君なら
どうにもすっきりしない気分は自分のものなのかという奇妙な考えが昼過ぎに浮かんできた。春を待つ世界に滴り落ちる雨は妙に躊躇いがちで、「ちょっと降らしますけど、いいんですかね?」と確認しながら誰かが落しているようでもあり、全く例年通りのペースでやってきているようでもあり。春になるとスギ花粉で憂鬱になるであろう多くの人の悩みが透けて見えるような職場でもあり。
すっきりしない気分でテレビを見ていると何だか無理やりテンションを上げているかのようなトーンの声や、楽しいと思おうとしているという様子に見えてくるから困る。自分の気分や気持ち次第で見え方が違うとは言っても、昼間の賑やかな出演者の心の中にも多分晴れない気持ちがあるんだろうなと思うと、何だか素直に考えられなくなる。
とはいえ自分勝手とは違う意味で『自分』を中心にして、自分が動いてゆく事で充実感を得るようにすればこんな悩みは悩みとは言えなくなる。時々友人に会って、飲んで、やっぱり同じことを感じているんだなと思えればまた気持ちを新たに出来そうなモヤモヤは、自分の単純さを示しているのかも知れない。
「何処かに行こうか」
言葉にする事で例えばそれはちょっとした挑戦のような響きを持つ。いつだか夜寝落ちする直前頭の中に、
『大丈夫だよ、君なら』
という誰かの声が聴こえたのを思い出す。ネットで調べてみるとそういう事はありふれた現象で特に何でもないらしく、自分もそんなもんだと思ってるし特別視するわけでもない。けれど、自分が持っていた不安のいくらかがそれが聴こえたその後は何となくだが和らいでいる。
『誰かの声』とは言ったけれどそれが女性声優のような心地の良い声だったのは何というか自分らしさだなと思う。自分は知らず知らずに誰かに支えられていて、この世界にいる誰かの想いが自分に届いたのだとロマンチックに解釈したってバチは当たらないと思う。この頃はそれが自分の逞しさだとも思える。
何処かに行くことを決めて、よりにもよって雨の日にそう決めて、何処に行くというのだろう。玄関に出て外の情景を少し眺めて、消去法で書店に向かう事に決める。車だと15分くらいの場所にある、行き慣れた書店。そこにはちょっとした思い出もある。
あれは高校の頃だったろうか。電車通学をしていた自分が帰宅時にわざわざその駅で降りて徒歩でその書店に足繁く通った事を思い出す。何故そこなのかと言うと気恥ずかしいけれど要するに、その書店の定員さんが可愛いなと思ったからでただ普通に接客してもらっているだけだったけれど、例えば小説などを選ぶ時に、いかにも文科系のその人が気になりそうなタイトルの本を選んで持っていったり、今となっては煮え切らない自分らしいやり方だなと思う。いつの間にかその店員さんは居なくなり、まあ多分転職したのだろうけれど、今でも何かあればその書店を選ぶような具合である。
それからもその書店で『本』との出会いがあった。迷った時に偶然目にしたタイトルが結構良い感じに自分に響いてきて、心を軽くしてもらったようにも感じられた。
喫茶店とセットになったその書店は今日も清涼剤のように店の中を歩くだけで何かを思い出させてくれている。自分だけでは十分に自分を動かしてゆけない。けれど自分の心が選ぶ書物に触れさせれば、自分の心は反応してゆくし、それを記した人の心にも触れることが出来るような気がする。
前から気になっていた作家のデビュー作を棚に見つけ、言い訳のように実用書も一冊手に取ってカウンターに持ってゆく。ポイントカードを一番上に置いて財布に意識を向ける。そんな自分に、
「ありがとうございます」
という柔らかな声が届いた。何か不思議に思って顔を見上げると、女性の店員はにこやかに微笑んでいる。見慣れない店員さんだが、ここは頻繁に人が変わるのでそれは不思議でもないのだが、奇妙なほどにその声に惹きつけられる。
「あ…声優さんみたいな声ですね…」
あまりに驚いたから、と言い訳するしかないがその時の自分はバカげたことを口走ってしまったという後悔が体中を駆け巡る。店員さんは一瞬ドキッとしたような表情をして、
「あ…その…ありがとうございます。実は、ちょっと目指していて…」
と話しづらそうだったが「声優志望」という事を伝えてくれた。その時の自分は内心、「ひえぇぇぇ~」という状態であった。つまり自分で言っておいてどう処理したらいいのか分からなくなってしまっていた。とにかく会計を済ませねば、と思い。
「あ、なんか教えてもらってすいません…」
と頭を掻きながら告げた。「あ、はい」と店員さんは少し戸惑いながらも接客をしてくれる。会計が終わって帰り際、恋愛とかそういう事ではないけれどこういう状況で何もアクションが無いのも失礼だなと思って、
「その…私から言うのも変なんですけど、声優さんって声で人々を幸せにしてくれるんだなって、今実感しました」
「声で、幸せに…」
「なんか自分でもよく分からないことを言っているんですが、ありがとうございます」
「いえ、わたしもそう言ってもらえて嬉しかったです。頑張ってみようかなって…」
「じゃ、その…どうも」
こういう時に「応援してます」と軽々しく言えないくらいには、色んな情報から事情を推察してしまうところがあって、難儀だなと思った。それでも、
『大丈夫だよ、君なら』
といういつかの夜に自分に聴こえたのと同じような声が、彼女にも聴こえてくるのかもななんて思ったり。ちなみにその日買った小説のタイトルは、
『君なら大丈夫』
であったりする。