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家に戻ると、玄関を開けた瞬間に目と鼻に突き刺さるような臭いが漂ってくる。
「……なんだこれ」
俺は思わず顔をしかめた。お節介な隣人がいたら通報されそうな臭いで、俺はすぐにドアを閉めた。
「あ、りっくん……」
キッチンから結が出てきた。目が真っ赤だ。泣いている。
「結、どうした」
「ハンバーグが……」
結が泣きながらキッチンを指差す。俺はキッチンを覗いた。出かける前に作っていたハンバーグのフライパンが煮立っているけど、やけに赤い。卯月が何かやったんだなとすぐに気付いた。
「卯月、これ何をした」
「トマト煮込みだから、唐辛子とか入れた」
「なんで」
「赤いから、辛い方がいいかなって」
卯月が当然のように言う。
「赤かったら辛いわけじゃないだろ」
「そう? でも赤いものって大体辛くない?」
卯月が首を傾げる。全然悪いと思ってないし、本気でそう考えている。
「結、ごめんね。私好みの味なんだけどなー」
卯月が結に謝りながら、反省していない顔で羽山が開けているピザに寄って行った。
「羽山も……」
声をかけた時には、羽山はすでにテーブルでピザの箱を開けて照り焼きチキンを食べ始めていた。話しかけても無駄だ。
「りっくん……匂いが目に染みるよぉ……」
フライパンから立ち上る湯気に目をやられている結にティッシュを渡し、とりあえず火を止めた。
「結……俺たちはまともな食生活で生きていこうな」
「うん……」
結が涙目で頷く。そして、結は卯月と羽山が並んでいるのを見て、駆け寄った。
「羽山くん、卯月にあんまり近づいちゃダメ!」
唐突に結が言って、羽山と卯月は不思議そうに結を見上げる。
「それと、りっくんのことも、盗っちゃダメなんだから……」
言いながら結の声はだんだん小さくなっていく。俺は思わず結の顔を見た。
小学生の時、女子がこんな言い争いをしていたような気がする。結は大人しいタイプだから参加していなかった。
「佐倉、お前は昔から何か勘違いしてるけど、俺はこの双子にそこまで興味がない」
羽山がさらっと言うと結は目を丸くした。
「……そうなの?」
「ああ、今日もピザを食べに帰ってきただけだ」
「そ、そんなの……嘘だよね……」
結が不安そうに言う。羽山は無言で照り焼きチキンを食べ続けている。
卯月が隣で「羽山、それ私の分!」と叫んでいるが、羽山は無視してピザを取り合っている。
結がその様子をじっと見ていた。
「……本当なんだ」
結がぽつりと呟く。毛を逆立てて警戒していたような雰囲気が、ふわっと柔らかくなる。
「そっか。それなら、安心だよ」
これが結の本音だったんだ。小学生の時からずっと言いたかったけど、我慢していたんだと思う。
食事が終わると、何故かお泊まりセットを持って来ていた卯月と羽山はそれぞれ風呂に入って寝る準備をしている。
家主の結に断りもせずに図々しいと思ったけど、家の中がずっと賑やかで結は嬉しそうだった。
卯月が結を寝室に連れて行き、俺と羽山はリビングに残される。
「竜胆、布団これだけ?」
「ああ、そんなにあるわけないだろ」
「俺、ちょっと潔癖だから人の布団で寝るのってちょっとなぁ……」
そう言いながら、羽山は勝手に布団の中に入っていく。
「それなら自分の家に帰れよ」
「夜目が効かないから、夜道を歩くのって危ないんだよな……」
「送って行こうか?」
返事は返ってこない。羽山に布団を奪われて、俺はソファに腰を下ろした。クッションと毛布があるから寝るのに困らないけど、結の家でなぜ俺がソファに追いやられているんだ。
寝室のドアの向こうから、結と卯月の声が聞こえてくる。
「今度さ、三崎も呼んでみんなでお泊まり女子会しようよ」
「いいね! 楽しそう!」
結の声が弾んでいる。さっきまで泣いていたのが嘘みたいだ。
「でも、女子会ならりっくんは?」
「ベランダにでも出しとけばいいじゃん。りっくん、キャンプとか好きだし」
卯月の笑い声が続く。
俺はソファで膝を抱えた。布団を奪われ、ソファの端に追いやられ、将来的にはベランダ扱いだ。
さっき羽山に「自信を持て」とか言われたけど、一体何だったんだろう。
でも、結が笑っているから、まあいいか、と思った。
*
翌朝、卯月と羽山が帰って、二人だけの家になった。
いつもと同じ静けさだけど、前とは違う気がした。なんだか空気が軽い。
「りっくん、昨日のハンバーグ、どうなった?」
結がキッチンを覗きながら言う。
「俺たちは卯月と違ってまともな味覚を持っているから、このまま食べるのは無理だ」
「捨てちゃうの……? もったいないね……」
「いや、カレーにした。大抵のものはカレーにすると食べられるからな」
鍋に移してカレールーを入れると、刺激臭が少し落ち着いてちゃんとカレーの匂いがしてくる。
「……食べてみるか」
「うん! 朝からカレーなんて豪華だね!」
結は嬉しそうに一口食べて、床に倒れた。
卯月の破壊力は凄まじい。朝に食べると一日が終わる味がする。
「りっくん……辛いけど、ギリギリ食べられるよ!」
「ああ……でも、昨日も今日も食べたら大変なことになるから、冷凍してゆっくり食べよう」
俺が小分けにしてタッパーに移しているのを、結が隣で見ていた。
「ちゃんと食べ切ろうな」
「絶対?」
「だって、もったいないだろ」
「すっごく時間がかかっちゃっても?」
「ああ、食べ物は無駄にしない」
「そしたら、これを食べ終わるまでりっくんはずっと一緒だね」
「食べ終わったって一緒だよ」
俺が言うと、結が少し驚いた顔をした。
「本当?」
「本当」
「約束?」
「約束」
結が嬉しそうに笑った。
「辛いのは苦手だけど、頑張って食べる」
「ああ、一緒に食べよう」
結にとって、先のことを当たり前みたいに約束してもらうのは、当たり前じゃなかった。お母さんが死んでから、ずっとそうだったんだ。
でも、今日からは少し違う。
「うん!」
結が笑う。
窓から朝日が入ってくる。昨日と同じ朝だけど、前より少しだけ明るい気がした。




