幔幕(まんまく)に菊(きく)と霞(かすみ)
めでたいんだか、縁起が悪いんだか。
烏丸菊定錆之丞、わたしはキクと呼んでいるが、彼に初めて出会ったとき、そう思ったものだった。彼が身の纏うのは墨染に銀鼠の縞の着物、手持ちの荷物を包んだ風呂敷は真朱に金の市松模様だった。月代を綺麗に剃って、むしろ剃りたてなのか青々とさえしていた。少年ぽさが抜け切らず、これで大黒柱がまかり通るのか甚だ疑問だったけれど、彼は愛想と身持ちだけは固く、浮気もないまま三年ほど経つ。わたしがぼんやりと洗濯や掃除に精を出すことが出来るのも、旅籠の手代として器量よくやっているキクのお蔭だ。
名からして武家のものと思われたけれど、いまどき剣など役に立たない、これからは商売がものを言うというのが彼の持論で、とうの昔に侍の魂など捨ててしまったようだった。
「俺、改名しようかと思って」
「…改名?」
とある日、家へ帰るなりキクがそんなことを言った。
「立派過ぎると肩の荷が重いだろ。だから、いっそ」
「…名前によるだろ。面白おかしい名ならあたしは反対だ」
面白おかしいと言ったわたしを、キクは鼻で笑った。わたしより年下の癖に時たま人を馬鹿にするのだから嫌になる。だからわたしたちには子が生まれないんだ。
「烏丸錆菊とか、」
よりによって、どうして「錆」を取り立てるのだ。「菊定」じゃ不満なのか。
わたしは鼻で笑い返す。するとキクは少しばかり腹を立てたようだった。
「そんなに錆つきたかったら、包丁でも研いでな」
わたしはキクの冗談に付き合いきれなくなり、湯を沸かすために外へ出た。わたしの嫌味にキクは「湯煙、砂埃」と叫んでいた。わたしの名が霞というから、そのへんをもじっているのだろう。
「もし、」
外へ出ると編み笠を被った旅人に声をかけられた。門の外からこちらへ目配せしている。歳若いのか、声が若々しい。十代かもしれなかった。
「何か、御用でも?」
わたしは首を傾げつつ、その場で旅人へ尋ねた。よく見れば、旅人は侍姿だ。真新しい大小の二本差し。着物もまだ糊が利いているように見えたし、黒い足袋が砂埃で汚れているのは気になったけれど、金回りのよさそうな人間に見えた。
「こちらに、烏丸様というお方がいらっしゃると伺ったのですが…」
「はぁ、亭主のことですか」
わたしは玄関からキクの名を呼んだ。気の抜けた返事が返ってきて、ひどくゆっくりとした所作でのそのそと出てくる。仕事が終わると気が抜けるのか、キクは家ではしばしば猫背でのそっと歩くときがある。
「しゃきっとしな!お客さんだよ」
「客?」
玄関先から門前が見えたのか、旅人の姿を捉えたキクは、見違えるようなすばやい動きで、裸足のまま外へ飛び出した。わたしの横をすり抜け、門前にたたずむ旅人へ駆け寄る。
「蟹丸!」
カニ、などと言う名は聞いたことがなかった。わたしは、どうやら知り合いらしいキクとカニを怪訝に見た。
「若…!やはり、お噂は本当だったのですね」
カニの言葉に不味いと思ったらしいキクは慌ててカニの口をふさぎにかかる。けど、もう遅い。
恐る恐る、わたしの顔をうかがうキクに、わたしは満面の笑みを零す。
「若ってのはなんだい?」
侍の魂など捨てたと言っていたけれど、昔の友人は居るようだ。キクはなにやらわたしに隠している。心をすべて明け渡さなかった罰か、わたしたちに子ができないのは。天にはすべてお見通し、これはもっと足しげく神社に通わねばなるまい…。
*
事の次第を一通り説明された。
いわく、若とは侍の身分の名残であり、愛称のようなものであるらしい。
いわく、カニはキクに仕えた一族の末裔であるらしい。
いわく、カニはキクの噂を聞きつけて、頼みごとをするべくやってきたらしい。
「で、どうしてあたしに隠すんだ」
「別に隠したわけじゃねぇ…子供の頃の思い出と同じさ。身分も何も、今はないんだ、ただの友達だよ」
「本当かい」
わたしはカニを睨んだ。キクの斜め後ろに鎮座している。わたしの見立ては正しかったようで、カニは今年で十七になるらしい。わたしとは六つも離れている。キクとは三歳差だ。
「お騒がせして申し訳ありません…若とは、菊定様とはただの友人関係です」
ただの、とつけるところに何かあるのではと勘ぐってしまう。けれどカニはいたたまれなさそうにするだけで、瞳を揺らしたり、咳払いをしたりはしなかった。
しかし、カニと言う割りに端整な顔立ちだ。役者でも通じそうである。カニにお茶を出しながら、わたしは先を促す。
「頼みってのは?」
「俺も、そいつが聞きたい」
カニはキクを頼ってきた。キクが出来ることといえば愛想を振りまくことくらいだと思うけれど、何を頼むのだろう。わたしとキクはカニが何を言い出すのか、なぜだかわくわくしながら、子供のようにそわそわして待った。カニは照れたように月代を撫で、キクの目を見た。
「菊定様に、説得していただきたい方が居るのです…」
言いながら、カニの頬が赤く染まる。その様はそこいらの女顔負けだ。わたしだってうかうかしていると、町内一の美人の座を奪われかねない。
「説得する?」
「その…、私はどうも口がとろくて…いつも相手の方に言いくるめられてしまいまして」
「ははぁ。女子かい」
話の読めていないキクは間抜けな顔をしていたけれど、思い当たったわたしはカニの言葉の核心をつく。図星だったらしく、カニの顔は更に真っ赤だ。そうしているとカニという名も納得できないことも無い。
「なに、かわいいあんたに無理に言い寄ってる女が居るんだね」
「お察しの通りです…霞様」
「ふぅん。頼みって言うから、何かと思えば」
キクは天を仰いでからカニを見た。その顔には笑みが浮かんでいる。どうやらしつこい女と手を切らせる自信があるらしい。
「古い友人として、女をまいてやろうじゃないか」
「ありがとうございます、菊定様」
わたしは眉根を寄せつつ、握手を交わす二人を見つめた。確かに、困っている友人を助けるのは別にいいけれど、自信満々に引き受けるってのはどうも納得がいかない。普段浮いた話の一つも聞かない、一途で素直が売りでもあるから、尚更だ。わたしの前にどれだけの女と手を切ってきたんだろう。
「カニさんとやら、今日の宿はどうするんだい。見たところ遠出のようだけど」
「これから、宿を探して参るつもりです」
「これからなんて、中宿くらいしか開いてないだろ。泊まっていけよ、どうせ俺たちは二人だ」
カニはとんでもないとばかりにキクの言葉を退けたが、結局は久しぶりに会ったのだからと、カニを家に泊めることになった。真夜中まで灯は消えることなく燃え続け、翌日の朝餉が終わると、カニは早速キクを連れ立って家へ帰った。わたしは大人しく留守番だ。帰りは明々後日になると言って、キクは出て行った。仕事はどうするのか尋ねると、日ごろの行いがいいから、主人が喜んで休みをくれたと言った。わたしはキクが無理に頼み込んで休みを取ったと解釈している。キクが居なければ、あの旅籠はどう考えても華に欠けるのだ。看板息子を数日間失えば売り上げにも響くだろうに。
お詫びとお礼を兼ねて、庭先の柿をいくつか笊に入れて、キクの旅籠へ行ってみた。「霞さんが看板娘になってくれてもいいんだけどねぇ」と、主人は舐めるような目で言った。
「わたしはとうが立っておいしくありませんよ」
寒疣が立つ肌を隠しつつ、逃げるように柿だけ置いてでてきてしまった。これではかえって失礼かとも思えたけれど、丁度道端で出くわした向こう隣のおゆきさんにこの話をしたら、それくらいしても仕方が無いと同情してもらえたので、ほっとしながら神社まで歩いた。
長い石段をすそを気にしながら上がりつつ、鳥の声に耳をすます。愛らしい鳴き声は、穏やかで、平和な証だ。
「どうか、お子を授かりますように」
と、いつもの願いをしたあと、
「ついでに、キクの字がカニの役にたてますように」
と、申し訳程度に祈ってみた。
しばらく境内のなかをぶらぶら歩き、肌寒いと感じる夕刻ごろまで神主の世間話に耳を傾けた。烏が鳴き、辺りが橙に染まりだした頃を見計らって、わたしは腰を上げた。
「烏は家に帰る時間みたいですから」
神主は笑ってわたしの背を見送った。帰っても一人なのだから、もう少し付き合えばよかったと思ったのは家に着いたあとで、隣の家からは夕餉のいい匂いと子供の甲高い声が聞こえていた。笑い声を聞くと、なぜか無性に寂しくなる。キクが帰ってくるのは明々後日、それまで毎日にぎやかな声をおかずに飯を食うのかと思うと気が滅入る。
「でも、一人酒ってのもねぇ」
誰とも無しにわたしは言った。返事などあるはずもなく、昨日晩くまで話し込んでいたキクとカニのせいで油を使うのも惜しくなり、わたしはふらりと家を出て、月明かりの下で町の中を彷徨った。町を歩いていたら、だれかに声をかけてもらえるのではと思って。
けれど提灯も持たずにふらふらしていたからか、同心には声をかけられたけれどいい男どころか猫の子一匹、わたしの側に寄る者はいなかった。
「全く、カニの奴は…」
純粋そうな少年だった。言い寄られるのも慣れていないのだろうか。
「……一人ってのは、寂しいもんだけどねぇ」
困るほど言い寄られてみたいものだ。一人で寂しいくらいなら、誰でもよいから側に居て欲しい、わたしはそう思うのだけど。
人間は欲の生き物だ。満たされると欲が出る。何もなければ、あるだけましだと、ありがたいとさえ感じるのに。
「帰るか………」
真夜中、猫の喧嘩を聞きながら床に就いたのが悪かったのか、傷ついた身体を舐め、一人で痛みに耐えながら、雨に打たれる猫になった夢を見た。
起きると空は泣いていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
侍が町人になるとか、中宿しかやっていないとか、嘘八百も多々。
「ああコイツ、小説とかドラマにかぶれてるミーハーなんだな」と思ってください…。
そこから脱出すべく、日々精進いたしまする…。(ホントにな)




