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終わりの日の佐美(サミ) 10 救い主(バーブ)のあらわれるクワイト=ソージュヤント

 キュンルンの白銀城地下深く、それも最奥の地下牢に、佐美は捕らえられていた。佐美が時に起こす激烈な雷撃を警戒し、白銀城自体や地下牢、さらには周辺の施設まで、膨大な導体で厳重に磁気シールドがなされていた。そのうえ、短髪の彼女の頭と細い腕は後ろへと縛られ、ひざ上と足首は拘束された。唯一身じろぎする程度に動ける身体には、絶えず肉刑の苦悶が加えられ、不自由なまま苦悶に体を揺らすだけだった。二日目にはもう身体に込める力も残っておらず、苦悶を上げても小さな頭は前に垂れてほとんど動かず、身体は必要最低限の反応を示すだけになった。


 佐美は次第に心さえ狂いはじめた。強い刺激が付与され続け、苦悶によって意識が切れ切れになってしまう中で、彼女自身の愚かさによって失敗と罪を大きく犯したことだけは、目の前に意識し続けようと繰り返した。それは、おのずとただ祈るだけの器になることを意味した。


「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます

 主よ、この声を聞き取ってください

 嘆き祈る私の声に耳を傾けてください」


 佐美は、自らの今までの行程を振り返った。罠に気づくべきであったこと、不用意にミナの受験と口頭試問を助けたこと、結局孤立無援のまま地上に残され、しかも地中深く幽閉されたこと......

 それらはことごとく、佐美が自ら為した罪の結果だった。


「主よ、怒って私を責めないでください

 憤って懲らしめないでください

 主よ、憐れんでください

 わたしは嘆き苦しんでいます

 主よ、癒してください

 わたしの骨は恐れ

 わたしの魂は恐れおののいています

 いつまで......

 いつまでなのでしょうか

 主よ......


 主よ

 戻ってきて

 わたしの魂を助け出してください

 あなたの慈しみにふさわしく

 わたしを救ってください

 この死の国に来てから

 誰もあなたの名を唱えません

 この地の底で

 誰もあなたに感謝を捧げやしません


 もう、私も嘆き疲れました

 涙は床に溢れて寝床さえ浮かぶほど

 苦悩にわたしの目は消耗しつくし

 使えないものになりました」


 佐美は、ひたすら罪を目の前に置き、ただ啓典の主の責めだけを意識し、憐れみを求めて祈り続けた。


「主よ

 怒って私を責めないでください

 憤って懲らしめないでください

 あなたの矢は私を射抜き

 あなたの御手は私を押さえつけています

 わたしの罪悪は頭を超えるほどになり

 耐えがたい重荷となっています

 もう立てないほど打ち砕かれ

 心は呻き

 唸り声をあげるだけです

 わたしの耳は聞こえないかのように

 聞こうとはしません

 わたしは聞くことのできない者

 口に抗議をする力も無い者となりました

 主よ 

 わたしはなお あなたを待ち望みます

 わたしの主よ

 私の神よ」


 ついに、佐美の意識は混濁するだけになった。混濁した意識でも体で覚えた祈りは続いた。いつまでこの苦しみが続くのかと、憐れみを求めるだけの祈りになった。


「 神よ、わたしを憐れんでください

 おん慈しみをもって

 深いおん憐れみをもって

背きの罪をぬぐってください。

 わたしのとがをことごとく洗い

 罪から清めてください

 あなたに背いたことをわたしは知っています

 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています

 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し

 御目おんめに悪事と見られることをしました

 あなたの言われることは正しく

 あなたの裁きに誤りはありません

 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます

 それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください

 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください

 そうすれば、私はきよくなりましょう

 私を洗ってください

 そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう

 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください

 そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう

 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください

 神よ。私にきよい心を造り、

 ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください

 私をあなたの御前から、投げ捨てず、

 あなたの聖霊を、私から取り去らないでください」


 この祈りを捧げているとき、佐美はふと耳元にささやく声に気づき、眼を上げた。幻には違いないのだが、佐美の右横に裂かれた肉と流された血をあらわにして架刑にされた啓典の神が現れていた。この時、佐美は、幻想とともに聞かされた言葉が刻まれた。

「あなたは、こののちの人生のために、こののちの人々のために生きなければならない。私は、裂かれた肉と流された血の姿で貴方の愛を示し、栄光を現した。私はあなたに清い心を再び燃え立たせ、揺るがない霊を再び立ち上がらせる。それゆえ、あなたは衝動に駆られるように自らの血を流し、肉を裂かれながらも、こののちの人々のために憐れみと愛を示しつつ生きるであろう」

 この言葉は、まるでロゴセラピーのごとくに、肉刑の苦悶に耐える力、絶望に耐えて生き続ける力となって、佐美を長らえさせた。


 数日後のことだった。突然、苦悶の基となる器具が何かの拍子で故障を起こした。なぜかは佐美にも、また牢の検非違使たちにも分からなかった。ただ、その時に生じた静かな電撃のゆえに、すべての鍵、すべての束縛の器具さえ外れ、佐美は突然自由になって牢の床に投げ出された。

 外からは、どうやって侵入したのかわからないが、強くなっていた佐美の体臭を目指して、狼が入り込んできた。佐美は、夢見心地のまま導かれるままに独房の扉を開けた。ここまで入り込んだ狼は、金縛りになっている牢の検非違使たちの横を、佐美を背に背負ったまま運んでいった。脱出した経路には、佐美の足跡と彼女を連れ去ったと思われる狼たちの足跡、そして脱出を導いたと思われる烏たちの黒い羽根がのこされていたという。


 佐美は、狼たちの背に乗せられ、その狼たちを導くように飛ぶ烏たちの群れを空に見上げながら、まだ夢を見ていると思っていた。すでに、狼たちの群れはキュンルンの谷を脱し、カラコルムの山間を南のシッキムへ突き抜けていた。


「ここは?」

 佐美が意識したのは、温暖な気候と湿り気が保たれた丘陵地帯だった。そこは、残留放射能が十分に低いこともあって、香りのよい中低木がどこまでも自由に繁茂していた。佐美たちがいる場所は、その深い森の最奥であり、啓典の主が疲れ切った佐美を慰めるために、しばしの安息の地を与えているかのような所だった。

 佐美は、何も手にしていなかった。それでも、少なくともここがどこかを探る必要があった。

「少し歩きまわって、ここがどこだか調べないとね」

 近くを注意深く観察すると、佐美や狼たちが身を寄せているのは茶の木であった。この広大な丘陵地帯を、茶の木がくつもの丘陵を覆っていた。おそらくは、もともとは茶畑で、人間たちの手入れを離れて自由に繁茂するようになったとみえた。

 遠くの光景は、乾燥した空気がその地域一帯に吹き込んだ時に見ることができた。東、北、西には緑の山々から蒼い山々がつらなり、特に北方の遠くにはカラコラムの白い山々が見えた。唯一、南には蒼い大地が広がっていた。

 佐美は身を清める必要を覚え、近くに放置された廃屋に水場を見つけた。まだ核の冬が終わって間もないはずなのに、その廃屋はさらに数年時が流れたごとくにほとんど崩壊していた。佐美の水浴びをする姿と音を、外の烏たち、狼たちは柱や壁の破れから十分観察できるほどだった。

 明らかに、トバルカインたちによる時空のいびつな処理によって、カラコルムから外の地球圏は、時が数年進んでいた。それでも、南に広がる低地には、人の営みは見えなかった。

「カラコラムから近いお茶の産地だったところ......」

 佐美は、過去に教えられた知識を掘り返して、その地域の名前を探した。その結果、そこがダージリンの丘陵地帯であることが分かった。


「私たちがどこにいるかが分かった今、私は、一度戻らないといけないのでしょうね」

 佐美は、足元でくつろいでいる狼たちに、そう話しかけた。狼たちは「まだ待て」というように、佐美を一瞥してはまた寝てしまった。

「え? 何かを待たなければならないの?」

 佐美たちは実りの豊かなダージリンの丘陵地で、しばしの時を過ごした。


 ある日、南の低地から狼の遠吠えが微かに響いてきた。佐美の足元でくつろいでいた狼が、それに答えて遠吠えを返した。

「仲間の狼たちがやってくるのね?」

 佐美は、南からの狼たちが出発の準備を携えてこちらに向かってきているのだろうと、考えた。

「でも、何を持ってくるのかしら?」

 南から狼たちがやってきたとき、彼らが伴ってきたのはなじみのあるカプセル型の橇、いや車輪がついていることから狼車といったほうがよかった。

「低地では、まだ放射能が強いのかしら」

 佐美はそう独り言を言いながら、そのカプセルに入り込むと、狼たちは一斉に走り出した。先立つのは先鋒を務める烏たちだった。その様は、まるで、佐美を守り続けたかつての狼橇のような景色だった。

_________________________


 佐美は、ガリラヤのアドナーンの村に戻っていた。佐美は以前は「小さな警告者」と呼ばれていただけだった。今では佐美はアドナーンの村では最高位の神職(アミール)であり、修道僧(モンク)のミカが彼女に仕えていた。

 この村の時間の流れは、以前にもまして非常に遅くなっていた。ミカやケンなど、見知った村人たちはみなほとんど年を取っていなかった。佐美だけが大きく成長したように思われるほどだった。


「以前の通り、私は啓典の父の意思を求め続けています」

 佐美は、首座の間に来たミカに、そう話しかけた。ミカは顔を挙げず、そのまま答えた。これは首座における彼らの地位の差を明らかにするための、規則だった。

「はい、そうでしたね…そして、こんな会話でさえも、天の父の意志の表れであると......そして、神職(アミール)様はそれを求めて地上を巡られてきたはずです」

「そう」

「それゆえ、私たちは首座を開けておいてあなたをお待ち続けていたのです」

「そう」

「それならば、お聞かせください......地を巡って理解為された啓典の父の意思とは、どんなものだったのですか」

「それは、啓典にも示されていることでした......即ち、啓典の父の愛と憐み、そして、啓典の父のみへの愛です...この地上では、様々な者たちが居ました......さらにさまざまなところの人々を訪ね歩きました......各地にいた人々には、なんらかの欠けているものがありました……ある時には、啓典の教えを深く理解する者たちもいました......ある人々は初めの愛から離れてしまっていた......また、私自身が罠にかかり、啓典の父に反攻する悪霊の頭イブリーズタサガタの下にさえ、至りました......こうして、私は各所で、人間に対する啓典の主の憐み、そして人間に対する啓典の主の愛、そして唯一の神である啓典の主に対する人間の愛、それらが決して欠けてはならない事項であることを見出したのです」

「そうでしたか......」

 ミカは、その後黙ってしまった。この村にいるだけでは、本当の愛と憐みの理想はわからない、しかし、この幼い娘はそれを学んで帰ってきた。佐美の把握して来た外の現実と積み上げてきた学びは、修行僧(モンク)のミカにとって、己の力だけで到達できるものではない、重いものだった。


教職(アミール)様、このように啓典の本質を悟ることができた今、貴女様だけがあの町の問題を処理する方であり、今が絶好の機会ではないかと考えます」

 ミカが指摘したのは、クワイト=ソージュヤントだった。

「あの町では、何度も自称「救世主」が現れては消えるということです」

「私もそれを認識しています......現われるという救世主を見極めなければ、哀れな啓典の民が迷うことになります......」

 佐美はそう指摘した。ミカも同感だった。

「はい」

 こうして、佐美は、カラスや狼達とも別れ、一人でふたたび村から旅に出ることとなった。

_________________________


 クワイト=ソージュヤント。そう呼ばれた町はユーフラテスの砂漠の中にあった。

 町周辺の草原でも、すでに以前の気温に戻り、植生も以前の通りに戻っていた。ただ、動物たちは戻っていなかった。

 彼らを圧迫していた北の大地の者たちは、既にこの時空から断たれていた。また、元の住民たちも、遊牧の民以外、ほとんど残っていなかった。それでも、原油の生産と精製が維持され、様々な生産設備と基盤が生きているなど、啓典の主によってこの地が祝福され続けていると信じられ続けているこの町には、救世主(バーブ)が現れては消えるという噂が立ち、各地から様々な救世主を求める民たちが集まるようになっていた。

 彼らが啓典にある救世主を求めていることから、集まってくる民たちは少なくとも啓典の民であること、つまり、キュンルンなどカラコラムに至るまでに佐美が見て来た精霊たちにまみれた人間たちの世界ではなく、ただ啓典の父を求める啓典の民であるはずだった。そこで、佐美はその街と集まっている人々の実態を探るために、自らも流れて来た人間を装って潜入することにした。

 クワイト=ソージュヤントは、啓典を求める者はどんな者でも受け入れるといううたい文句もあって、潜入は容易だった。ただ、佐美が潜入して様子をうかがっていても、すぐには救世主が現れるというわけではなかった。


 佐美は街の中心から離れたところにある廃屋を根城とした。そこには、若い娘が生活するための最低限の安全と設備が残っていたからである。

 佐美は、数年の間、急に盛り上がった信者たちを見出して潜入しては、その中の様子を観察し続けた。頻繁に救世主が現れるわけではないことが分かった。典型的には、ある救世主の誕生とともに信者たちが急増して盛り上がると、急激に勢いを無くして、いつの間にかその救世主と信者たちは消えているのだった。

 ある日、そんな典型例に、佐美はようやく接することができた。

 ユーフラテス流域は、もともと草原地帯であり、食料が少ない土地であった。クワイト=ソージュヤントには、食べ物を求めて人々が集まっていた。そんな日々に、手元のわずかな水と食料とを豊かにしてくれるという救い主のうわさが立った。

 噂を頼りに、佐美は街の広場に行った。

「核の冬の終わりは近い......私を信じなさい...私は天の父と民との間を繋ぐ(バーブだ」

 男の声が広場に響いた。すると、背の高い彼の周囲で、観衆が呼応して声を上げた。

「ホサナ、ホサナ」

「私の言葉によって、この街の飢饉は無くなる......あなた方は救われるのだ」

「おー」

 そんなやり取りが、広場から町全体に響いていた。佐美は群衆に紛れて、救い主だという男に近づいた。男は近づいてくる佐美を目ざとく認めると、彼から彼女に話しかけて来た。

「娘よ、あんたも、救いを求めて来たのであろう......さあ、私を信じなさい」

「信じる? 私は安易に信じないことにしています…あなたをもう少し見てみたいのです」

 佐美は、短髪の下に、まだ大人になり切っていない表情を浮かべたまま、その若さに似ず、冷たく落ち着いた返事をした。男は怪訝けげんな顔をして問いかけた。

「それならば、あんたは具体的に何を見に来たのかね」

「あなたの語る言葉と行動を見に来たのです」

「ただ信じればよいものを........それによってあなた方の手許の食べ物が豊かになる......だから、あまり物事を難しく考えない方がいいと思うが...」

「難しいことを考えているわけではありません...あなたの語ろうと思うことを、民たちに語り続けてくだされば、おのずと明らかになります」

 ここで、男は警戒の色を見せた。佐美はその変化を見逃さず、若い声のままに質問をさらにぶつけた。

「信じたそのあとはどうなるのですか?」

「豊かな物に囲まれて幸せになるのだ」

「そこに、啓典の預言は残っているのですか」

「もちろん、啓典の預言があったからこそ、ぜいたくになれるのだ」

 自称救い主の男は、次第に怒りの色を表した。それでも、佐美は若い娘のほほえみで応えつつ、質問を続けた。

「私が聞きたいのは、ぜいたくになった民の心に、啓典の預言が刻まれているのかということです」

「民がぜいたくになれば、それが救われた証拠だ。それで十分ではないか」

「それは神の救いではないはずです。幸せとは……」

 佐美がそう言い続けると、男は激高して佐美に呪いの言葉を発した。

「下がれ、サタン。民たちが豊かになった姿にこそ、救いが成就したことが現れているのだ」

 佐美は、ただ視線を伏せ、黙って男の許を離れていった。

 この日から数日のあと、男とその取り巻きたちは煙が風に吹かれて散らされるようにして、町の広場から霧散していた。

「彼は、やはり偽の救い主でしたね」

 佐美は、独り言を言いながら、自分の根城に再び引っ込んだ。


 その後、佐美は、様々な人々に会い、この町に過去に現われた自称救い主たちの実態を調べた。調査によると、自称救い主たちは、絵里や佐美が居なくなった後のアララトの地や、その近辺から来ていたらしかった。確かに彼らの伝えた言葉は、啓典から出たものであった。

 彼らはもともと、佐美の養母絵里(エリ)の娘、帆船(ホフネ)から若しくは陽奈葉(ヒナハ)から教えを受けた弟子たちだった。彼らは、自らが救い主を自覚して信者を集めては、それぞれの矛盾から信者たちに見放されて自殺したり、信者に裏切り者として殺されたりを、繰り返していた。


 それでも、佐美にとって意外にも、今までの自称救い主とは異なるタイプの者が現れた。


 ある夜、佐美の根城の近くで、幼い女児を抱えた父親の嘆く叫び声が響いた。

「誰か、この子の呪いを解いてくれ」

「どうしたのですか?」

 佐美はかわいそうになって、そう尋ねた。目の前の男は、佐美が十六歳程度の幼い容姿ながら、なんらかのオーラを放っていることに気づいたのか、佐美に向かってすがるような顔を向けた。

「どなたかは存じ上げませんが、何処かの神官様なのでしょうか………この子はいつも夜になると、牙をむき出しにして人を襲うようになりました……家族、近所の人、見ず知らずの人を、見境なく襲うようになりました」

「それはいつ頃からですか」

「12才を過ぎてからですから、この一年前からです」

 佐美は、そのタイミングが、ちょうど、カラコラムから悪霊たちが外へ働きかけを強めたタイミングに符合すると直感した。それを確かめなければならなかった。

「医者は?」

「検査しても異常はない、と…」

 このやりとりをしていると、横から近所の人らしい彼の友人たちが口を出してきた。

「そんな相談は無用だぜ」

「今、広場に女預言者がきていらっしゃる」

 近所の友人達は、さっさと患者の娘をさらって広場へ行ってしまった。父親も佐美に申し訳ないと言いながら、その後を追っていってしまった。


修行僧モンク様」

 父親や近所の友人達の必死の形相に、広場の中年女は顔色を変えずに平然と応えた。

「病ではなく呪いなのだろうが…大丈夫だよ…ただ、この種の呪いは単に聖なる力では取り去れない、私が祈ってやろう」

「ありがとうございます」

「ありがたい ありがたい」

 父親達は感謝の言葉を口にした。女の祈りによって、やがて女児は落ち着きを取り戻した。父親は驚くやら感激するやらで、歓声を上げた。

「あ、ありがとうございます! 啓典の父は偉大なり! ところで、貴女さまはどんな方なのでしょうか?」

 その告白とともに、広場はどよめく歓声に包まれた。

「ホサナ ホサナ」

「ホサナ、ホサナ」

 その女祭司は、彼女を賛美する声を満更まんざらでもなさそうな表情を浮かべた。

「私は、啓典の父とあなたたち啓典の民との間を取り持つ者、門なる救いバーブです......あなたたちは私を崇めている、それはよいことです……私だけを崇めるということが大切です……それは、天の父を崇めることになるからです」

「バーブ様、ホサナ、ホサナ」

「バーブ様、万歳」


 佐美はどよめきの広場に入り込んだ。まだまだ興奮が冷めやらぬ中を、佐美は自称 救い(バーブ)

の中年女に近づいた。

「どのようにして、貴女様を信じればよいのでしょうか? 私はまだ貴女様に確証を得られないのです」

 佐美は大歓声に声を消されながらも、救い主という女に問いをぶつけた。佐美の若い目は真っ直ぐにその女を見定めていた。女は、若い娘の真っ直ぐな視線を鷹揚に受け流しつつ、憐れみとも蔑みともとれる表情を浮かべながら答えた。

「そうだ、私が救い(バーブ)だからだ」

「それはおかしいのではないですか? 救い主ならば、聖霊なる神が伴うはずです……その存在をあなたは言わない......本来ならば、その存在なしに「私を崇めろ」とは言わないはずです」

 佐美はそう指摘すると、女は顔色を変え、佐美めがけて呪いの言葉を吐いた。

「私には、何も問題はないよ。退け、サタン……そこまで言うなら、いくつかの問答を私としましょうかね」

「それでは、あなたは何の権威をもって、祈りに似た言葉をいうのですか?」

「何の権威だと? それを問うとは? あんたは誰なのか? わたしと同じように修道僧(モンク)以上の者でなければ、そんな質問をしない...」

「私は、絵里より神職(アミール)を受け継いだ佐美です」

「お、お前、まさか、カラコラムから......」

 わざわざカラコラムの名前を口にすることは、今までの自称「救い(バーブ)」たちには見られなかったことだった。それは、この都市に、悪霊に拠って自称救い主が現れたことは、悪霊たちの手が再び濃く太くなってきている可能性を示していた。佐美はそれを悟って、目の前の女が有していた特別な力が消し去るように強く祈ると、その場をあとにした。

 数日の後、この女バーブとその信者たちは、潮が引くようにして消え去っていた。


 佐美はその後も調査を進めた。

 従来、この町に現われて来た自称の救い(バーブ)たちは、全て空腹や生きる上で切実な食糧を求める切実な衝動に祈りで応じていた。ところが、祈りという形をとりながら、そこに異質な力を感じることがあった。つまり、何らかの存在がこの地に再び強く力を及ぼす段階となって、女バーブを介して呪われた人間の治癒という形をとり、異様な力を発揮させるようになるに至ったということに違いなかった。


 この結論に至るまでに、佐美は多少の時間を要した。このように佐美が苦労して調査を進めているところに、思わぬ来客が現れた。


 この町で、佐美と同じように聞き取りによってある調査を展開していた調査団がいた。彼らは彼等のやり方で独自に調査をしていたらしい。しかし、彼らは何らかの理由で調査続行に困難を覚えたらしく、実質的に音を上げて佐美のところへ助けを求めて来た。ただし、その姿勢はとても助けを求めてきたようなものではなかった。

「おい、女! 私はヤッハ。あの聖なる神職(アミール)帆船(ホフネ)様の一番弟子である」

 佐美の前に立った男は、そう名乗った。佐美の記憶では、ヤッハとは丁稚の一番後ろにくっついていたはなたれ小僧のはずだった。幼い佐美が神職(アミール)絵里(エリの下で厳しい教育を受けていたころ、絵里の娘の帆船(ホフネ)が神殿やその周囲を巡る都度、彼女の後にぞろぞろくっついて歩いていた丁稚の一番後ろにくっついていた男児だった。

 その男児が、今すらりとした長身と美貌を有した男となって、佐美の前に立っていた。佐美は、名前を聞き、一瞬で過去を思い出しながら、にこやかに彼を迎えた。

「はい、ここに控えております」

「お前は、ここで救世主(バーブ)の身元調査をしていると聞いたぞ......利用してやるから、全てを教えろ」

「な、なにを、ですか?」

「なにを? だと?」

「私は、別にそんな救世主の身元調査など、大それたことは......」

「おまえがこの町で不思議な調査をしていると聞いたのだが...。その結果を有効に使ってやると考えて、我々はここに来た」

「私が調べているのは、単にこの町で起きていることの不思議な事象ですが......」

「俺様が......ヤッハ様が直々にここに調べに来ているのだぞ……そのヤッハ様がお前に言葉をかけてやっているのだ....感謝して、調査結果をすべて教えろ……利用してやる」

「何をお教えすればよろしいのでしょうか?」

「だから、お前が!」

「私が?」

「お前が調べているあの内容だ」

「あの? 『あの』とは?」

「お前、馬鹿なのか、それとも大した調査をする能力はないのか、それとも別の調査をしているというのか?」

「ええ、ですから、神職(アミール)絵里(エリ)様の実際のお子様の配下であるあなた様がここへ来るなど、理由が私にはわからないのです」

「お、お前、俺のことを知っているのか? 絵里(エリ)様を知っているのか? 帆船(ホフネ)様が絵里様の子供であることも知っているのか?」

「ええ、確か、あなたは帆船(ホフネ)様の一番弟子のはずがないと思ったのですが、いつ一番弟子になられたのですか?」

「え? 帆船(ホフネ)様の弟子を知っているのか?」

「正確には、私が存じ上げているのは、帆船(ホフネ)様のお弟子たちですね...ヴェッシェン様とか......全員存じ上げています...そしてヤッハ様、あなたは確か末弟子では?」

「俺が、ま、末弟子だと?」

「そうです、ヤッハ様、あなたは末弟子のはずです」

「な、何で、そんなことを知っているのか?」

「私は佐美です」

「佐美って? まさか...あ、あの佐美様?」

 ヤッハは、驚きと戸惑いで言葉遣いがおかしい程に卑屈になっていた。佐美はそれを確認しつつも、ヤッハが表していた先ほどまでの態度に初めて怒りを表わし、皮肉めいた口調になった。

「そうです、私は佐美。神職(アミール)絵里(エリ)様に乳児のころから教育されてきた養子の佐美です」

「なぜ、佐美様が此処に?」

「私はあなたのおっしゃる通り、ある調査に来ているのです」

「は、はい。もしよろしければ、それがどんな調査でなのか、教えていただけないでしょうか?」

 ヤッハは、傲慢な態度を引っ込め、改めて佐美に訊ねなおした。佐美は、先ほどの態度を大人げないと反省し自重しながら、ヤッハに自らの調査について回答をした。

「私が調べているのは、なぜ自称の救いバーブ)が現れるか、についてです」

「そ、そうだったんですね……ありがとうございます」

 ヤッハは佐美から一通りの調査報告を得て、なんとか彼の課題を解決したようだった。ただし、彼らがその後調査で得られたことは、佐美が調べて得られたことがほとんどであり、彼ら自身で調べて得たことは何一つなかった。佐美と彼らの調査結果によって得られたことは、神職(アミール)絵里(エリ)様から正式に薫陶を得た者にのみ、救世主もしくはその代理人が生まれるはずだという俗説が生まれていたということだけだった。


「俺たちの中に、救世主が確信とともに生まれるのか」

「そう言う言い方もできますが、本質は、不特定の人間が確証もなく勝手に詐称することでこの問題が始まるということです」

 佐美は「詐称」を指摘した。しかし、ヤッハはそこまで聞いておらず、早とちりをした。

「そうだ、この報告がまず俺にもたらされたのだ....俺がこの問題を解決すれば......そうか、まだ表れない本当の救い主を、俺がしっかりとサポートすればいいのだ」

 ヤッハは佐美の許を離れてまもなく、このように意気揚々とそう独り言を言った。佐美を離れたとたん、彼は大きな誤解を抱えたまま傲慢な男に戻ってしまった。


 ほどなくして、ヤッハが、クワイト=ソージュヤントの西側で、「救い(バーブ)」の代理人を自称しながら、救世主であるかのようなふるまいを始めた。彼が救世主の働きを司るべきだという自覚を初めて持ったのは、彼が帆船(ホフネ)から得た薫陶、そして大神職(アミール)絵里(エリ)もとで得た薫陶によるものだということだった。


 この動きに、今度は、その調査のために帆船(ホフネ)の息子エネが調査団を率いてやってきた。彼等もまた独自に調査を始めていた。そして、彼等もまた、何らかの理由で調査続行に困難を覚えたらしく、実質的に音を上げて佐美のところへ助けを求めて来た。そして、またも、その姿勢はとても助けを求めてきたようなものではなかった。


 ある日、佐美の根城に、土足でずかずかと入り込んできた筋骨隆々の若い大男がいた。

「私は偉大な神職(アミール)エネである」

 佐美は、絵里(エリ)帆船(ホフネ)に似た彼の顔つきを一目見て、誰であるかを悟った。佐美の記憶によれば、彼は、佐美が絵里(エリ)の許で育てられていた時、帆船(ホフネ)に誕生した男の子だった。佐美が難しい学問を積み重ねていた時、彼だけは奔放に遊び歩いていた記憶があった。彼は、頻繁に学問所から逃げ出しては、母親の帆船(ホフネ)や付き人達に大声でどやされながら捕まえられ、閉じ込められているのが常だった。

 そんな記憶を思い出しながら、佐美は、彼を見上げつつ、彼の前に立った。

「はあ」

 佐美は、あまり気の乗らない返事を返した。しまったと思った時には、目の前の大男は、目の前の少女が寝起きのまま出てきた姿を見て、美しい好ましい娘であると判断したらしかった。

「おお、若い娘だな。一人でここに住んでいるのか。娘よ、答えろ……素直に答えたら、俺が保護してやらんでもないぞ……さて、『救世主詐称のヤッハ』がここに来たことがあると聞いているが、彼は何を此処に聞きに来たのか?」

「『救世主詐称のヤッハ』ですか? さあ、それはどんな方なのでしょうか?」

「娘よ、お前はこの町に住んでいながら、あの『救世主の代理人ヤッハ』の話を覚えていないのか?」

「ヤッハなら、会ったことがありますよ......ちょうど、あなたのように傍若無人で、偉そうで……」

「あったことがあるのか? 何? 傍若無人? 俺が傍若無人だというのか?」

「私が申し上げた言葉から、そのように意味をおとりになることができる…どうやら、愚かな大男ではなさそうですね」

 ほっそりとした短髪の娘が、その小ささに関わらず、大男に向かって非常に失礼な物言いをした。彼はそう感じながらも、余裕を示そうとして鷹揚な態度でつづけた。

「ほお、大男であることは、初めからわかっていたと思うが……愚かではないことも分かってくれたのかね?」

「愚か…ではないようですが、でも、ここにいらっしゃったということは、何かを私に求めているからではないですか?」

「俺が、小娘のあんたに何を求めるというのかね?」

「そうですか? では、もうこれ以上お話することはありませんね」

 佐美は、目の前の大男が愚かではないとは思いつつも、彼は無知であり、頭も鋭くはないと見切ってしまった。それゆえ、彼女は言えの中に戻ろうとした。彼は慌てて大声を上げた。

「ま、まて、むすめ、お前ここで救世主(バーブ)の身元調査を続けて来たと聞いているぞ...利用してやるから、全てを教えろ」

「前も、そのようにお尋ねになった方がいらっしゃいました。私は、別にそんな救い主の身元調査など、大それたことは......」

「なんでもよい。お前の調べたことをすべて出せ……俺が利用してやる」

 大男は、先ほど慌てたはずなのに、傲慢な態度は消えていなかった。佐美は次第に腹が立ってきた。

「さあ、何をお求めなのですか? わたしは単にこの町で起きていることの不思議な事象を調べているだけですよ」

「どにかく、俺が来ているのだ。すべて利用してやるから、調査結果をすべて出せ」

 大男はさらに傲慢な態度を示し、偉そうな口調で佐美を威嚇した。佐美はもう怒りをあらわにしていた。

「そうですか? 帆船(ホフネ)の息子エネ様!」

「なんと...なぜ、その名を知っているのか?」

 大男や側近たちは、この予期しない佐美の言葉に慌てた。佐美は皮肉を込めて続けた。

「正確には、貴方は帆船(ホフネ)様のご子息エネ様、学びの出来が良ければこんな外回りをしないで済むはずの方...貴女の新居さんたちには、サン様もいらっしゃいますよね」

「な、なぜ、そんな、俺の成績まで知っているなんて?」

 エネは、佐美が知っている言葉に驚き、言葉が卑屈になった。

「あ、あの、貴女は、貴女様はどなたで?」

「私は、帆船(ホフネ)の母、神職(アミール)絵里(エリ)様の養子、佐美です」

「さ、佐美様!?」

「私はあなたのおっしゃる通り、ある調査に来ているのです」

「は、はい。もしよろしければ、それがどんな調査でなのか、教えていただけないでしょうか?」

 エネは傲慢な態度を引っ込め、改めて佐美に訊ねなおした。そこで、佐美は、先ほどまでの怒りを抑えつつ、慎重に自らの調査について回答をした。


 結局、彼らが調査をして知ったことは、佐美が調べて得られたことと同じ程度であり、エネが調べて得られたことは、ヤッハが調べて得られたことと同様に何一つなかった。唯一、それらの調査結果によって、彼らの内側で救世主が生まれうるることが裏付けられただけだった。

「俺たちの中に、救世主が確信とともに生まれるのか」

「そう言う言い方もできますが、本質は不特定の人間が確証もなく勝手に詐称することでこの問題が始まっているということです」

 佐美は「詐称」を指摘した。ただ、やはりこの大男も佐美の分析をよく聞かず、早合点をした。

「そうだ、この報告が俺にもたらされたのだ....俺がこの問題を解決すれば......そうか、まだ表れない本当の救い主を、俺がしっかりとサポートすればいいのだ」

 エネはこういうと、ヤッハがそうであったように、得るべき情報が得られたぞと言って、意気揚々と佐美の許を引き上げていった。


 ほどなくして、クワイト=ソージュヤントの東側で、エネがヤッハと同じように「救い(バーブ)」の代理人を自称しながら、救世主であるかのようなふるまいを始めた。それは、彼が帆船(ホフネ)から得た薫陶、そして祖母絵里(エリ)の下で得た薫陶によって、救世主の働きを司る自覚を持ったことが初めだということだった。


 こうして、クワイト=ソージュヤントでは、今までとは異なり、救い主(少なくとも救い主の代理人であること)を自称するものが二人立った。彼らは、ともに偉大な神職(アミール)絵里の実の娘であった帆船(ホフネ)の、息子と愛弟子とであった。両方の信奉者たちは、町のいたるところで対立する事態となった。

 もともと、帆船(ホフネ)の足元の街や、ユーフラテス流域、さらに広い地域では、帆船(ホフネ)の長子サンをはじめとした子供や孫たちが『救世主の代理人』の正統な跡継ぎを輩出するはずだと主張して集まった者たちサン派と、ヤッハ側すなわち一番弟子ヴェッシェンをはじめとした弟子の集団が『救世主の代理人』の正統な跡継ぎを輩出するはずだと主張して集まった者たちヴェッシェン派との、二つの勢力が、対立を深めつつあった。そこに、クワイト=ソージュヤントでヤッハとエネが『救世主の代理人』としてそれぞれ立ったことをきっかけにして、各地の村や町に両方の信奉者たちが急速に拡大して浸透していき、ユーフラテス流域に限らない広い地域での対立に発展していった。サン派とヴェッシェン派の対立は、互いに他方の「救い主の代理人の跡継ぎ」を偽物であると主張し合うことで、さらに先鋭化した。

 クワイト=ソージュヤントで静かに調査を進めるはずだった佐美も、さすがに静観することは難しくなった。佐美が両方の争いを止めさせようと動き始めた時には、クワイト=ソージュヤントのいたるところで殴り合いが始まっており、エネとヤッハの二人がが直接言い争いとつかみ合いを、続けていた。

「あなたたち、なぜ言い争いを......いいや、殴り合いを、争いを始めているのですか?」

「あ、佐美様!」

「お、佐美様!」

 つかみ合いをしていたエネとヤッハが手を止めた時、周囲での争いも次第に静かになった。憎しみの目で互いを睨み合いながらも、佐美が彼らの視野に入っては、それ以上争いをすることは憚られたようだった。

「あなた方は、私の養母である絵里(エリ)の実子、帆船(ホフネ)の薫陶を得たはずではなかったのですか」

 佐美は単純にそう問いかけた。ところが、彼女が呼びかけたエネとヤッハと取り巻きたちは、素直ではなさそうな返事をした。

「そうはいきません。こいつは帆船ホフネ様の子供にすぎないのに、救世主の働きを詐称したのです」

「そうはいきません。こいつは弟子にすぎないのに帆船(ホフネ)様の神職を受け継いだかのようにふるまって、しかも、それに救世主の働きを詐称しているのです」

「あなたたち、そしてサン派とヴェッシェン派は、そう言って自分自身の正統性を前面に押し出すことで、全ての争いを始めるのですね。その思いは啓典の教えと直接に関係がない。そんな思いは、悪霊たちにとって格好の隙となるのに……」

 佐美は、悲しそうにそう言った。だが二人の男たちはにらみ合いを止めなかった。佐美はさらに言葉を重ねた。

「あなたたちは、やはり初めの愛を忘れている。帆船(ホフネ)自体がそうだった。プライドが高くて傲慢で......それゆえに、サン派とヴェッシェン派に分かれて内輪もめを始めているのです」

 佐美はこう言いながら、心の中で分析を重ねた……帆船(ホフネ)も、陽奈葉ヒナハも、やはり絵里(エリ)様から神職(アミール)を受け継いでいない…私は初めの愛を忘れぬように警告を受けてから神職を受け継いだ....そう......唯一人私だけが神職(アミール)を受け継いだ...だから、彼らは初めの愛を忘れてしまって、内輪もめさえ起こしているのか......。この内輪もめから始まった争いは、正統性というあまりに人間的なおごりから始まり、このままでは決して和解し合えない争いになっていくことが予測できた。

 同じ帆船(ホフネ)の教えをいただきながら、対立を拡大させる二つの勢力にたいして、啓典の主がかつて示された栄光を彼らの前に再び示さなければ、この戦いがやむことは無いのかもしれないと結論した。

「今、すぐに争いを止めさせてください」

「止めさせろと言ったのです、そこの二人!」

 この声は、雷とともに響いた。それが今佐美のできる全てだった。とりあえず、佐美の前に立たされたエネとヤッハは睨み合いながらも、佐美の言葉を受け入れたのか、下を向いて動かなかった。


 暫くして、帆船(ホフネ)自身がその本拠地で、サン派側か、ヴェッシェン派かの誰かは不明ではあるが、どちらかの信奉者たちによって暗殺されたという知らせが来た。それを端緒にして、佐美、そしてエネとヤッハの思いとは別にして、サン派とヴェッシェン派が、この町以外で対立をさらに深めつつあることも、知らされた。そして、帆船(ホフネ)が率いる信者たちが本拠とする要塞都市では、本格的な戦闘が始まっているという知らせも来ていた。

 佐美は、エネとヤッハを従えて、平和を説得し続ける必要を感じた。


「佐美様、私だけを連れて行ってください」

「佐美様、こんなポンコツな弟子は放っておきましょう......私だけをお連れください」

 二人は、佐美の前にいるのを忘れて、ふたたび言い争いを始めた。

「あなたたち、大の若い男二人が、まだ私の前で争っているのですか?」

「......」

「二人とも、よく聞いてください。あなた方も感じられることでしょう。この地方にまで、あの悪霊たちの魔の手が伸びてきているに違いありません」

 佐美から見ると、このクワイト=ソージュヤントばかりでなく、帆船(ホフネ)の薫陶を得たはずのサン派とヴェッシェン派のなかにも、あの悪霊の手が伸びてきているに違いなかった。本格的な悪霊たちの襲来が近いしるしだった。


 佐美は、帆船ホフネのもとに何が起きたのかを探るために、帆船が指揮していた移動都市、今では神殿の丘の前で着座礁して動かなくなった武装要塞都市、帆船の都市を再び訪れるのだった。

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