日記01「倉本くんの謎①」
僕――雨宮直央――の一日は同じ屋根の下で暮らす――幼なじみの海堂エリカを起こすことから始まる。
「エリカ、起きなよ。学校、遅れちゃうよ」
「ん……直央くん? おはよ~……」
ぼさぼさの髪のまま、眠たげな青い目をこすりながらエリカが顔を上げる。
「おはよう。……エリカ、日記、読んでみて」
「日記? うーん……わかったぁ~」
エリカは、小さく首をかしげながらも、机の上のノートに手を伸ばした。
……彼女にとって、“自分が自分である”ための確認作業。
エリカは、最初のページを開いたあと、一瞬だけ、顔色を変えた。その後、しばらく無言で読み込んだ。
少しだけ身体を震えさせ、今日という新しい現実を受け入れ、素早くページをめくっていき日記の内容を確認していく。
ひととおり読み終えると、彼女は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「今日やること、ちゃんとわかった?」
「うん! ばっちり! ありがと、直央くん!」
エリカは満面の笑顔を浮かべてそう言った。
彼女は毎朝、まず日記を読んでその日の予定を確認する――そんな習慣を自分に課している。
……それを、僕がそっと教えるのが日課になっていた。
「じゃあ、準備したら一緒に学校行こうか」
「はーいっ! ねえ、今日の朝ごはんって何?」
「たしか……スクランブルエッグと、フレンチトーストって言ってたかな」
「ほんと!? フレンチトースト大好き!!」
エリカはぱっと立ち上がって、まるで犬のしっぽみたいに両手を振りながら喜びを表現する。
さっきまで眠たげだった彼女が、まるで嘘みたいに元気になっていて、僕は思わずクスッと笑った。
※※※
「みんなーっ! おはよー!」
教室のドアを勢いよく開けて、青いトレードマークのリボンで結んだ、金髪のツインテールを揺らしながら、エリカが元気いっぱいに朝の挨拶をかます。
その声に、クラスメイトたちが「おはよー」と手を振ったり、笑ったりして応じてくれる。
「おはよう、エリカちゃん。今日はなんだか、いつも以上にハイテンションじゃない?」
「うんっ! 今朝の朝ごはんがね、フレンチトーストとスクランブルエッグだったの! しかも、半熟でふわとろ〜! 直央ママの特製のフレンチトーストって、最高に美味しいんだよ〜!」
まるで世界が終わった翌日に、希望が見つかったみたいなテンションで語るエリカの周りには、気づけばわらわらと女子たちが集まっていて、華やかな輪ができあがっていた。158cmほどのエリカはその輪ですっかり見えなくなっていた。
僕はその輪の外から少しだけ微笑んで、そっと自分の席に腰を下ろす。
「いやー、ほんとエリカは今日も元気だなあ」
そんな声が背後から聞こえてくる。振り向かずとも、誰の声かはわかってる。
三条真司。
短く刈り込んだ黒髪は汗で少し跳ねていて、シャツの袖からは日焼けした腕がのぞいている。絞られた体つきといい、無駄のない立ち姿といい、部活男子の鏡ってやつだ。
真司は二年生ながらサッカー部のエースで、今は夏の大会に向けて気合い十分らしい。
「朝ごはんのメニューであそこまでテンション上がるの、エリカぐらいだよ」
僕が笑いながら言うと、今度はその真司の隣から、にゅっと顔をのぞかせてくる影がひとつ。
「くぅ〜、エリカに抱きつきそびれたのは痛恨のミス! 後でしーっかり補給させてもらわなきゃ!」
補給? 何をだよ。
呆れ混じりにそっちを見ると、そこにいたのは――
伊吹茉莉花。
くっきりした二重に、まっすぐな黒目が印象的な、こちらも女子バスケ部のエースだ。
艶のある黒髪は高めのポニーテールにまとめられていて、スポーツ中でも乱れないのは、性格が出ているというかなんというか。
健康的な小麦色の肌に、袖口からちらりと見える焼け跡。その顔は、どこか雑誌のスポーツブランド特集に出てきそうな雰囲気すらある――
……黙ってさえいれば。
「そんなことしたら、汗臭い!って嫌がられるよ?」
「なお~、女子に汗臭いって言うの、セクハラよー?」
「いや、事実だし……。しかも今、部活の後でしょ?」
「それを言っちゃあおしまいでしょーが!」
真司と茉莉花は昔からずっと一緒。小中高と同じで、言いたいこと言い合える気楽な仲だ。
僕もそこにエリカを加えて、なんだかんだでこのグループはいつも一緒にいる。
そんな中、ふいに茉莉花が少しだけ声を潜めた。
「ねえ、直央……やっぱり、今朝も……?」
僕は短くうなずく。
「……そっか」
一瞬だけ、茉莉花の表情に陰りが差す。でもすぐに、ぱっといつもの笑顔に戻って、話題を変えた。
「それはそれとして――ちょっと聞いてよ! 隣のクラスの倉本くんってわかるわよね?」
教室の隅で、茉莉花が声をひそめるふりをして、わりと普通の音量で切り出してきた。
「ああ、倉本な。話したことはあんまりねーけど……それがどうした?」
すぐさま真司がくいつく。
「このあいだの土曜日にね、駅前でえらく挙動不審でうろうろしていたの。で、声かけたのよ。『なにしてるの、倉本くん!』って。なのに無視だよ、無視! そのままスタスタどっか行っちゃってさ、ひどくない? 仮にも同じ学校の同級生相手にさ!」
「……まあ、茉莉花、けっこうグイグイいくし。絡まれたらうるさそうって思われたんじゃない?」
「ちょっとどういうこと!? あたし、あんたたち以外にはちゃんと優しいんだからね!? こう見えても!」
「見えてもっていうか……まず俺たちにも優しくしろって。てかよ、倉本って、確かに大人しいけど無視するようなやつじゃなかったと思うけどな?」
「急に女の子に話しかけられてビビったとか? そういう男子、意外と多いよ?」
なんだかんだ言いつつ、会話は軽口まじりで進んでいく。そんなときだった。
「なになに~? なに話してるの? 私もまぜて!」
そう言いながら、エリカが楽しげに自分の席に座った。どうやらクラスの女子たちとの挨拶ラウンドが終わったらしい。
そしてちょうどそのタイミングで――
「お喋りはそこまでだ、ホームルーム始めるぞ」
ズカズカと教室に入ってきたのは、担任の榊原 一誠先生。
身長180センチ超えのがっしり体型に、猫背気味の姿勢。無精ひげにゆるんだネクタイ、そしてシャツの袖は例によって適当にまくり上げられている。見た目は完全に“やる気のないサラリーマン”なのに、ちゃんと教員免許を持ってるんだからすごい。
それでも、授業中はビシッと締めるときは締めるし、生徒のこともさりげなくよく見ている。ぶっきらぼうだけど、信頼はされてる――たぶん。
「エリカ、またあとでね?」
僕がそう言うと、エリカはむっとした顔で小さく頬を膨らませた。
ほんと、エリカって、わかりやすい。
※※※
昼休み校庭の中庭は、六月中旬とは思えないほど、陽射しがまぶしかった。
雨に濡れた石畳がところどころきらめき、風が緑の匂いを運んでくる。さらさらと葉が揺れて、どこか涼しげな音がした。
遠くでカラスが一声鳴いて、すぐにまた静けさが戻る。
――ただのお昼休みの風景。でも、なんとなく映画のワンシーンみたいに感じる。
そんな場所で、僕たち四人はお弁当を広げていた。僕とエリカは、母さんが作ってくれた手作り弁当。茉莉花は自作の彩りばっちり女子力弁当。そして真司は――購買のパンを獣のようにむさぼっている。
……ほんと、いつも通りの光景だ。
「――それは……事件の香りがするね!」
茉莉花が朝にした倉本くんの話を、エリカに説明した後、不意に響いたエリカの一言に、僕と真司、そして茉莉花は一斉に手を止めた。
「へ?」「え?」「あ?」
唐突すぎる発言に、完全に思考が停止する僕たち。
「エリカ……今の話、どこをどうしたら“事件”になるのさ?」
呆れ半分で尋ねると、エリカはお箸を置いて、キラキラと目を輝かせた。
「きっと倉本くんは、秘密を抱えていたんだよ!
誰にも知られずに、どうしてもやらなきゃいけないことがあった。でもそんな時に、同じ学校の茉莉花ちゃんに声をかけられてしまって……焦ってその場から逃げた! そうに違いないよ!」
どうしてそんなに自信満々なんだ。
エリカの表情はとても満足げだ。
「……さすがに、それは飛躍しすぎじゃ?」
僕と真司が顔を見合わせていると、思いがけない方向から援護射撃が飛んできた。
「でも、たしかに……言われてみれば、おかしかったかも」
「……おいおい、茉莉花まで乗っかるのかよ」
真司がパンを咀嚼しながら、呆れたように口を挟む。
「いやね? そのとき、倉本くんの顔――なんていうか、やばっ”って顔、したのよ。明らかに隠してる何かあった」
「でしょでしょ! やっぱりこれは事件の匂いだよ!」
茉莉花の同意にエリカはさらにご満悦。勢いよく胸を反らせて、ドヤ顔を決める。
その結果、反らした先に位置する“主張の強いふくらみ”が強調されてしまい――
……正直、目のやり場に困る。
というか、真司は完全にガン見してる。
僕は、反射的に真司の後頭部をペシッと叩いた。
「いでっ!? なにすんだよ、直央!」
「いや、どう考えてもあんたが悪いでしょ?」
茉莉花も冷ややかな視線を真司に向ける。
そんなやり取りのなか、当の本人――エリカだけが、ぽかんとした顔で首をかしげていた。
「へ? どうしたの、みんな?」
……分かってないのか。いや、分かってないほうがきっと幸せなんだと思う。
「ともかくさ、気になるなら――本人に聞いてみるってのはどう?」
強引に話題を戻す僕の提案に、ふたりは顔をしかめる。
「ごめん、今日は部活が……」
「俺も無理だ。来週が大会本番だし、今サボったら監督に殺される」
そっか。2人とも夏の大会目前。忙しいのも無理ない。
「じゃあ、私たちが行こうか!」
エリカが元気よく手を挙げる。
「私がホームズで、直央くんがワトソン! 名探偵コンビの結成だよっ!」
「……いや、そもそもこれ事件なの?」
と言いつつも、僕は心の奥でほんの少しだけ、胸が高鳴っていた。
いつもの日常に、ほんのすこしだけ、非日常の香りが混ざったような――そんな気がして。
【あとがき】
最初の謎は、小さな違和感から始まりました。
でも、もう気づいたでしょうか?
この物語にはすでに、“もっと大きな秘密”が潜んでいます。
エリカと直央、そして読んでくださっているあなたにも、これからその謎を少しずつ解いていってほしいと思っています。
この作品は、ラブコメにミステリーが添えられた“日常系”ではありません。
ラブコメ×ミステリー――どちらが欠けても成り立たない、ふたつの要素が等しく絡み合う物語です。