白い皇女は暁にたたずむ
西暦686年、日本の伊勢の国。
伊勢神宮より、ほど近い地にある斎宮。
斎王である大伯皇女は、その宮の主だ。
天照大神に仕える皇女として、大伯は十三の歳に斎王となった。十四歳で伊勢へと下向し、斎宮に住み続けている。
今年で大伯は二十六歳。斎王とならずに飛鳥の都に居たならば、帝の愛娘として華やかな生活を送り、とっくに夫を持ち、子を得ていたことだろう。
しかし伊勢神宮への信仰心が厚い帝は、壬申の大乱に勝利した翌年、大切な皇女を新たな斎王に任じ、神へと捧げたのである。
天照の依代たる斎王は、未婚のまま、必ず清き身を保たなければならない。大伯は〝それが私の務め〟と己へ言い聞かせつつ、ある種の諦念の中で生きてきた。
七月。緑の葉が茂る、暑い日。
「朱鳥……」
斎宮の一室で、大伯は呟いた。女官が、都で新しく決まった元号名を教えてくれたのだ。
(不思議な響きね)
日本で初めて定められた元号は「大化」であり、次は「白雉」である。いずれも唐の音で読んでいたのに、何故に今回は和訓なのであろうか?
(そもそも、朱い鳥とは?)
大伯が抱いた疑問を察したのであろう。女官が再度、口を開く。
「おそれながら、都では帝が病に伏せられていると聞き及びます。その御回復を願われての命名でしょう。朱き鳥の出現は、瑞祥そのものであります故」
「そうね」
(かつて筑紫太宰が赤い烏をお父様へ献上して、禄を賜ったことがあったはず)
更には数年前、都の南門に朱雀が現れたとの噂もあった。「吉兆なり」と人々は言い騒いだとか。
大伯はクスリと笑った。
(実際は伝説の鳥などでは無く、ただの赤い雀だったそうだけど)
壬申の戦で、帝は己が軍勢の衣の上に、目印として赤い布きれをつけさせた。それ以来、赤い色は帝のお気に入りだ。烏だろうと雀だろうと赤ければ、帝にとっては神鳥なのだ。
しかし、どうしてだろう? 理由は分からないが、今の大伯には、赤が不吉な色に思えてならない。
朱……赤……紅……。
「衣装を着替えるわ」
「斎王様。いきなり、どうされたのですか?」
「上衣も内衣も裳も、全てを赤く無いものにして。白が良いわ」
「……かしこまりました」
元号が朱鳥となって、ひと月足らず。
夏が終わり、秋が始まろうとする季節。
帝の病は、いまだ癒えてはいない。むしろ悪化の一途をたどっている。
斎宮で落ち着かない日々を過ごしていた大伯の耳へ、屋外から人の声と馬の嘶く音が聞こえてきた。何者かが、訪ねてきたらしい。
その人物を見て、大伯は驚く。
「大津! どうして――」
「姉上に急に会いたくなって。前触れもせずに、申し訳ありません」
謝りの言葉を口にしつつも、大津は快活な表情で笑う。
大津皇子は、大伯皇女の二つ歳下の弟だ。二人の母は大伯が七歳の折に亡くなり、父である帝は重い病で明日をも知れぬ身だ。
二人きりの姉弟――
その日、姉と弟は夜通しで話に耽った。大伯は大津が、何か都での悩み事を相談するかと思ったのだが……大津はひたすらに、二人だけの思い出を語り続けた。
「大津。飛鳥から伊勢まで急行してきて、お腹が空いたでしょう? 膳を準備するから、食べなさい。伊勢は都と違って、新鮮な魚や貝が手に入りやすいのよ」
「姉上は変わりませんね。幼き日でも、何をおいても、吾に食べさせようとして、強飯やら栗やら山芋やらを持ってきた」
「だって、貴方は食べても食べても、いつも空腹だったから」
「育ち盛りだったのですよ。姉上は、今も昔も優しい……ご自身のことは顧みず、吾のことばかり思い遣ってくださる」
「姉が弟の世話をするのは、当然でしょう?」
「姉上の世話は度を越していて、むしろ〝甘やかし〟です」
「……いや?」
「いいえ。もっと、吾を甘やかしてください」
二人は何げない会話を続ける。
「そう言えば……姉上は春と秋、どちらの季節が好きですか?」
「突然、どうしたの?」
「少しばかり前のことですが、春山万花と秋山千葉のどちらが優れているのか、この話題が、また都で持ち上がりましてね。先帝の御代で、額田王は『秋山われは』と言い切りましたが」
「私は……春が好きよ」
「それは初耳です。姉上は一月の生まれ……そのためですか?」
「――違うわ」
(何故なら、秋には紅葉が……野も山も、赤く染まる)
「吾は、春山万花も秋山千葉も好きです」
「そんなことより、食事をしなさい。大津」
「五穀に海苔に鮑汁、鯛の鱠に鳥の肉……これは豪勢だ。でも吾の好物である干し棗が、ありませんね」
「棗は――」
大伯は大津のために準備した料理からも、干し棗や柿などの赤いものを排除した。それほどまでに、今の大伯にとって〝赤〟は嫌悪の――いや、恐怖の色だった。
「棗は無いけれど、甘葛を煮たものがあるわよ。とても風味があって、甘いの」
「甘いもの……ふふふ」
「なにを笑うの? 大津」
「いえ。姉上にとって、吾はいつまで経っても小さい弟なのだと思いましてね。普通ならここで、酒がつくものなのですが」
「お酒は……」
「少しだけ、頂けますか? なに。酔うほどには飲みませんので」
「……分かったわ」
大津のための酒を自ら用意しようと、大伯は立ち上がる。
そんな姉の姿を見上げ、弟は眩しそうに目を細めた。
「姉上のお召し物は、白一色なのですね」
「おかしい?」
「いいえ。とても……美しいです。姉上は本当にお美しい。姉上が十三歳の身で斎王に任じられた折は、『吾から姉上までも取り上げるのか!』と父上を恨みもしましたが、今では感謝しています。十年もの間、ずっと伊勢に居られる姉上は清いままだ。清浄で美しくて純粋で……政が行われている飛鳥の地では、人々は競い、疑い、妬み、時には憎しみをぶつけ合ってさえいる。男も女も、汚れずにはいられない。姉上がそのようにならず、吾は心から嬉しく思っているのですよ」
「大津――」
都での大津が困難な境遇にあることは、大伯にも分かっていた。
父帝には十人の皇子が居るが、そのうちで現在、皇位継承の資格があるのは大津皇子と、彼より一つ歳上の草壁皇子だけだ。皇位に就くには、父方だけで無く、母方からの血統も重要になる。他の皇子達が皇位を狙うには、年齢の幼さか、母親の身分の低さが問題になる。その点、大津と草壁の母はいずれも皇女であり、二人とも年齢は二十歳を超えている。
人物としての才覚や力量は、草壁より大津が遥かに上だ。その事実は、万人が認めるところだ。大津は武芸にも学問にも、極めて秀でている。一方の草壁は温厚な人柄ながら能は平凡であり、身体は病弱だ。
しかし大津と大伯の母は既に亡く、二人には父帝以外に後ろ盾となってくれる者は居ない。そして草壁皇子の母は、現皇后である鸕野讚良皇女だ。彼女は賢く、意志も強く、夫である帝の政を良く補佐してきた。
五年前に草壁皇子が皇太子に立てられたのも、皇后の存在と意向が強く働いていたのは間違いない。長い年月に苦難を共にしてきただけあって、帝の皇后への信頼は揺るぎないものがある。
だが帝は、大津の才能を政の場で活かしてやりたい気持ちも抑えきれなかったのだろう。三年前に大津へ、積極的に朝廷の政治へ参加するように促した。
けれど今、そのかつての帝の配慮と期待が、大津を重大な危機へ落とし込もうとしている。
(もしも、お父様が亡くなったら……)
皇后は、大津をそのままにしておくだろうか? わが子の将来において、強敵となりかねない有能な皇子を。
「ねぇ。大津」
「なんでしょう? 姉上」
「このまま、二人で何処かへ逃げてしまいましょうか?」
「ハハハ。姉上、お酔いになられたのですか? お酒を召し上がったわけでもありませんのに」
「でも!」
「無理ですよ、姉上。飛鳥の都には、吾にとって――」
そこまで言って、大津は口を噤んだ。
(……分かっていた)
飛鳥には、大津の友も居れば、家臣も居る。なにより、大津の妻と恋人が――
大津の妻の名は、山辺皇女。大津との間に、粟津という一子も生んでいる。
大津の恋人の名は、石川女郎。大津と草壁、二人の皇子がその愛を争い、大津が勝ちを収めたという。
(大津には、妻も居れば恋人も居る。大津は、私を大事に思ってくれている。しかし大津にとって、私は姉でしか無い)
大伯は大津を見つめる。
(けれど、大津。私にとって貴方は――)
大伯は十三歳で斎王となり、伊勢の国へとやってきた。それから、神へ仕える毎日を送ってきた。彼女に、夫は居ない。子供も居ない。恋人も居ない。過去も居なかった。この先も、居ないであろう。
(大津。貴方は私にとって、弟で)
それのみでは無く。
心の中では。
(恋人で、夫で)
大伯にとって、大津は生涯で唯一の〝愛する君〟なのだ。
(大津は、私のことを『清浄で純粋』と言ってくれたけれど)
違う。
身にまとう、白き衣とは対照的に――
(私の真の内面は、濁りきっている)
同父同母の弟への恋は、禁忌であるにもかかわらず。
こんなに薄汚れている自分を〝大事な姉〟として慕ってくれている大津。
この間違った想いを大津へ打ち明けることなど、出来はしない。
だから自分が大津へ願うことは、ひとつ。
(死なないで、大津。何があっても、生きていて)
――大津が居なくなれば、自分にとって大切なものは、この世界から何ひとつ無くなってしまう。
夜が過ぎ、暁となった。
「大津。もう飛鳥へ帰ってしまうの?」
「公の務めでも無いのに、伊勢へと勝手に出向くのは本来は許されないこと。長居して、姉上に迷惑が掛かるようになってはいけませんからね」
大伯は大津を見送るために、斎宮の外へと出た。昨日に大津が訪れてから、幸い今まで大伯は赤いものを一切、目にしていない。衣服からも食事からも、その色を慎重に取り除いた結果だ。
今日、はっきりと朝になる前に赤い色を見ることが無ければ、大津の身の安全はこれからも保たれる…………そんな予感が、大伯にはあった。斎王として生きてきたが故に備わった、神秘な感覚が告げてくるのだ。
「さらばです。姉上」
「大津……」
騎乗して霧の中を去って行く大津へ目を向け、大伯は領巾を振りつづけた。白い衣服が朝露に濡れてしまうまで、ずっと。
そして斎宮へ戻ろうと振り返り……大伯は立ち止まり、硬直した。
薄暗い闇の中。赤いものが見える。
(あれは――)
紅葉だ。まだ、そのような時期では無い。けれど多くの緑の葉に囲まれながら、一枚だけの赤い葉が、異様な存在感を示している。
(どうして!?)
たった一枚、紅葉があるのだ? 秋は始まったばかりなのに。
(早すぎる)
斎宮の側の森。
これが天照大神の――皇室の祖先神のお告げなのか?
(私と大津の運命は――)
夜が明けて、霧が晴れていく。
大伯皇女はいつまでも、立ち尽くしていた。
♢
九月九日に、帝は崩御した。
大津皇子は謀反の罪で捕らえられ、十月三日に処刑された。冤罪であろうことは誰もが察してはいたが、朝廷を支配している鸕野讚良の権勢に逆らえる者など居なかった。
その知らせを聞き、大伯は斎宮の外へと飛び出した。周りの森は、紅葉で真っ赤に染まっていた。
(赤い……赤い……)
どうして、自分は赤色をこれほどまでに厭っていたのか、その理由を大伯は悟った。
(まるで、血のよう)
一面の紅葉が、血の海に見える。大津が流したに違いない、赤い鮮血。
(なにが、瑞祥の朱鳥……)
それは、単なる血まみれの凶鳥に過ぎない。朱鳥の年間に、帝は崩御し、大津は死んだ。不吉に思ったのか、鸕野讃良は一年も経たないうちに、その元号を取りやめてしまった。以後の十数年間、新しい元号が定められることは無かった。
十一月。
大伯は斎王の任を解かれて、飛鳥へ帰ることになった。冬の山を、一人で越えて。
(帰る……? 飛鳥の都へ? 何のために?)
大津は居ない。母も居ない。父も居ない。誰も、自分を待ってはいないのに。
死した大津の亡骸が葬られたのは、飛鳥の西にある二上山の頂上だった。
それから大伯は、二上山を大津と思って眺める日々を送った。
穏やかで寂しい歳月。
『姉上。吾は、春山万花も秋山千葉も好きですよ』――二上山から大津の声が聞こえる。
(大津。もう、何も遠慮しなくて良いわ。私も気にしない。干し棗を食べなさい。お酒も飲みなさい。二人で、秋山千葉を楽しみましょう)
いつしか、大伯は二上山の春の花だけで無く、秋の紅葉も美しいものとして見ることが出来るようになった。
大伯皇女が亡くなったのは西暦702年。「朱鳥」以来、久々に定められた元号「大宝」の元年十二月であった。