01 15歳の怪物 弍估
薄暗い地下街の最奥。
湿ったコンクリートの匂いが立ち込める一角に、コートが設けられている。
観客の姿はない。
無機質なハブを経由して、この試合の映像だけが全世界の地下組織へリアルタイムで配信されていた。
頭上では数機のドローンが低く旋回し、プロペラの乾いた音を響かせながら、コート上の動きを追っている。
「……はぁ、はぁっ……嘘、でしょ」
赤のビブスを濡らした汗を拭い、179cmの向日葵が顔を上げる。
電光掲示板に残り時間が表示されていた。
【7:24】
その下に浮かぶスコアは――
【赤 1 ― 4 白】
向日葵は、もう一度その数字を見た。
しかし、数字以上に異常な光景がそこには広がっている。
本来、3x3はその名の通り、3人対3人でしのぎを削る競技だ。
だが、今このコートに立つ選手は、赤が2人に対し、白が4人。
———“裏切り”による1名が敵側へ寝返り、
常識を根底から覆す、圧倒的な数的優位が形成されていた。
パスを受けた白のガードが、向日葵の鼻先で低く鋭いクロスオーバーを突き刺す。
重心を揺さぶられた瞬間、彼女の足がわずかに遅れた。
――抜かれた。
そう悟った時には既に、白の背番号が残像を残して視界から消え去っている。
ヘルプに向かおうと身を翻す七合目の視界の外、ゴール下と右コーナーに「余った」2人の影が滑り込んでいく。
獲物を品定めする獣の如き飢えた貌で、彼らはパスを待っている。
赤の2人がどれほど必死に腕を伸ばしても、白の四人は常に二等辺三角形の陣形を維持したまま、残されたショットクロックの焦燥をあざ笑うように、網膜の追いつかない速度でボールを回し続けている。
七合目が踏み出した瞬間…
逆サイドへパスが飛ぶ。向日葵が追う間に、白の選手がゴール下へ走り込んだ。
白のガードがふわりと跳び、指先から放たれたボールがリングを通る。
パシュッ!
乾いた音が残った。
電光掲示板の数字が切り替わり、赤の2人はまた一歩、追い込まれていく。
「これで……5点目、か」
赤チームのもう1人、196cmの少年、七合目が、苦々しく呟いた。
外角なら2点、内なら1点。
積み上げられるスコアは、もはや競技の結果ではない。
2対4という暴虐な数差の前で、それは一方的な『略奪』の記録に過ぎなかった。
得点が決まり、プレイが途切れた瞬間だった。
白ビブスの4人のうちの1人――つい先ほどまで赤のビブスを着ていたはずの「イケメン先輩」が、審判の指示により、悠然とした足取りでコートの外へと歩き出す。
運営が『裏切り』を認めた。
その瞬間、先輩の指が赤いビブスの縁をつまむ。布が擦れるかすかな音だけが、静まり返った地下会場に落ち、向日葵の耳へ残った。
「……玩具になれるよ」
肩からビブスを抜き取った先輩は、それを一度だけ指先に引っ掛ける。やがて手が開き、赤い布は床を滑るようにして向日葵の足元へ落ちていった。
かつて、同じ声で言われた。
「ナイスシュート、向日葵」
向日葵の視線が、ゆっくりと足元へ落ちる。
赤い布の向こうに、先輩と笑い合った日の光景が一瞬だけ重なった。けれど、そこへ割り込むように浮かんだのは――【2000万円】という数字だった。
喉が、かすかに上下する。
先輩はその変化を見つめたまま、ゆっくり顔を上げた。赤いビブスにはもう目もくれず、そのまま一歩を踏み出すと、2人の間に残されていた距離が静かに狭まっていく。
「よく頑張ったな、向日葵」
低い声とともに、革靴が床を擦った。
先輩は歩みを止めず、もう一度だけ足を運ぶ。
「相変わらず、お前のシュートフォームだけは綺麗だ」
唇の端が、わずかに吊り上がる。
「お前なら“Blood Money 3x3”の運営のいい『玩具』になれると思うぜ」
向日葵の唇が、わずかに震えた。
声は出ない。
浅くなった呼吸だけが喉を震わせるなか、2人の間には、先ほど落とされた赤いビブスが取り残されていた。
――ピッ。
先輩の特殊ユニフォームが淡く明滅する。
赤だった電飾が、一瞬で白へ切り替わった。
「あ、……あ……」
喉が震え、生存本能が鳴らす警鐘が、向日葵の思考を支配しつつある。
絶望的な2対4の“数的不利”な状況。
信頼していた先輩の背信。
コートサイドに陣取るのは、純粋な観客ではない。
次の試合を待つエントリー選手や、獲物を物色する野良のプレイヤーたちだ。
タトゥーを刻んだ巨漢から、計算高くタブレットを叩くスーツ姿の男まで、その風貌は多岐にわたるが、共通しているのは「濁った飢餓感」だった。
彼らは向日葵の絶望を酒の肴にしつつも、その眼光は鋭く、誰が裏切りやすく、誰が使い潰せる「駒」になるかを冷酷に値踏みしている。
審判の無機質な声が、コンクリートに囲まれた静寂を切り裂いていく。
「赤チーム。欠員1名。補充の意思を確認する」
審判の問いが、向日葵の耳を滑り落ちていく。
放課後の体育館に満ちていた、あの乾いた石鹸の匂いも、オレンジ色の柔らかな斜光も、ここにはない。
肺を焼くのは、鉄錆とコンクリートが混じり合った泥水のような現実。
思考は、神経を侵す毒を回されたように、緩やかに機能を停止していく。
「……補充? え、先輩は? だって、今のプレイは……」
震える声で呟く彼女の傍ら、冷徹に状況を俯瞰していた196cmの男、七合目が一歩前へ踏み出してくる。
「当然だ。選手を1人補充する!」
彼の鋭い宣告が響き渡ると、虚空を浮遊するドローン群が一斉にレンズを向けてくる。
審判はあらかじめ運営の裁定を聞かされていたのか。
間髪入れず、裁定の結果をレンズ越しにいる全世界へ配信した。
「裁定――全ての条件を可とする。フリーエージェントの介入を承認する!」
『全ての条件を可、だと?』
コートサイドから、冷ややかな失笑が漏れる。
運営がこの試合を、もはや勝負として扱っていない――そんな合図だった。
2対4。
それでも、七合目は群衆を見渡した。
誰か1人でも、赤のコートに入る人間を探している。
「誰でもいい……この地獄に首を突っ込む馬鹿はいねえのか……」
だが、誰も動かない。
嘲笑を浮かべたまま、こちらを眺めている。
七合目の額から、焦燥の汗が一滴、コンクリートへ落ちた。
向日葵は、胸の奥で激しく鳴る心臓を感じていた。
その時だった。
コツ、コツ、と場違いなほど軽やかな足音が、殺伐とした空間に響き渡る。
人だかりを割って現れたのは、戦場にはおよそ不釣り合いな1人の少女だった。
絹のような長い髪を揺らし、日本人離れした彫刻のごとき美貌を湛えた女。
―――彼女の名は弍估。
身長は171cm。
まるでランウェイを歩くモデルのような優雅さで、地獄の最前線へと足を踏み入れていく。
「……そこの君。いつまで無様に突っ立ってるのですか」
硬質で、しかしひどく透明な声が、静まり返ったコートに響き渡る。
彼女の細い首筋には、重罪人の証である収容ナンバーが刻まれ、その背後にはこの世の理を逸脱した絶望が沈殿していた。
15歳という若さ、そして見る者を虜にする美貌。
だが、彼女がボールを拾い上げた瞬間だった。
弍估は静かにコートを見渡す。ほんの一瞬だけ視線を滑らせると、そのままボールを右手に収め、指先で――パンッ、と一度だけ弾いた。乾いた音が地下会場へ響き、その音が消えるより早く、彼女の視線は滞空する一機のドローンへ向けられている。
やがて、細い指先がゆっくりと持ち上がった。
その先は、ドローンをまっすぐ捉えていた。
――レンズの向こう側。
自分に「懲役800年」を刻み、高額な値を付けて解き放った傲慢な飼い主(政府)と、盤面の支配を確信する運営へ。
剥き出しの敵意を白皙の指先に凝縮させ、彼女はただ無言で射抜く。
(――私を外に出したこと、一生後悔させてやろう)
唇一つ動かさぬ処刑宣告。
そのあまりに不遜な横顔に、向日葵は状況も、先輩が消えた理由も分からぬまま、ただ本能的に魂を吸い寄せられた。
収容ナンバーを刻まれた細い首筋が、地下街の淀んだ空気の中で挑発的に脈動する。
それは、金と裏切りのゲームを根底から蹂躙するために現れた、最悪の「怪物」が放った反撃の狼煙。
混乱に震える向日葵の視界で、地獄の均衡が、今――音を立てて崩れ始めた。




