第三十七話 灰鷹平原へは、雪解けを待たずに行く
雪は三日降り続いた。
リューネ村の道は白く埋まり、竜祠の屋根には分厚い雪が積もった。戻り香の家の金木犀は藁と布に包まれ、まるで小さな獣が冬眠しているように見えた。
雪と名乗った男は、三日目の朝には自分で起き上がれるようになっていた。
傷はまだ痛む。肩の包帯には薬草の匂いが染みている。凍えかけていた足も、ミナの手当てで少しずつ血の色を取り戻した。だが、彼の顔には休んだ者の明るさがなかった。
眠れば、灰鷹平原へ戻る。
起きれば、名を言えない自分がいる。
そのどちらも苦しいのだろう。
彼は毎朝、台所の隅に座り、薄い粥を食べた。
リュミナはその横で、必ず言った。
「一口増やせ」
雪は困ったように椀を見る。
「これで十分です」
「十分ではない。お前の匂いはまだ薄い」
「匂い?」
「生きる匂いだ。薄い」
雪はそのたびに少しだけ粥を増やした。
リクはそれを見て、初めて自分が戻り香の家へ来た日のことを思い出したらしく、複雑な顔をしていた。
「リュミナって、誰にでも食わせるんだな」
「必要だからだ」
「俺の時も?」
「お前も薄かった」
リクは少し黙った。
「今は?」
リュミナは彼をじっと見た。
「だいぶ濃い」
「何か嫌な言い方だな」
「褒めている」
「ならいいけど」
雪はそのやり取りを聞いて、ほんの少しだけ笑った。
笑うと、彼の周りの雪と血の匂いが一瞬だけ弱くなる。代わりに、薄い粥と薪と薬草の香りが混じる。
リオはその変化を記録した。
名を言えない者にも、笑いは先に戻ることがある。
三日目の昼、王都から返書が届いた。
雪の中を強行して来たのはハルトだった。彼は外套を真っ白にして戻り香の家へ入り、名乗った後、炉の前でしばらく動けなくなった。
「王都から、灰鷹平原に関する資料です」
ハルトは手を温めながら言った。
「白盾記録院に残る記録を調べたところ、公式戦史と旧軍務記録に複数の矛盾がありました」
セリカが地図を広げる。
「第三歩兵隊か」
「はい。公式には志願して殿を務め、全滅した英雄部隊とされています。しかし軍務記録の初稿には、撤退命令が出ていた痕跡があります」
雪の顔が青ざめた。
「残っていたのか」
ハルトは静かに頷く。
「完全ではありません。命令書そのものは焼失扱いです。ただ、命令を伝えるため派遣された伝令の記録がありました」
部屋が静まる。
雪は椀を握りしめた。
ハルトは紙を開いた。
「伝令名は、削除されています」
雪は息を吐いた。
安堵ではない。
むしろ、予想していた痛みがそのまま来たような息だった。
「しかし、削除跡に白盾石粉を使った検出を行ったところ、文字の一部が浮かびました」
ハルトは紙を置く。
そこには、かすれた文字があった。
“――レイン・ガル――”
雪が椅子から立ち上がりかけ、膝をついた。
ミナが支える。
「無理しないでください」
雪は紙から目を逸らせない。
唇が震えている。
「レイン……」
それが名なのか。
それとも名の一部なのか。
彼は自分の口から出た音に怯えるように、両手で口を押さえた。
部屋の温度が下がる。
窓の外の雪が、急に近くなった気がした。
リオは“今日は雪”の香りを開けた。
さらに“まだ聞かない”を薄く重ねる。
「大丈夫です。今は全部言わなくていい」
雪――レインかもしれない男は、荒く息をした。
「言った……」
「一部だけです」
「戻る……」
「戻りません。ここにいます。戻り香の家です」
リクがすぐに言った。
「薄い粥食べた。リュミナに増やされた。俺が見てた」
雪はリクを見る。
現実の小さな記憶。
粥。
リュミナ。
リクの声。
それが彼を灰鷹平原から少し引き戻した。
ハルトは言葉を選びながら続けた。
「国王陛下は、灰鷹平原の調査を命じました。ただし雪が深いため、軍の大部隊は動かせません。白盾記録院は、現地に残る香りと白盾の反応を確認するため、少人数の調査を提案しています」
セリカが眉をひそめる。
「つまり、私たちに来いと」
「命令ではありません。依頼です」
「王都の命令では動かない」
「承知しています」
ハルトは深く頭を下げた。
「ですが、白盾の裏が反応した以上、セリカ村長とリオ殿の助けが必要になる可能性が高い。雪さん……いえ、彼の記憶も、現地でなければ安定しないかもしれません」
リュミナが窓の外を見る。
「雪解けを待つと、名が流れる」
全員が彼女を見る。
白竜は銀の瞳を細めていた。
「灰鷹平原の雪は、ただの雪ではない。二十年、名を隠してきた雪だ。今、この男が扉を叩いたことで、雪の下が動いた。春まで待てば、名も骨も、怒りも水になって広がる」
ミナが不安そうに言う。
「広がると、どうなりますか」
「知らぬ者の夢に入る。兵士の家族、子孫、近くの村。名を返せと」
リオは息を吸った。
忘却でも、忘れられない者でもない。
これは、未記録の死者の呼び声。
雪の下で保たれていたものが、春の水に乗って人々の記憶へ流れ込む。
「雪解けを待たずに行く必要がある」
セリカは地図を見下ろした。
「危険だ」
ハルトが言う。
「はい」
「道も悪い。平原は吹雪けば戻れない。雪……いや、レインかもしれない男は負傷している。リクは置いていく」
「俺も行く」
リクが即座に言った。
セリカは彼を見る。
「駄目だ」
「何で」
「危険だからだ」
「王都の時も危険だった」
「今回は戦場の死者だ」
リクは拳を握る。
「名前の途中のやつがいるんだろ。俺、役に立つかもしれない」
リオはリクの匂いを読んだ。
恐怖はある。
だが、ただの無鉄砲ではない。自分が受け取ったものを、誰かへ返したいという匂い。
しかし、灰鷹平原は重すぎる。
二十年前の戦場。
嘘で死なせた部隊。
名を言えない伝令。
そこにリクを連れていくのは危険だった。
「リクさん」
リオは静かに言った。
「あなたの経験は大事です。でも、今の灰鷹平原は、あなたの夜の道にも触れるかもしれません。名前を揺らされる危険があります」
「俺が弱いってこと?」
「違います。あなたの名が大事だからです」
リクは唇を噛んだ。
リュミナが言う。
「留守番も盾だ」
リクは彼女を睨む。
「都合よく言ってるだろ」
「少し」
「おい」
リュミナは真面目な顔で続けた。
「だが本当だ。戻り香の家を空にしてはいけない。雪の名を持ち帰った時、置く場所が要る。リク、お前はここで場所を守れ」
リクは言い返せなかった。
自分がそうされたように。
戻ってきた者が名を置ける場所。
それを守る役目。
リクは長い沈黙のあと、低く言った。
「じゃあ、行く人の名前は毎朝ちゃんと言えよ」
セリカが頷く。
「当然だ」
「帰ってきたら、最初にここへ来い」
「当然だ」
「粥も用意する」
リュミナが頷く。
「肉も」
「お前は行く側だろ」
「帰ってきたら食べる」
「それはそう」
こうして、灰鷹平原への調査隊が決まった。
セリカ。
リオ。
リュミナ。
ミナ。
ハルト。
そして、雪――レインかもしれない男。
リクは戻り香の家に残る。
エルマ婆、鍛冶屋、そばかすの少年、そして村人たちと共に。
出発は翌朝。
雪が止むのを待ってはいられない。
その夜、戻り香の家では準備が行われた。
ミナは凍傷薬、止血薬、喉香、記憶固定香、睡眠香を小分けにした。リオは“今日は雪”、“まだ聞かない”、“盾の重さ”、“冬を覚える”を鞄に入れた。セリカは白盾と剣を整え、ハルトは王都の地図と軍務記録を確認した。
リュミナは小鍋を持っていくと主張した。
セリカは最初、拒否した。
しかし今回はミナが言った。
「小鍋は必要かもしれません。寒い場所ですし、雪さんにも温かいものが必要です」
リュミナは勝ち誇った顔をした。
「ミナは賢い」
「ただし、荷物として運ぶのはリュミナ様です」
「……賢さには厳しさが含まれる」
リクは台所で木札を作っていた。
雪のための小さな札だ。
表には、
“今日は雪。”
裏には、
“帰ってきたら、名前を聞く。急がない。”
彼はそれを雪へ渡した。
雪は戸惑ったように受け取る。
「私に?」
「雪のまま行くの、怖いかもしれないだろ。でも、帰ってきたらまたここで聞くから」
雪の手が震えた。
「私は……戻れるだろうか」
リクは少し考えた。
「わかんない」
「正直だな」
「でも、札はある」
雪は札を握りしめた。
「ありがとう」
リクは照れたように顔を背けた。
「謝るなよ」
「礼だ」
「……なら、いい」
夜更け、リオは一人で金木犀の冬囲いの前に立った。
雪が積もっている。
藁の中で、木は眠っている。
花の香りはない。
だが、“冬を覚える”の小瓶を開けると、土の下に静かな息があるのがわかった。
リオは自分の手を見た。
母の死。
王妃の手紙。
白盾。
リク。
ミナ。
セリカ。
リュミナ。
雪と名乗った男。
灰鷹平原。
物語は、いつも戻り香の家へ帰ってくる。
だが、帰るためには出ていかなければならない時がある。
「怖い顔をしている」
背後からセリカの声がした。
リオは振り返る。
彼女は白盾を背負い、外套を羽織っていた。
「明日のことを考えていました」
「倒れるなよ」
「努力します」
「努力では足りない」
「では、倒れないようにします」
「よし」
二人は金木犀の冬囲いを見た。
セリカが言う。
「リクは強くなった」
「はい」
「だが、置いていくのは正しい」
「はい」
「正しい選択でも、痛いな」
リオは頷いた。
「そうですね」
セリカは白盾に触れた。
「灰鷹平原には、どれだけの名があるのだろうな」
「わかりません」
「持てると思うか」
リオは少し考えた。
「一度には無理です」
「だろうな」
「でも、持てないほどではない形にするために行くのだと思います」
セリカは小さく笑った。
「お前も言うようになったな」
「誰かの影響です」
翌朝、出発の前に、戻り香の家の台所で全員が朝食を取った。
薄い粥ではなく、少し濃いスープ。
寒い道へ出る者のために、肉と豆が入っている。
リュミナは満足そうに椀を抱えた。
「よい出発だ」
雪は札を胸にしまい、スープを一口飲んだ。
「温かい」
リクが言った。
「覚えとけよ」
雪は頷いた。
「覚えておく」
セリカは立ち上がった。
「行くぞ」
外は白かった。
村人たちが見送りに集まっている。
リクは戻り香の家の入口に立ち、木札を握っていた。金木犀の冬囲いの向こうで、朝の雪が鈍く光っている。
リオは小瓶を取り出し、出発の香りを閉じ込めた。
雪。
朝のスープ。
リクの札。
白盾。
小鍋。
名をまだ言えない男。
そして、帰る場所を守る者の匂い。
ラベルにはまだ何も書かなかった。
灰鷹平原から戻った時、その名が決まるだろう。
一行は雪道へ踏み出した。
白い世界の向こう、北西に灰鷹平原がある。
二十年分の雪の下で、名を待つ者たちがいる。
香りは、まだ遠い。
けれど確かに、風に混じって届き始めていた。




