44
「た……高いぃ……!」
ゆらゆらと風でなびく頼りない命綱に縋り付きながら、ルイは早くもこの作戦を後悔し始めていた。
朝目が覚めて足首の拘束が無くなっていることに気づいたルイは、早速脱走の手筈を整え始めた。体調が良くないと言って、いつもそばに立っていた護衛やメイドを無理やり全員下がらせ、大慌てで部屋を探し回ったルイが考えついたものは、失敗すれば大怪我ではすまないような危険極まりないものであった。
「……やるしか、ない、よね……。」
時間もなく追い詰められていたルイは、何階にあるかもわからないこの部屋からロープ伝いで降りることを決めた。まず、ここ数日大変お世話になったすべすべのシーツをベッドから引っ剥がし、ビリビリと割いたものを結びつけて簡易的なロープとした。そしてその長さでは少し心許なかったため、カーテンも窓から引き剥がして結びつけると、そこそこの長さのロープもどきができた。
そのロープもどきを今まで鎖が繋がれていたベッドの脚へとくくりつける。このベッドの頑丈さは初日に嫌と言うほど思い知っている。人一人の体重くらいではびくともしないことはすでに証明済みである。
素っ裸だった体にいつも身につけていたワンピース型の部屋着をさっと身につけて、あらかたの準備が終わったルイがパッと時計を見ると時刻はお昼近く。このままこの城から脱出して、何とか公爵邸に逃げ込めたとしてもパーティーに出るにはギリギリの時間である。
このチャンスを逃せば、ルイはこのまま何もできずにアーノルドによって再び処刑され、繰り返しの日々に戻るのだろう。
次はルイが今回の記憶を覚えているかも分からない。それに、もし今回パーティーに出ることができても、結局チョーカーを返してもらえなかったルイでは何も変えることなどできないかもしれない。
それでも、このまま何もせずに囚われているだけなんてルイには耐え難かった。
思いっきり振りかぶった椅子を窓に投げつけると、思いの外豪快な音がしてしまったが、それでも狙い通り窓ガラスが割れた。シーツとカーテンのロープもどきを抱えて、窓のそばへとルイは駆け寄る。
今の音で人が集まってくるだろう。おそらく、アーノルドも。
「……っ!」
時間はないと急いで下を覗き込んだルイは、思わず息を呑む。
そんなに低い場所にあるとも思っていなかったが、これほど高いとは思っていなかった。おそらく四階建の1番上に位置するこの部屋から見た地面がこんなに遠いものだとは。
ヒュウウウと風の唸る音がルイの耳に飛び込んできたことで、思わず足がすくむ。
それに多分、ルイの作ったロープでは一階部分まで長さが足りない。怪我を覚悟で最低でも一階分は飛び降りる必要がある。
どうするとぐるぐると頭の中で考えを巡らせる。つーっとこめかみを流れる汗の感覚が不快で頭を振る。気がついたら全身にじっとりとした汗をかいていた。
なかなか窓から一歩踏み出す勇気を出せずにいると、俄かに部屋の外が騒がしくなった。
どうやらもうルイの部屋の窓が割れたことに気づかれてしまったらしい。
外側からは閉められても内側からは閉じることのできないこの部屋の扉の前には、少しでも時間稼ぎができればとルイが必死に置いた重そうな家具が塞いでいるが、それも時間の問題である。
「だ、大丈夫、大丈夫……。どうせ、ここに居たってあと数日後にはアーノルドから処刑されるんだ。……どうせだったら、抵抗して殺されたい。それに……ちゃんと、僕はカミルを見送るんだ……!」
それは、ここ数日暇を持て余したルイがぼんやりと考えていたこと。
ルイだって、この自由がない生活に辟易して、一度はこのまま繰り返してもいいかなとさえ思ってしまった。このまま物語を繰り返して、またルイはミカエルをいじめて、アーノルドに付き纏い、挙げ句の果てに無様に首を落とされる。
改めて考えると何ともまあ酷い3年間を繰り返しているものだなとは思ってしまったが、おそらくこれが予定調和というものなのだろう。
この世界ではミカエルは主人公でアーノルドがヒーローなのだ。そして、ルイは主人公たちに立ちはだかる悪役令息。
この物語の軸はこの3人なのだろう。だから、この3人には多少強引でも最後には役割を全うさせるための強制力のようなものが特に強く働く。
この世界において、ちょっと毒舌でどこまでも偉そうなミカエルも、やたらとルイに執着しているようなアーノルドも、誰もいじめない友達を大切にするルイも必要ないのだ。
このまま予定調和としてルイが悪役として処刑されれば物語は本来の正しい流れで進んでいくのだろう。
それに抗うと一度は決めたはずなのに、脱出する見込みすら持てないこの部屋にいたルイは全てを投げ出したくなってしまっていた。
それが、覆ったのは昨夜。アーノルドから無理やりに体を暴かれようとした時に、ルイは強く思ってしまった。
この人じゃ無い!と。
悔しいことにルイはそれまでアーノルドに絆されかけていたのである。
口や態度ではツンケンと冷たく接していても、時折何だか不穏そうな雰囲気を纏ってはいても、至極穏やかに笑いながらルイに話しかけるその姿がかつてルイが慕っていたアーノルドと重なってしまった。
恋心とまではいかなくとも、マイナスに振り切っていたアーノルドの好感度がゼロに戻るくらいには彼の態度に流されていた。
あんなに怖かったはずなのに、猫を脱ぎ捨てた素のルイとしてアーノルドと話してみると会話のテンポも悪くないし、交わされる会話から互いの趣味嗜好も似通っているところが多かった。
どうせこの繰り返しを抜け出しても、カミルとは離れ離れになってしまうことがずっと引っかかっていたルイにとって、あの時間はルイの覚悟を揺らがせるには充分の遅効性の毒のようなものであった。
しかし、そんなルイがハッと目が覚めたのは昨夜無理やりアーノルドに押し倒された時。奇しくもルイをここに繋ぎ止めようとしたアーノルドの作戦が裏目に出た。
ルイの体を這うそのひんやりと体温が低いアーノルドの手に頭より先にルイの体が拒否反応を示した。恥も外聞もなくみっともなく泣き喚いてしまうほど、嫌だったのである。
ルイはその時気づいたのである。
このまま繰り返したら、ルイのこれまでの1年間が全て無かったことになることに。
初めて二人の友人ができたことも、エミリーから生まれて初めて心のこもったプレゼントをもらったことも、カミルの少し体温の高い手のひらの温度も、全部。
繰り返しても、もう一度同じ思い出をつくればいい?いや、もし、もう一度カミル達と友達になって思い出をつくっても、きっとそれは別物だ。
同じような関係を築いて、同じような思い出をなぞったとしても、それは多分どこか違う別のものになる。
だから、ルイは決めたのである。
カミルと別れることになってしまっても、この繰り返しを終わらせると。
彼らとの思い出を守るためにも、強制力のなくなったありのままの世界を、ただのルイとして歩んでいくことを決めたのだ。
カミルたちから貰った優しさを失いたくなんて無かった。
ガコンッ!と音がして扉がわずかに動いた。
ハッと我に返ったルイは覚悟を決めると、抱えていたロープを外に放り投げて、窓枠に立つ。
何度かロープを引っ張り、簡単には外れそうに無いことを改めて確認して、じわりと汗の滲む手のひらをわずかに震わせながらロープへとしがみついた。
なるべく下を見ないようにしながらそろそろと慎重にロープを伝って降りていく。
ひとつ下の階にようやく差し掛かろうかという時、ルイが降りてきた窓からバキッと何かが割れるような音がして、扉一枚を隔ててくぐもっていた声がはっきりと聞こえるようになった。
どうやらルイの渾身のバリケードが突破されたらしい。
焦ったルイは急いで降りようとして、ズルリ、という音と共にうっかり手が滑った。




