一話 玉蟲、誕生
「蟲の一族、朱一族は謀叛を企てた疑いがあり、族滅に処す!」
深い曇り空が広がっている。もうすぐ雨が降り出しそうな予感があり、空気は湿っていた。刑場には縄で一列に繋がれたら罪人たち、朱一族が蟻の行列のようにのろのろと行進していた。
中には老人や女、まだ子供もいる。一人がよろけると、繋がっている他のものまでが引っ張られ列が乱れる。そこに、皮の鎧を着た兵士たちが鞭を叩きつけて、「早く歩け」と急かす。
血を吸うための藁が敷き詰められた刑場に、罪人たちが並べられた。民衆たちは息を呑んで処刑を見守る。そこには娯楽として消費してやろうという下衆な笑い声は響かず、皆の目は一様に恐怖に捉えられていた。
今の皇帝は耄碌したともっぱらの噂だ。皇帝の懐刀と言われた蟲を操る巫覡の朱一族を処刑するのだ。年老いてから、皇帝は占いに傾倒したのに、謀叛を企んでいるという妄想に取り憑かれたのだ。
白い髭を生やした朱一族の当主が口を開く。
「我らは無実だ。天は見てくださるだろう」
それが最後の言葉だった。処刑斧が振り上げられ、一列に並べられた朱一族の者たちは、菊の頚がぽとりと落ちるように無残に散った。
***
「どうか! 腹の子だけでも助けてください」
宮廷の獄舎に繋がれた女が一人。名を朱 玉葉。たった今、朱一族の唯一の生き残りになってしまった女だ。いや、腹の子を合わせれば二人か。
妊婦は処刑を出産まで免れる。しかし、腹はもう臨月ほどまで膨らんでいた。女は占いを得意とする巫女で皇太子妃のお抱え巫女で友人だった。
しかし今、彼女の目の前には、友も夫もいない。残るのは、壁と石、そして死の気配だけだった。
夜が明ける前、玉葉は深く息を吸った。腹の中の子を守るために、まだ決して絶望はできない。外の世界では、朱一族の名はすでに風と共に消え、残虐な記憶だけが広がっていた。
その夜、雨が降り出した。獄舎の屋根を叩く雨音は、まるで蟲の羽音のように響き、玉葉の意識を揺らす。やがて、弱い光の中で、腹がきゅっと痛み、生命の波動が走った。
「来る……」
侍女も医女もいない。玉葉は自分の力だけで、子を迎えなければならない。長い呼吸と、古の占術を思い出す。経穴の位置、草の香り、指先の温度、すべてが、子を守るための手がかりとなる。
その瞬間、小さな手が腹を押し開くように動いた。玉葉は微かに微笑む。赤子の生命は、絶望の淵から生まれ出ようとしていた。
おぎゃー、おぎゃーと陰鬱な雰囲気に似つかわしくない赤子の溌剌とした泣き声が響く。赤子はすぐさま、玉葉から取り上げられ、産後でふらつく中、玉葉は刑場へと引っ張られて行った。
残された赤子は、兵士の片手で首を絞めれば、あっという間に死ぬだろう。しかし、母親から引き剥がした兵士はまだ臍の緒もついたままの赤子を布に包んで、皇帝の判断を仰ぐことにした。
玉座の上に座る霜が降りたかのような白髪の皇帝は汚い赤子を侮蔑の目で見ていた。赤子が生きていては、族滅とはならない。
「その赤子を殺せ」
皇帝は冷淡に告げた。しかし、そこに飛び込んできたのは冠が歪むほどに息が切れた皇太子とその妻だった。
「父上! どうか、赤子を手にかけることなどおやめください。その赤子は今しがた生まれたばかり。何の罪も犯してはおりません」
夫と腕を組んで、自分で立つこともやっとだった皇太子妃は床に伏し涙ながらに懇願した。
「私の子は流れました。どうか…どうか、罪なき赤子までも殺めることなどなさらないでください」
皇太子妃、芙蓉は皇帝も可愛がっていた娘だった。孫の誕生を心待ちにしていた。暗く落ち窪んだ目に一瞬だけ光が戻った。
「ならば、その赤子だけは助けよう。しかし、官婢として生涯を一族の罪を贖うために生きるのだ」
赤子は皇帝から直々に、蔑まれるための「蟲」という字を賜った。しかし、それではあまりにかわいそうだと同情した芙蓉が、母親の玉葉から一文字もらって「玉蟲」という名が奴婢の赤子に与えられた。
***
時はたち、玉蟲は十七歳になった。朱一族を族滅に処した当時の皇帝は、一年後には亡くなり、当時の皇太子が帝位に就いた。皇帝は父が猜疑心に苛まれ、蟲の一族である朱家を族滅に処してしまったことを申し訳なく思っており、奴婢であると言うのに玉蟲に格別な恩寵を授けた。
玉蟲は宮女であるが、医女としての才があったため、太医署や薬房に出入りできるようにした。純白の上衣と下衣を纏えるのは皇帝の寵愛を受ける玉蟲一人だけ。本来、奴婢の衣の色は生成りの色であって純白ではない。清らかな水を通した純白を纏える特権を与えられている。
玉蟲が医女の才を自覚したのは、皇太子、輝海が生まれながらにして病弱だったからだ。皇帝は自身の罪滅ぼしのために、玉蟲を皇太子と乳兄弟のように仲良く育てたのだ。
風邪には蜜柑の皮を乾かした陳皮がいいらしいよ。生姜湯に蜂蜜を垂らしたら飲みやすいかも。
玉蟲はおせっかいで、弟のような輝海を世話するのが当たり前だった。
皇后の芙蓉が「まあ。まるで輝海のための小さな女医さんね」と言ったことがきっかけで、玉蟲は医の道を志した。
後宮の南には宮女たちの宿舎がある。竹が混じった雑木林の中に建てられた日もあまり差さぬ打ち捨てられたような場所だ。ここは、以前は寵愛を失った妃嬪の殿舎だったが、後宮の縮小にともない宮女の宿舎になった。
その宿舎の一室に、玉蟲はいた。部屋には竹籠の中に蟲が入っており、鈴の音のような蟲の大合唱が響いていた。
「この雷鳴帝王と、犬狼大君を掛け合わせたら、最高の血統ができるわ!」
玉蟲の目の前には竹籠に入った蟋蟀が二匹いる。玉蟲は後宮で流行っている闘蟋の蟋蟀を厳選し、交配させ、強い蟋蟀を作り出そうとしていた。
「まぁた、たかが蟋蟀に大層な名前つけるよね」
隣室の宮女、小蟻が竹籠の中を覗き込む。小蟻も奴婢の少女だ。名前は玉蟲と同じく、蔑まれるために「蟻」という字が与えられた。小さく、踏み潰すもの、そういう意味を込めて。
小蟻の母は馬車馬のように働くという意味で「馬」、父は醜いという意味で「老鼠」と呼ばれている。
「名付けが自由なら、愛情が籠った名前にしなきゃじゃん!」
玉蟲はうっとりしながら、蟋蟀を眺め、木簡に交配表を書き記していく。
「玉蟲はまだ綺麗な名前だよ。だって綺麗な玉って字がついてるもん。私なんて、蟻だよ。蟻って小さいのにそこに、小まで付くんだから」
小蟻がうんざりしたように呟く。玉蟲や小蟻が名前を呼ばれる時、そこには必ず侮蔑がこもっている。
「でも小蟻の名前の響き、私好きだよ」
玉蟲がそう言うと、小蟻は「あっそう」とそっぽをむいてしまったが、耳が赤い。照れているのだろう。その時、軋む廊下の木材をぎしぎしと音を立ててやってくる人がいた。
「朱 玉蟲! また騒音の苦情が来ているぞ──って何だこれは、気持ち悪い」
やってきたのは宦官長の蓬莱だった。顔を歪めて、玉蟲の部屋を見渡す。
「あぁ…。この部屋はまるで蠱毒の壺…。いや、蜚蠊だらけだから、肥桶の中…か…」
顔が青くなり、急にげっそりとやつれた。蓬莱は闘蟋及び、どんな賭け事も後宮の風紀を乱すとして取り締まる機会を伺っている。しかし、闘蟋の最大の馬主ならぬ蟋蟀主である玉蟲が皇帝のお気に入りゆえに、なかなか取り締まることができない。
「失礼な! 蟲たちはこんなに可愛いのに!」
玉蟲が口を尖らせると、蓬莱が睨みつける。
「だいたい、こんなに蟲を集めていたら蟲毒とか金蚕蟲の呪法と勘違いされてしまうぞ」
長いお説教の気配を感じた玉蟲は木簡を片付けると、鍼や丸薬・粉薬・膏薬・練り薬などの仕事道具が入った鞄を手に取った。
「そういえば、そろそろ皇后陛下の診察の時間だから。蓬莱様、ごきげんよう〜」
そそくさと立ち去る玉蟲に、蓬莱はため息をついた。説教したりないが、皇后の診察を引き留めてもいけない。
「まったく…」
蓬莱はこめかみを抑えた。部屋に残った小蟻がぽつりと呟く。
「玉蟲が蠱毒なんてするわけありません。…でも朱一族の処刑の後に起こった蝗害は、やっぱり祟りなのかな」
蟲を操ると言われたら巫覡の一族、朱一族。それが玉蟲だけを残して処刑されたあと、大規模な蝗害が起きるようになった。朱一族の祟りだと恐れられ、先帝は毎日、仏に祈りながら亡くなっていった。




