9話 男女二人が夜の密室で
隣の小部屋から椅子を持ってきて、机の前に南と二人並んでいる。
勉強を見るという名目上、教える側は教科書やノートを覗き込まなければならないので、自然と身体を寄せ合う形になっていた。
柔らかくて、いい匂い。ほのかに感じる体温が余計に生を感じさせる。
「えくすぷろーじょん?」
「違う。それは爆裂魔法。エクスプレッションって読んで、表現って意味だ。まだ一二個目だぞ。少なくともあと四〇単語は覚えないとヤバいって」
まあそんな邪念が気にならないくらい、南の勉強会は困難を極めていた。
「むーずーかーしーいー! 難しい!」
「それでもやんなきゃ落第だろ⁉」
「それはいやぁ~!」
「じゃあ頑張れよ!」
「それもいやぁ~!」
ママがイヤイヤ期に入るという前代未聞の事象を前に、一人頭を悩ませる。
時刻はとうに日付を超え、もうすぐ三時を迎える頃。
南の集中力は限界に達していた。
「じゃあ残り八個を覚えたら休憩にして、甘いものでも食べよう!」
「甘いものって?」
「チョコとかスイーツとか?」
「家のお金で?」
「む……俺のお小遣いから……」
「よし! なんだかやる気出てきたぞ~!」
細かなところでしっかりしているというか、そのくせやってることは落第をかけた追試の勉強だし。
ともかくやる気になってくれたので、餌を使って英単語を覚えさせること三〇分。
俺のポケットマネーから四桁の額がコンビニスイーツに成り代わる。
「美味し~!」
ぱくぱくと頬張っては嬉しそうに声をあげる南の姿を、微笑ましく思いながら眺めていた。
「たっくんにもあげる! はい、あ~ん」
「ちょ! えっ⁉ ぐふぉ!」
プリンを乗せたスプーンが俺の口に突っ込まれる。
このスプーンはさっきまで南が口に入れていた。
つまりこれは間接キス。
俺の〝はじめて〟はいとも簡単に奪われるのである。
「美味しーでしょ?」
ニヤケ顔をこちらに向ける南は、ソレを気にする素振りが一切ない。
そしてまた当たり前のように、俺の口に入れたスプーンでプリンをパクり。
「やっぱプリンって神。作った人マジで尊敬する」
「本当に気にしないんだな……」
「ん? なんのこと?」
「いや、なんでもないっす」
ギャルとか陽キャとか、そういう上位種の人間たちはきっと、間接キスごときじゃ興奮しないのだろう。
対して今の俺は、間接キスだけでバクバクと心臓が激しく鳴っている。
それを俺は〝コスパがいい〟として捉えることにした。
だって直接しなくても興奮できるというのは一つの才能だろう!
だからこれからは〝童貞コスパ最強説〟を提唱し、童貞の価値を高めていこうと思う。
「たっくんの顔、なんかキモいよ」
「『なんか』は余計だ!」
「キモいのは否定しないんだ」
「現実を受け入れているからな!」
「……」
「そ、そんなことより勉強再開するぞ! 追試まであと五時間だ!」
「はーい」
いささか南の視線が痛いけれど、気分転換にはなっただろうから良しとする。
それから一時間は集中して勉強することができたのだが。
「疲れた~もう無理~」
南は俺のベッドの上でゴロゴロと寝転がる。
「まだあと四時間あるぞ! 四時間あればいけるって!」
「でも疲れた~勉強きらぁーい」
一向に起き上がる気配のない南。
ここは男として喝を入れねばなるまい。
「落第がかかってるんだぞ! 一年生からやり直しになるんだぞ! それでもいいのか!」
「JKブランドが一年延びるって思えば、悪くはないよねぇ」
「ちっ――友だちとも一緒に授業受けれなくなるし、学祭とか修学旅行だって!」
「そうなんだけどさー」
「だったらもっとやる気を!」
「じゃあ起こして~」
南は両手を前に出し、引っ張ってとポーズで訴えかける。
熱が入っていた俺は躊躇なく南の手を取り、引っ張り上げようとした。
しかし――
「えいっ」
「うお⁉」
なぜか南の方がグイッと引っ張ってきて、俺は彼女の上に覆いかぶさるようにして倒れ込んだ。
密着。超密着である。
パジャマという薄い布超しでは壁にすらならない。
柔らかなお胸の感触が、それはそれはハッキリと感じられて。
「おお、おおおおっ! おっぱおっぱ!」
俺の頭はオーバーヒートを起こしていた。
そんな俺に構わず南は両腕をまわしてくる。
――どういうつもりなんだ⁉
「あったか~い。ねね、ハグするとストレスの三割が軽減されるんだって~」
背中に回された南の腕はぎゅーっと俺の身体を抱きしめる。
「たっくんの抱き心地ちょうどいい~」
「お、おま! ストレスで頭おかしくなったのか⁉」
「かもね~」
こ、これは相当やられている。
俺を抱き枕にしてしまうほど追い込まれていたとは。
だけど、それよりも俺の理性がそろそろ限界だ――ッ!
「む、胸が! あ、当たって!」
「ん? なんて~?」
南は俺の話を聞かないどころか、さらに強く抱きしめた。
密着度合いがどんどん高まっていって、南の胸が押し広げられている。
その感触にいよいよ頭が朦朧とし始めたその時。
「……ママもこうやって抱きしめてくれてたなぁ」
南が寂しそうに呟いた。
その切ない声音にひかれ、錯乱していた頭も冷静さを取り戻す。
……南のママ。
そういえば、南の家族について何も聞いたことがない。
というか落第寸前だったこともついさっき知ったことだし。
俺はまだ、南亜沙乃という人間をただのギャルとしか知らないんだ。
「なぁ、ママの母親ってどんな」
「――はっ! ちょっとスッキリしたかも!」
そう言うや、南は勢いよく起き上る。
「ちょっ!」
上に乗っていた俺はそのままベッドの下へと落下。
鈍い音とともに頭から着地を決めた。
「よし頑張れる気がする! たっくん次のとこ教えて……ってあれ?」
とんでもなくだらしない格好をしているんだろうなぁ、と思いつつ、遠のいていく意識に身を委ねる。
「たっくん⁉ 大丈夫⁉ うそ、死んじゃう⁉」
「し、死にはしないから」
最後の力を振り絞って告げると、俺は気絶という名の眠りにつくのだった。
目が覚める。
どうやらベッドの上でぐっすりだったらしい。
時間はまだ六時過ぎ。
南の姿はないので、自分の部屋に戻ったのだろう。
「今日ぐらい俺が作るか」
ベッドからの誘惑を振り切り、一階のキッチンへと向かう。
そこにはいつものように調理をする南の姿があった。
「あ、おはよ。たっくん」
「おはよ。起こしてくれればよかったのに。ってか今日ぐらいは俺が」
「ううん、大丈夫。ママはいつだって自分よりも子どものことを優先するものでしょ。勉強だってたっくんが教えてくれたから。あとは覚えるだけだったし」
そう言って笑顔を見せる南。
それでもさすがに今日だけは、自分のために時間を使ってほしい。
落第というそれこそ人生の岐路になり得る日なのだから。
「朝ごはんはもうできた?」
「うん。あとはお昼用のお弁当作るだけ」
「じゃあ弁当は俺が作る」
「え、いいよべつに。ちゃちゃっと作るだけだし」
「良くない。一瞬一秒も無駄にしちゃダメだ。俺はママに後悔してほしくないんだよ」
「たっくん……」
「ほ、ほら! 部屋に戻って勉強して!」
背中を押し、強引に南を自室へと送り届ける。
扉の隙間から見えた南の机は、ノートや参考書が散乱していた。
「よし。はじめてだけど、やってやる!」
気合を入れてキッチンに立つ。
ネットのレシピサイトから良さげなものを選んで調理開始。
一時間以上の激闘を終え、なんとか出来上がった弁当はどこか味気ない。
それでも気持ちだけは込めたから、と自分に言い聞かせ袋に入れる。
そろそろ家を出ないといけない時間。
「テーブルの上に弁当置いといたから。出るとき持ってって」
「ありがと。正直めちゃ助かった」
「うん。その、頑張って」
「ありがと! 頑張る!」
いつもの笑顔とⅤサイン。
なるほど。
誰かと住むってことは、きっとこういうことなんだな。
互いに助け合い、笑い合う。
うちの家族も初めはそんな感じだった気がするよ。
――頑張れ。