学年一の美女が、ある時から僕をチラチラと見始めた話
僕は、犬が嫌いだ。
幼稚園の頃、近所の公園で、買ってもらったサッカーボールを蹴っていた時に、突然現れた野良犬に腕を噛まれてしまった。
とても怖かった。
でも、どうしてか“怖がる姿を見せるわけにはいかない“と思った記憶だけが残っていた。
◆〜第一章:隠し続けた傷跡〜◆
六月の風は、少しだけ湿り気を帯びていた。
優駿高校二年生の教室。
窓際の席に座る僕、堺町碧は、少し緊張した面持ちで、自分の右腕を見つめていた。
幼稚園のあの日。
公園で突然襲ってきた野良犬の鋭い牙が、僕の右腕に深く食い込んだ。
あの時の激痛と、肉を引き千切られるような恐怖。
それ以来、僕は犬が嫌いになり、そして自分の腕に残った醜く歪な傷跡を“呪い“のように隠し続けてきた。
小学校の六年間、僕は夏休みでも頑なに長袖を脱がなかった。
林間学校の川遊びでも、僕だけはラッシュガードを喉元まで閉めていた。
中学校の三年間も、体育の時間以外は常に学ランやジャージを羽織っていた。
「碧は暑がりじゃないんだな」と笑われるたび、僕は曖昧な笑みを返して、右腕を背後に隠した。
僕にとって、この傷を見られることは、自分の弱さや惨めさを曝け出すのと同じだった。
高校一年生になってサッカー部に入部しても、その徹底ぶりは変わらなかった。
練習中は常にアームカバーを装着し、更衣室でも誰よりも早く着替え、右腕を人目に晒さないように細心の注意を払っていた。
そんな僕の鉄壁の守りを崩したのは、現・親友の安西裕也だった。
一年前の夏、部室でのことだ。
当時、少しヤンチャだった裕也は、頑なに腕を隠す僕を面白がり、悪ふざけで背後から僕を羽交い締めにすると、強引にアームカバーを剥ぎ取ったのだ。
「なんだよ堺町、そんなに隠して……うわ、なんだこれ、気持ち悪っ!」
剥き出しになった歪な傷跡。
裕也の無邪気で残酷な言葉が、僕の胸を深く抉った。
一瞬、部室にいた全員の視線が僕の腕に集中した。
僕は顔を真っ赤にし、震える手でアームカバーを奪い返すと、逃げるように部室を飛び出した。
だが、裕也は単なる意地悪な奴ではなかった。
翌日から、彼は何度も僕に謝りに来た。
そして、ピッチの上で共に泥にまみれ、激しいパス交換を繰り返すうちに、彼は僕の最大の理解者になった。
「あのアームカバー剥ぎ取った時は悪かったよ。でもさ、一年間お前のプレー見てて思ったんだ。その傷、お前がサッカーで戦い抜いてきた証みたいで、今はむしろ強そうに見えるぜ」
裕也のその言葉があったからこそ、僕は今日、この教室で初めて半袖のシャツを着る決意ができたのだ。
「おい、碧。本当にやるんだな?」
横から声をかけてきた裕也が、ニカッと笑う。
「うん。裕也のおかげで、少しだけ自分を許せるようになった気がするから」
◆〜第二章:視線の正体〜◆
意を決して半袖になった僕だったが、やはり周囲の反応は気になった。
クラスの連中が「堺町、半袖珍しいな」と声をかけてくる。
その視線が右腕に及ぶたび、僕は全身の毛穴が収縮するような緊張を覚えた。
その中でも、ひときわ熱を帯びた、そして執拗な視線があった。
佐々岡萌奈。
“学年一の美女“と称される彼女が、自分の席からチラチラと、何度も僕の右腕を盗み見るように視線を送ってくるのだ。
(やっぱり、どうせ興味本位で見てるんだ……。珍しくて、気味が悪いんだろうな)
僕は視線を逸らし、教科書に目を落とした。
彼女のような華やかな存在からすれば、僕の腕にある醜い古傷は、ただの“観察対象“でしかないのだろう。
裕也はそんな僕の様子を察して、「気にするな、お前の腕はカッコいいよ」と小声で励ましてくれたが、僕の劣等感はすぐには消えなかった。
その日から、萌奈の視線は僕を追い続けた。
移動教室の廊下、昼休みの購買、そして授業中。
ふとした瞬間に顔を上げると、必ずと言っていいほど彼女と目が合う。
彼女はハッとして視線を逸らすが、またすぐにチラチラとこちらを見てくる。
その繰り返しに、僕は次第に追い詰められていった。
◆〜第三章:あの日、あの公園で〜◆
迎えたサッカーの公式戦。
二年生でレギュラーに抜擢された僕にとって、負けられない一戦だった。
スタンドを見上げると、クラスの連中が応援に来ていた。その中に、萌奈の姿もあった。
「キャプテンの応援か……」
サッカー部のキャプテンは、誰もが認める文武両道のイケメンだ。
彼が萌奈に告白したという噂は、学園中の誰もが知っていた。
だが、試合が始まっても、萌奈の視線がキャプテンではなく、ピッチの端にいる僕を追っていることに気づいてしまった。
ミスをするたびに、彼女に傷を見られているような錯覚に陥る。
(そんなに、この傷がおかしいのかよ……)
ハーフタイム、僕は耐えきれず、更衣室で逃げるようにアームカバーを装着した。
後半、視界から傷を隠したことで、ようやく集中力が戻った。
僕は裕也への絶妙なクロスを上げ、三得点に絡む活躍を見せ、試合は快勝した。
試合の後、僕は一人で近所の公園に向かった。
ここは、僕が幼稚園の頃に野良犬に襲われた場所だ。
忌まわしい記憶の場所だが、同時に僕がサッカーの練習を始めた原点の場所でもある。
僕はジャージを脱ぎ、半袖の姿でリフティングを始めた。
一回、二回──。
ボールの感触が右足に伝わるたび、試合の興奮を鎮めていく。
「……堺町くん」
背後から声をかけられ、心臓が跳ね上がった。
振り返ると、制服姿の萌奈が立っていた。
僕は慌てて地面に置いたジャージを手に取り、右腕を隠すように羽織った。
「佐々岡さん……どうしてここに」
「今日の試合、すごかったね。堺町くんのアシスト、すごく綺麗だった」
「ありがとう。……キャプテンの応援、じゃなかったの?」
僕はわざと冷たく言い放った。
女子と話すのは苦手だし、何より僕のコンプレックスを凝視し続ける彼女とは、距離を置きたかった。
萌奈は悲しげに首を振った。
「ううん。私は、堺町くんの応援に行ったの」
「どうして? 僕なんて、キャプテンみたいに……」
萌奈が僕の右腕に視線を向けたのを見て、僕はついに──声を荒らげた。
「そんなに、僕の傷跡がおかしいのかよ! チラチラ見て、そんなに面白いか!?」
沈黙が流れた。
萌奈の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「……違うの。そんなんじゃ、ないの……」
悲しげな萌奈の表情を見て、一気に怒りが冷めた。
同時に、女の子を泣かせてしまったという後悔が溢れてきた。
「あ……ごめん、いきなり大声を……」
「ううん。堺町くんが忘れてるのも、無理ないよね」
「え?」
萌奈は一歩、僕に近づいた。
「あの日、この公園で……大きな犬が来た時。私の前に立って、守ってくれた男の子がいたの。腕を噛まれて、血がたくさん出てるのに、『大丈夫だよ、逃げて』って笑ってくれた男の子」
僕の脳内に、あの日の記憶が鮮烈に蘇った。
そうだ──。
僕はただ噛まれたんじゃない。
泣きじゃくる小さな女の子を背中に隠して、一歩も引かなかったんだ。
「その女の子が、私だったの。あの出来事の翌日、親の都合で急に隣町に引っ越しちゃってお礼も言えないまま、ずっと探してた」
萌奈は僕の前に立ち、ジャージの袖に触れた。
「衣替えの日、あなたの腕を見て思ったの。堺町くんが、あの時に私を助けてくれた“アオイくん“なんじゃないかって」
「だから……僕のことをチラチラ見てたの?」
「変な風に見ちゃってて、ごめんね。でも、どうしても確かめたくて……私も、“アオイくん“という名前しか覚えてなくて、苗字が全然思い出せなかったの。それに……」
「それに?」
「それに……うちの学校、『アオイ』って名前の男子は四人もいるんだもん」
僕は呆然とした。
この傷は、僕にとって“隠すべき醜態“だった。
けれど、彼女にとっては、僕を見つけるための“救いの証“だったのだ。
「堺町くん。……腕、見せて?」
僕は躊躇いながらも、袖を完全に捲った。
夕焼けに染まった歪な傷跡。
萌奈は微笑みながら涙を流し、温かい指先でその痕を優しく撫でた。
「やっと会えた。……ありがとう、私のヒーロー」
◆〜第四章:新しい絆、新しい景色〜◆
次の公式戦。
僕の右腕には、新しい紺色のアームカバーが巻かれていた。
それは、萌奈が「お礼と、これからの応援に」と贈ってくれたものだった。
スタンドには、誰よりも大きな声で僕の名前を呼ぶ彼女の姿があった。
驚いたことに、彼女も僕と同じ、お揃いのアームカバーを左腕につけていた。
「ヒーローと同じ印をつけて応援したいから」
そう言って笑った彼女の姿を思い出し、僕は自然と口角が上がった。
試合は終盤。
一点を争う激戦の中、僕は右サイドを突破した。
スタンドから、萌奈の澄んだ声が届く。
「碧くん、いけー!」
その声に応えるように、僕はゴール左隅に豪快なシュートを叩き込んだ。
ネットが揺れる。
歓喜の爆発。
僕は真っ先に彼女のいるスタンドを指差した。
試合後の公園。
夕闇が迫る中、僕たちは再びあのベンチにいた。
「碧くん。私、ずっとあなたのことを探してたけど……それは感謝だけじゃなくて、きっと、あの日からずっと、私の心には碧くんがいたんだと思う」
萌奈の告白に、僕の心臓は激しく鼓動した。
「えっと……僕も、佐々岡さんが試合で応援してくれるのは、嬉しい……かな」
二人は照れくさそうに笑い合い、どちらからともなく手を繋いだ。
アームカバー越しに伝わる彼女の熱が、僕の右腕の傷を、何よりも誇らしいものへと変えてくれた。
もう、隠す必要はない。
僕の腕にあるこの傷は、最高の彼女と出会うための、運命の道標だったのだから。
〜〜〜おしまい〜〜〜
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