第31章:偽善者
懐かしい広島の店で恩師たちと絶品のクアトロフォルマッジを味わい、青春の思い出に浸った主人公・なるか。ホテルに戻ると、ルームメイトのあゆみの恋バナを聞き流しつつ、彼女の恋心を巧みに利用して・・・
あぁ、この香り。
鼻腔をくすぐり、胃袋の奥底を容赦なく刺激して止まない、香ばしく焼き上がったチーズの匂い。ここは、かつて私の青春のすべてだったあの過酷な練習の合間に、すり減りそうな精神のバランスをどうにか保つための、いわば我が家のシェルターみたいな場所だった。
気持ちがポッキリと折れそうになった日も、理不尽な現実を突きつけられて嫌気が差した日も、逆にほんの少しだけいいことがあった日も。いつだってこのカウンターの向こうで、ノブさんは私のくだらないグチを聞き、笑い飛ばし、応援し続けてくれた。
私にとって、この街は、この店は、本当に第二の故郷なのだ。
「はい、焼けたよー。おまちどーさん!」
「ノブさん、ありがとー! さ、せんせたち、冷めないうちに食べて食べて!」
「おお、すげえ、めっちゃ美味そうだな……!」
「でしょー? クアトロフォルマッジはね、上からハチミツをこれでもかってくらい、たっぷりとかけて食べるの!」
私のその無邪気な提案に、橋本先生は目を丸くして仰天した。
「えっ……!? ピザにハチミツをかけるの!?」
「そう! そうしたほうが、チーズの強烈な塩気と濃厚な旨みが、もう一段階上の次元で引き立つんだから」
「へえ……!」
信じられないものを見るような目をしながらも、言われた通りにハチミツのボトルを傾ける先生の横顔。
私は、長年胸の奥に閉じ込めていた懐かしさと、今、大好きな人たちと同じ空間で同じものを食べているという眩しすぎる新鮮さを、同時にトロリと噛みしめていた。世界で一番美味しいピザの熱が、冷え切っていた私の心の隅々まで、優しく、でも確実に溶かしていくのを感じた。
ノブさんの店で、どれほどの時間が経っていたのだろう。壁に掛けられた時計の針なんて、最初から私たちの甘い空気のせいで動くのを忘れていたみたいだった。
「おっ、そろそろホテルに戻らないとな」
宮下先生が腕時計をチラリと一瞥して、名残惜しそうに呟いた。
「ノブさん、ごちそうさまでした。ほんとに美味しかったです。こんな隠れ家みたいな素敵なお店、初めて来ました……いや、これじゃあノブさんの店目当てだけに、また広島に通ってしまいそうだな」
宮下先生が放ったそのお世辞抜きの絶賛に、カウンターの向こうでノブさんが嬉しそうに目を細める。そんな二人のやり取りを特等席で見つめながら、今の私の顔は、世界で一番誇らしげで、意地悪なほど勝ち誇った笑みを浮かべていたに違いない。だって、この街も、この美味しいピザも、この温かい男の人も、すべては私の「大好きな世界」の一部なのだから。
それから私たちは指定された時間通りにホテルへと戻り、私は自分の部屋のベッドにドサリと身を投げ出した。
夕暮れの街並み、ノブさんの店の看板、そして少しだけ緊張がほどけた宮下先生の横顔。お店に行く途中にスマホのレンズ越しに切り取った懐かしい風景と、先生たちと並んで笑っている数々の写真を、私は何度も、気が遠くなるほど何度もスワイプして見返した。
画面のなかの光を指先でなぞっているうちに、外の景色がすっかり夜の色に染まるまで、私の時間はその小さな液晶のなかに溶けて消えていった。
ホテルの食堂で味気ない夕食を済ませ、それぞれの部屋へと散らばったあとの、だらりと気の緩んだくつろぎの時間。
私のルームメイトは、森下あゆみだった。特別に仲がいいわけでもなければ、かといって険悪になる理由もない、クラスのなかに決まって一人はいるような、愛嬌たっぷりの「妹キャラ」めいた女子だ。彼女は最近、同じクラスの河北隼人と付き合い始めたばかりらしく、その脳内は恋の泡でいつだって満杯だった。ベッドの上に足を投げ出したまま、スマホを握りしめたあゆみは、止まることを知らない機関銃のように、私に彼氏のノロケ話を浴びせ続けている。
「でね? 隼人に『私のどこが好きなの?』って聞いたの。そしたらさ、なんて言ったと思う?」
「んー、なんだろうね」
「全部、だってさー!! もう、なるかなんで分かったの?!」
「あー、なんでだろうね。」
「でねでね! 今度の週末、どこにデートに行くと思う?」
「んー、どこだろうねぇ」
「そう!! 遊園地なんだよ! なんでわかったのぉ?」
「んー、なんでだろうねぇ……」
「あ、そうだ! 隼人とお揃いのブレスレット買っちゃったんだ! やばくない? 可愛すぎない? ねえ、ねえ?」
「んー、かわいいねぇ」
「でしょー!! やっぱなるかはセンスいいから、こういうのの良さ分かってくれるんだよね!」
「ありがとー」
生返事をいくつ並べただろう。若い女の子の恋愛トークというものが、これほどまでに脳のカロリーを消費し、私の鼓膜をすり減らすものだとは知らなかった。肺の奥底から、小さく濁ったため息がひとつ漏れそうになるのを、私は必死で飲み込んだ。
――でも、我慢だ。この退屈な雑音には、ちゃんと利用価値がある。
私はスマホをいじるふりをしながら、あゆみの目をまっすぐに見つめた。
「ねえ、あゆみ。消灯時間を過ぎたら、もちろん外出禁止じゃん?」
「うん、そうだねー」
「あゆみ、もしよかったらさ、隼人のところに行ってもいいよ? 夜の見回りが来たら、私がうまく言っておいてあげるからさ」
あゆみの動きが、ピタリと止まった。
「えっ……!? ほんとに……!? なるか、神じゃん!! そんなのいいの?!」
「うん、いいよ。私も、夜風にあたりたいからちょっとふらっと部屋を出るかもしれないし。なんなら、隼人をこの部屋に呼んじゃってもいいんだよ? そうしたら私、この部屋にはいないから、自由に使っていいよ」
「ええっ――マジで!? やったあ……! なるか、マジで拝むからね!!」
「あゆみの家から私の家は北北西だから、そっちに足向けて寝んなよ」
「うん! 逆立ちして寝る!」
「言ったからね(笑)」
「もう、なるか鬼ー! でも大好きー(笑)」
こうして、計画は完璧すぎるほどスムーズに滑り出した。あゆみの脳内が河北くんで満たされている隙を突き、私は合法的に「自由の身」を手に入れたのだ。
やがて館内の灯りが一斉に落とされ、静まり返った消灯時間を過ぎてから、私は自分のベッドのなかでスマホの画面をそっと点灯させた。
画面の明かりだけが、暗い部屋の中で青白く私の顔を照らす。 指先を滑らせて、私はあの人へ向けてただ一言、夜の闇に溶けるようなメッセージを打ち込んだ。
――せんせ?




