第九話 千登勢
午後七時三十分。
鑑定を終えたローズは、すべての指輪と黒いショールをはずし、代わりにパールがひとつだけ付いた銀のリングと春物のジャケットを羽織って、部屋の明かりを消した。
荷物を持つと部屋を出て鍵をかける。
さあ、これからは"ローズ"ではなく、"榊原千登勢"に戻る時間だ。
一階のスターバックスに入ると、真っ先に彼――横川リュウジの姿を捜す。
彼は奥まった長ソファの喫煙席で、雑誌を見ながらコーヒーを飲んでいた。灰皿から薄く煙が上がっている。
白いシャツの上にアルマーニの藍色のジャケットを着、足を組んでいるところは、五十過ぎには見えない。
千登勢はふっと笑った。
なかなかダンディじゃない。
リュウジはひとりの時間を上手く過ごせる人なのだ――言いかえれば、待たせる方に安心感を与えてくれる人。
こうやって、コーヒーを飲みながらゆっくり待っていてくれると、心底ほっとするものだ。
「リュウちゃん、お待たせ」
「おう」
ご苦労さん、と言いながら、彼は体を少し左へずらして千登勢を座らせた。
たばこの嫌いな千登勢も、不思議と彼の吸うたばこの煙だけは気にならない。どころか、彼の体から上がるキャスターの香りが好きだった。
「まあ一杯飲むか」
「ううん、いい。出ましょ」
リュウジはメガネの下からにっと、意地悪そうに笑った。
「お、覚悟ができてると見える」
「意地悪」
今日、千登勢は、初めてリュウジの娘に会うのだった。
横川リュウジと出会ったのは去年の秋、古書の販売会場で偶然同じコーナーにいたのがきっかけで、彼の方から声をかけてきたのであった。
ずっと立ちんぼうで本の壁の間をうろついていた千登勢は、だからつい、誘われたコーヒーに飛びついてしまった。とはいえ、大きな古時計のある喫茶店で意気投合し、その後数回食事を共にしたあと男女の関係になったことを今振り返ってみると、あれも運命だったといえるのかもしれない。
リュウジには、別れた妻との間に子供があった。
今年から高校生になる里穂という女の子で、少し体が弱いらしかった。
リュウジは得意げに、いつも持ち歩いているという小さな革の写真入れに納まった彼女の写真を見せてくれ、
「どう? 可愛いだろう? 左側は二歳のとき。で、今が右側だ」
そして、りんごのほっぺで笑っている左側の写真にキスをした。それを見た千登勢は笑い、
「いまだにそんなことするお父さんなんて、異常よ」
と冗談半分に言ったことである。
そんなにもリュウジに愛されている娘――その娘に、今日、初めて会うのだ。
「やっぱりどきどきしてきたわ……里穂ちゃんに電話入れなくていいの?」
駐車場から車を出しながらリュウジが言う。
「さっき電話した。もうじき帰るって」
料理が得意な里穂は、シチューを作って待ってくれているらしい。
「楽しみ。理穂ちゃんのシチュー」
「おう。美味いぞ」
リュウジのBMWは、ビロードの夜空の下、軽やかに走り出ていった。
千登勢、1971年9月18日生まれ。
リュウジ、1956年6月1日生まれ。
二人の未来を、千登勢はもちろん占ってみた。
占い師は自分のことを占っちゃいけないとか、占えないとかよく言われるが、確かに私情は入りやすいし、変な深読みをしてしまうことがある。
それでも、もう自分は一生ひとりかも、と思い始めていた千登勢にとって、リュウジとの出会いは神様がくれた最後のチャンスだと思われた。上手くいきそうなら逃したくないし、駄目なら期待したくない。
自分に孤独運があるのはわかっている。
そして、リュウジが結婚に向く性格じゃないことも、霊数を見て再確認した。
(もしや、こんな二人だから、何とかやれるかもしれない)
そう思うと千登勢は、黒いテーブルクロスの上にカードを並べた。ローズになって。いつもどおり、他人を見るように冷静な気持ちになって。
だが『月』の逆位置は出てきたものの、あとは『節制』、『審判』、『力』と、いいカードばかりだった。そしてそれ以上のカードを、千登勢はめくる気がしなかったのである。
(いいところで留めておこう)
ずるいけど、そう思った。
『月』が出るのは仕方がない。
『月』は不安のカード。
特に人間関係に関する。
(理穂ちゃんと上手くやれるだろうか。受け入れてもらえるだろうか)
そして、自分の母親――
(子持ちのバツイチなんて駄目だって、反対するかもしれない)
そう思いながら、思い切って最後の一枚をめくった時、千登勢の決心は固まった。
『世界』。
(でき過ぎだわ)
自分の願望が出たのかもしれないけれど、嬉しかった。
信じようと思う気持ちが強く湧いてくるのを感じる。
――リュウジを、リュウジと出会った運命を、そしてリュウジを選んだ自分自身を。
「おかえりなさい」
車の音で出てきたのか、エプロンをつけた里穂が玄関の前で待っていた。
高校生にしては小柄な、今風のショートボブにした女の子。
美人ではないが、ふっくらとした頬が可愛らしく、笑った顔は柔道の谷選手にそっくりだと思った。
「占い師さんを連れてきたぞ」
あり得ない、照れた声。
「こんばんは、お招きありがとう。――榊原千登勢です」
「いらっしゃいませ。父がいつもお世話になってます」
里穂の愛想のよい言葉は、千登勢の一切の不安を吹き飛ばした。
ていねいに頭を下げながら、
「こちらこそ、お世話になってます。今晩は、ご馳走になりますね」
あくまで友達のように挨拶をした。
「どうぞ」
千登勢はリュウジとちょっと目を合わすと、促されるままに玄関を入っていく。
そこに艶やかな深紅の薔薇が数本、花瓶に活けられているのを見て、千登勢は目を見開いた。
「赤い薔薇は、千登勢さんの好きな花だって。お父さんったら、自分で買うのが照れくさかったんですって」
里穂はペロリと舌を出す。
「わあ……嬉しい。理穂ちゃん、ありがとう――リュウちゃんも」
最後は小声になる。
リュウジも千登勢の耳元で言った。
「どういたしまして」
千登勢は思わず薔薇に触れる。
造花でも、木のボードに描かれた薔薇ではない、本物の薔薇に――
この手触り、この香り。
枯れない薔薇よりずっとずっと、素晴らしい。
『ミスティ・ローズ』の部屋――目の奥に、スワロフスキーの天使が、惑星のモビールが、暗い部屋で星の輝きをはなってきらめいているのが映し出される。
ふと、あの部屋に現実はすでにないことに気づいた。
それでもあの部屋は、ある。
そしてあの部屋を求めてくる人も、ある。
"ミスティ・ローズ"をやめるわけにはいかない。
――でも今は。今だけは。
心の中でつぶやきつつ、千登勢は二人に挟まれて、暖かな照明が照らす、明るい部屋の中へと入っていった。
もしかしたら、いつか、そこがもうひとつの新しい自分の部屋になるかもしれないことを期待しつつ……
薔薇の香りがふわりと揺れて、夜はゆっくりと、更けていった。
-了-
お読みいただきまして、ありがとうございました!!^^
皆様の人生も、光に満ちた幸福なものでありますように♪