終わりの日の佐美(サミ) 3 墓標の浮動要塞都市
「わたしは、どうしたらいいのかしら……これからどこへ行くのかしら」
村から出て、佐美は心の迷いのままに彷徨い始めてしまった。目に入った遥かな雪山は、村でも見たヘルモンの峰々だった。
その麓の谷筋は、過去街道筋のはずだった。しかし今は、すでに焼けたように枯れたレバノン杉の跡と乾いた川筋が残る荒地となっていた......先ほどまでは、ヘルモンからの水が村に面している湖にそそぐ小川があった。その川筋と別れを告げると、もう周囲は乾ききった大地だった。
こうしてヒジャブを深めにして厚く黒い長衣で全身を覆うと、この寒い峠の荒地でも、割合に負担なく歩くことができた。こうして峰々を超えると、その先には乾いた岩と細かいシルトからなる荒地が広がっていた。はるかな先には、かつて佐美が育ったアララトの地があったはずだった。しかし今は、遠くまで透き通った大気の向こうには、人々の営みはおろか、何かの獣たちがいる気配さえ見当たらなかった。
その時、佐美に働きかける何かが感じられた。それは次第に言葉になって心に響いた。
「これからの間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう…わたしはあなたと共にいる あなたを見放すことも見捨てることもない…わが子よ、強く雄々しくあれ」
それは、佐美にとって初めての啓典の主からの直接の呼びかけだった。佐美は驚きと畏怖の余り、感謝の祈りを捧げるのが精いっぱいだった。
その後、佐美は旅を長く続けた。彼女が旅の途上で通った地は、すでにどの町も村も世界規模の寒冷と日照りに飲み込まれて廃墟となっていた。あの村で聞いていた通り、外の世界の人々は、全ての人々が飢餓に苦しんでいるといえた。佐美も、旅に出る際には食糧を得る苦労を覚悟はしていた。それゆえ、村から出るときに十分な干し肉や干し野菜、果物類を携帯していた。それも携帯食料はすでに無くなり、佐美は日照りと乾きの昼と寒冷な夜とを繰り返す砂漠を、さまよっていた。
その荒野ではあったが、佐美は大きな街を見出した。ほとんどは廃墟なのだが、その一部に遠目に見て蠢く人間達の姿が見えた。すこし近づくと、廃墟の中でうごく人間達が兵士達であることがわかった。帆舟の側か、陽奈葉の側かはわからなかったが、出撃基地が街の中に設けられていることがうかがわれた。
佐美は、夜の闇にまみれてその街に近づいた。すると、廃墟の都市と見えたものは、徐々に移動していることが分かった。土台部分は暗いため、どのような仕掛けで動いているのかは、わからなかった。佐美はそのまま移動都市の中へ潜入していった。
都市の中には、多くの墓標が所狭しと建てられていた。
「アダル、アド、マスル。愛する家族たち、兄弟たち、ここに眠る」
「アブドルよ、もう掘り返せない。ここにそのまま眠れ」
歩いていけども、墓標の立てられた墓地をなかなか抜け出ることができなかった。未明になって太陽が照り付けるようになると、それらは実は墓標の立てられた墓地などではなく、建物達が破壊された都市の跡であり、瓦礫の中に殺された者達がまだ埋まったままであることを表すものだった。佐美は墓標群の全体に幼く小さな両手を挙げて祈りをささげ、ふたたび瓦礫の中を歩き始めた。
太陽がじりじりと照り付けるようになると、さすがにひもじさは限界を超えた。水さえすでに一滴もなかった。ここに到達する前に、繰り返す暑さ寒さと飢えと渇きによって、彼女はすでにほとんど限界に近い状態だった。ようやく彼女が見つけた日蔭は、基地の守衛所傍であり、小さな彼女の身体を修めるほどの大きさがあった。
「ここは、屋根があるんだなぁ...とりあえず、日差しと雨をしのげる...」
そんなことを思いながら、彼女はそこに倒れこんでしまった。
目が覚めると、彼女は基地病院に担ぎ込まれていた。
「おう、目が覚めたか」
「私はどうしてここに?」
「覚えていないのか? 子どもが我々の周囲の廃墟から助けを求めて基地の前へ倒れこんできたということで、あんたを此処に運び込んだんだぜ」
「ここはどこなの?」
「ここは、基地の野戦病院だ」
医師か看護師らしい男は、そう答えた。黄土色の軍服をきた彼の胸には、英語で標語とともに見たことのある記章がつけられていた。どうやら、帆舟が神職を務める勢力の軍事基地らしかった。話からすると、彼らは、神殿の丘全体を占領した陽奈葉の勢力を、包囲する準備を整えている最中だった。
「私はここにいていいの?」
「幼子よ。みれば、あんたは顔つきから見て明らかにアララトの地辺りから来たのだろう? アララトの地には、先の偉大な神職絵里様の代に、彼女を慕って多くの民族が逃げ込んだことがあった...そんな彼らの一部がこの都市にも住んだ...あんたはその一民族の子供のように見えるね...我々には絵里様の跡を継いで偉大な神職となった帆船様がいらっしゃるから、我々はそのような仲間や子供たちを保護しなければならないんだよ...ところで、あんたの名前は何て言うんだ?」
「私の名前? 覚えていない...」
佐美は一時的記憶混乱を装った。今、本名と正体を明かすことは危険だと、感じたからだった。
「記憶喪失か? かわいそうにな」
「うーん、思い出した...ユエル...」
「ユエル? へえ? まるで天の父への絶対忠誠を誓うような名前だな じゃあ、ユエル」
「はい」
「あんたは元気になったらこの基地で働きなよ...そうすれば、子供でも働けて、食べることに困ることもないぞ」
「ありがとうございます」
こうして、佐美は食堂で職を得ることとなった。
食堂には、様々な人間たちが働いていた。食堂長アーザーブ・アワド、料理長アブデル・ハラーウィー、給仕長エリッサ・カラーミーの許で料理人やウェイターのベテランたち、新米たち、そして佐美のような子供の下働きからなった。佐美は新参の子供ということで、下働きの子供たちの間で虐げられつつ、生活を始めた。
「ユエル、お前、何処から来たのか覚えていないらしいな。それなら、ここで働くことはできないぜ」
「え、そんなことはないはずだよ」
「いや、そうなっているんだよ」
「どこにそう規定されているんでしょうか?」
「規定? そんなもの、なくてもいいんだよ」
早速年上の男児たちがちょっかいを出してきた。佐美は女児であることを隠しながら、精一杯彼らの圧力に対抗した。
「規定はあるはずだよ。それに従うことが命じられているはずだ」
「俺たちは下働きの中でも上の地位にいるんだ。ここでは俺たちが規定なんだよ」
「そう、分かったよ。ただ、これから何が問題かが、あんたたち以外の人たちにも事態がわかるように、動くよ」
佐美はそう言うと、淡々と働き続けた。怖がらせることができなかった男児たちは、面目をつぶされたと感じたのか、佐美が料理を運ぶ際に執拗に邪魔をしてきた。彼女は、それを待っていた。彼らの一人が手を出すと、手を出した彼らの腕を彼女はしっかり握り、、彼の腕に煮えたぎったスープがかかるように図った。彼らは悲鳴を上げた。
「料理長、見てください。彼らの仲間がこのように手を出したために、大事なスープをこぼしてしまいました」
ユエルは大声を上げた。すると料理長アブデルが駆けつけた。
「ユエル、大丈夫か。このガキども、ユエルの邪魔をしやがって!」
「熱い熱い、手を放せ」
「あなたが私の進む足先に手を出したから、このように抑えたのです。スープが腕の上におちてくることは覚悟の上なのでしょ?」
「こ、この野郎」
このことに根を持った男児たちは、今度は通路で佐美を邪魔しようとした。規定上では通路上で通過するものを邪魔してはならないはずなのだが、彼らはとうにそれを忘れていた。
「へへ」
彼らはこう笑ったのだが、次の瞬間彼らは悲鳴を上げた。彼らが佐美の足を引っかけようとした時、佐美はあらかじめ計算したとおり、その料理を入れた鍋が彼らに降りかかるように準備をしておいたのだった。当然ながら、手出しをした男児たちは煮えたぎったスープを体にまともにかぶることになった。彼らは基地内の病院の、閉そく病棟に閉じ込められてしまった。
其の後、働き口である食堂では大きな混乱もなく、佐美は毎日の仕事をこなしていた。このころになると、食堂を訪れる兵士たちや食堂の職員、また食堂長アーザーブにも、ユエルという名前が知られるようになっていた。
「ユエル、もう給仕には慣れたようだな」
食堂長アーザーブは、佐美の働きぶりに目を止め、彼女に声をかけた。
「ところで、来週、基地では近隣の部隊長を集めて式典をすることになった。そこで働いてもらえないか」
佐美は、幼い時から儀式の際に供物の儀式を担当していたこともあり、作法にも詳しかった。そのため、食堂長たちは、たびたび執行される式典や宴会で佐美を重用した。
「ユエル、あんた、いろいろ作法に詳しいみたいだな」
「旦那様、作法はもともと儀式に由来するものですので...」
「へえ、あんたはこどもなのに儀式に詳しいのか?」
「いえ、私は幼い時に儀式に参加したことがあるため、その時に覚えたことが今回役に立つまでのことです」
「そうか、それならその経験は、今後もここで役に立つぞ。そういえば、その式典には最高位の神職様が来ることになっている」
数日たったある日、その基地は式典の日を迎えた。式典の時をむかえるころ、神職帆舟が行幸した。基地では、最高位の帆船に対して非礼のないように、入念な準備が最終段階になっていた。そこで、11歳になったばかりの佐美も、作法にのっとった給仕ができるメンバーとして駆り出され、彼女は晩餐会の筆頭給仕役になった。
「基地司令官殿、ではもう一度、この基地のため、我々の今後のために、もう一度神にこの杯を捧げましょう」
「そうですな、帆船様...おい、給仕役はいるか」
基地司令官は、筆頭給仕役になっていたユエルを指名し、帆船にぶどう酒を注ぐように指示した。
「はい、旦那様」
佐美はそう返事をすると、うやうやしく帆船の盃にぶどう酒を注いだ。この時、普段はドライを好んでいた帆船に、わざわざ真っ赤なぶどう酒を注いだのだった。基地司令官はそれを見てさっと顔色を青くした。
「ユエル、何をしている。あれほど白を用意しろと言っておいたではないか」
「ええ、旦那様、よく存じ上げております。帆船様がお若い時から赤いぶどう酒を嫌っておられたことまで、私はよく存じ上げております」
「な、なんだと」
基地司令官は大声を上げたが、帆船はそれを制して筆頭給仕役を見つめた。
「そなたは、私のことを知っておるのか?」
「ええ、あなたの御母堂の神職絵里様がお亡くなりになった時のことを、お教えしなければならないと存じまして、ここに来ております」
「私の母を知っているのか? 私の母は無くなったのか? 彼女はどのようにして亡くなったのか? あんたは彼女に仕えていた下女なのか?」
「半分当たっておられます」
「しかし、わざわざ私に赤いぶどう酒を注ぎつつ、私の若いころのことまで知っているとは...私が父の許にいた時にも、下女として仕えていたのか?」
「それも半分当たっております」
帆船は、日焼けした佐美を見慣れていなかったこともあり、まだ、誰なのかわかっていなかった。佐美は小声でささやいた。
「帆船様、あなた様は、神職を本当に逝去直前のご母堂様から引き継がれたのですか」
「なに? 何のことだ? 私は彼女の実子であるから当然神職だぞ」
帆船はまだ寝ぼけたような声を出していた。佐美は、耐えられなくなり大声で詰った。
「あなたについて、ご母堂様は神職を委託はしていましたが、受け継がせてはいませんでした...そして、今に至ってわかったことですが、貴女は出撃基地を設けて戦いを仕掛けるに至っていますね...陽奈葉様の側を指して」
「お前は、そうか、陽奈葉からの回し者だな。それなら言ってやろう...そうさ。私たちは、わが神によって奴らに思い知らせてやる。私たちは皆んな戦い抜く。奴らは私たちの神を犯す存在だ。奴らは悪心をもって動いているに違いない。だから、奴らに因る騒擾がすっかり無くなるまで、そして全世界が私たちの教え一条になるまで、彼の地でもこの地でも、やつらを皆殺しにしなければいけないんだ」
帆船はこの時に張って、声を荒げた。佐美はそれを確認するとさらに続けた。
「あなた方もそして陽奈葉様も奉じる啓典によれば、私たちの神は互いの憐みのためにこの世をおつくりになったはずです...それが、互いに憐みを施すために作られたこの時空において、戦いをしかも殺人を是とするとは...貴女はあまりに世俗的すぎました…それゆえに私だけが神職を託されたのです…帆船姉さま、あなたは正統性において、いくつも問題を抱えています…決して神職などではないはずです」
「そこまで言うか...お前は誰だ? お、思い出したぞ、お前、佐美だな。今は佐美ユエルとでも名乗っているのか。そうか。それならばここで、正統性を汚す異端者として成敗してやる!」
「帆船姉さま、警告します。今あなたたちがやろうとしている軍事行動は、同じ啓典の民だったはずの分かたれた兄弟たちを、敵としているのです。今からでもやめてください」
佐美は警告した。だが、帆船は聞く耳を持たなかった。彼女は呆然としている基地司令官たちに、佐美を捕らえるように指示をした。だが、この時、佐美は彼らの手をかいくぐり、基地の外郭の倉庫の中へと隠れてしまった。佐美はそこで髪をさらに短く切り、少年兵の制服を盗み取ると、ふたたび少年のような井出達となり、夕やみにまぎれて基地を脱出した。これから彼女は、神殿の丘へと向かうのだった。
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佐美ユエルは、ふたたび砂漠に出た。これからどこへ行こうか、佐美は周りを見渡した。佐美が脱出した後の移動都市を改めて振り返ると、その巨大な都市は、浮動要塞都市といったほうがふさわしかった。それは下にしている広大な荒野の砂原を平らにしながら、少しずつ移動していた。
彼らはどこかを目指して移動しているはずだった。それも、戦いに...。ということは、彼らは彼らが敵と目する陽奈葉たちのどこかの拠点を目指しているに違いなかった。そこで、移動都市の現在の移動方向を、太陽の方向と現在位置と時刻とから割り出すことにした。佐美の有している計測器と地図とからみて、彼らが向かっているのが「神殿の丘」と言われる場所だった。浮動要塞の作戦行動は、神殿の丘付近で陽奈葉側と雌雄を決することを企図しているに違いなかった。
佐美は、浮動要塞に先んじて神殿の丘に達する必要があった。
佐美は、基地から持ち出した四輪駆動車を、昔見た絵里の運転の様子を思い出しながら、なんとか動かした。数日間の高速移動の末、彼女の視界に神殿の丘が見えてきた。すると、突然佐美は四輪駆動車とともに爆風で吹きとばされた......
再び彼女が気がついたとき、明かりのない冷たい石畳の中に放り込まれていることに気づいた。しばらく思い出し、考察すると、どうやら彼女が帆船側兵士の軍服を着ていたため、陽奈葉側に拘束されたに違いなかった。
「おい、ガキ! 目を覚ませ」
牢の格子の外で、尋問官らしき兵士たちが尋問に来たらしい。だが佐美は無視をすることにした。単に尋問を受けるだけでは、彼らから十分に情報を引き出せないと考えたからだった。
「このガキ、俺たちを無視しているのか? それとも勿体つけているのか?」
「この少年は、まだわかっていないらしいぜ」
「ひっぱりだせ」
「こいつ、拷問にかけてやれ」
尋問官たちは、黙り込んでいる佐美に怒りを覚え、乱暴に佐美の小さな体を拷問室に放り込んだ。隣も拷問室らしく、拷問されて鞭を撃たれる男の悲鳴が聞こえてきた。佐美はその悲鳴に気を取られると、いきなり佐美の身体に高圧水がぶち当てられた。途端に佐美の身体は水圧で壁まで飛ばされた。既に少年兵の上着は剥ぎ取られ、下シャツとズボンはずぶぬれだった。
「お前、帆船側の斥候だろう? 奴らは幼い子供を収容しては、すばしこい子供に斥候をやらせているらしいからね」
「何もしゃべらないつもりかよ」
「拷問台につれていけ」
彼らは佐美の服を剥ぎ取ると、彼らの手が止まった。
「お、お前、少女だったのか?」