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白い腕  作者: 松明之音
2/13

○小畑希望、0日目


 大通りは避けつつ、しかしできる限り早く部屋へ着くように走ってきた。

 打ちっぱなしのコンクリートが冷たい印象のアパート。その三階までの階段を、駆け上る。

 『小畑』と苗字だけが書かれた表札が示す、無愛想な我が家。別に文句はない。僕は僕の名前が好きではないのだ。鍵をポケットから取り出して、扉を開く。


 地元から離れた大学に入り、一人暮らしをしている。部屋に人がいないことは分かっていた。けれど僕は部屋に入った後も、自分が着ているウインドブレーカーの袖の中に、腕なんて入っていないかのように振舞っていた。

 玄関の鍵を閉め、上着の前のチャックを開けて、冷蔵庫の野菜ジュースを一杯飲んで、水をがぶ飲みする。いつものように。

 右肘はコップとジュースと右腕と、もう一つ右腕の重さを支えているのを感じていた。

 それでも僕は腕を出さなかった。

 狭い部屋のテーブルを邪魔にならないように立て、ストレッチをする。

 ストレッチをしていると、右腕が上がる度にもう一つの腕が、少しだけずり落ちた。

 それでも僕は腕を出さなかった。

 水色のウインドブレーカーの右肘には赤い染みができていたし、指から垂れた血液は玄関からリビングへの廊下、リビングに気まぐれのように、点々と小さな円を作っていた。

 それでも僕は、腕を出さなかった。


 ようやくそれを出したのは、シャワーを浴びようとした時だ。

 左腕を肩口から抜いて、右袖の僕の腕ではない腕を取り出した。

 僕はそれまで、女の人の腕をじっくり見たことがなかった。恋人なんて、いたことはなかったから。例え恋人がいたとしても、こんなにまじまじと眺めるものなのかも疑問だけれど。

 初めて眺める女性の腕の印象は、

「細っいなぁ」

だった。

 掴んでいた肘部分は、僕の手の親指と中指で一周し、指は枯れた枝のように、簡単に折れそうだった。

 というより、実際に小指が折れていた。

 思ったより腕には血が付いていなかったけれど、そのぶんジャージの下に着ていた白のトレーナーには、大きな赤い染みができていた。

 半端に服を脱いだままの状態で、かなりの時間その腕を見ていた。見惚れていた。

 肘から手首までの緩やかな曲線が美しい。僕の腕のような、無粋な毛は一切生えてはおらず、透き通るように白いのだ。それは、溜息も出る。

 馬鹿みたいに口を半開きにしたまま、僕の汗と彼女の血液を、乾いたバスタオルでよく拭いた。

手首から先、手のひらの小ささよ! 指は細いが、その細さにしては長い。手のひらは薄い。手のひらが薄い、というのはおかしな言い方なのかもしれないが、彼女を見た後に僕の手のひらを見れば、厚いというのが当たっている。よって、薄い、だ。

 腕は、白い。

 なんと儚げなんだろう。陶器の美しさを感じられる人は、この気持ちなのだろうか?

 中学生のときに親戚の赤ん坊を抱いたとき、その子が僕の顔に伸ばしてきた可愛い手。初めて愛おしいという感情を抱いた、あの瞬間を思い出した。何故こんな汚い僕に対し、この生き物はこんなにも無邪気に笑い、顔に触れて来るのだ?

 思春期に入り、普通の少年達と同じように僕は自分を嫌う時期にいた。しかし他の少年に比べ少しだけ聡明であった僕は、より深く自分を嫌っていた。

 僕が仰ぐように抱いていた、天使のような笑顔の赤ん坊。向き合っている僕は泣きそうな顔で笑っていた。この子と、この笑顔を守ってあげたい。久しぶりに、自分の中に純粋に誇れる気持ちを感じられたのだ。興奮していた僕は、

「○○に何があっても、僕が絶対に守ってみせる」などと、恥ずかしいことをその子の親に向かって言っていた。周りにいた僕の両親や親戚は、ほほえましいものを見るように笑っていた気がする。

 守ってあげたい。この、僕の手の中の腕を、この世のあらゆる残酷なことから守ってあげたい。この腕の前の持ち主は、本当に残酷な事故にあった。

 だからこれ以上傷つけられないよう、この腕は僕が持っておくべきなのだ。


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