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8/22

終わりの日の佐美(サミ) 7  ゴグの残留思念/永年転生王

 ロバたちを見送った後、佐美はすっきりした顔をして橇のところにいた狼たちの許に戻った。だが、狼たちは、恨めしそうに上目遣いをしながら佐美を見ては、横を向く始末だった。

「ここには、ちょうどいい橇たちがあるのね……へえ、鉛ガラスと鉛の隔壁ねえ」

 佐美は、そう声をかけてみた。

「さあ、あんた達、出かける準備をしましょうよ」

 狼たちは、動かなかった。


 実は、狼たちは、ロバたちが出発する前、ロバたちに絡んでいたように見えたためか、佐美が彼らを追い立てたのだった。この時、狼たちは何か不平そうな表情を佐美に向けたが、佐美の厳しい声に渋々ロバたちから離れた。この後、狼たちは不貞腐れたような、もしくは理解されていないと主張しているような悲しい顔をして、屋外に放置されていた橇の許へ行ってしまった。


「ねえ、何か怒っているの?」

 リーダーらしい狼が、ふたたび上目遣いに、羽毛入りブルガを着込んだ佐美を見つめた。その時、やっと佐美は悟った。彼らはロバたちから何かを教えてもらっていたらしかった。

「わかったわ…そうだったの……これから行くべきところを教えてもらっていたのね......ごめんなさい」

 この言葉が通じたのかどうかはわからない。それでも狼たちはブルブルと体を震わして雪を落とすと、急に騒ぎ出した。それは、早く橇につなげという催促だった。


 残されていた橇群はすべて、鉛のカプセルを搭載していたため、非常に重かった。これらは、残留放射性物質が蔓延するであろう核戦争後に、植物の種や苗をもって世界を巡るために用意されていた乗り物たちらしかった。それでも、狼たちは重さを感じさせずに、南へ、ドイツの森目指して走り出した。

_________


 スバールバルからドイツの森に戻った佐美は、烏たちと再会した。烏たちは、まだここにとどまりたいらしく、佐美たちを一瞥してもまだ狩りを続けていた。

「カッカカカー」

 狼たちは烏たちに向かってほえたてた。彼らはこれからどこへ行くのかを、烏たちに伝えていたらしい。

「そんなところへ行けというの? わたしたちは嫌だね」

 カラスたちはそんな風に返事をしたらしく、狼たちは彼らを放置して出かける意思を固めたようだった。


「ワオーン、グルグル」

 狼たちはふたたび自分たちから橇につなげというように並び、橇に乗る主人である佐美に対して、早くしろというかのように唸り続けていた。

「ウー、ウォン、ウォン」

「わかったよ、何処へ行くのかわからないけど、とにかく出発すればいいんだね?」

 狼たちが引く橇は、森を抜け、東へと出発していった。ただし、その先にあるかつてのロシアの大地は、いまだに放射性物質の濃い地域であり、まだ幼い佐美にとっては避けたいところだった。


 狼橇はようやくロシアの平原に出た。かつて、そこは農地が広がり、またところどころに都市が散在していた。だが、飽和核攻撃によって平原のほとんどが土壌表面の融解と再結晶化により、ケイ酸塩を主体としたガラスが大地を覆い、その上を雪がキラキラと舞う風景に変質していた。佐美は、ひたすら鉛ガラスの中から外を眺めるだけだった。

 やがて、佐美は太陽と時間と地図とから、狼橇がかつてモスクワと言われた廃墟に向かっていることが分かった。それが分かったころには、橇の周囲を得体のしれない白い蒸気のような者たちが吹雪とともに飛び回り始めていた。

「ヒュルルルウ、ヒュルルルルウ」

「フウウウ、ボウウウウ」

 唸りとともに、それらの白い影は時折り佐美へ近づこうとするそぶりを見せた。だが、狼たちはそれに対して威嚇をし、佐美に近づくことを阻止しつづけた。

「ワオーン、グルルル」

 とうとう、白い影たちは近づくのをあきらめた。その代りなのだろうか、彼らは金属の擦れるような高い声で佐美に話しかけた。

「お前は、なぜ近づこうとするのか」

「お前は何をしに来るのか」

「お前は我々に何の関係があるのか」

 白い影たちは、それぞれに脈絡のない勝手な質問を次々にぶつけつづけた。


 モスクワに近づくにつれて、白い影たちは佐美たちにある程度以上は近づかなかったものの、佐美たちの周辺でその姿をはっきりさせた。在るものはアンデッドのような姿で飛び回り、ある者は猛牛の姿で走り寄り、ある者は般若のような角を振りかざしていた。彼らはますます数と影の濃さを増した。

 白い影たちが周囲を取り巻くまま、佐美は狼たちとともにモスクワの廃墟らしいガラスの丘陵地帯へと入り込んでいった。

_________

 

 モスクワのクレムリンのかたちを残した流紋岩の大きな塊が見えてきた。その丘の陰に近づくと、佐美は一瞬人影を見たような気がした。しかし、猛烈な吹雪と放射線の中で、人間が動き回っているはずはなかった。念のために、人影を見たと思われた場所へ橇を走らせると、まさかと思われた人影が、それも男が一人大声をあげながら丘陵を駆け上がっては駆け下り、また別の丘へと駆け上がっていた。

「マリーチカ!」

 男は大声で呼ばわりながら、次第に佐美の乗る橇に近づいてきた。そして、橇の中に佐美の姿を見出すと、おもむろに近づいてきた。

「あんた、ここで女を見なかったかね? おや、このブルガの中身は、未来の淑女さまではないか...なぜ、その幼さでここにいるのか?」

「え? あ、そうね。私は確かに幼いわ。でも、なぜ、女の子だとわかったのです? 今まで私は男の子としてふるまってきたし、皆にそうみられてきたはずなのに……」

「今まで訪ね歩いたせいか、ブルガを着込んだとしても、あんたの奥深いところまで見透かすことができるようになっているのでね」

「私を見透かすことができる?」

 佐美はその言葉に驚いて、細い両腕で自らの身体を隠そうとした。だが、男はそのまま続けた。

「あんたを見透かすことができたから、女の子だとわかったのさ」

「私の裸を見たの?」

 佐美は幾分引き気味に質問をした。男は佐美の態度を見て言い直した。

「裸? いや、子供の裸に興味はないよ。それに、俺が見ることが出来るのは、相手の身体内の骨格や、相手の頭に思い浮かべている態度や考えさ...ところで、お嬢さん....あんた……マリーチカを知らないか?」

「マリーチカさん? 女の人の名前ね? それで…あなたの名前は?」

「俺の名前はオレフ・バラフ....マリーチカは俺の最愛の妻...俺は連れ去られた妻を探し回って、ここまで来てしまったんだ」

 オレフも彼の妻マリーチカも、名前からしてウクライナ人に違いなかった。佐美は、彼が孤独をしのんでここまで最愛の妻を探しに来ていることに、幼いながらも心を痛めた。そして、佐美がもし男の妻であったならと想像した時、男の真剣さと悲壮な覚悟に目の奥と胸とが絞られるような痛みを感じた。

「こんなところまで、攫われたというのですか?」

「ああ、そうだ! 彼女はここまで連れ去られているはずなんだ」

 男は、そう言って座り込んでしまった。すると、この丘陵地帯に入り込む前に見た、白い蒸気のような人影たちが、オレフの周囲を囲んで飛び回り始めた。

「呪われよ、呪われよ、われらに逆らいて愛を説く者よ......退け、退け、われらに逆らいて進み行く者よ」

「こ、こいつらは、奴らの手先だ...奴らは寄ってたかって俺たちに襲い掛かって、女たちを連れ去ってしまった」

「奴ら? 誰なの?」

「『奴ら』というのは、古い時代にキーウから北へ流れ、別の国を建てたならず者たちのなれの果てだ」

「そう、つまり亡霊たちの手先ね......」

 佐美は、養父の絵里(エリ)から教えられた敵、つまり啓典の主とその側に立つ天使たちに、多くの敵がいることを思い出した。白い蒸気のような者たちは、そのような敵に違いなかった。


 その後も白い蒸気のような者たちは、金属の擦れるような声を周囲に響かせた。いや聞く者の頭の中に響かせながら飛び回った。まるで、男を威嚇して追い立てまわすようにして......佐美は、危険を承知でカプセルの入り口を開け、彼を引き入れた。

「早く、此方に入って!」

 男は驚いたように佐美を見つめ、次の瞬間にはカプセルの中に入り込み、同時にカプセルは閉じた。狼たちはそれを確認したかのように後ろを振り返ると、猛スピードでその丘陵地帯を走り去り始めた。途端に、白い蒸気たちも猛烈な勢いで大群をなし、カプセルを取り囲んだ。カプセルの中からは外が一切見えなくなってしまった。

 佐美は狼たちに声をかけると、狼たちは心配するなと言わんばかりにほえたて、そのまま猛スピードで白いガラスの平原を駆け抜けた。徐々に橇に纏わりついていた蒸気たちは引きはがされ、後ろへと飛び去って行った。佐美はそれらを見送るように後ろを振り返った。すると、丘陵地帯の一角にドロドロに溶け落ちたクレムリンの廃墟が、流紋岩とガラス状の山々に囲み込まれながら立っている姿が見えた。しだいに遠ざかるその姿は、まるで歴史からモスクワが消え去るかのように、吹雪の中に消えていった。

_________


 橇は、東へ東へ十数日間走り続けた。果てしなく続くかに見えたガラス状の平原は、やがて雪に覆われた山と谷となり、シベリアへと入り込んだ。橇は本来の音を立てながら進んだ。その間、橇に乗り合わせた男は、ただ前方を瞬きもせずに凝視して動かず、佐美に話しかけようとはしなかった。


 橇は、しばらく見なかった人間たちの集落跡に行き当たった。そこはカザンと言われるゴーストタウンだった。

 佐美は、その中央部分付近に橇を止めると、オレフは妻を探すように空虚な周囲を見渡し、ポツリと言った。

「ここは、すでに無人となって久しいのだな。もう、亡霊でさえ残っていない」

「へえ、そうなんですか?」

 佐美は、彼になぜそんなことが認識できるのか、不思議だった。だが、佐美はそのようなことを直接問う勇気がなかった。また、男もなぜ認識できるのかには、答えなかった。


「ここには、人間はおろか、生物はいないようだね」

「そうですね……なにせ、ここまで衝撃波が届いているはずですからね。人々は生存できなかったはずです」

「俺には、誰かが近い過去に居たのであれば、その誰かの残した気配を感じ取れるんだが」

「え?」

「いや、今は何も感じられない……ましてや彼女のオーラも気配もない」

「そうですか」

 佐美はオレフの受け答えに違和感を感じた。なぜ、残した気配まで感じ取れるのか......それはまるで、オレフがあの白い蒸気のような者たちと同種であることを示すかのようなことだった。それでも、佐美はオレフを乗せたまま、カザンを出発したのだった。

_________


 橇は、山と谷の間、ツンドラや針葉樹林帯タイガのなかを進んだ。追って来る者の影もなく、狼の元気な呼吸と、橇の音だけがカプセルの中につたわっていた。カプセルの中で、佐美は進む方向を狼たちに任せきりでウトウトしており、オレフは相変わらず寡黙だった。

 狼たちはいつの間にかかつて高速道路だった施設内を走っていた。おそらく、エカテリンブルグに至る高速道路の跡だったのだろう。時折、地割れや崩壊した橋はあるものの、それらに気を付けてさえいれば、東へと進むことは容易だった。

 

 ブリザードが吹き荒れる中を、佐美たちはエカテリンブルグと呼ばれた街の跡に入り込んだ。

「橇を止めてくれ」

「え?」

 佐美は橇を止めた。極寒が建物の崩壊を遅らせているためか、どこかに人間がまだ残っているのではないかと思わせる光景が広がっていた。そのせいだろうか、ブリザードの中に彼は何かを見たと言い出した。

「確かに見えたんだ。あれはマリーチカの姿だ」

「え、何処に?」

「見えなかったのか? 俺には見えたんだ」

 彼は強く言い続け、結局佐美はカプセルを開けて、彼を外に出してしまった。念のためにカプセルと彼の身体とをつなぐ安全長束帯をつけさせた。外は、少し離れるだけで彼の姿が見えなくなるほどひどい吹雪模様だった。

 彼は、一生懸命に大声で呼びかけ続けた。

「マリーチカ…返事をしてくれ」

「おーい、マリーチカ」

 彼の声はかぜにかきけされた。それでも彼は、何回も何回も呼びかけ続けた。そのせいなのだろうか、佐美にも、一瞬女の悲鳴のような声が聞こえた。

「キー、キー」

 それを聞いて、佐美が橇を動かそうとした時だった。それを待てないのか、彼は安全長束帯を外して声の方へ走って行った。佐美は橇から一匹の狼を放して彼を追わせた。そのあとに少し遅れてだが、狼たちと佐美の乗る橇もまた、先行する狼の吠える声を追って動いていった。


 相変わらず、先行する狼の吠える声が廃墟の中で響きわたった。橇を降りた佐美と狼たちは、その声の方角へと廃墟の中へと走りこんでいった。廃墟の中奥深くへ進んでいくと、まだ崩壊していない住居跡があった。佐美と狼たちは、先行していた狼の声を確認しながら、その中へと走りこんだ。先行していた狼は、室内の暗がりに倒れているオレフの傍に佇んで佐美たちを待っていた。そこには、おそらくそこに倒れこみながらも、何かを求めて暗がりに手の先をさらに伸ばそうとし続けるオレフがいた。

「そこに、マリーチカがいたんだ」

「オレフさん、大丈夫ですか?」

「彼女を助けてやってくれ」

「え、何処に?」

 彼は倒れこみながらも、眼を開けて何かを指さしていた。彼の視線の先には、女の姿があった。外は吹雪が吹きすさび、その音が室内に響く中に、その女は立っていた。そして、消えた。オレフの見た女の姿は、幻ではなかった。佐美は女の立っていたところへ駆け寄ると、そこには、血に塗れた大きな鹿の首が残されていた。

 それは、かつて神職(アミール)の師であった絵里(エリ)から教えられたボルチャ魔術だった。それは、 人間や動物たちの死体を媒体として、様々な残留思念を異界からの呼び寄せ、動物たちの思念と混ぜ合わせて使役した痕跡だった。

「彼女は幻影よ」

 佐美はそう言ってオレフを見つめた。オレフはそんな佐美の慰めを受け入れる余裕はなかった。

「嘘だ...俺は確かに一瞬彼女に触れられたんだ」

「触れられた?」

「そうさ」

「そうね、ボルチャ魔術なら幻影を実体として感じさせることもできるわ」

「あんた、あれが魔術による幻影だというのか」

「そうよ」

「そんなはずはない…俺に返事をしたんだぞ…幻影がそんな真似をするかよ」

 オレフは必死に佐美に訴えた。だが、佐美にはボルチャ魔術の恐ろしさが分かっていた。

「そう、ボルチャ魔術というのは、残留思念をどこからでも呼び出せるの。だから、幻影に残留思念を乗せていれば、幻影は意思をもって返事をするのよ…そう、マリーチカの残留思念を呼び出して,幻影に乗せたのよ......だから、あなたに返事をしたのよ」

「へえ、そうなのかい…よく知っているね」

「ええ、私はよく知っているわ」

「やっぱりな、あんたは俺を故国から遠く離れた此処までおびき寄せて、新たな餌食にしようとするんだろ…残留思念とやらを得るためにな...俺が死ねばあんたは残留思念を自由にできるんだろ?」

「私はそんなことはしないわ」

「へえ、なぜそう言えるんだ」

 佐美には、オレフがやけになっているように見えた。

「私には、それをあなたに示すことはできません」

 そう言いつつ、佐美はオレフが怪しく見えていることを指摘してやろうかと考えた。しかし、それは意味のないことだった。今はオレフの心を静めて、進むべき道をもう一度見出すことが大切だった。

「オレフさん、私を信じることができませんか? そうかもしれませんね……だから、もう一度マリーチカさんに会えるところへ、案内します」

「マリーチカに会える? 本当か?」

「ええ」

 佐美は、自らにとっては寄り道に思えるところへ行かねばならないと考えていた。それはチュメニだった。

_________


 狼たちはしぶしぶ走っているように見えた。橇は今までの速度ではなく、まるで普通の犬ぞり、いやそれよりも重く遅い郵便橇のように、ごくごく普通の速度で進んでいった。

 佐美も気が乗らないまま、橇のカプセルに身をゆだねていた。唯一オレフだけは、外の光景を見ながら、おそらくはマリーチカへの思いを募らせているようだった。


 シベリアを特徴づける山々の間の谷を彼らは進んだ。チュメニと言われていた町は、シベリアの南側に沿って進む、かつてのシベリア鉄道の途中の街だった。そこもシベリアゆえに、町の周囲は雪山に囲まれていた。佐美は何かを警戒するかのように町に入ることをせず、辺りをさまようようにして滞在ポイントを探し回った。

 狼たちは、崖の下に小さな洞穴を見出した。彼らにとって安全と思われるところは、佐美やオレフにとっても安全なはずだった。佐美は、そこからチュメニの町を慎重に探ることにしていた。

「佐美、あんた、チュメニの街に入って行かないのか?」

「ええ、ここにはね、ボルチャ魔術よりももっとスマートに残留思念を引っ張り出して活用する魔法使いがいるのよ」

「魔法使い? どんな?」

「ボルチャ魔術では、獣の頭を基にして幻影を作り出し、そこに指定した人間の残留思念を重ねていたわね......でも、ここではどうやってなのかはわからないけど、残留思念用に、実体のある身体まで実際に引っ張り出すらしいのよ」

「実体のある身体?」

「そう、幻ではなく実体……だから、オレフさんもその魔法によってマリーチカさんに会える可能性があるわ」

「そう、そうなのか」

「ここまで案内してマリーチカさんにあえれば、私のことを信頼してくれるでしょ」

「あ、ああ」

 オレフは佐美の言葉に戸惑い、何かを言いたそうな顔をしながら、力のない返事をした。まるで、それはオレフ自身について、彼もまた佐美に告げなければならない何かを持っているかのようだった。


「オレフ、あなた、ここに何しに来たの?」

「マリーチカ」

 暗闇が洞穴の外まで漆黒に染めた時、オレフは謎の呼びかけに条件反射のように明かりを灯して答えていた。本人はまだ夢の中だったが....。佐美は、このやり取りでオレフと佐美たちが罠にはまったことを悟った。ただ、それでもまだ逃げられるチャンスがありそうなことも感じていた。それは、目の前に現われた実体のあるマリーチカの姿だった。

 彼の名を呼んで語らい始めた彼女と彼。会話は知り合った頃の話。結婚直前で彼は出征したのだと言う。ところがここから彼女の話すことが彼と食い違いはじめた。彼の記憶では彼女は連れ去られたはずなのに、彼女によれば占領軍と同行した魔法使いが彼女を保護したと言う。その後彼女はその占領軍の基地で働いていると説明した。だから、彼にも一緒に来て欲しいと言い出した。


「マリーチカさん、なぜここに?」

 佐美は寝たふりをつづけることができず、起き上がってそう聞かざるを得なかった。そう質問した時、佐美は、改めて、目の前の二人が確かに実体を伴った恋人同士であることを再認識した。ただ、こんなに簡単に再会できるはずもなかった。

「ああ、佐美、紹介しよう、俺の最愛の妻マリーチカだ……あんたの言うとおり、ここにマリーチカが、本物のマリーチカが居たんだ......マリーチカ、あの子は幼い娘なのだが、あれで神職(アミール)なんだよ......彼女が俺を此処まで連れて来てくれたんだ」

 佐美は、必ず何かが隠されていると確信し、警戒を怠らなかった。そこで、二人には洞穴の奥で過ごしてもらい、佐美は漆黒の夜となっている洞穴の外を狼たちとともに探ることにした。


 洞穴に戻ると、漆黒の闇の奥で愛し合う二人の動きが伝わってきた。佐美にとって、そんな雰囲気は初めて感じることだった。そのこともあり、佐美と狼たちは洞穴へ入ることを憚られた。やがて、オレフとマリーチカは仲良く洞穴の広いところへ出てきた。その光景は、佐美がかつて彼女の父母たちの間で見た風景と同じであり、愛し合う二人が我慢できないときには結婚をし、それが啓典の主によって祝福されている行為であることを、佐美は悟った。


「あ、佐美、やっと戻ってきたのかい?」

 オレフは恥ずかしいことをしていたという意識からか、または照れ隠しなのか、まるで何事もなかったことを強く強調するかのような口ぶりで、佐美に話しかけた。佐美が幼さとともに興味津々な態度を無意識に出していたのかもしれなかった。佐美はこれ等の流れが罠であることをすっかり忘れていた。

「あ、私、何も見ていませんから」

「え、見てたの?」

 マリーチカは、顔を赤くして思わず佐美の顔をまじまじと見つめた。佐美は、目の前の二人の秘め事にはこれ以上触れてはいけないと、何となく学んだ。

「い、いや、だから、何も見てませんから...じゃあ」

 佐美は、そう言うと、ふたたび洞穴の外へ飛び出してしまった。佐美はそのまま狼たちの中に隠れるように入り込んだ。

「だって、分からなかったんだもの、でも、お父さんとお母さんもあんな風に仲が良かったなあ。そんな仲良しで愛し合う二人って、誰でもあんなことをするんだろうね......知らなかった」

 こう言いながら、佐美は何か安心したのか狼たちの中に包まれて寝てしまった。


 朝になって、佐美はこわごわとしかし興味津々になりながら、洞穴の中の二人を見に行った。意外と、二人は仲よく朝の食事の準備をしていた。

「オレフ、そちらの焼き加減はどうかしら?」

「マリーチカ、よそ見をしてないで火加減を調製し続けて!」 

「佐美さん、目が覚めたのね」

「佐美、おはよう」

 まるで若夫婦のような二人が、佐美を温かく包むように迎え、朝の食事が用意された。外では、オレフが狼たちにも食事を与えていた。まるで、オレフとマリーチカ、佐美は親子のように、そして狼たちは彼らのペットたちのように、ひと時を過ごしていた。佐美は、このままこの雰囲気が続いてほしいとさえ願っていた。佐美は、最初に罠であることに気づいていたのを、すっかり失念していた。

 こんな日がしばらく続いた。幸せな家族の日々だった。

 ある日のことだった。この洞穴に、家族の幸せを脅かすものが忍び寄っていた。

__________


「追って来る者がいるわ」

 佐美は、心の片隅に会った不安が何であるかが、長い間分からなかった。だが、ある日、その不安を顕在化するものが目の前に現われた。


「罠であるなら、そろそろかしらね」

 そう独り言を言った時、佐美の思考の中に静かに忍び込んだ異質な思考に、佐美は驚いた。普段の聖霊からの働きかけでも、佐美自身の思考に外から導きの思考が入り込むことを経験していた。しかし、今回の働きかけは、それとは異なる邪悪なものであった。そのこともあって、佐美は異質な思考を自由に泳がせながら観察し始めた。

 異質な思考は、佐美にオムスクへ出かける準備をしなければならないという考えを持たせた。いかにも自然な発想のようだったが、しかし佐美にはそれが異質な思考の働き掛けであることが、明白だった。異質な思考は、同時にオレフとマリーチカにも同じ働きかけをしていた。既に、オレフとマリーチカは当然という顔をしながら旅支度をしつつあった。

「さあ、オムスクに行こう。そこで俺たちは親戚の結婚式に参列するのだ」


 オムスクは、チュメニからさらに南東へ入り込んだところにあり、かつては比較的大きな街だった。今は人影のない無人の廃墟のはずだった。少し考えてみれば、そこに親戚の結婚式などあるはずもなかった。だが、異質な思考があまりに滑らかにかつ徐々に働きかけを強めたため、オレフもマリーチカも佐美さえも、オムスクで結婚式があることに少しも疑問を感じていなかった。さすがに、佐美は冷静に自分自身の思考と行動を冷静に観察し続けることだけは、忘れていなかった。

_________


「さあ、さあ、待っていたよ、オレフ」

「マリーチカ、あなたはこちらへ」

 オムスクに着いて早々、オレフとマリーチカに声がかかった。しかし、彼らを別々にして何をしようとするのだろうか。それは、オレフとマリーチカも同感のようだった。

「あの、私たち、夫婦で一緒に出席なのですが......」

「夫婦だから?、何が問題なのですか? オレフ、マリーチカ、あなたたちはそれぞれ裸になって多くの異性とさらに結婚するのですよ。そのために呼んだのですから」

「私たちはすでに結婚しています。ですからこれ以上結婚はできません」

 オレフもマリーチカも、必死に自分たちがすでに結婚して夫婦になっていることを訴えていた。だが、周囲の者たちはそんなことは関係がないというような顔をして、二人を別々の部屋へと連れて行ってしまった。

 佐美は、呆気に取られてこの光景を見ていた。ところが、マリーチカの連れ込まれた部屋、そしてオレフの連れ込まれた部屋で、それぞれ二人の悲鳴が聞こえた。

「いやです…私にはもうオレフという夫がいるのです…い、いやー」

「俺には、妻がいるんだぞ...彼女以外を俺は愛さない…近づくな、近づくな!」

 尋常でない様子がうかがわれ、佐美は抜きさしならない状況であることを悟った。

「ここは何をする場所なのですか? わたしたちは親戚の結婚式があるとお聞きしてきたのです」

「そうですよ。結婚式です。オレフも不特定多数の女性と交わりを持ち、マリーチカも不特定多数の男性と交わりを持つのです」

「彼らは嫌がっていたじゃないですか?」

 佐美は抗議をした。彼らは佐美を子供だと思って適当にあしらった。それでも、佐美は抗議をつづけた。うるさいと感じたのだろうか、彼らは急に佐美を捕らえるとマリーチカと同じ部屋に放り込んだ。そこでは、縛られたマリーチカが既に襲われて悲鳴を上げているところだった。

「あなたたち、なんということを」

 佐美が戸惑いをつよめ、次第に怒りを覚え始めた。それが頂点に達した時、佐美の放り込まれた部屋の天井から床へ貫く剣のようなものがあった。

「今わかったわ......あんた達、インキュバスたちだね......と、いうことは、オレフの放り込まれたところにはサキュバスたちがいるのね」

 佐美は怒りのあまり、強い啓典の言葉を次々に発した。それとともに、天からの雷がいくつも振り下ろされた。そしてしまいには彼らを退かせる言葉を発した。

「退け、サタン!」

 だが、その言葉は全てを一掃するほどの劇薬だった。案の定、その言葉とともに、一切の目の前の屋敷も周囲の建物も、人間たちも一切が消えてしまった。

「あっ、そうか? やってしまった....ということは......みんなどこへ行ったの?」

 その声に反応したのか、佐美の前に狼とそりが現れた。

「さて、狼たちが橇を持ってきてくれたけど、彼らはどこへ?」

 佐美は考え込みながらカプセルの中で考えることにした。ただ、佐美にとって捜索の手掛かりは見当たらなかった。考えがまとまらないまま、佐美はいつの間にかカプセルの中に眠り込んでいた。


 橇はいつの間にか走り出していた。佐美の眠り込ん打ことを知ってか知らずか、狼たちは佐美の寝込んだカプセルを乗せたまま、橇を引いてある街の廃墟へと近づいていった。街の廃墟の姿から、そこはノボシビルスクであることが分かった。


 廃墟のはずの広場とビル街、道路に、多数の人が行きかっていた。いや、正確に言えばそこらじゅうで、3~5名の男女が互いに体を絡ませて蠢いていた。幼い佐美ではあったが、男女から発せられる聲から、以前洞穴の中でオレフとマリーチカが二人で盛り上がっていた時の声と同じ種類の嬌声であることを、悟っていた。

「これは愛し合う人同士の愛の交換ではないの? なぜ、二人だけじゃないの? 彼らの行為は何の騒ぎなのかしら......」

 もともと、ノボシビルスクは廃墟のはずだった。そのうえ、廃墟のままのノボシビルスクのあちこちで、様々に何らかの行為を行っているとすれば、それ自体がおかしなことだった。そんなことを含めて考察しながら、佐美は走り回った。走り回ると言っても、廃墟中のいたるところで行われている三人以上の嬌声を伴う行為に、佐美は辟易していた。辟易して走り回りながら、この大集団の中からオレフとマリーチカを探し出すのは、至難の業だった。

「廃墟の中で、こんなことを繰り返しているなんて、信じられない!」

 やがて、佐美は走り回ることに疲れてしまった。立ち止まって、目の前の不特定の相手との間で交わされている愛の交換を見た時、目の前の彼らはサキュバスやインキュバスの虜になっているのであり、彼らにはもはや救われる余地のないことを悟った。しかも、虜となった者たちも死体そのものだった。なにかを媒体として人間の体のように変形させ、そこに引き出した資料たちを乗り移らせ、このような儀式に供していた。そうであれば、このような愛の形に反対する者たちもいるはずであることに気づいた。反対する男女たちであれば、彼らは救われなければならないはずだった。


「やはり、ここまで来たのか? 佐美」

 廃墟の奥に隠された部屋の前で、そう言って佐美に対峙したのは、かつて佐美の幼い時に神職(アミール)絵里(エリ)に仕えていたオロウチの姿だった。

「あ、あんた、私の養父の...」

「そうだ、俺はオロウチだ...久しぶりだな、佐美」

 オロウチは、相手が幼い時から知っている佐美と分かっているためか、横柄な態度をとった。佐美は彼が成るべくしてこんなことをする魔術師にまで落ちたのだなと理解した。

「オロウチさん、あんただったのか、こんな行為をこの廃墟中でやらせているのは?」

「そうだと言ったら?」

「なるべくしてなったというところでしょうか、ね」

 佐美は皮肉を込めてそう語った。だが、オロウチはそんなことにも気を止めず、言葉を継いだ。

「ここで行為にふけっている奴らは、極めて素直な男女たちさ。ところが、あんたやあんたの仲間たちはやたらと抵抗するから、特別な処置をすることにしたのさ。今頃あんたの仲間たちは、縛り付けられているだろうよ」

 オロウチはそう言いながら、時刻を気にした。

「ちょうどいい時刻だ、あんたのような子供にも素直になって、俺たちが感じている喜びを一緒にすることの良さを分かるだろうよ」

「何が喜びなの? 私には悲鳴しか聞こえないね」

 この時、オロウチの背後のドアの向こうで、男たちの悲鳴、女たちの悲鳴が聞こえた。佐美はその扉へと飛び込んだ。だが、同時に幼い佐美の手足は、厳つい男たちの腕で押さえられてしまった。そして、佐美の目の先には、X字の木枠に縛り上げられ、素肌を晒しているオレフなどの男たちの姿、また女たちの姿があった。

 マリーチカやほかの女たちは、束縛されたまま股間を無理やり広げさせられた。彼女たちは、不特定の男たちに強制的に接触させようとする動きに、必死に抵抗していた。他方、反対側では、オレフや男たちが、懸命に束縛をほどこうとし、意に反して反応し始めている股間を何とかしようともがいていた。それを見ながら、オロウチは嘲笑し始めた。

「へえ、抵抗しなければ、ここにいる聖徒の霊たちさえも、もうすぐサキュバスやインキュバスたちによって快感が与えられるのに…聖徒たち、そしてオレフもマリーチカも、それを拒むのかい? 見ているがいいさ 佐美よ……子供もここで学ぶとよいね。人間は素直でないといけないからね」

 佐美は、12歳になろうという少女であり、目の前で非常に忌むべきことが行われようとしていることを悟っていた。

「狼たち、私の声が聞こえるかな…ここを襲って、私とオレフ、マリーチカを助け出して...」

 この直後、狼たちが廃墟の奥まったこの部屋の中に殺到した。残念ながら、狼たちが助け出せたのは、佐美だけだった。オレフもマリーチカもそこで縛られていた聖徒の霊たちも、全て、ふたたびオロウチと彼の配下であるサキュバスやインキュバスたちの手によって、さらに南へ砂嵐の中のウルムチ、さらにはアクスへと遠く連れ去られてしまった。


「追いつめても、また逃げられてしまった……おそらくはまた繰り返し繰り返し逃げられてしまう……いいや、何か見落としていることがある。そうだ、ここにいた男女たちは、おそらく呼び出した死霊を、犠牲動物の死体を変形させて作った疑似身体にのりうつらせ、あのような儀式を行っていた。それならば、まだネクロマンサーは、逃げる際にその死体たちとともに逃げているはずだ」

 佐美はそう独り言を言って、空を仰いだ。


「見つけた。こんなに簡単に見つけられるとは思っていなかったわ、オロウチ、いや、ネクロマンサーオロウチといったほうがいいわね」

「わかったよ」

「それならば質問…あのようにして儀式をさせているならば、あんたや彼らを背後から操っていた者がいたはずね…私はそれが知りたいわ…そいつは今どこに?」

 こう尋問したのは、背後で操っていた者の痕跡を発見できなかったからだった。狼たちも、その場所まではわからない…おそらくは、逃げていく者たちの行動の先であろうと思われた。

「ゴグの地だ。それ以上は、俺には行き方もわからないね。俺は置いてきぼりにされただけだ」

「そう....今まであんた達や彼らが逃げてきた道筋を検討してみるわ」


 この先には、ウルムチ、アクスがあった。佐美はこの地で彼等の痕跡をみつけることが出来た。

「おそらく、その先に彼らの本拠地があるに違いない…そこに入り込んで首領格を抑えれば…」

 佐美はそう考えた。ウルムチ、そしてアクスの先にはカラコラムの山々があった。雪を纏い、激しい吹雪が吹き荒れる山間地が、幾重にも続く地だった。今の時代の人間は、到底入り込むことは無理だった。

「ゴグの地……カラコルムのどこか……」

 佐美にも、その地がどこにあるのか見当もつかなかった。それでもカラコラムの山々へと向かう覚悟をして、様々な計画と準備をし始めた。おりしも、かつて砂漠地帯特有の現象であったはずの砂嵐が、今ではこの辺りの極寒乾燥地帯でも吹き抜けていた。

_________


  ゴグを内奥に秘めるカラコラムの地、そこは砂嵐を超え、天山を超えた高高度高原にあった。山々の奥の山間にあるため、極寒乾燥の地でもあった。


 佐美は、狼たちとともにいくつもの峠を越え、多くの村々の廃墟を通り過ぎた。この地でも、極寒の中で行き着く村々では人々は去り、または死に絶えていた。水は足元の氷や時々見る雪を溶かしてろ過することで得られた。また、狼たちを放して小さな獣たち、鳥たちを得ていた。しかし、カラコラムの奥地へ入ると、氷や雪さえなくなり絶乾と極寒の世界になった。佐美たちは橇を乗り捨てた。

 佐美はリーダーの狼にまたがりながら進むしかなかった。既に食料も気力も切れかけていた。こうして彼らは、長い旅の果てにカラコルムの南東の果て、タクラマカン西部とチベット北西部の果ての谷あいに入り込んだ。

 峠から見下ろしたその盆地には、今まで見慣れていた絶乾と極寒の岩場ばかりでなく、在るはずのない石造りの壁、いや聳え立つ城壁が長々と作り上げられていた。

「ここかしら、ゴグの地は?」

 佐美は独り言を言った。狼たちも何かの匂いを感じ取っていた。すると、白い蒸気のような影が峠の両側の峰々を飛び越えて次々に盆地の奥へと飛んでいく様子が見て取れた。その様子を見て、佐美はうなずいた。

「そうね、ここだね。悪霊たちが集められ、選抜され、そしてオレフさんたちや聖徒たちが連れて来られたゴグの地」

 佐美は、狼たちを此処までたどってきた道へと引き換えさせた。ここは悪霊たちが群れ為すところではあるが、獲物はいない。狼たちに危ない橋はわたらせたくはなかった。


 佐美は、狼たちと別れると、漆黒の闇にまぎれてゴグの地へと降りたっていった。吹く風は砂を含み、冷たく乾燥しきっていた。肌を守っているはずの衣も、乾燥しきった肌を守れていなかった。

 夜になり、佐美は城壁に近づいた。城壁は、この辺りに露出している岩盤と同じような色合いの岩を、高く積み上げたものであった。ただし、人間たちの細工とは違い、荒削りのままの岩をそのまま載せて築き上げただけの粗末なものだった。

 城壁から中を覗き込むと、城壁に沿って建てられた魔術の充満した館があった。注意深く観察すると、絶乾極寒のなかで腐ることの無い動物の死体が、何らかの術式によって人体に変形させられており、その中に引き込んだかつての人間たちの霊たちを植え付けられていた。それらの体がまるで人間たちのように蠢いていた。

「やはりここだったのね……あとはオレフさんとマリーチカさんを探し出さないと......」

 だが、食料も水も不足していた佐美には、城塞のあちこちから感じ取れる食べ物の誘惑に負け始めていた。匂いに酔ったせいか、佐美は城壁に沿って振らりふらりふらりと明かりの中へ迷い込んでしまった。佐美は、途端に門番らしい男に掴まってしまった。佐美はこの時、この辺りに集まっている悪霊たちが非常な美男子であることに、初めて気がついたのだった。


 門番は、人間がここまで来ることをまるで想定していないように、歓迎の意を示した。

「よく、このゴグの地までたどり着けたな」

「ええ、なんとか」

 佐美は話を合わせるようにして、その門番に応えた。門番にとって、人間などが来るはずがない、ましてや女児が来られるはずもない、とすれば、目の前の幼女は悪魔の変化した姿に見えたに違いなかった。門番はつづけた。

「ゴグの地へたどり着いた者は、選ばれた者だ。ここは人間などが来られない場所だ。悪霊でさえ、たどり着けるものは少ない。つまり、選ばれた悪霊たちだけが此処に来られるのだ。既にこの城塞の中には、試練を乗り越えて選ばれた悪霊たちが集まっている。我らの宿敵、啓典の者どもが人間の中から選んだ聖徒たちを鍛えて聖化させることに対抗して、我々もまたこのゴグの地で悪霊たちを集め、来る日の戦いに備えさせているのだ……さあ、お前も加われ、われらの来るべき戦いの戦列に!」

 門番はそう言って佐美を迎え入れたのだった。


 佐美は、さっさと城門の中に入り込んだ。彼女には、どうしても行っておきたい場所があった。城門の近くには、城壁の上から見えた館、つまり引き込まれたかつての人間たちが蠢いていた館があるはずだった。

 少し探しまわると、ほどなく「死霊の館」というプレートがつけられた館を見出した。やはり、構造的な要求からか城門の至近にあった。おそらくは、聖徒たちを含む人間たちの霊を引き込み次第、放り込むための施設なのだろうと思われた。

 城内は、死霊の館を含めて厳重な警備が敷かれていた。それでも、動物の死体を変成して形成された人間の体が収容されていることもあり、佐美が予想したとおり、彼女が館の近くに潜んでいても怪しまれることはなかった。

 なかでは、男たちの悲鳴、女たちの悲鳴が聞こえた。サキュバスやインキュバスたちが、引き込まれた人間の男女の霊たちを植え付けた体を抑え込んでいた。これらの状況から、喜んでこの状況にはまり込んでいる人間たちはいなかった。すべてが聖徒に違いなかった。しかも、聖徒であれば、神聖な啓典の主の庭から、無理矢理連れ出された例たちに違いなかった。

「今は、ただ皆さんのために祈ります」

 佐美はそう言うと、祈りをささげた。すると、起きるはずのない上昇気流が生じ、その上空に砂嵐のような黒い渦が生まれた。すると、そこから鋭い雷が館を貫き、驚いたサキュバスやインキュバスが我先に逃げ出した。その騒ぎに乗じて、佐美は悲鳴の聞こえた館の中に飛び込んだ。

 そこには、オレフとマリーチカの姿が見えた。

「さあ、オレフさん、マリーチカさん、それに皆さん、今がチャンスだ。逃げて」

 その声に反応するように、その館から霊たちは次々に飛び出していった。

「佐美、ありがとう、でも、私たちは啓典の園から引き出された聖徒達ではないの、私は北からの侵略者に攫われて此処に至った女、アレフは私を追って此処まで連れて来られた男なの」

 マリーチカとオレフは、そういうと、他の霊たちが飛び立っていくのを、佐美とともに見送るのだった。


 間をおかず、佐美とオレフ、マリーチカは館を脱出し、間一髪で門番や兵士たちが館に殺到した。彼等はそのまま佐美達を追ってきた。彼等は逃げ遅れて横道に隠れた佐美を通り過ごし、オレフたちを捕まえて連れて行ってしまった。

__________


 佐美は、苦労して隠れ家を見つけた。そこから佐美は、城砦のさらに奥を調べた。

 佐美がそこで発見したのは、下級悪霊たちの巣窟だった。彼等ばかりでなく、選ばれた上級クラスの者たちも参加していた。

 彼らは様々な形態をとっていた。在るものは、白い蒸気のような姿。在るものは、実体を持たず、気配やオーラだけをまとった者。ある者は実体を持ちながらも濃い魔力がにじみ出ていた者。など、様々だった。様々な形態の悪霊たちの中で、佐美もまた現実には彼らから見れば恐ろしく見えるものを伴っていた。それゆえ、どの悪霊たちに一切ケチをつけられることもなく、佐美は何食わぬ顔をして訓練に加わった。

 

 巣窟の中には、魔術クラスに応じて様々な訓練が行われていた。黒魔術、白魔術、闇魔術、水魔術、土魔術、風魔術、呪術、房中術などの教官がが、悪霊たち訓練生のそれぞれの適性・属性に応じて教えられることになった。だが、佐美はここで思わぬ障害に遭遇した。

 それは、悪霊たち訓練生の魔術適性を判定する場でのことだった。

「私は判定官のドルゴレンである」

「はあ」

 佐美は木のない返事をした。彼女自身、何処に配属になるのかたらいまわしに在っていたのだった。

「あんたは自己申告によれば白魔術だということだが……」

「はい」

「だがその魔術をあんたはまだ示していない……何か問題があるのかね」

「今は発動できないのです」

「発動できない? どういうことかね? いつならできるのかね?」

 佐美はのらりくらりと答えていた。しかし、佐美以外のクラス分けが決定し終わっては、ドルゴレンの前から佐美は逃げられなかった。

「あんただけだ、さあ、まずは魔術を発動してみよ」

「え......」

 佐美は窮地に追い込まれた。この時、佐美は祈るしかなかった。すると、佐美の意図しないことながら、その場の空気が電離し始めた。そして次の瞬間、小さな電子の流れが白い光とともに発生した。

「これは、光、いや、白い電光石火? 解析不能な魔術……なんという魔術……あんたがこれを考案したのか?」

「え、ええ......」

 ドルゴレンの戸惑いの声に、佐美は心の中で苦笑するしかなかった。もちろん顔はこわばったままで、いつの間にか電子の小さな流れ、つまり小さな雷はきえていた。

「そうか、それならあんたは白魔術のクラスに行くとよい」

 そう言うことになった。


 各クラスでは、それぞれに授業と訓練が行われていた。悪霊たちの持つ魔術をより研ぎ澄ますために、様々なことが行われていた。こうして訓練期間が終わりに近づいたとき、「王」と言われる最高権力者のまえで、全訓練生を集めた卒業研究発表が行われることとなった。この時、佐美は初めて「王」と言われる者が、オレフたちや聖徒たちを此処に連れ込んだ実際の命令者であり、この町に繋がらる様々な悪霊たちを操っていた黒幕であると直感した。

 「王」の前で、判定官ドルゴレンや教官たちは、悪霊たち研修生に様々に魔術を発動させた。そのうちに、佐美の番が巡ってきた。佐美は祈りのうちに雷撃が来ることを思い出し、密かな祈りをささげ、雷撃を呼び込んだ。

 これには、「王」と言われ崇められていた者が声をかけてきた。

「その術は見たことがないな。術式は何というのか?」

「いいえ、無名のみすぼらしい術式にすぎません。単なる電子の流れですから。。。」

「だが、電子の流れとは珍しいぞ。それに見た目より威力は大きいようだ」

 「王」は大したものだとほめそやし、佐美は少々顔を赤くして自分の列へと戻っていった。

 ドルゴレンは、教官たちと言葉を交わしてから、陽気に佐美に語った。

「卒業すれば、次の段階は中級者たちのクラスだが、あんたは「王」の命令で最高者クラスに進むそうだ。しばらく、そこで過ごしてみな……今の段階から最上級を卒業すれば、あんたは最上級格へ達することも可能だぞ」


 最高者クラスとなった時、悪霊たちとともに佐美は最上級格となるための誘惑術を学ぶこととなった。そのために教材として、悪霊たちに魅入られてこの地に連れて来られた人間たちの霊や、このゴグの地に残留思念として持ち込まれた転生者たちが使われた。人間たちの霊は、聖徒たちの場合と同じように、絶乾極寒のなかで腐ることの無い動物の死体から得られた人造人体に固定されていた。最高者クラスの研修生たちは、これらの人造人体の人間たちを相手に、欲望をそそのかす誘惑をできるように教育を受けた。

「いいか、ここでは人間たちを空腹に追い込み、石をパンに代えさせルのだ。うまくいけば、人間たちは啓典を忘れ、目の前の食べ物に心を支配されるだろう」

「次は、高所から飛び降りさせることで、啓典の主を試すように仕向けるのだ。うまくいけば、彼らは啓典の主を試しに試し、疑心暗鬼に心を支配されるだろう」

「最後は、この世で彼らの願い、世界平和でも何でもよい、彼らの願いをかなえさせるのだ。ただし、お前たちを礼拝するように仕向けるのだ。うまくいけば、彼らは啓典を忘れ、ご利益に心を震わせ支配されるだろう」

 こうして、彼らは、ヨミから引き出された人間や様々な地から連れてこられた転生を繰り返す残留思念たちの霊を対象にして、誘惑の仕方を繰り返し学んでいた。佐美は、学ぶ姿勢を偽装しながら、「王」という存在とその様子を観察するのだった。


 こうして、佐美が最高位クラスを卒業するまでに、4年が経った。17歳となった佐美の魔術は、元々の素質というよりも、絵里によって与えられた知識と理論を魔導理論に応用しているためか、超一流となっていた。その学びは、オレフを探し出す能力を得るためにも必要だった。

 やがて、頭角を表した佐美は、城内のどの人物にも優れた魔道士として知られるようになった。ただ、オレフの居所は佐美の拡張された能力でも、知ることができなかった。いずれ「王」と言われた者に接触しなければならないことは、明らかだった。

 

 幹部登用試験の日、この街を率いる頂点の「王」との面接が設けられた。その部屋に入ると、無人に見えたのだが、佐美は歩き回り、こびりついた残留思念を見出した。それが、「王」すなわち、永年転生王として先史よりも前からこの谷で転生し、君臨し続けて来たトバルカインだった。

「よく発見できたな」

 姿を現したトバルカインは、美形の男だった。佐美を歓迎してくれている様子だった。

「私はトバルカイン。いつか来るであろうこの地球の支配を、ここから始める準備をしている者だ。あんたもここまで来られたということは、我々に、最上級格で参画できる資格を得たということだな」

 佐美は、「王」トバルカインが、次々に世界中の邪悪な悪霊たちを試し、到達することができた優れた悪霊たちを、着々と戦列に加えていることを悟った。それは、佐美にとって残された時間が少ないということを意味していた。


 佐美は、もともと魔法を有しているわけではなかった。その代りに窮地の祈りが雷をもたらすことは、自分でも把握していた。彼が見せた魔術は、窮地であると自らを錯覚させ、それをきっかけに発動される雷撃を激烈にした破壊術だった。その規模とその巨大さを制御できたことによって、悪霊たちは佐美を最上級の戦列に加えたのだった。

 そうであれば、佐美は、ここで積極的に戦列に加わって役割を果たそうとする姿勢を示しつつ、オレフをはじめとしてまだ捉えられていると思われる聖徒たちの居場所を何とか探り出そうと考えた。いざとなれば、体得した力を行使することも覚悟した。


 佐美が最上級士官として城塞を見回ることは、不自然ではなかった。絶えずさまざまな危険を発見して対処することは、士官として当然のことだった。実際、佐美は城塞のほころびを発見しており、佐美の城内巡回は城塞の悪霊たちにとっても、いつものことのように感じられていた。

 佐美は、その時を待っていた。彼女は悪霊たちの目線を意識しつつ、今まで踏み入れたことの無い禁断区画に入って行った。

 その区画は悪霊たち一般が大きく打撃を受ける可能性があるために、入ってはならないところとされていた。佐美は大きく打撃を受ける可能性から考えて、実はそこが聖徒たちの押し込められているところではないかと分析した。

 なかに入り込むと、意外に暗くはなかった。その光を頼りに入り込むと、やはりそこにはオレフたちや聖徒たちが、監禁されている場所であり、聖徒たち自身が光を放っていたのだった。

「オレフさん、オレフさん、いますか」

 すると、反応がすぐにあった。そこには、実体を持った聖徒たちが祈りを捧げていたのだった。

「その声は佐美?」

「そうです。いまからたすけます」

 佐美がそう言い、逃亡の準備をしている時だった。


「おい、そこで何をやっている?」

 その声に、佐美は反射的に自らの気配を消し去った。

「無駄だ、佐美。私はこの機会を待っていたのだ。お前が正体を現すこの時を…」

 その呼びかけは、やはり「永年転生王」トバルカインだった。佐美は、隠れても意味がないと判断すると、トバルカインの目の前に自らを晒した。

「佐美、とうとう追い詰めたぞ」

「そうですね、転生王と呼ばせてもらいましょうか。でも、あまり私を窮地に追い込まない方がいいですよ」

「それは脅しかね? わたしにそのような脅しをする者がいるとは? いままであまり目の当たりにしたことはないね……私には無意味だよ」

「あなたには無意味かもしれませんね......ただし...」

 窮地に追い込まれた佐美は、満を持して祈った。その直後、天からの雷がとどろき始めた。

「ほう、あんたの魔術か? それなら見てやろう」

 トバルカインはそう言うと、佐美を睨みつけた。佐美は変わらず目を閉じたまま窮地の祈りをつづけた。雷は、次第に発生数と規模を増し、ついには地上の施設に届くまでになった。

「ほう」

 大きな雷鳴が響きわたる中、トバルカインの少しばかりの声が聞こえた。その直後、雷が城内に降り注ぎはじめた。それらの雷は振り下ろされるたびに建物を容赦なく破壊した。また、別のところでは、降り注ぐ雷の中を、逃げ惑う悪霊たちが次々に引き裂かれ始めた。その光景は、佐美の後ろに控えていたオレフや聖徒たちさえ怯え切るほどの威力だった。

 ただし、トバルカインは眉一つ動かさなかった。城内で立っている者は、佐美とその後ろに控えている聖徒たち、そしてトバルカインだけだった。


 かろうじてトバルカインは自らの身体だけは守った。トバルカインにとって周囲が破壊されることは想定外だったものの、ある程度そんなこともいつかはあるだろうと考えていた。だが、周囲の悪霊が全て引き裂かれ、自らにまで雷が及ぶに至って、驚きの声を上げた。

「よくも、私のこれまでの努力を無にして切れたな…まあ、よい、まだ私には力がある....さて、さて、これは私の知らない魔術だな。どうやったのだ?」

 佐美は、傷だらけになったトバルカインを前にして、確認するように言葉を繰り返した。

「それは言えません。ただ、警告をしたはずです。私をあまり追い詰めないで、と」 

「そうか、それなら佐美よ、別のことを教えてくれ」

「この期に及んで、何を聞きたいというのですか」

「佐美よ、私はまだ負けていないよ。ところで、今後の参考に教えてほしいね...あんたはなぜ、ここまで? 生きた人間のあんたはどうやってやってきたのか? どんな方法を使ってきたのか?」

「私は、攫われた私の家族だった者たちを、人間ではない預言された動物たちの協力を得ながら追ってただけです」

「そんな手段で? それになぜそれだけの理由で……そんな理由だけでここまで来たのか?」

「トバルカイン、それはある男の妻が生前に虐げられ苦しめられた上に、拘束され強制され、そしてここまで連れて来られたからです。その男もあなたは虐げ苦しめ、拘束したのです。そして、在ろうことか、啓典の庭園に休んでいた聖徒たちの霊まで引き出しました」

「それがどうしたというのだ」

「まだまだあります……あなたとあなたの配下は、いままで、あまりに多くの死者たちを楽園にいれぬように図りもしましたね。即ち『彼はお前の頭を砕き、お前は彼の踵を砕く』という創世記の預言の成就を遅らせ、本来ならば早々に予言成就の末に楽園に入るはずだった死者たちを惑わせ、攫った。....予言成就後も、あなたたちは天の父の楽園に入れた者たちさえ攫い、苦しみに入らせた。同じようにして、私のところに助けを求めたオレフとその妻さえ、私から攫いました…これらのことが許されるはずもないでしょう!」

 佐美の口調が急に厳しい調子に代わった。

「そうか、それならば、今は私の負けであることを認めてやろう......だが、お前たち啓典の民に、我々は必ず報いるぞ」

 トバルカインはそう言って、一瞬のスキをついて、逃げ去った。

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