三題噺「屋台」「満月」「煎餅」
明かりの少ない路地を走り抜けていく。普段は暗い路地なのだが、今日は空から降る青い光が多いおかげで走り易い気がする。
空を仰げば大きな丸い月。そう、この丸い月で思い出して僕は走っているのだ。こんな日にはあの人が僕にあの美味しいお菓子を出してくれるに違いないから。
走っていると人々の喧騒と人工的な赤い灯りを感じた。祭り囃子の音がする。ああ、今日はお祭りの日なんだな。人々の嬉々とした表情を見て楽しそうだなと思った。とは言え、此処は僕の目的地ではない。しかし目と鼻の先だ。祭り囃子を背に聴きながら少し速度を落としつつその場所へ向かった。
其処は大きな純和風家屋だった。僕は呼び鈴を鳴らすでもなく裏庭に向かった。裏庭に向かえばおそらく迎えてくれるだろうから。
裏庭には白髪の老婆が浴衣を着て家の灯りを付けずに縁側で佇んでいた。家の灯りが付いていないのが不思議だったが、なるほど、視線の先には先程僕が見た祭りの提灯の赤が鮮やかに見て取れた。
「おや」
老婆は僕を認めると笑顔で僕を老婆の隣へと促した。何時にもなくその表情は嬉しそうでやってきた僕も少し嬉しくなっていた。お祭りだからだろうか。やはりこの老婆も祭り囃子を聞くと嬉しくなるのだろうか。
「よく来たわね」
老婆は少し家の中に引っ込み、丸い大判の海老煎餅と水を手に持ちまた戻ってきた。そう、この海老煎餅が僕は食べたかった。大きな丸い丸い満月のような海老煎餅。
老婆との出会いは少し前。僕がこの裏庭に迷い込んでから始まった。その時も老婆は笑顔で今日のこの日のように海老煎餅を振る舞ってくれたのだった。美味しそうに食べる僕を見つめながら、ただ微笑んでいた老婆が印象的だった。それからはたまに老婆の顔を見たくなってふらりと遊びに行ったり、今日みたいに海老煎餅を思い出してはこの裏庭にやって来ていた。
「灯りが綺麗ねぇ…」
彼女の言葉は大体ひとりごとだ。僕に同意を求めている訳ではないらしい。それを知っているから僕は大きな海老煎餅と格闘しつつ灯りを眺めるだけにしているのだ。
この縁側では時間が緩やかに過ぎていく。何時だって彼女はそんなに喋らなかったし僕も無口な方だから何も喋らなかった。でも、お互いにそれを気にしているわけでもなく、緩やかに過ぎていくこの時間をお互いに大切にするように、ボーっと縁側に佇むのだ。
しかし、今日は少し違うようだ。老婆は祭り囃子と赤い提灯の灯りを受けて、どうやら昔話をしたいらしい。何時になくうきうきとしている様子だった。そんな雰囲気を醸し出されては聞かないわけにもいかなくなって、結局昔話を聞くことになったのだ。
そう、アレは何時頃の話だったかしら。
昔々、そうね、あれは私が若いころだから、貴方が生まれるはるか前ね。
私には彼氏が居たの、私には勿体無い優しい彼氏。私も昔は気が強いおてんばだったから、ずっと彼には迷惑をかけていたわ。それでも彼は文句なんて言わなくて、優しくしてくれたの。何時だってそうだった。私がいつも迷惑を掛けていて、彼がフォローしてくれる。またそれが嫌で迷惑をかけるのね。
ある日ね。私と彼はお祭りに行ったの。そう、今日がお祭りだから思い出したのね、こんな懐かしい話。彼は慣れない浴衣と履物に四苦八苦する私の手を取って転けないように屋台をエスコートしてくれたの。とても幸せだったのに私ったら照れ隠しに不機嫌そうにして、また彼を困らせたわ。
「ほら、これ」
少し待っていてと言われて仕方ないわねと待っていると、彼は綿飴を私のために買ってきてくれたの。甘いモノが好きだって彼は知っていたから買ってきてくれたのね。
「あ、ありがと…」
顔を赤くしながらそれでも照れ隠しにぶすっとした顔でそれを受け取ったわ。その綿飴は私が食べたどの綿飴よりも美味しかった。
その日はいろんな屋台を回ったわ。射的も金魚すくいもしたし、お腹いっぱいになるまでいろんな物を食べたりもしたわね。幸せな時間だったの、とてもとてもね。でも、やっぱり私は素直じゃなくてちょっとは面白いじゃない?みたいな生意気な態度だったのよ。自分で言ってて嫌な女だわね。
「ねぇ」
ふと休憩したお祭り会場のベンチで私は彼からさっき会場で買ったペアのリングの片方を渡されたの。リングって言ってもオモチャみたいなもので、ホント安っぽくてちょっとひねったら曲がっちゃいそうなリング。
「なによ」
「僕のさ、将来のお嫁さんになってほしいなって思って」
「な、何言ってんのよ馬鹿みたい」
「そりゃたしかに僕らはまだ若いよ、でも約束したいんだ。僕らずっと一緒にいたい」
心臓が張り裂けそうなくらいドキドキしていてとっても嬉しいのに私は素直になれないのね。若気の至りかしらね…。相も変わらずつっけんどんに返しちゃったわ。
彼がね、握ってくれた手。彼の手が凄く汗をかいていたの。そうね、彼も緊張しているのよね。そんな事分かっていたはずなのにね。
「か、考えておいてあげるわ」
「ありがとう」
今すぐにでもはいって言えばいいのにね。私は保留しちゃったのよ。どうせ毎日のように会っているのだから今じゃなくても良いと思ったのね。それにね、ちょっぴり勇気が足りなかったの。照れ隠しにツンツンしちゃうような女だもの。臆病ですぐに何も言えなかったのね。
それでも彼はありがとうと言った。彼は分かっていたのかしら、私の気持ち。いいえと言われなかったからなのかしら。絶対いいえなんて言えるわけ無いのよね、彼に欠点らしい欠点はなかったもの。彼の全部が好きだった。言ってあげれば良かったのにね。
次の日ね、彼、交通事故で亡くなっちゃったの。
馬鹿な女よね。保留しちゃうから本音も何も言えなくて、もう二度と会えなくなるんですもの。
彼が交通事故にあった理由は車に轢かれそうな子供を助けたからですって。なんて彼らしい理由なんだろうって思ったわ。それからずっと三日三晩泣いてた気がする。涙が枯れないの、不思議ね…。こんなに涙を流したのは生まれて初めてで、この時に彼の存在の大きさを知ったの。もう無くてはならない存在だったのね、体の半身ぐらい大事な存在だったんだって思い知らされたの。あと、そうね…やっぱり悔しかったの。自分がこんな性格だから言いそびれた色んな事。愛してるだとかお嫁さんにしてくださいだとか。本当は言いたかったのにもう言えないってのがたまらなく悔しかった。
だからこそ、貴方にも大切な存在が居るのなら大事にしたほうが良いわ。その存在は当たり前なんかじゃないの。世界に貴方とその大事な存在、それが一緒に居るのは奇蹟なんだって。この時代、その場所に一緒に居る。確率的にもものすごいことなんだって思って過ごさないとダメよ。
話が逸れちゃったわね。それからね、私、言いそびれたことがどうしても悔しくて、お手紙を書いたの。勿論彼宛に。彼には絶対読まれることのないモノだけれども、どうしても悔しくて悔しくて書いちゃったのね。今思えば自己満足でしかなかったのかもしれないけど。
内容は、今思い出せば赤面するぐらい恥ずかしい文章で、言うのもはばかられちゃうぐらい。でも自分の思いをおもいっきりぶつけた文章だったわ。大好きって何回書いたかわからないぐらい。
返事なんて勿論来ないと知っていたわ。でも、今まで書いた中で一番綺麗な字で書いたの。
そうしたら、数日後にお返事が返ってきたの。送り主の名前は私の彼氏の名前だった。
それはもうビックリしたわ。まさか幽霊からの手紙かしらと思ったけれど現実で考えれば家族の人よね。案の定それは彼のお母さんのもので、その手紙にはこんなことが書かれていたわ
「大変失礼だとは思いましたが、貴女のお手紙を拝見させていただきました。息子が貴女のことを家でずっと語っていた理由が判ったような気がします。正直嫉妬するぐらい貴女のことばかり家で語るのでどの様な人なのか気になっておりました。不出来な息子でしたがこんなにも愛してくれている人が居て、こんな財産を築けた息子を手前味噌ながら誇りに思いました。─中略─ 息子の部屋でみつけましたこの手紙を同封させて頂きますのでご覧になって下さい」
手紙、そういえば2通あったのね。
もう一つの手紙はね、彼からの私へのラブレターだったの。とは言っても書きかけのラブレターね。もう何箇所も何箇所も修正したりインクで塗りつぶしていたりしていて読みにくかったのだけれども、それが逆にリアルで、とても嬉しかったの。私宛の手紙を書く、それだけのためにこんなにも手間を掛けてくれる。それが幸せだったの。
内容はね、ヒミツにするわ。私だけのヒミツ。一つだけ言えることは、彼は私のことをとても好きで居てくれたみたい。だからとても幸せだったわ。
それからはね、強い女になろうと思ったの。これからはずっと究極の一方通行の遠距離恋愛ですもの。寂しくて泣いてる女じゃやっていけないものね。そうやって女一人今の今まで生きてきたわ。辛いことも沢山あったけど勿論その分楽しいことも沢山あったわ。いますぐすぐには語れないぐらい沢山の思い出。
僕は縁側で寛ぎながら満月を眺めてそれを聞いていた。なるほど、その彼とやらは相当老婆に愛されているらしい。今まで語った中でも一番目が輝いている。
「つまらなかったかしら?」
そんな事はない。彼女が語ってくれる話はとても良い話ばかりだった。伊達に何年も生きてないなぁと感心させられる。
「そろそろかしらね…」
彼女は笑顔で立ち上がる。
僕は、満月の中心から黒い影がこちらに向かっているのを感じていた。それは段々と近くなっていて、近付いてくれば近付いてくるほどそれが大きく、長大なものであると判った。
これは…何両編成なのだろうか。月からの使者は豪華な空を飛ぶ列車だった。眩いぐらいの室内灯が照らす室内はとても豪奢で、並の列車では考えられない優雅さを誇っていた。行き先のプレートは何も書かれていなかった、乗客は老若男女居るようだが、僕らの目の前に開いた車両には誰も乗っては居なかった。
「行くわね」
と、僕に言った少女は、できうる限りの沢山のおめかしをしてその列車へと乗り込んでいく。ああ、そうか、彼女は老婆なのだな。と、僕は何故か納得していた。
「会えると良いね、彼に」
「会えるわよ、絶対待ってるんですもの」
彼女は赤い顔でハニカミながら笑った。なんだ、美人だったんだなあの老婆。
そして扉が閉まり、再び月へと列車は走っていく。
行ってしまった列車を見送り、横たわる老婆に目をやった。幸せそうに彼女は笑っていた。だから、僕は別れを告げる。
「ニャー」