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人魚桜

作者: アレグロ

深い闇の夜、暗き海に桜舞い

桃色に踊る花びらは、光を放つ

見る者は皆、その美しさに魂を奪われる



それはまだ、この国で人と物の怪が共存していた頃のこと

人魚がこの海に顔を出し、人と戯れていた頃の話




星の輝く晩のこと、一槽の舟が暗い海にぽつりと浮かんでいた。

時刻は定かではないが、すべてが寝静まっているように静かだった。

その舟には若者が一人、暗い海底を見つめている。

頭上に輝く見事な天体地図など、彼の眼には映らないらしい。


人魚が一人、美しい黒髪を海藻のようになびかせて暗い海面から顔を出した。

切れ長の澄んだ瞳が少し先の舟の上の若者をとらえる。

こんな夜更けに、漁師でもなさそうなのに、たった一人で一心不乱に海を覗き込むのは狂人だろうか。

だが、色白の顔に少しかかる黒髪から覗く瞳は、どこまでも真剣で犯しがたいものさえ感じられた。

人魚の胸に細やかな好奇心が芽生えた。

音もなく人魚は舟に近づいた。


「お前はこんな夜更けに海を見つめてなにを探しているのだ?」


人魚は若者に尋ねた。この世のものとは思えないほど美しく澄んだ声だった。


「桜を。」


男はふと顔を上げ、声のした方に答えた。月明かりに照らされた顔は男の柔和さを表すように穏やかでどこかはかなげだった。

人魚は何かしら心がざわめくのを感じた。


「桜?海に桜など咲く筈がない。お前は狂人なのか?」


「桜は咲くのでなく、舞うのだよ。」


男の瞳が人魚をとらえる。

この辺りでは人魚は直接話すことは稀でも、昔より数は減ったといえ、普通に目撃されており、たまに戯れに人をかどわかしたりもするが、それほど恐ろしい存在でもなかった。

したがって、男も人魚を恐れはしなかった。


「咲かぬ桜、舞う訳がない。ここは陸から遠い。花など流れぬし、第一、今は夏。季節も違う。」


「いいや。舞うよ。私は子供の頃に漁師だった父と、ここで見たのだから。きらきらと深海に舞う桜を。それから私は、それの正体が知りたくて沢山の事を学んだのだけれど。でも、未だにその正体は分らない。」


男は深海の桜がそれは美しかったこと、何とかしてもう一度見たいこと等を人魚に語った。

その瞳は星のように輝き、白い頬がほんのり桜のように色づいていた。

人魚はその男から視線を逸らせない自分がいることに気付いた。


人魚というものは元来、寿命が長く、丈夫で、食べ物にも困らず、これといった天敵がいる訳でもなく、その長い寿命をたやすくまっとうできる為か、物事に無関心、無感動で感情に乏しく、何かに熱くなったり、一つの事に執着するということが皆無な生き物だった。

彼女は、まだやっと大人になったばかりの人魚だったが、多分に漏れず血の湧き立つような情熱も、恋も、涙すら知らなかった。

いや、遠い昔、まだ母と呼べる存在と寄り添い、安らぎに包まれ、見る者すべてが真新しかった幼い頃には色々な感情を持っていた気もする。

これは、あの頃の自分に対する追憶ノスタルジーだろうか。

人魚は男の感情に、その夢に興味を持った。



それからの一夏を毎晩のように人魚はその男と過ごした。

この若い男は話がうまく、また物知りだったので、人魚はあきるということがなかった。

男は毎晩のように現れるこの人魚を妹のようにかわいがったし、共に波に揺られ、時に無限とも思える夜を過ごす良き相棒として大切にした。

男の話はどれも若い人魚には魅力的で、まだ見ぬ陸への空想と憧れを膨らませるのには十分だった。

だが、それ以上に彼女を魅了したのは、やはりこの青年自身に他ならなかっただろう。

その低く物静かな声を聴くだけで彼女の心は震え、その白くしなやかで、けれど若者らしくたくましい腕が着物の袖から覗くたび、彼女の中で何かがあふれ出すのを感じた。

その手と手が、わずかに触れ合う事があった時など、彼女の心臓は張り裂けんばかりに鼓動し、その音が隣の青年にも聞こえてしまうのではないかと恐れ、恥ずかしさに耐えきれず、海底に逃げ帰るほどであった。


そう、人魚は恋をしていた。

長く人と触れ合い、その心を垣間見たため、人魚の心には人の心がやどってしまったのだった。

それは、悲劇の始まり。

人ならぬものが、人の感情を持ってしまったことの苦しみ・・・


人魚は知っていた。

どんなに愛しても、男と自分が結ばれることはない事を。

愛しい瞳が自分を見つめることはない事を。

優しい声が、自分に愛を語ることはない事を。

異形の身である自分を呪った。

人魚の心に深く暗い何かが生まれた。


だが、人魚は思う。

それでもいい。このまま時が過ぎるなら。

このまま彼の傍にいられるのなら・・・



ある夜の事、人魚はいつものように男の舟に近づいた。

そして、少し離れたところから、いつものように月明かりに照らされたその美しい顔を見つめた・・・


人魚は見つめた。

だが、それは愛しい人の横顔ではなかった。

人魚の目に映ったのは、女。

そして、事もあろうに、その肩を優しく抱くのは自分の思い人。

その唇と唇が静かに合わさってゆく。


いつか男が誰かと結ばれることは人魚にも分っていた。

どうしようもない事なのだと受け入れようと思っていた。


だが


なぜ、ここでなければならないのだろうか。

なせあの女は自分がどんなに望んでも決して得られぬものを、いとも簡単に、この目の前で手にしているのだろうか。

なぜあの人はあれをここに連れてきたのだろうか。

なぜ、なぜ、なぜ


人魚の中に芽生えた深く暗いものが急速に成長していった。

胸が苦しい。かきむしってしまいたいほどに。

人魚の中で何かが壊れた。



憎い、憎い、憎い



気づくと人魚は小さな舟を転覆させていた。

声も出せないほど一瞬のうちに、男も女も海に投げ出され、暗く冷たい海底に沈んでゆく。

男は沈む女の手を取ろうともがいている。


人魚は


人魚は我に返り、自分の行動が恐ろしくなった。

後悔で泣き叫ぶ心を抱え、沈みゆく愛しい人を助けようと必死に泳ぐ。

だが、人魚はやはり男と結ばれることはなかった。

その愛しい手は、あの女を抱き

その懐かしい瞳は固く閉ざされ、もう何も映さなかった。

二つの体が、まるで一つの塊となって、人魚にも手の届かないほど暗く冷たい海底へと飲まれていった。



人魚は泣いた。物心がついて初めて。

彼を飲み込んだ海底のように深く不気味な孤独が人魚を包む。

ただ、息苦しさと、弱くなる鼓動と、自分のものとは思えぬほど重く冷たくなる身体を感じていた。

世界から光が消えた。生きている意味すらもう解らなかった。

その涙は銀の雫に、口からあふれる悲痛な叫びは白い泡となった。

その体を覆う桜色の美しいうろこが一つ、また一つと剥がれ落ち、光を放ちながら暗い海底を漂った。



暗い海面を一槽の舟が行く。

漁師の父親と、まだ幼い少年が一人。

仕事に忙しい父親の横で少年は暗い海を何を見るともなく眺めていた。


「父ちゃん、見て、海に桜が舞ってるよ!」


少年は叫んだ。

その視線の先では、人魚の命の炎を宿し、どこか血のように赤く淡く輝く美しい桜が、あの、ほの暗い海底へ向かって静かに舞い落ちていった。



人魚と青年の恋

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