第五十二話 ほどく日には、結んだ手も思い出す
金木犀の冬囲いをほどく日は、思ったより静かに来た。
雪が完全に消えたわけではない。家の北側にはまだ白いかたまりが残り、竜祠の石段にも薄い氷が張る朝がある。それでも、薬草畑の土は柔らかくなり、声守草の新芽が小さく顔を出し、戻り香の家の屋根から落ちる雫の音は、冬の終わりを毎日少しずつ告げていた。
リクはその朝、いつもより早く起きた。
寝癖を直さないまま台所へ来て、スープより先に外へ出ようとしたので、リュミナが真剣に止めた。
「ほどく前に食べる」
「木が先だろ」
「手が震える」
「寒いから?」
「空腹だからだ」
リクは不満そうにしたが、ミナが温かい薬草茶を差し出すと、結局受け取った。
「一口だけ」
「一口でよい」
リュミナは頷いた。
「ただし大きい一口だ」
「お前の一口基準は信用できない」
セリカは窓の外を見ていた。
「アリアンヌ殿下の馬車が来る」
リクは椀を置きかけた。
リュミナが睨む。
「食べろ」
「わかってるよ」
彼は急いでスープを飲み、少しむせた。
ミナが背をさすり、リオは笑いをこらえた。
外に出ると、朝の空気は冷たかったが、冬の匂いではなかった。
土が湿っている。
雪解け水が小さな溝を流れている。
金木犀の冬囲いは、藁と布に包まれたまま、春を待つ小さな沈黙のように立っていた。
やがて、王都の馬車が村の入口へ着いた。
アリアンヌは以前より身軽な外套で降りてきた。裾には泥が跳ねている。メリッサが少し気にしていたが、アリアンヌ本人はもうそれを恥じる様子もなかった。
村の標柱の前で、彼女は名乗った。
「アリアンヌ・リュゼ・ヴァルクスです。金木犀の冬囲いをほどく約束で来ました」
セリカは頷いた。
「入れ」
リュミナが問う。
「肉は?」
アリアンヌは微笑んだ。
「春の燻製肉と、栗の蜜煮を少し」
「入れ」
「お前が決めるな」
そのやり取りを、村人たちはもう普通の朝の挨拶のように聞いていた。
リクは戻り香の家の前で待っていた。
アリアンヌが近づく。
二人はしばらく金木犀の冬囲いを見た。
「今日はリク」
リクが言った。
「リオンは夜の道。木馬の鈴は棚。金木犀は……これから返事を見せる」
アリアンヌは両手を胸の前で合わせた。
「今日はアリアンヌ。王女の服は馬車に置いてきました。支柱を替える約束を覚えています」
「じゃあ、やるぞ」
「うん」
「はい、だろ」
「はい」
二人は笑った。
冬囲いをほどく作業は、ミナの指示で行われた。
まず外側の紐を解く。
藁を少しずつ外す。
布を急に取らず、朝の冷気に慣らす。
根元の土を触り、凍っていないか確かめる。
リクは紐を解くのに手間取った。
「固い」
アリアンヌが横から言う。
「私がやってみる?」
「待て。俺が結んだんだから、俺がほどく」
セリカが静かに言った。
「結んだ者だけがほどけるとは限らない」
リクは振り返る。
「何それ」
「白盾の話でもある」
リクは少し考えた。
「じゃあ、手伝え」
アリアンヌは頷いた。
「うん」
二人で紐をほどいた。
結んだ時より、ほどく方が難しかった。
冬のあいだに紐は湿り、乾き、また凍り、少し縮んでいる。リクが引っ張りすぎると、アリアンヌが「待って」と言い、アリアンヌが慎重すぎると、リクが「そこは引いていい」と言った。
リュミナが横から言う。
「肉の紐なら私が得意だ」
「来るな」
リクとセリカが同時に言った。
やがて、最後の布が外れた。
金木犀の若木が現れた。
葉は少し傷んでいた。
先の方は茶色くなり、細い枝の一本は折れていた。冬前の鮮やかな姿ではない。花はもちろんない。王都から運ばれてきた時の甘い香りも、ほとんど消えている。
アリアンヌの顔が曇る。
「傷んでいる……」
リクも黙った。
彼は枝に触れようとして、手を止める。
「枯れた?」
ミナが近づき、幹をそっと確認した。
「いいえ」
彼女は微笑んだ。
「生きています」
リクの肩が落ちる。
「本当か」
「はい。枝先は傷んでいますが、根元はしっかりしています。新芽もあります」
「どこ」
アリアンヌが身を乗り出す。
ミナは細い枝の節を指した。
そこに、本当に小さな緑があった。
まだ葉とは呼べない。
膨らみ。
春の前の返事。
リクはそれを見つめた。
「小さ」
「根の返事ですね」
リオが言うと、リクは小さく笑った。
「やっと見えるところまで来た」
アリアンヌは泣きそうになっていた。
「生きてた」
「泣くなよ」
「難しい」
「知ってる」
リクは少し迷い、それから折れた細い枝を見た。
「これは?」
ミナが言う。
「切りましょう。傷んだ枝をそのままにすると、木が疲れます」
アリアンヌの表情が少し強張った。
「切るんですか」
「はい。全部守ろうとすると、根が弱ることがあります」
その言葉は、ただ木の話ではなかった。
王家の記憶。
名前。
罪。
英雄碑。
何を残し、何を切り、何を棚に置くのか。
アリアンヌは静かに頷いた。
「私が切ってもいいですか」
リクは彼女を見る。
「できる?」
「やってみたい」
「じゃあ、一緒に」
ミナが小さな剪定鋏を渡した。
リクとアリアンヌは、二人で鋏を持った。
折れた枝の根元へ当てる。
一度では切れなかった。
二人は力を合わせた。
ぱちん。
小さな音がした。
枝が落ちた。
アリアンヌの目から涙が落ちる。
リクは枝を拾った。
「捨てる?」
ミナは首を横に振った。
「香りにできます。冬を越した枝ですから」
リクはそれを大事そうに持った。
「棚に置く?」
リオは答えた。
「はい。人ではない名の棚にも、香りの棚にも」
アリアンヌは枝を見た。
「名前は?」
リクは少し考えた。
「“切ったけど捨てない枝”」
セリカが微かに笑った。
「いい名だ」
アリアンヌは頷いた。
「うん。いい」
リュミナが言った。
「枝も食べ物ではない」
「言われなくてもわかってる」
リクはすぐ返した。
支柱替えは午後までかかった。
古い支柱を抜くと、土の中から冬の湿り気が上がった。新しい支柱はアリアンヌが王都から持ってきたものだったが、リューネ村の縄で結ぶことになった。
「王都の支柱と、リューネの縄」
リオが言うと、リクは頷いた。
「混ぜた方がいい」
アリアンヌが尋ねる。
「どうして?」
「片方だけだと、倒れた時にどっちのせいかってなる」
セリカが笑いをこらえる。
「実用的だな」
リクは真面目だった。
「両方で支えたら、両方で直すだろ」
アリアンヌはその言葉をじっと聞いていた。
「うん」
「うんばっかり」
「はい」
支柱が立った。
金木犀は少し不格好だった。
葉は傷み、枝は少なく、支柱に支えられてようやく立っている。
けれど、立っていた。
リクは土で汚れた手を見つめた。
アリアンヌの手も泥だらけだった。
リューネ村の春の泥。
王都の王女の手。
名を選び直す少年の手。
ミナが水を持ってきた。
「洗いますか」
リクは少し考えた。
「あとでいい」
アリアンヌも頷いた。
「私も」
二人は泥のついた手のまま、金木犀の前に立っていた。
その日の昼食は外で取ることになった。
まだ寒いので、鍋は戻り香の家の入口近くに置かれた。春の燻製肉、栗の蜜煮を少し、根菜、豆、薬草。リュミナは「春の鍋だ」と宣言し、エルマ婆が「まだ春手前だよ」と笑った。
レインもその場にいた。
彼は金木犀の若木を見て、小さく言った。
「傷んでいても、生きている」
リクが頷く。
「レインもそんな感じ?」
レインは少し驚き、それから笑った。
「はい。たぶん」
「この家はたぶんでできてるからな」
アリアンヌが続けた。
「王都も、少しそうなってきました」
セリカが言う。
「それはいい傾向なのか」
リオは答えた。
「たぶん」
皆が少し笑った。
食後、アリアンヌは人ではない名の棚を見に行った。
“鳴らない木馬の鈴”は、前と同じ場所にあった。
その隣に、今日の枝を置くスペースが作られている。
リクは枝を布の上に置いた。
「ここ」
アリアンヌはそっと触れた。
「切ったけど捨てない枝」
「うん」
「私たちにも、そういう記憶があるのかもしれない」
リクは少し考えた。
「切るのと、なかったことにするのは違うんだろ」
ミナが静かに頷く。
「はい。とても違います」
アリアンヌはリクを見た。
「リクは、そういうことをよく言えるようになったね」
リクは顔を赤くした。
「うるさい」
「褒めています」
「姉さんに褒められると変」
「変でも、褒めたい」
リクは棚を見た。
「じゃあ、ちょっとだけならいい」
アリアンヌは笑った。
夕方、アリアンヌが帰る前に、リオは新しい小瓶を作った。
ほどいた冬囲い。
傷んだ葉。
小さな新芽。
切った枝。
王都の支柱。
リューネの縄。
泥のついた二人の手。
「生きてた」というアリアンヌの声。
「やっと見えるところまで来た」というリクの声。
ラベルは、二人で決めた。
最初、アリアンヌは“春の返事”と言った。
リクは“まだ春じゃない”と言った。
少し相談し、最終的にこうなった。
“春の前の返事。”
その瓶は、金木犀の棚に置かれた。
“植えてもいい。”
“冬を覚える。”
“春の前の返事。”
三つが並んだ。
木の記録。
同時に、二人の記録でもあった。
アリアンヌが馬車に乗る前、リクは金木犀の前で言った。
「次は花が咲くか見に来い」
アリアンヌは目を丸くした。
「秋まで?」
「途中でもいい。葉っぱが増えたら」
「手紙で聞いてから?」
「手紙で聞いてから」
「はい」
リクは少し迷ったあと、言った。
「姉さん」
アリアンヌは息を止める。
「支柱、ちゃんと立った」
アリアンヌは涙を浮かべながら頷いた。
「うん」
「うんばっかり」
「はい」
二人は笑った。
馬車が去った後、リクは泥のついた手をようやく洗った。
水は冷たかった。
けれど、冬の冷たさではない。
春の前の水だった。
夜、戻り香の家の木札の下に、小さな札が増えた。
リクが書いた。
“ほどく時は、急がない。”
セリカがそれを見て頷いた。
「いい」
リュミナが言った。
「結ぶ時もだ」
「それも書く?」
リクが聞くと、リュミナは少し考えた。
「食べる時も急がない」
「お前が一番できてないだろ」
戻り香の家に笑いが広がった。
リオは灯りを落としながら棚を見た。
金木犀の小瓶。
鳴らない鈴。
切ったけど捨てない枝。
灰星の額飾り。
夜中の薬匙。
焦がしてばかりの鍋底。
すべてが、声を出さずにそこにある。
ほどく日には、結んだ手も思い出す。
冬囲いを外せば、冬の傷も見える。
けれど、傷があることと、枯れたことは違う。
香りは残る。
傷んだ葉にも。
切った枝にも。
そして、春の前にようやく見えた小さな新芽にも。




