終わりの日の佐美(サミ) 1 祝福を受けた少女
アララトの地に昔から住んでいたエルカーナーは、典型的な中東人らしく大柄で優しい男だった。彼は死別した先妻との間にすでに16歳と17歳の二人の娘がいた。
「ハナ、あんた、子供はまだなのかい」
「エルカーナーは先妻との間に子供が出来ていたんだ あんたがうまずめじゃないのかい?」
「私たちのお父さんのために、子供を産めないなんて、もうこの家にはいなくてもいいんじゃないの? 出て行けば?」
16歳で日本から嫁いできた現在の妻ハナには、長らく子供が与えられずに、舅姑や先妻の娘たちから「うまずめ」と言われ続けてきた。それこそ、彼女が子供を願う思いは、募りに募っていた。
早春の巡礼の季節になった。エルカーナーは敬虔な啓典の民らしく、妻ハナや娘たちを連れて、アララトにある神殿に、年一回の拝礼に来ていた。彼らはこの日の昼間に、神職絵里の下に全ての儀式を終えて、宿泊所に戻ったはずだった。だが、夜になっても、ハナだけは一人神殿の暗闇の中で、ただただひたすらに祈り続けていた。
神職絵里は、全ての儀式を終え、就寝の時刻を迎えたところだった。ちょうど、彼が神殿の戸締りのために、暗い礼拝堂を横切ろうとしたときだった。礼拝堂の至聖所から一番離れた暗がりに、酔っ払い女のうめきのような声が低く響いていた。
「わが父なる神よ...あなたの婢がここにいることをお許しください....この婢はただあなたを、あなたのみを頼りとし、あなたのみに祈りを捧げております....」
絵里がなぜその暗がりに女がいることに気がついたのか、それは暗がりがないにもかかわらず、鼻の周囲に確かに啓典の主のオーラとでもいうべきであろうか、啓典の主が磔にされ血を流されたそのままの姿で臨在されていることが、感じられたからだった。
この日の昼間、エルカーナーとその家族たちは、この礼拝堂で拝礼をしていた。その後もハナは礼拝堂の隅に目立たぬように座り込み、永く祈り続けていたのだった。神職絵里は、そんな彼女の祈りの思いに気づいておらず、しわがれた甲高い声で厳しい言葉を投げた。
「どこかで飲んだくれ、酔ったまま神殿に来ているのですか? この酔っ払い女め、非常識ですよ...出て行ってちょうだい、もう帰れ」
「神職たる聖女様......」
ハナのこの返事とハナの横に感じられた臨在とで、絵里は自らの誤りに気付き、改めて柔らかい声をかけた。
「どうしたのですか、その祈りは尋常ではないわ……よければ告白しませんか?」
ハナは自らの境遇と叶わぬ願いとを打ち明けた。同情した絵里は、ハナの祈りに自らの祈りを重ねた。
「ハナと言ったねわ...哀れな東洋人の娘よ...しかし、貴女は気づいていないの? あなたの謙虚さと態度のゆえに、天の父はあなたを顧み続けて、もうずいぶん長く貴女の横に立ってあなたの名を呼び続けておられたらしいわ...あなたの祈りはすでに聞かれている...安心して帰りなさい......もう戸締りをするからね、気を付けて帰りなさいよ」
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ハナはその後、願い通り初子が、一人の娘 佐美が与えられた。舅姑や先妻の娘たちは驚くばかりだった。
「あんたに子どもなんかできるはずが......」
「え、娘? あんたに娘なんか...確かに父とあんたに似ているねえ」
「どうしてあんたなんかに......」
佐美はすくすく育った。賢い佐美は、幼いながら、母ハナが舅姑や先妻の娘たちからひどい扱いを受け続けていることに気づいた。しかもそれが自分にも向けられ、それについてもハナが苦しんでいることにも気づいた。それゆえ、佐美は父エルカーナーと母ハナに、佐美を神職の絵里に預け、それによって舅姑や先妻の娘たちを黙らせることを、提案したのだった。そもそも、神職の許に受け入れられるためには、非常な賢さが必要だったのだが...父エルカーナーと母ハナは、わが娘ながらその知恵に驚いた。
エルカーナーは、幼い佐美の提案を覚えていた。それもあって、ハナと娘の佐美のあまりの言われように気づいたときに、さすがに怒りを覚えて周囲に苦言を呈した。
「父上、母上、ハナは私の愛する唯一の妻...わが娘たちよ...彼女は何よりも啓典の主を慕い、愛することを主が知っておられたから、娘が与えられたのだ....そして娘として与えられた佐美は、その小さな存在ゆえに啓典の主によって賢さが与えられ、その賢さのゆえに神職絵里に認められて、その許に、啓典の父の下に預けられることになったのだぞ...見習いなさい!」
「旦那様、皆様にそれ以上は......」
ハナは思わず、エルカーナーに言いすぎないように懇願の表情を向けた。しかし、エルカーナーはハナが今まで受けた仕打ちに怒りが収まらなかった。
「皆、よく聞いてほしい...私は天の父により従順で素直に進むことを何よりも第一に考えてきた....そしてハナは私の理想とする人間であり、私の最愛の妻だ....彼女はこのように主に祝福を受けた娘を得たのだから、もう誰にも彼女たちの陰口を許さない!」
こうして、娘の佐美は、神職の許に預けられ、最高度教育を受けることになった。
「主は私を選び顧みて下さった」
ハナはこう言って、佐美を神殿の絵里に預け、夫とともに帰って行った。佐美はエリの許で高等教育を受け、成長していった。小さな佐美は啓典の主に愛され、彼女の賢さは啓典とその主によってさらに強められた。
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このころ、アララトの地にはムスト神殿があり、絵里はそこで神職として奉職していた。世界大戦がはじまってから、その一帯付近の国境が意味をなさなくなってからは、神職絵里の名声を頼って周辺の国から逃げてきた多くの者たちがアララトに身を寄せるようになった。残念ながら、このころは核戦争と地球環境の悪化に伴い、チグリスユーフラテスの水源であるこの地も乾燥がひどくなり、ユーフラテスの流れはすっかり干上がっていた。
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佐美は絵里を手伝う見習いを始めた。その働きは絵里にとって好ましく、実の娘達を愛するよりも彼女を愛した。
数年後に多くの者がアララトに身を寄せると、彼らは多くの供物をムスト神殿で捧げる量が多くなった。その事情に応じるように、絵里の信頼の厚かった佐美は供物の儀式を行うこととなった。彼女は、養母の絵里の言いつけ通りに、その日予定されている儀式の供物を持って行くところだった。
「佐美、待ちなさいよ」
呼びかけたのは、絵里の娘たち帆舟(Hophne)と陽奈葉(Phineha)の二人だった。
「それ、供物なんでしょ」
「おねえさま、そのとおりです」
「あんたにとっては初めての供物の儀式だったね」
「はい」
「それなら教えてあげよう、供物は捧げればいいんだから、ほんの少しだけ持っていけばいいよ」
帆船と陽奈葉は、適当な理屈をこねれば、佐美がすなおに供物を差し出すと考えていた。だが、佐美は単純なことでは騙せなかった。
「でも、これは信徒が心を込めて捧げたものです」
「でもね、捧げものなんて形だけのものなんだよ...それに、私たちは欠乏しているのだから、それをこちらによこせばいいのよ」
「それはいけないことではないのですか?」
「いや、空腹のダビデが神殿の捧げものを食べたことがある。だから、欠乏している私たちももらっていいのよ」
帆船たちは、佐美が彼女たちの話に理解を示したことに、満足した。だが、佐美は帆船たちの普段からの悪知恵を覚えていたこともあって、帆船たちに何らかの質問をしなければいけないと、焦った。
「食べるのですか?」
「そう、食べることもある」
「だから、太っているのですか?」
佐美はあまりに質問を工夫しすぎた。言ってから「しまった!」と思ったが、遅かった。確かに、佐美は痩せぎすだったが、先妻の二人の娘はあまりに太っていた。それをよく認識していた二人は、怒気を含んで答えた。
「これは、『恵が豊かだ』というべきよ」
「そうなんですか? でも、それを毎回行うのですか?」
「そうだよ、私たちがそれをもっといいことに役立てられるんだよ」
こうして、絵里の娘たち帆舟と陽奈葉は、供物の横取を実行した。以前、彼女たちが供物の儀式を担当したティーンのころから、彼女たちは供物を横流しをしてもうけを得ていたのだった。
しばらくたったころには、佐美がこれらの事実を絵里に指摘し、絵里もそれを見咎めた。しかし、彼女らは無視しつづけた。
その後、多くの捧げものについて横流しが頻繁になされるようになり、それを気にしていた佐美は幻を見た。それは絵里の娘達が欲望の末に二手に分かれて対立し、二人は絵里を引っ張りあって引き裂く姿だった。