なんとなくこうなる気はしてました
目の前に横たわる大猪の亡骸。
けっこうな大物であるそれを解体するのは、なかなかに骨の折れる作業ではあるが、リースは手際よくこなしていった。
こんな時のために、役立つ道具を入れてある大きめのウエストポーチからロープを取り出し、猪の後ろ足に括り付けて木の枝から吊るして血抜き。
血が抜けきったら腹を裂いて内臓を取り出す。この際に腸や膀胱を傷つけないように注意する。でないと排泄物がぶちまけられてしまうので。
それが終われば皮剥ぎ。後ろ足から首元までの皮を丁寧に剥いでいく。ファングボアは肉のほかにも皮もそこそこの値段で売れるので、決して手は抜かない。
最後に各部位を切断する。首、肢、胴と切り分けて、骨も取り除いていく。
「――と、これが動物の解体ですね。本当はこの後、冷水で冷やしたほうがいいのですが、必須というわけではないので。獲物の解体作業は、冒険者には必要不可欠な技能ですので、よく覚えておいてください」
熟練の解体業者もかくやという手際で捌いて見せたリースに、マタルとユミスは尊敬の眼差しを贈った。自分たちよりも大きな猪がみるみる分解されていく様は、少年少女には鮮烈に映ったらしい。
まあ、この程度はリースにとっては慣れ親しんだ作業だ。なにせ軍人時代には飽きるほどやった。長期の野営が見込まれる場合では、食料の節約のため現地調達は基本であり、リースも狩猟から解体、調理までひと通りこなせる。
時刻はお昼を少し過ぎたくらい。昼食にはちょうどいい頃合いだ。傷みやすい内臓はこの場で食べてしまうべきなので、火を起こそうとしてふと思い立った。
一般的に火起こしは火打石と火打金を使うのだが、ここでちょっとだけ悪戯心が芽生えた。
せっかくなので珍しいものを見せて上げようと思ったのだ。
「これから火を起こしますので、見ていてください。普段はあまり目にできないものですよ」
言われてリースの手元に目を落としたマタルとユミスは、不思議そうな顔をした。リースが持っているのは木の枝と短剣だったからだ。
まずは短剣で木の枝を削り、木屑を作る。その木屑を集めた枯れ枝の上に乗せる。
そしてここからが本命の珍しい発火方法だ。
軽く手の平をかざし、大気中に広げた魔力を操作する。
「あ、わ、わ!? 水が!?」
驚くユミスの言った通り、水がリースの手の平の上に生まれたのだ。マタルも驚きに目を丸くしている。
何もないところから水を生み出したように見えるが、実際には周囲の空気に含まれる水分を凝縮しただけで、魔術としては初歩である。それでも魔術そのものを目にすることが少ない一般人には、凄いことだ。
無論、これだけでは終わらない。リースは集めた水をさらに操作し、触手のように伸ばして先端を丸く平たく広げた。
その水の膜に降り注いだ太陽光は、それを透過していく過程で進路を歪曲され、一点に集中した。木の枝の上に乗せた木屑の塊に。
ほどなくして木屑から煙が立ち、小さく火が付いた。とどめとばかりに火種に干渉して、燃焼速度を上げて見せる。
一分と経たずに立派な焚き火のできあがりだ。
「スッゲ、スゲー! これっ! これ魔術だよな!? スッゲ―!」
マタル少年、大興奮。ユミスも目をキラキラさせて拍手してくれた。芸人冥利に尽きる良い反応である。芸人じゃないけど。
「次はこちらですね」
と言ってリースが取り出したのは、手の上に乗る程度の鉄の玉。これに魔力を浸透させて、魔術を発動。鉄の塊はぐにゃりと形を変え、平たく伸び、フライパンの形へと変わった。これに手ごろな木の枝をくっつければ、簡易フライパンの完成だ。木の柄にしたのは、手が熱伝導で熱くならないようにするためである。
うおー、とマタルは歓声を上げた。
「姉ちゃん、魔術師だったのかよ! なんだよ、実はやっぱりスゲエ冒険者だったんじゃん!」
人間は基本的に魔力を有しているが、それを魔術として利用できるようになるには、相応の知識と技術が必要となる。そしてその知識と技術を学ぶには、しかるべき場所に高額の金銭を支払わなければならない。
つまり魔術師とは裕福な商人などを例外として、貴族であることが当然なのだった。
魔術師もピンキリではあるが、市井の子供からすれば、魔術師=貴族、貴族=なんか凄い人たち、なんか凄い人たち=魔術師ということになる。そこからさらに魔術師の冒険者=凄い冒険者となるのだった。
それはともかく、ここまで純粋に子供から絶賛されれば、リースだって気分が良くなるというものだ。
上機嫌でフライパンを火にかけ、肉と皮の間の猪油をフライパンになじませる。スライスしたレバーやモモ肉に、細かく刻んだ香りづけの薬草をふり、ついでにキノコも薄切りにして一緒に焼く。
胡椒とまではいかなくとも、せめて塩があればよかったのだが、そこは仕方がない。
それでも猪油の甘く濃厚な匂いに、食べ盛りの子供二人はいまにもよだれを垂らさんばかりに視線が釘付けだ。
「そういえば貴方たちはお弁当は……持ってないですね。ではこれを三人で分けましょう」
リースはポーチからハンカチに包まれた白パンを取り出し、三等分に切り分けた。
「うわ、ありがとな、姉ちゃん!」
「あ、ありがとう、リースお姉ちゃん!」
どういたしまして、と微笑むリースは、いつの間にかユミスの自分への二人称が、「リースさん」から「リースお姉ちゃん」に変わっていることに気づいた。マタルのほうも随分と砕けた態度になっているあたり、どうやらこの数時間でそれなりに信用されたらしい。
水で洗った大きな葉を皿代わりにして、焼けた肉とキノコを順々に盛ってあげれば、小枝を削って作った即席の串で刺して、待ちきれないとばかりに口に運ぶふたり。
「うめー! これ、やば、うめえ! いやもう旨いなんてもんじゃねえよ! でもうめえ!」
「うんっ、美味しい! 今まで食べたどんなお肉より美味しい! もう美味しい以外に言葉が見つからないよ!」
本当に「旨い」「美味しい」以外の単語が言えてないが、そこに突っ込むような野暮な真似はしない。
リースも自分の分の肉を一切れ口に入れる。油の甘味と肉汁の野趣溢れる旨味が口に広がり、舌の上でとろけていく。香草代わりに使った薬草も、クセの強さを和らげる良いアクセントになっている。
端的に言って実に美味しい。
解体の仕方や調理にひと手間加えるだけで、味というのは思いの外変わってくるものだ。
昔、野営の訓練を始めた頃、特に実感したのは、料理人というのは偉大な職人なのだということだ。いや本当、初めて自分で狩った鹿を解体して焼いて食べた時の事は、今でも忘れられない。決して不味かったわけではなかった。でも美味いわけでもなかった。なんだか妙に硬かったし、味もなんだか淡白だったし……いや、やっぱり不味かったかもしれない。
そんな経緯があって、リースはエッジブレイク家の料理人に、最低限の料理の知識を教えてもらうことにしたのだった。
その結果、軍人時代から今に至るまで、ちゃんとまともに食べる物が作れるのだから、あの時渋る料理人に無理を言って教えてもらったのは正解といえよう。
「モツの部分は傷みやすいので、この場で食べてしまってくださいね」
一応言ってみたが、夢中で食べるマタルとユミスを見れば、残す心配は杞憂だろう。
結局、予想通りにふたりは完食し、今は食休みに少し雑談をすることにした。
「おふたりは孤児院で暮らしているのですよね。やっぱり生活は大変ですか」
「うん。べつに飢えるほどじゃないけど、今みたいに肉を腹いっぱい食えるなんて一度もないぜ。ていうか肉を食えることがほとんどない」
「いつもお豆かお芋だもんね」
先ほどの食いっぷりから推し量れたことだが、やはり孤児院の食事情はあまりよろしくないらしい。いや、飢えることがないという時点で、孤児院としては上々かもしれないが。
「そういえばふたりとも、読み書きや計算ができないと言っていましたが、孤児院の大人の方たちで一人くらいはできる方がいらっしゃらないのですか?」
「……あー、司祭さまができるけど……」
「司祭さま、怪我の治療とかで忙しいから、あたし達に教えてくれる暇がないの……」
「ああ、聖天教の孤児院なのですね」
基本的に、孤児院には二通りある。一つが領主が経営する場合。もう一つが聖天教が世話をする場合だ。
大陸全土に影響力があるだけあって、聖天教は資金力もそこらの国家よりも高い。と言ってもそのほとんどは総本山である聖国に集まるのだが。しかし、生活に根付く聖天教を軽視する者はおらず、そこが面倒を見ている孤児院を虐げる輩などまずいない。
聖天教と聞くと聖女アリスレーゼを思い出すリースだが、アリスレーゼはともかく聖天教そのものには悪感情など持ってはいない。むしろ人並み程度にはありがたく思っているくらいだ。
それはともかくとして、ふたりの口ぶりからして読み書き計算ができるのは、その司祭様だけのようだ。そしてその司祭様は、本職の仕事が忙しくて勉強を教える暇がない、と。
リースは考える。ここで自分が彼らの教師を買って出るとして、その影響を。
べつに誰が不幸になるわけでもない。それは間違いないはずだが、過度な施しは与えられる当人に返ってよくない場合もある。施してもらえるのが当たり前、などと勘違いさせてはいけない。
物事には基本、対価というものが必要となる。それが価値あるものであるならなおさらだ。そして勉強を教えること、知識というものは非常に価値あるものなのだ。
このふたりに、その対価をリースに返せるものがあるかと問われれば、否と答えるしかない。
そうするだけの必要性を、リースは見出すことができなかった。
言ってみればこれは独善であり、我儘だ。人の上に立つ者の視点、真っ当な貴族の価値観が根差すリースからすると、特定の個人を贔屓する行為には拒否感を憶えるのだった。
人知れず葛藤するリースには気づかず、今度はマタルが質問してきた。
「俺らのことよりもさあ、姉ちゃんのこと聞かせてくれよ。魔術が使えるってことは、姉ちゃんってどっかの貴族だったりすんの?」
自分の悩みはひとまず置いておいて、リースはマタルの無遠慮な質問に注意を飛ばす。
「マタル君、冒険者に限らず、他人の過去を詮索するのはマナー違反ですよ」
「なんだよ、姉ちゃんだって俺らのこと聞いたじゃん」
「そうですけど、私の場合はすでに分かっていることでしたから。ですが、確かにフェアではありませんね。ええ、お察しの通り、私は元は貴族でした」
あまり言いふらさないでくださいね、と釘を差すものの、本気で言ってはいない。リースが貴族出身なのは、ほとんどの者が察していることだ。
「わあ、やっぱりそうだったんだぁ。リースお姉ちゃん、ほかの冒険者の人たちと全然違ってたもんね」
「だよなー。しゃべり方とかバカ丁寧だし、なんかのんびりしてるってゆうか怒るところとか想像できねえし」
「すっごい美人だしね。最初見たとき、びっくりしたもん。貴族のお姫様ってこんな人なのかなあって。本当にそうなんだって聞いてすごい納得しちゃった」
「お姫様って……」
ユミスの率直な感想を聞いて、リースは苦笑した。
容姿に関して人並み以上という自覚はあれども、これまで自分がやってきた所業を思えば、そんな呼び方は到底似つかわしくない。
ふと、自分の過去の行いをこの子たちに教えたらどんな反応をするのだろうか、という想像が頭をよぎった。
やはり軽蔑するのだろうか。嫌悪するのだろうか。あのパーティ会場にいた者たちのように。
関わりの薄い貴族の子息令嬢に何を思われようがどうでもいいことだが、この子たちにそう思われるのは、想像するとそれは少し悲しかった。
「リースお姉ちゃん、どうしたの?」
突然に暗い雰囲気になったリースの気配に、ユミスは敏感に気付いた。
「いえ、なんでもありませ――っ!」
年長者として子供に気を遣わせるわけにはいかない。ましてや自分は引率する立場なのだ。
すぐに何の問題もないことをアピールしようとした瞬間、探知の魔術に反応があった。そして瞬時に意識が戦闘状態に切り替わる。
先ほどの猪といった生物とは違う、魔力が一瞬だけ広範囲に触れたこの感触は、
――反響探知の魔術!
リースの使う探知の魔術には二種類ある。ひとつは現在も使用中の、周囲に魔力を薄く張り巡らせ、その範囲内を常に把握する、リースが領域型探知と呼ぶタイプ。
そして、もうひとつが一瞬だけ魔力を放射し、音の反響と同じ原理で周囲を知覚する、反響型探知だ。
どちらも一長一短で、領域型は常に展開するため精度が高い分、処理する情報量が多く、範囲が狭くなってしまう。逆に反響型は一瞬だけな分、範囲が広い代わりに次に使用するまで把握できなくなるということだ。
そして共通の欠点として、ある程度魔力に対して敏感であれば、探知された側がそうと気づかれてしまうという点にある。もちろん探知魔術同士が接触し合えば、お互いがお互いに探知魔術を行使していることにきづく。
ここで問題になるのが、場所が森の中ということだ。
魔術を扱える人間は多くはなく、ましてやこんな人気のない森で遭遇する可能性など、ゼロではないにしても極めて低い。
それよりも、森林や山岳地帯を縄張りとし、さらに探知魔術を使う存在に、リースは心当たりがあった。すなわち、
(ゴブリン! 少し不味いですね)
魔族、つまり人類以外で魔力と独自の言語を扱うほど知能の高い種族の中で、ゴブリンは最弱という位置づけにある。だがそれは、あくまで一個体として見れば、の話だ。
リースに言わせれば、彼らのテリトリー内ではそんじょそこらの魔物よりも遥かに危険度が高い。ゴブリンは常にチームで行動し、連携もすれば道具も用い、弓矢や投石などの飛び道具も使う。それに加えて反響探知で敵の位置を正確に捕捉してくる(そもそも反響探知の魔術は元々がゴブリンが使う魔術で、人間はそれを模倣しただけ)。
それでもリース一人だけなら問題はないのだが……。
「……ね、姉ちゃん?」
「ど、どうしたの、リースお姉ちゃん?」
突如として鋭い気配を発し始めたリースに、マタルとユミスがいささか怯えの混じった様子で声をかける。
そう、問題はここにこのふたりが居るということ。
経験則から言って、ゴブリンは基本三人一組ないし四人一組で行動する。複数個所から同時に仕掛けられたら、この子たちを守り切れるかどうか。
同時に、ゴブリンがこちらを襲撃する可能性も高くはないとも思っている。自分たちとは異なる探知魔術を扱う未知の脅威に、危険を冒してまで襲っても特に得る物がない人間に向かってくるか。
(来た! ですが、一体?)
領域探知に引っ掛かった反応はひとつきり。それがゆっくりと近づいてくる。まるで敵意がないことを示すかのように。
やがて五十メートルほどまで接近してくると、そこで停止した。十分に視認できる距離だ。
リースが目を凝らせば、草むらの茂みに隠れて何かがこちらを窺っていることが知れた。
お互いに視線がかち合う。
数秒の邂逅の後、そいつは何もせずに引き返していき、探知範囲外へと消えて行った。
(いえ、何もしていないわけではないですね)
あれは確認していたのだ。領域探知の行使者を。そしてその存在が自分たちにどう対応するのかを。
一体だけで近づいてきたのがその証拠。こちらが何もせずにいればそれでよし、もしも攻撃を仕掛けて接近してきたゴブリンを殺していれば、後方にいたはずのゴブリンが危険な敵性存在としてリースを群れに報告していただろう。
そういう判断が即座にできるという時点で、この森の奥に住んでいるゴブリンたちは相当の手練れ揃いだということが推し量れた。
リースは安堵にひっそりと息を吐いた。
こんな町の近くの浅い森で、あんな練度の高いゴブリンが出没するとは、割と深刻な事態かもしれない。
とりあえずこの件はギルドに報告しておくべきだと、心に留めた。
臨戦態勢を解いたリースに、恐る恐るマタルとユミスは話しかけてきた。
「な、なあ。一体どうしたってんだよ?」
「もしかして、なんか危険な魔物とかいた……?」
「いえ、どうやら私の杞憂だったようです」
すでに危険は去っている。無駄に不安を煽ることもないと、リースは誤魔化した。
「それより、今日はもう帰りましょうか。教えるべきことはもう教えましたし、猪の肉と毛皮も早めに持って帰らないといけませんからね」
この提案に、子供二人は素直に肯いた。ユミスはもうちょっと採取方法のおさらいをしたそうではあったが、特に文句を言うことはなかった。
そうと決まれば帰りの準備だ。使ったフライパンの油を魔術で除き、元の鉄の玉にもどし、狩った猪の肉と毛皮を、折った太めの枝に木の蔓で縛り付け肩に担ぐ。最後に薬草の入ったカゴを背負い完了だ。
「――そういえば、おふたりに聞きたいことがありました」
帰路の途中、リースはふと質問してみることにした。
「昔、貴族だった者が、そうでなくなった後、自分の身近なひとを優遇することについて、どう思いますか?」
突然の訳の分からない質問に、子供二人はきょとんと首を傾げた。
「……えーっと、どういうこと?」
「つまりですね、貴族というのは人の上に立つものです。ですので下の者には公平公正でないといけません。依怙贔屓はダメということですね。そんな元貴族が、貴族だった時に得た力やお金で誰かを特別扱いしたとしたら、どう思いますか?」
「……んん?」
ますます不可解そうな顔で首をひねる少年少女は、少し考えて答えた。
「なんか何訊きたいんだかわかんねえけどさ、べつにいんじゃね? 好きにすれば。貴族だったのって昔の話なんだし、今は違うっていうんなら。なあ?」
「うん。悪いことするわけじゃないんなら、自由にすればいいと思う。みんなだって自分とか周りの人たちの事の方が大切にすると思うし」
なんとも子供らしい明朗な回答だった。
しかし、その単純さは、リースの心にストンと腑に落ちた。
「なるほど、好きにすればいい、ですか」
言われてみれば確かにそうだ。自分はもうシェルファリース・エッジブレイクではない、ただのリースなのだ。そのしがらみから解放されたというのに、自分で自分を縛ってしまうというのは、バカバカしいし勿体ない。
「ありがとうございます。ふたりとも」
「よくわかんねえけど、あんなんで良かったのかよ?」
「ええ。おかげでスッキリしました」
リースは晴れやかな気持ちで、心からお礼を言った。
☆
「――あら? リースさんにあなた達、ずいぶんと早いお帰りね?」
冒険者ギルドの扉を抜けて受付に直行すれば、朝に見送ってくれたフィリシャがちょっと驚いた顔で迎えてくれた。
まあ、たしかに時刻は午後のティータイムといった頃合いで、仕事を終えて帰ってくるには少々早い。
フィリシャは何事か起こったのかと一瞬、心配そうな顔をして、すぐにリースが肩に担いでいる物に気が付いて納得の色を浮かべた。
「まあ、猪を仕留めたのね。しかもかなりの大物みたいじゃない。すごいわ」
この率直な賛辞に、マタルとユミスは微妙な表情になった。
苦笑しながらリースは事の経緯を説明する。
「仕留めたというのは語弊がありますね。この猪は偶然の産物です。向かってきたところで、木の根か何かに躓いて転んで、勝手に自滅してくれたのです」
「ええ? 猪が転んで、そのまま死んじゃったの? そんなことってあるかしら?」
にわかには信じ難いことを聞かされて、疑わし気に見てくるフィリシャに、リースは子供達に見えないよう、こっそりと人差し指を口元に持ってきた。
「……でも、そうね。そういうこともあるかもしれないわね」
やはりというか、リースがどうにかしたらしい、そしてそれをマタルとユミスには内緒にしておきたいようだということを察したフィリシャは、その意図に乗って納得したふりをした。
「それで、その猪はどうするのかしら? もう解体されてるから解体費用は掛からないし、それだけ大きいなら結構なお値段になると思うけど」
「どうしますか? おふたりで決めていいですよ」
「え!? い、いいのかよ!?」
「はい。毛皮は換金するとして、お肉は換金しても、持って帰って孤児院のお土産にしても構いません」
「で、でも、あたし達何もしてないよ……?」
「私も大したことはしていませんよ。解体して運んだだけです。猪が獲れたのは、運が良かっただけなのですから、気にすることはありません」
リースの言葉に、成程そういうことかとフィリシャは合点がいった。リースが仕留めたというのであれば、さすがにこの子たちは遠慮しただろう。しかし、あくまで運がよかっただけの偶然なら、今回限りの幸運としていただくにも抵抗が少ないだろうという配慮というわけだ。
やっぱりこの人に頼んで正解だった、とフィリシャは密かに自分の判断を称賛した。
「……それなら、俺、孤児院の奴らに持って帰ってやりてえ」
「あたしも、皆に食べさせてあげたい。これだけあるなら、お腹いっぱい食べられると思うから……」
多少の抵抗はあれども、自身の遠慮よりも孤児院の仲間を優先することを選んだ二人は、ありがたく受け取ることにした。
「それじゃあ毛皮は換金ね。あ、この二本の牙はどうするのかしら? こっちも工芸品の材料として需要があるのだけど」
「これもマタル君とユミスさんが持っていればいいと思いますよ。少し削って研げば短剣の代わりになりますし、棒の先に着ければ簡単な槍にもなりますから。おふたりとも、武器の類は持っていないでしょう。護身用に一つぐらいは持っておかないといけません」
「……うん、わかった。もらっとく」
「ありがとう、リースお姉ちゃん」
もらってばかりの状況に、少年なりの意地とプライドが刺激されはしたものの、猪と対峙した時の事を思い出して、マタルはユミス共々素直に受け取った。
正直言って、丸腰というのはいかにも心細かったのだ。実際に役立つかは置いといて、武器というものは手にしているだけでも安心感がある。
「だったらギルドと取引のある鍛冶屋を紹介するわ。牙のちょっとした加工くらいなら、無償で引き受けてくれると思うから。
それであとは、本命の薬草ね。見せてもらえるかしら?」
リースたちは各々背負っていたカゴの中身を見せた。リースはもちろん問題はない。肝心の子供二人の成果は――
「まあ、すごいじゃない。ちゃんと規定の採取の仕方で摘んであるわ。少し粗はあるけれど、初めてでこれだけできるなら上出来よ」
「ええ、ふたりとも説明をよく聞いて、真面目にやってくれましたから。これならこの子たちだけでも問題なさそうです」
おとな二人から褒められて、マタルは照れくさそうに、ユミスは素直に、それぞれ喜びを表現した。が、続いたフィリシャの言葉で、顔を曇らせる。
「それなら、次からはこの子たちだけでお仕事することになるのかしら」
「それなのですが――」
リースは気落ちした様子のマタルとユミスに向けて、思っていたことを口にした。
「おふたりが良いのであれば、今後も私と一緒に採取をしませんか?」
「……え」
「い、いいの!? あたし達、足手まといになっちゃうのに」
「つい先ほどの言葉を忘れましたか? もうふたりだけでも仕事はこなせます。足手まといにはなりませんよ。だから私の方からお願いしているのです。独りで黙々と作業しているのはつまりませんからね。一緒にお話ししながら仕事してくれる人がいれば、私も助かります」
――リースさんたら気配り上手!
下手に出つつ自らのメリットを挙げ、かつ相手の自尊心を立てる言い回しに、リースへの好感度をうなぎ上りにするフィリシャ。
一方でマタルとユミスは露骨に顔を輝かせ、
「ま、まあ? リース姉ちゃんがそういうなら、一緒に仕事してもいいぜ?」
「マタル、素直に喜びなよ。とっくに手遅れだし。――ありがとう、リースお姉ちゃん! あたし、がんばるね! これからよろしくお願いします!」
無駄に安い意地を張るマタルを諫めつつ、ユミスは渾身の笑顔をリースに向けた。
「はい。こちらこそよろしくお願いしますね」
――まあ、はじめにこの子たちの同行を許した時点で、なんとなく予想できたことではあったのだけど。
ニコニコと笑っているフィリシャをちらりと見る。
見事に彼女の思惑に乗せられた感が否めない。
別に嫌ではないのだが、それでもちょっと悔しいような気持になるリースだった。
この世界のゴブリンはガチで強いです。
普通に考えればわかると思いますが、危険な魔獣やら獰猛な動物やらが跋扈する野生世界で生き抜くためには、なんらかの強かさがないといけません。
ゴブリンの場合、その強さが知恵と器用さ、そして数です。道具や罠を作り出し、それを扱う器用さに集団の力、それらを十全に活かすための知恵を備え、さらには反響探知の魔術まで使う。加えて戦う場所が森林や山岳地帯。
人間の冒険者が彼らと戦うということは、見通しがすこぶる悪い地形で一方的に位置を把握され、遠距離や障害物の陰から奇襲され放題、ということになります。無理ゲーくさいですね、コレ。
某ゴブスレさんに出てくるような、馬鹿だが間抜けではない、なんてものじゃありません。決して魔法使いがMP惜しさに「たたかう」コマンド連打してて勝てるような相手ではないのです。
それでも田舎の新人冒険者が「ゴブリンなんて楽勝だぜ~」なんて舐めているのは、実際に彼らがゴブリンを倒したことがあるからです。ただし、それはあくまで群れから追い出された、孤立したゴブリンです。
生粋の狩猟民族であるゴブリンの生活は、決して楽なものではありません。時には食料不足に陥ることもしばしばです。そうした時、大を生かすために小を切り捨てるという判断もします。つまり口減らしですね。そして口減らしに選ばれるのは、もちろん群れに貢献できない個体となります。そうして追い出された役立たず、貧弱なゴブリンが一縷の望みを抱いて人里に下り、そこで村人に討伐され、討伐した若者が勘違いする、という流れができます。
ちなみにゴブリンにも男女があり、同種族間でしか子は成せません。つまり薄い本の出番はありません。残念でしたね。
一応、人間を食べることもありますが、共食いよりはましくらいの認識です。
なので人間を襲うメリットはほとんどありません。ゴブリンが人間と戦う場合は、人間側がゴブリンの縄張りに踏み込んだ時か、あるいは人間の持ち物に興味があった時くらいです。
最後に、人間の集団がそうであるように、ゴブリンの群れもリーダーの出来で強さを大きく変動させます。過去、優秀な個体に率いられたゴブリンの大集団、いや軍団が人間の国を襲ったという事例がいくつかあります。