が再出現(リポップ)しており、苛々しながら下層を進んでいると本来なら上層を主として出現する迷宮兎に出くわし、更に不運は重なることにそれを一匹取り逃がしてしまい仲間を次々に呼ばれて戦力を消耗し、結局は最終目標を確認することすら出来ずに這々(ほうほう)(てい)で帰還を果たしたのだ。

 大量の迷宮兎は中々の儲けとなったが、その時の苦労を思い出してランタンは小さく舌打ちをした。儲けの大部分はリリオンの諸経費に消えて、身体を休めるはずだった三日間の休日は嵐のように過ぎ去った。疲労が完全に抜けているとは言いがたい。

 リリオンが再びランタンに覆いかぶさるように身体を傾けて、しかし手を伸ばした。ランタンは腕を掴まれると、軽くのぼせていることもあって、無抵抗に身体を引き寄せられてすっぽりとリリオンの股の間に座らされ、背中から抱きすくめられた。

 僕は石だ僕は石だ僕は石だ、とランタンは鼻の下までを水面に沈めてぶくぶくと呟いた。

 リリオンは石を抱いて身投げでもするように、ランタンをぎゅうっと抱きしめて重石代わりにしている。浮力によって落ち着かなかった尻がようやく落ち着き、浮かれた鼻歌を一小節だけ歌い、無意識なのだろうかランタンの腹をさすっている。割れた腹筋の亀裂を迷路で遊ぶように指でなぞった。

「ちょっと、くすぐったいよ」

「じゃあ最終目標まで行くの?」

 リリオンはランタンの抗議を完全に無視して耳を()むようにして尋ねた。

 ランタンは腹の上を這いまわる掃除魚のような指を排除しようと格闘しつつ、煮え切らない呻き声を漏らした。

 単独での探索ならば最下層に突入して最終目標に敗北しようとも自業自得というものだが、そこに戦力の見極めが確定していないリリオンを伴うとなると話は別だ。二人以上で迷宮を探索するとなるとそれはもう探索班であり、班というものは選出されたリーダーによって率いられるものだ。探索を行うに当たって班内では様々な意見や作戦の交換が行われるが、探索続行や撤退などそれを行うかどうかの最終決定はリーダーの一声によって決められる。

 だが残念なことにランタンにはそういった班を率いた経験も、あるいは率いられた経験も存在しない。危険と命を天秤にかけたとき、その命が自分のものならば多少命を軽く見積もったとしても何の問題もないが、それが他人のものとなると話は別だ。

「一応そのつもりだよ」

 ランタンはとりあえず口先だけでそう言った。

 最終目標は迷宮の守護者だ。普通の魔物のように迷宮を徘徊することなく、最下層に在って迷宮という空間を創造し、それの保持をする迷宮核と呼ばれる高純度の魔精結晶を守っている。魔物の力の源である魔精の傍らにあることによって、最終目標の戦力は通常の魔物とは比較することはできない。

 ランタンは今まで幾つもの最終目標を撃破してきていたが、そのどれもが死闘といってよかった。結局は勝利を収めているのだが、もし一度戦闘が始まってしまえばリリオンに気を使っている暇はないだろう。

「わたしだってがんばるわっ!」

 リリオンはそう言ったが、頑張られても困ることもある。

 例えば複数の魔物と戦闘行為を行う場合に、ランタンは左、リリオンは右と対処する魔物を分担できるのならまだならいいのだが、最終目標という一つの魔物をランタンと二人で攻めるとなると、どちらとは言わず足手まといになる可能性が高い。もしリリオンが最終目標との戦闘に耐えうる戦力を保有していようとも、拙い連携というものはかえって窮地を呼び込むものだ。

 リリオンには安全な場所で盾を構えて亀のように守りを固めてもらうのが一番の安全策だが、それでもリリオンから完全に意識を外すことはできないだろう。ランタンが上手くフォロー出来ればまた話は別なのだが、複数名との連携を持った戦闘行動はランタンにとっては未知のものだ。

「とはいえ最終目標もまだ確認してないからね」

 迷宮の道行が平坦道のように楽なものでも、最終目標が予想をはるかに上回る虎穴という可能性も捨てきれない。最終目標と戦闘を行うかどうかの最終的な決定は、その時の戦力の消耗度合いと最終目標の戦力を天秤にかけて決めなければならない。

 いざ色々と考えてみると他人と迷宮に潜るのって大変だな、と重い溜息を吐き出す。

 リリオンに対してさんざんご高説を垂れ流してはみたものの、結局は初心者講習で聞きかじったことを空覚えのままに、ある程度の体裁を取り繕って吐き出しているだけだ。

 いざ迷宮に潜ったならば、自分はリリオンを導けるだろうか。

「ちょ――リリ――っ」

 不意にリリオンに抱きすくめられた。自信を喪失しかけたランタンを慰める、などという類の抱擁ではない。

 触れ合っていない部分がないというほどに身体を密着させて、首筋に、そこに浮いた汗の粒に吸い付くように粘性の柔らかい唇が這った。ランタンが艶かしいその感触に言葉を失っていると、さらに追い打ちを掛けるように腹筋で遊んでいた指がそろそろと下腹部へ伸びていった。

 すべすべして柔らかくて気持ちがいいから自由にさせていたけれど、これ以上はまずい。理性と欲望の狭間にあって、のぼせるほどに温まった身体に、その均衡が崩れるひやりとした気配が背筋を駆け巡った。

「ばっ――か!」

 まるで滝が逆流したかのような瀑布を立ち上らせランタンは死地から脱するような全力の跳躍をもって浴槽から飛び出した。辺りに飛沫が白い霧となって立ち込めて、その霧の奥でランタンを失ったリリオンががくりと揺らいだ。

「……」

 ランタンは一瞬だけ逡巡して、そろりと浴槽に近づいた。

 リリオンは肌を真っ赤にしてどこを見ているわけでもない虚ろな目をしていた。完全にのぼせている。

 先に浸かっていたランタンも多少頭はぼんやりとしているが、この世界の人間は風呂に浸かる習慣がないので、風呂熱に対する耐性が低いのかもしれない。

 ランタンは濡れた掌でリリオンの顔に浮き出た汗を拭ってやり、リリオンの脇に手を差し込んで引き上げた。

「まったくもう」

 身体から濛々(もうもう)と湯気が立つリリオンを浴槽の縁に座らせようとしたが、リリオンは自分で自分の身体を支えることができないほどふらふらしている。ランタンは仕方なく床にタオルを敷いて寝かせてやった。おとなしくしている様はまるで精巧な人形のようだが、軽く頬をなで叩くと締りのない顔で笑いを零す。意識はあるようだが、肉体の制御は失われている。

「すぐ戻るよ」

 リリオンは笑顔を不安そうに曇らせて、ランタンを掴もうと手を伸ばそうとしたが、腕は重たげに小さく反応しただけだ。

 ランタンはざっと身体を拭うと下着だけを身につけて水筒を取りに部屋へ戻った。扉の外へ出ると外気が肌に気持ちいい。だが不安そうなリリオンを思うと、廊下でのんびりとしている訳にはいかない。

「ほら飲みな、ゆっくりね」

 部屋から水筒を取って戻り、ランタンはリリオンの傍らに膝をついて水筒を口にあてがった。リリオンは頷くようにして中身を呷った。唇の端から溢れる水すらもが気持ちよさそうだ。探索前に英気を養うために風呂に入ったのだが、それで疲れてしまっては元も子もない。

 まったく世話の焼けることだ、とランタンはリリオンの唇を拭った。

 リリオンはランタンが身体に触れると安心してふにゃりと笑みをこぼす。

 それは子供が親に対して抱く接触欲求のようなものなのかもしれない。肉付きは良くなったが、何も変わっていない。たった二、三日でいきなり十歳の子供が十八歳に変わるわけはないのだ。あたりまえのことにランタンは溜め息のように苦笑した。

「お風呂ってきもちいいのね」

「のぼせてるのに何言ってるの」

 あるいはのぼせているからこその妄言なのかもしれない。リリオンは唇を拭ったランタンの手に頬を擦りつけていて、ランタンはその頬の柔らかさを指で押し返していた。

「お湯はあたたかいし、ランタンはすべすべして気持ちいいんだもの。ねぇまたいっしょに入ってくれる?」

 実に無垢な誘惑に、ランタンは即座に頷いた。

 十歳の子どもと一緒に風呂に入ったからといって疚しいところなど一つもないし、むしろそれを拒否するほうが、自分の中にあるような気がしなくもない名状しがたい気持ちを肯定するような気がした。

 何はともあれ探索当日に、それ以外のことで頭を悩ませるのは馬鹿らしい。

 ランタンは探索者らしい切り替えの速さで自己の葛藤を棚上げして、リリオンの身体を怪我の手当でもするかのような事務的な手付きで拭き、下着や寝間着となった貫頭衣を着せてやり、自分も着替えを済ませるとリリオンを胸に抱きかかえて部屋に戻った。


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