第六話 英美里
バレンタインは過ぎてしまった。今年も、無情にも。
学校がインフルエンザの大発生で学級閉鎖をしていた間に。
今は「情報の保護」がどうとかいって、友達でもない生徒の、まして一学年上の人の住所など、わかろうはずもない。
それでも英美里は、大好きな彼の誕生日がもうすぐ来ることをつきとめたのだ。
乃木宗一。1991年3月12日生まれ。
彼はM高校水泳部のホープである。
そしてどうやら、熱帯魚の飼育に凝っているらしい。
だから、ある人のアドバイスによって、芳乃はこう決めたのだった――「先輩の誕生日に、熱帯魚をプレゼントする」と。
(でも、どんな熱帯魚が好きなんだろう?)
学校の帰りに、思い切ってホームセンターの一角にある「熱帯魚コーナー」に立ち寄ってみた。
このホームセンターはよく利用するけれども、このコーナーに来たのは初めてだった。
ずらりと並んだ緑色の水槽を、ブラックライトが照らしている。
その中を悠々と泳ぐ小さな魚をのぞき込んだとたん、英美里の背筋にぞくっと悪寒が走った。
じつは英美里は、小さなものから大きなものまで"魚"と名のつくものが嫌いである。
魚の、ぬるりとした体も、目蓋のない目も、ポンプのように何でも吸い込んでしまいそうな口も、大嫌いだった。
魚の形を保っている料理もすべて苦手――お頭付きの刺身はもちろん、ちりめんじゃこや、釘煮も食べられない。
ずっと小さい頃、家族で行った旅行先の旅館で豪華に夕食を食べたとき、父がぱかっと蓋を取った鍋の中に、白目をむいた鯛のお頭がどーんと入っていたのがいけなかったのだろうか。
その時の恐怖を、英美里は覚えている。
説明のできない恐怖ではあったが、しばらく白目の鯛が追いかけてくる悪夢に悩まされさえしたほどだった。
それ以降も度々見る、意味のない魚の夢……
暗い縁の下に植木鉢が並んでいて、そこにはひとつひとつ鯛のお頭が刺さっていたり、サメやエイがうようよ泳ぐ海に落ちたり。
夢の中で見る魚たちの巨大さといったら、身震いせずにはいられない。
だが何より、目覚めてからも鮮烈に頭に残っているのは、あの目蓋のない不気味にギョロつく"目"なのであった。
(熱帯魚は大丈夫……綺麗だもん)
ひらひらと、目の前の熱帯魚の赤い筋の入った白い胸びれと尾びれが優雅に舞うのを眺めながら、英美里は自分にそう言い聞かせ、にっこりと微笑もうとした。
と、ふと横の水槽を見てしまったのである。
――『アマゾン産ナマズ ゼブラ・キャット』
(ひゃあああ……)
どうにか声を上げずにはすんだ。
だがもうそれ以上店にはいられず、口を押さえたまま、英美里は慌ててホームセンターを飛び出した。
その晩、ネットで「熱帯魚」を調べてみたら、熱帯魚にも色々と相性があることがわかった。
「そうかぁ、一緒にすると、食べられちゃうこともあるんだ」
これでは迂闊にプレゼントできない。
まずは、彼の飼っている熱帯魚の種類を把握しないと。
英美里は自分が彼の前に立って質問しているところを想像してみた。
――あの、どんな熱帯魚を飼っているんですか?
「……駄目だ。聞く勇気なんて、ない」
そうすると、どんな魚とも上手くやれる種類のを選択するしかない。
今度あの店の店員さんに聞いてみよう、そう思いつつ、また検索する。
パ! とまるで絵画のような水槽の画像が飛び込んできた。
「――アクアリウム・コンテスト? へぇぇ、水槽のコンテストなんか、あるんだ」
それは熱帯魚の水槽をそれぞれ自分の世界観に合わせてアレンジしたコンテストで、水草や藻などが本物の森のように茂り、その中をまるでファンタジーの世界のように色とりどりの熱帯魚が泳いでいるのだが、コンテストは参加者が送ってきた写真によってされるらしく、そのときの魚たちの泳ぐタイミングや藻の感じなど全体のバランスが重要なポイントとなるようだ。
もしかしたら、彼もこういうのを目指しているんだろうか。
その夜、Googleに引っかかった項目を片っ端からクリックして、時には大写しになった魚の画像に悲鳴を上げ即座に閉じたり、目をそらしたりしながら、英美里はけなげに検索を続けた。
「それでしたら、コラドリスなんかがいいんじゃないですか? 他の魚の食べ残しを食べて、水槽を掃除してくれますし」
英美里はまたホームセンターに来ていた。そして勇気を出して店員に聞いてみたのだが。
そのコラ……何とかいう魚は、顔の先が突き出ていて、気持ち悪くてとてもまともに見られなかった。
(こんなの、持っていけないや)
「えっ……と。他には」
「うーん、他には、プレコとか。コケを食べます」
(きゃーっ、何て気持ち悪いんだ! 黒い点々なんてっ)
「あの。もっと可愛いのありませんか? もっとフツウの……」
「あ、だったら、これどうです? グラミー。可愛いでしょ?」
(可愛いけど――ちょっと違う)
グラミーは、自分の思いを伝えたいのとイメージが違う気がした。
「あとはどんなのがありますか」
こうなったら、納得がいくまで聞いてみようと思った。
本当はあんまり長居はしたくないし、奥の水槽には行きたくないけど……。
「あっ、いいのがあります。こちらへ」
店員が手を打って、英美里を奥へ招く。
――嫌な予感がする。
頭の高さに横長の大きな水槽が出現した。そしてその水槽には。
「すいませぇん、また来ますぅぅ……!」
とても耐えられなかった。
ピラニアもどきの大群が、ギョロ目をぎらつかせていたのである。
英美里はため息をついて、ショッピングビルに入っていった。
今日は土曜日。人が多い。
(あれだけでとても疲れてしまった。缶コーヒーでも飲もう……)
そう思って自販機を探しながらふと目をやったとき――
それは見つかった。
3月12日。
英美里は、乃木宗一を水泳部の部室の横で待ち伏せ、ついに苦心して選んだプレゼントを渡した。
やっぱりひとりでは心細かったので、親友のみずほに一緒にいてもらったが、最初驚いたような乃木宗一が、英美里からプレゼントを受け取るとはにかんで「ありがとう」と言ってくれたことに、二人は抱き合って喜んだことだった。
そして、二日後の金曜日、乃木宗一が英美里の教室を訪ねてきたとき、クラスの女子は騒然となり、英美里は頭が沸騰した。
お礼の手紙と共に、彼のメールアドレスが添えてあるのを見た英美里とみずほは、思わず抱き合うと笑い泣きする。
みずほが言った。
「明日、行く? 報告にさ」
英美里もうなずき、
「うん、行こう」
そして付け加える。
「ついでに、これからのことも占ってもらわなきゃ」
チリリン、とドアが開き、「こんにちは!」という明るい声で二人の少女が飛び込んできた。
ローズは顔を上げると、にっこりして「こんにちは」と挨拶を返す。
もちろんローズも二人を覚えていた。
二人の少女――英美里とみずほはローズの前に座ると、「先生、お世話になりました! 無事、彼氏と付き合えるようになりました!」と報告した。
頬を紅潮させて、英美里が言う。
「先生のアドバイスどおりにしたら、ほら、彼こんな手紙くれたんです」
――スカーレット、サンキュ。これから一緒に育てていこうな。
俺のメール→soichi-fish@xxweb.ne.jp
「スカーレット?」
ローズが首をかしげて英美里を見ると、英美里はみずほと目を合わせ、持っていた手提げ袋からあるものを取り出した。それをゆっくりとテーブルの上に置く。
それは直径が10センチほどのドーム型のアクリルケースだったが、どうやら水槽になっているようである。
中には枝のような赤紫色をした水草と、真っ赤な――そう、緋色の、本当に小さな小さなエビが三匹、ゆらゆらと浮かんでいた。
「まあ、これ、エビ? 可愛い」
「『ホロホロ』っていうんです。で、『スカーレット・シュリンプ』っていうのが、このエビの正式名称みたいで」
「これをあげたのね」
「はい。で、自分にも買っちゃいました。先生が、彼の好きなものには興味を持つように、って言ってくださったから」
ローズは自分のことのように手を打つと、
「すごい、よかったわね。上手くいって」
そして、
「彼は自分の世界を持つタイプ。このゆらゆら感は、ぴったりね……ああ癒されるぅ、私も欲しくなっちゃった」
と笑った。