蠍に刺された男
今日はお祖母ちゃんの葬式だった。お祖母ちゃんが住む町は私の住む町から北に遠く離れた場所にあり、平日であったため両親を追うようにしてそちらに向かった。その間は毒に冒されたような心地でバスに揺られていたのである。
親戚の集まりが年に何度かあるのでほとんど全ての人間とは顔見知りであった。その中でたった一人。たった一人だけ初対面だったのである。辺りの誰もが彼に接触することはなく、彼自身も一人でスマートフォンに注目しているようで葬式から彼だけ除外させられているように見えるのだ。
両親が葬式の後処理をする頃には涙は枯れていて、息を吐くしかない。ここまできてしまっては親戚の捲し立てに耐えるかその場から離れるかであるが彼らには鬱陶しいの感情しか湧き上がってこないので、消去法的にそれから脱するために少し離れたところに避難したのである。
案の定、そこでは一人の男が壁に寄りかかっている。私の存在に気づいた彼は持っていたスマートフォンをポケットに入れ、平坦で平凡な口調でこちらに語りかけてくるのである。
「君も逃げてきたのか? 確かハルの娘の、ええっと」
「……アヤネです」
黒いスーツを着た陰気な男は頷く。彼の名をシュン。私とは初対面である。私の母——ハルはとある一件からシュンさんのことを蛇蝎のように扱うようになり、親戚の集まりに理由をつけて断っていた。一方、シュンさんはそもそも血縁関係を母親以外ほぼ絶っており、私のことも彼の母親から知ったらしい。
「あの人たち、よくあんな話しかけてきますよね。年に数回しか会わない人なんてほぼ他人じゃないですか?」
「あの人たちはただ話すのが好きなんだよ。気をつけなよ。ああいう人、特におばちゃんは君の若さを吸ってくから」
彼はそんな冗談をひと笑いもせずに言ってのける。私の脳裏には山姥のような大叔母の姿が映った。
「そう言われるとそんな気がします。なんというか得体の知れなさというか」
「我が強いからね、詰め寄ってくる感じがして鬱陶しい。高校生は大変だよ、色々と。若いっていうのはそれだけでステータスになるからね。テストの点数とか交友関係とか重要だけど、その結果ばかり突き詰めない方がいい。それにしても高校生で葬式か」
彼は内ポケットから煙草を取り出すも、張り出されたポスターを目にして元に戻し、手の内でライターを転がす。
「何か、あったんですか?」
「まあね、つまらない話だよ。聞くかい? いや、話させてほしい。僕はもちろん、君にとっても嫌な話だろうが君が愚かにならないためだ。聞いてくれるか」
彼は天井に埋め込まれた電球を見ながら一度大きく息を吸って吐いた。
僕がまだ高校生の時だ。冬休みが始まる少し前の試験開始日、いつも空席だった隣の席に見覚えのない少女が座った。その少女の髪は漆黒に近いぐらいだが光を反射するほどで顎のあたりで揃えられており、前髪も眉毛の辺りでまっすぐに手入れされている。彼女は文庫本を読むふりをしてずっと周りを見渡していて僕と目を合わせた瞬間もすぐさま手に持ったそれで顔を隠すのだから、お世辞にも好印象とは言えなかった。
もちろん、彼女について事細かに描写しているのだから、これから話すのは僕と彼女についてだ。彼女の名前はFとでもさせてもらおう。他人の名前を知らない相手に話すのはあまり良くない。後は個人的な理由だけど。
話を戻そう。彼女との会話は最初こそぎくしゃくしたが時が経つにつれて弾んでくれた。彼女の話は僕からして専門外のことばかりで面白いということもあったが何より彼女が自分の領域では口下手でなかったことがキャッチボールができた要因としては大きいだろう。
「Fさん、勉強は大丈夫?」
「ええっと、自分なりに教科書とかテキストとかを使って勉強はしてるから。模試も受けてて、毎回悪くないから登校してないのは多めに見てもらってるの。あまり私に興味がないということもあるけど」
「そう、か。Fさんは自分なりに何とかできてるんだなぁ」
「私なんてそんな、自慢できるほどのことじゃないよ。対人関係はてんで駄目だから、シュン君みたいな人じゃないと会話できないの」
「そういってくれると嬉しい。僕も口が上手い方じゃないから」
それから毎日、Fとは言葉を交わすようになった。試験が終わっても彼女が姿を消すことはなく、いつまでも億劫だった登校は確実に足が軽いものになった。
その週の日曜日、偶然にも都市部から少し離れた場所の書店でFと遭遇した。彼女の格好は燻んだ青色のパーカーに黒のカーゴパンツというゆるい格好で僕の姿を目にした瞬間に目を丸くするのだから完全に油断していたのだろう。
「Fさん、奇遇だね」
親近感のようなものを覚えて、Fさんに声をかけると彼女は戸惑った様子で一歩退いてしまった。
「シ、シュン君。今はあまり見ないでほしい。見せられない格好だから」
「ちょっと待って。別に僕は君と話したいだけで……」
踵を返そうとしたところで僕はFの左腕を掴む。すると、そこにはザラザラとした感覚があり服の袖から白い何かが垣間見えた。
「痛っ」
「ご、ごめん。怪我してたとは知らずに腕を引っ張ってしまって。気をつけるよ」
しかし、Fが痛がったため両者ともに手を引き、互いに膠着状態に陥ってしまった。気の利いた言葉一つも言えず、彼女に遠慮させてしまうのだから不甲斐ない。
僕はお詫びという名目をつけて半ば強引に近くの喫茶店に足を運ぶことにした。彼女との会話には不快感がなく、勉学への助言もしてもらえるのでFというのは他人よりかなり重宝した存在であった。
無論、当時はただの好意で接近しているつもりなのだが、現在振り返ってみると僕が利己的であった気がしてならない。しかし、彼女に直接訊かないと僕の態度は確認しようがないのでやるせないのである。
「Fさんも書店に用事が?」
僕は彼女の傍らにある紙袋に目線を向ける。
「特に用事があったわけじゃなくて。休日は家にいると気まずいから、出てきたの」
「僕も用がないっていうのはそう、気晴らしって感じ」
僕はこの時点で彼女への違和感に気づいておくべきだったのだが、放課後に遊ぶような仲がいない愚かな僕にとってそのようなことは不可能なのだ。
「普段はどんな本を読んでるの?」
「ほとんど雑誌。たまに小説も読むけど」
Fが取り出したのは一冊の古びた本である。それは彼女が常に持ち運んでいるものであり、そこには星や惑星等について事細かに記されていて学校ではFがそれを見せながら教えてくれるのだ。
この時もFは目次からページを開いてくれた。
「この時期だとオリオン座が有名だと思う。オリオンって、知ってる?」
「星座でしか」
「オリオンというのはギリシャ神話に登場する狩人のこと。彼は大柄で力持ちなんだけど彼はその力を自慢して、女神は自惚れたオリオンを懲らしめるために大きな蠍を放って、その蠍に刺されたオリオンは毒に勝てず命を落としたの」
Fは眉を顰めながら、ミルクティーに砂糖を加える。彼女がカップを口につけると上げた腕の方の袖が下がり包帯が露見すると、彼女は咄嗟に左手で袖を上げてそれを隠した。
「でも私はオリオンは死ぬまでのことはしていないんじゃないかって思う。私には自惚れるぐらいのものがないから、むしろ羨ましいなぁって」
「僕はFさんの意見を否定するつもりはないけど、己の力を過信するのは愚かだと思う。もちろん君の意見もわかるけどね、たとえ自惚れていたとしても自惚れるぐらいの実力は持ち合わせてるんだから」
当時の僕は結果主義であり、実力不足も過信による没落も等しくマイナスポイントだと考えていた。それは自身への戒めに近いのだが、とどのつまり僕は彼女にただ残酷なものを突きつけているだけなのだ。
Fはじっと手元のカップをじっと見つめながら黙り込む。
「だから僕は君が羨ましい。勝てる気がしない。自分で生き方を決めて進む勇気が僕には足りない。Fさんみたいにできたらいいんだけど」
これは僕の本心に違いなかった。高校生という身分も重なって、自分という指針を確かに持ち歩んでいるのだから彼女はただ内気な僕よりもずっと成長しているのだと思っていた。
「シュン、この後って時間ある? いや、忙しいなら気にしなくていいんだけど。せっかくだし、ちょっと遠いけど一緒に星でもみてみようかなって。バスに乗るから遠慮してもいいんだけど」
Fは手元と僕の方と何度も目配せしながら彼女はこちらの顔色を伺う。
「ああ、構わないよ」
僕の返事を受けるとFは目を輝かせながら立ち上がって出口の方に向かってしまう。会計を済ませてから彼女の後を追うようにして停留所まで足を運んだ。下車すると足元の雪を小さな音を立てながら圧縮する。
「ロープウェイはまだ動いているはずだから、いこう」
Fが指差す場所を目指し、宙に浮く。ロープウェイに吊るされている間は彼女が広がっていく景色を眺めていて、僕もその景色に目を奪われ、結果として沈黙を貫く形になったのだ。
鼻腔の痛みと皮膚と衣服との間の蒸気を拭う寒風が気温が下がっているのを感じさせてくれる。
ステーションから出て見上げると新月ということもあって、紺瑠璃色に浮かぶルビーやダイヤモンドが目に映った。Fはすぐに住宅街から逆の方向に駆け出して行ったのだ。
Fは柵に身を預けるようにして腕を掛けると白い息を吐きながら右腕を星の方に伸ばす。その先には特に際立つ星々があり、彼女の指先の動きと合わせるとちょうど砂時計の形になった。
「ほら、オリオン座、あれがオリオン座! で、オリオン座のペテルギウスとシリウス、プロキオンを繋げると冬の大三角になるの!」
Fは普段とは別人なのかと錯覚するぐらいの興奮を見せながらオリオン座の一部である赤い恒星と近くにある二つの白い恒星を撫でながら三角形を描くように腕を振った。
僕はその時の児童のような微笑ましいFの姿を今でも夢想してしまうのである。本当に、嫌なぐらいに夢見に出てくるので勘弁してほしいぐらいだ。
「シリウスとプロキオンもなんかの星座の一部だったよな?」
「うん、シリウスがおおいぬ座でプロキオンがこいぬ座なの!」
カフェオレで温まった体が涼むまで興奮したFの話を聞き、夕食に間に合うように再度ロープウェイに乗った。その中でFは上がった声色のまま星の話を続けてくれた。彼女は白い台紙に紫色で半透明のプラスチックのプレートが中心のピンで取り付けられた星座早見盤を取り出し、そこに載っている星々を指でなぞり嬉々として話の続きを膨らませていく。
これ以上、至高だと思った時はないほどだった。
翌日、Fが登校して来ることはなく一日中孤独に過ごすほかなかった。僕は何か思い耽る度に彼女の姿が脳内に甦るのである。
それから帰りのホームルームが始まろうとしたその時、副担任の男が息を切らしながら教室に駆け込んできた。担任は彼に呼ばれ、クラスメイトの誰にも聞こえない声で会話するが、徐々に曇っていく担任の顔色で何かがあったことは確かだった。
「みんな、残念な連絡がある」
案の定、その不安は的中した。Fの訃報である。
その後のことのほとんどを思い出せない。担任は最近Fと関わりのあった僕に話を伺いにきたが、彼が何を質問したのか僕が何を言ったのか、一ミリも覚えていない。担任が話したことで唯一覚えているのはFが姿を消した理由が自殺であったということだ。
事件に巻き込まれたとか車に撥ねられたとか猛毒を持つ虫に刺されたとかではなく、あくまで自殺。不運ではない。
わけがわからなかった。担任との会話中に脳裏に映っていたのは希望に満ちたFの姿である。
葬儀の日は体調不良を理由に休んだ。その時は何を考えてもまとまらず、理由を生み出せた記憶はない。今考えてみれば、Fと彼女の両親と顔を合わせたくなかったのだろう。合わせる顔がないと表すのはFに対してもFの両親に対して烏滸がましいとも思ってしまうし、根性なしには顔を合わせる視覚すらないのではないだろうか。
僕には同学年に従兄妹のハルがおり、彼女は訳もわからず葬儀に参加したと言っていた。当然、その日から僕の担任から伝言を頼まれたハルとの間に亀裂が走った。彼女は僕がFの死に関係していたと知ってしまったのである。
数日後、やっと登校する気力が湧き始め、雪を踏みしめながら高校生が犇めく路を歩む。職員室に入ると担任の手から一封の封筒を手渡された。宛先には俺のフルネームが書かれている。
僕はFからの手紙を乱暴にバッグに詰め込んだ。
「アヤネさん、考えたいとも思わないだろうが何故Fは自殺したのだと思う?」
目の前の萎びた男は私に問う。
「推測に過ぎませんが、Fはいじめや家庭内暴力を受けていて限界だったのだと思います」
「半分ハズレだ。Fと関わる誰もが彼女が旅立った理由はそこにあると踏んでいた。実際、いじめはなかったけれど家庭内で暴力を受けていたし、彼女自身そのせいで傷心していたからね。だが、決定的に欠けているところがある。まあ、予想なんてできるわけがないことさ。僕だって手紙を読むまでわからなかったからね」
彼は何度か頷いてからそう呟いた。いまだに手の中でライターを転がしている。
「じゃあ、何故Fは?」
私は問い返した。
赤の他人が知らない人間の死因など不謹慎で探るものではないだろう。Fについて掘り下げようと決心したのは私ではないが、今の状況から引き下がることはできないのだ。
「Fは僕と出会って幸せだったから旅立った。幸せで幸せで最高潮に達して、もう落ちるしかないと思ってしまった……だけらしい。僕はこんなこと理解しようとも思わないし、今でも信じられない」
私は彼の告白に砂漠の中で飲み水もなしに直射日光を注がれるような体の怠さと喉の渇きを覚える。私がシュンさんと同じ立場に立ったならばここからさらに毒針で刺されたのだろう。
彼は一切の息継ぎもなく、毒抜きをするように私に打ち明けた。
「僕はFを喜ばせたと勘違いして自分の力を見誤った。オリオンの方がまだ良いよ。僕には誇示する力すらないのに天狗になっていた。ここまで愚かな男もなかなかいない」
シュンさんは自嘲した後も何か呟いていたが、母の呼び出しによってそれはかき消された。
「私、明日から学校があるので失礼しますね」
かつて蠍に刺されたかのような衝撃に打ちひしがれた男はただ肘を曲げるようにして片手を上げたまま何も言わなかった。
空にはオリオン座が浮かんでいる。