表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された宮廷調香師は、辺境の村で竜の眠りを解く――香りだけで呪いも戦争も終わらせます  作者: たむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
48/54

第四十八話 春を待つ木は、根で返事をする

リューネ村へ戻ると、リクはまず小鍋を確認した。


「無事か?」


「私も無事だ」


リュミナが胸を張る。


「小鍋に聞いた」


「なぜだ」


「王都の会議場に置かれたんだろ。変なもの吸ってないかと思って」


「失礼な。王都も少しは学んだ」


セリカが雪を払って馬車から降りた。


「学んだ結果、会議記録に鍋の火加減が残った」


リクは一瞬黙った。


「本当に?」


リオは頷いた。


「本当です。あなたの“椀を置いとけばいい”も会議で役立ちました」


リクの顔がみるみる赤くなった。


「何で言うんだよ!」


「アリアンヌ殿下から伝言です」


「姉さんまで!」


彼は外套の襟に顔を埋めた。


だが、怒っている匂いではなかった。照れと、少しの誇らしさと、名前のある言葉が遠くへ届いた戸惑い。


レインはその様子を見て、静かに笑っていた。


リクはそれに気づくと、すぐに彼を指さした。


「レイン、今日は?」


レインは背筋を伸ばした。


「今日はレインです」


「よし。王都で食ったか?」


「はい。会議の前にも、途中にも」


「ならいい」


リュミナが深く頷いた。


「リクは完全に理解した」


「理解したくてしたんじゃない」


「よいことだ」


戻り香の家の中は、冬の匂いで満ちていた。


薪、乾燥薬草、豆の煮える匂い、濡れた外套、雪を踏んだ靴。エルマ婆が鍋を温め直してくれていた。村人たちは、王都の会議の細かい話よりも先に、帰ってきた者の顔色を見た。


「疲れてるね」


エルマ婆がレインに言った。


「はい」


レインは素直に答えた。


「なら食べな」


「はい」


それだけで十分だった。


食後、リオは王都で作った小瓶を棚に置いた。


“鍋の火加減。”


その隣に、“椀を置いとけばいい”、“余白を彫る”、“悲しみ直している者”、“投げても、溶けるもの”が並ぶ。


棚は、いつの間にか王国の縮図のようになっていた。


王都の罪。


白盾の名。


リクとリオン。


ミナの声。


レインの雪。


灰星。


ルーガンの雪玉。


鍋の火加減。


どれも、完成した答えではない。


けれど、どれも誰かが戻るための道標だった。


レインは棚の前で静かに頭を下げた。


「ここへ戻ると、証言が少しだけ人の形に戻ります」


リオは尋ねた。


「王都では、記録になりすぎますか」


「はい。必要なことだとわかっています。でも、紙の上の私は罪の項目です。ここでは……粥を食べた者です」


リクが横から言った。


「灰星の話するやつでもある」


レインは微笑む。


「はい」


リュミナが付け加える。


「小鍋の重要性を理解した者でもある」


「それは……はい」


セリカは呆れたように言った。


「お前の項目はどんどん増えるな」


レインは棚を見た。


「名だけでは寒いですから」


その一言に、戻り香の家の空気が少し温かくなった。


翌朝、リクは金木犀の冬囲いの雪を払っていた。


枝は見えない。


藁と布と雪に包まれたその姿は、木というより小さな眠る家のようだった。


リオが近づくと、リクは振り返らずに言った。


「姉さんから手紙来てた」


「読みましたか」


「うん」


「何と?」


「王都の会議で、俺の言葉が使われたって。あと、金木犀は元気かって。春に来るって。支柱替える約束、覚えてるって」


「よかったですね」


リクは少し黙った。


「この木、返事しないんだよな」


「木ですからね」


「でも、生きてるかどうか気になる」


リオは金木犀の冬囲いに手を近づけた。


香りはほとんどない。


花も葉も眠っている。


だが、根元の土の奥に、かすかな湿り気と苦い緑の匂いがある。


「根で返事をしています」


リクが振り返る。


「根で?」


「はい。見えませんけど、土の中で生きています。春まで返事が見えないこともあります」


リクはしばらく冬囲いを見ていた。


「人も?」


「たぶん」


「たぶんか」


「この家は、たぶんでできていますから」


リクは笑った。


「そうだった」


その日の朝の名乗りで、リクはこう言った。


「今日はリク。リオンは夜の道。王子の服は畳んでる。金木犀は、根で返事中」


ミナは記録帳を開きかけ、リクに睨まれた。


「後で」


「はい」


リュミナがスープを飲みながら言う。


「根にも栄養が必要だ」


「木に肉はやらない」


「人間の話だ」


「そっちはわかる」


セリカが王都からの書類を広げながら言った。


「白盾記録院から、灰鷹平原の再調査日程案が来ている」


部屋の空気が少し引き締まる。


レインは椀を置いた。


「いつですか」


「雪解け前に一度。春に本調査。灰星の所在も確認する」


リクが顔を上げる。


「灰星、見つかるかな」


「わからない」


セリカは正直に答えた。


「二十年だ。骨も残っていないかもしれない。だが、探す」


レインは頷いた。


「お願いします」


「お前も行くかどうかは、その時に判断する。裁きと体調次第だ」


「はい」


リュミナが言った。


「馬には干し林檎が必要だ」


「馬が見つかってからにしろ」


セリカが返す。


だがレインは静かに言った。


「持っていきたいです。見つからなくても」


セリカは少し考え、頷いた。


「なら持て」


その日の午後、ノアが戻り香の家に来た。


雪の中、弦楽器を背負って。


彼女は王都とルーガンの話を聞き、未完成だった“急がない歌”に一節を加えたいと言った。


「歌にしていいのか、まだ迷います」


ノアは炉の前で手を温めながら言った。


「けれど、歌わないと寒いまま残る言葉もある気がして」


レインは静かに頷いた。


「聞きたいです」


「全部はまだ歌いません」


「はい」


ノアは弦を鳴らした。


低く、雪を踏む音。


次に、馬の鼻息のような短い旋律。


そして、遠くの鍋の湯気のように、少しだけ上がる音。


歌詞は短かった。


――名を呼ぶな、雪が言った。

――名を呼べ、春が言った。

――その間で、人は椀を持つ。


リュミナが真剣に頷く。


「よい」


リクが小声で言う。


「やっぱり椀なんだ」


ノアは笑った。


「今のところ、椀です」


レインは目を閉じて聞いていた。


涙は出なかった。


ただ、手元の木札を握っていた。


歌い終えると、ノアはリクへ言った。


「途中の先輩、木札が増えたそうですね」


リクは顔をしかめた。


「その呼び方やめろって」


「“投げても溶けるものがあります”は、とてもいいです」


「俺だけじゃない。雪玉はリュミナの案だし」


リュミナは誇らしげに胸を張る。


「そうだ」


セリカがぼそりと言う。


「たまに本当に役立つから困る」


ノアは戻り香の家の木札をしばらく見つめていた。


「ここは、どんどん長い詩になりますね」


リオは笑った。


「詩ですか」


「ええ。帰るための詩です」


その言葉で、リオは新しい小瓶の名前を思いついた。


木札。


雪。


鍋。


金木犀の根。


ノアの未完成の歌。


リクの朝の名乗り。


“帰るための詩。”


彼はそうラベルを書いた。


数日後、白盾記録院からアリアンヌの手紙とは別に、エルヴィンの書簡が届いた。


宛先はリク。


そして、レインにも写しがあった。


リクは警戒しながら封を開けた。


中には短い手紙と、また難しそうな冊子が入っていた。


「またかよ」


彼は顔をしかめる。


表紙には、


“名を保持したまま公的責任を延期するための法的選択肢。”


と書かれている。


リクは一行で閉じた。


「無理」


リオは手紙を読んだ。


――リクへ。


――難しければ読まなくていい。


――ただ、いつか必要になった時、選択肢があることを覚えていてほしい。


――王族の名は、着るか捨てるかだけではない。畳んでおく、風を通す、誰かに預ける、条件をつけて使う、という方法もある。


――私はそれを、自分の罪を通じて遅く学んでいる。


――エルヴィン。


追伸。


――リュミナへ。食事に関する権利ではない。


リュミナが不満そうに言った。


「毎回書く必要があるのか」


リクが笑う。


「あるだろ」


セリカが冊子を手に取り、ざっと目を通した。


「悪くない。法律の形をした棚だな」


「棚?」


リクが聞く。


「名を置く棚だ。勝手に使われないようにするための」


リクは少しだけ冊子を見る目を変えた。


「じゃあ、手紙棚に置く」


「それでいい」


レインは自分への写しを読んでいた。


そこには、証言者が裁きの前に持つ権利、証言の範囲を区切る方法、遺族との接触を相手の意思に委ねる手続きが書かれているらしい。


「エルヴィン殿下は、私にも棚を作ってくれたのですね」


レインは言った。


リオは頷いた。


「そう思います」


「私はまだ、彼をどう見ればいいかわかりません」


「急がなくていいです」


レインは少し笑った。


「はい」


冬は深まった。


灰鷹平原の本調査は春を待つことになった。


王都ではヴォルクの審理が始まり、彼はまだ「国のため」と繰り返しているという。だが、白盾記録院には北西からの木札が増え続けていた。怒り、信じない声、父や母の食べ物の記憶、兵士たちが帰りたかった家の匂い。


その写しが、時々戻り香の家へ届く。


リオたちは、それを棚に置く。


すべてを香りにするわけではない。


ただ、置く。


時々読む。


時々閉じる。


そして食事をする。


ある夜、リクは金木犀の冬囲いの前で、アリアンヌへ返事を書いていた。


――姉さんへ。


――金木犀はまだ寝ています。

――返事は根でしてるらしい。

――春にならないとわからないけど、たぶん生きてる。

――俺もそんな感じです。

――今日はリク。リオンは夜の道。王子の服は棚に置いて、たまに風を通す。

――支柱替え、忘れるなよ。

――リク。


書き終えると、彼は少し迷い、最後に一行足した。


――椀は置いておく。


リオはそれを見て、何も言わなかった。


言わなくても十分だった。


夜が更ける。


戻り香の家の灯りは、雪の中で温かく滲んでいる。


棚には、数えきれないほどの瓶と手紙と木札。


鍋は洗われ、炉のそばで乾いている。


金木犀は根で返事をしている。


レインは眠り、明日また名を言うだろう。


ミナは声守草の薬を仕込み、セリカは白盾の裏を少しずつ読み、リュミナは保存食の棚に近づいて叱られるだろう。


そしてリオは、香りを残す。


すぐには芽を出さない記憶のために。


春まで返事が見えない名前のために。


香りは残る。


根の中にも。


棚の中にも。


まだ届かない手紙の余白にも。


そして、誰かが帰るために少しずつ長くなっていく、戻り香の家の木札にも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ