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第三話 法子

 法子は、初めての転職を考えていた。

 五年間勤めた会社にはそれなりに愛着もあり、仕事にも人間関係にも特に不服があるわけではなかったが、このまま「なあなあ」になるのが嫌だったのだ。

 ずっと事務員として書類と向き合ってきた彼女が次に「やってみたい」と選んだのは、エステティシャンの仕事だった。


 いつも仕事の行き帰りに気になっていたある雑居ビルの地下へ下りる階段を、今日は思い切って下りていく。

 そして薄暗い廊下の一番奥の扉――重々しい木の扉には一輪の薔薇の造花と銀色のベル、そして『ミスティ・ローズ』と書かれたプレートがかかっている――を、ぐっと押し開けた。


 チリリン、というたわいもない音とともに、法子は見知らぬ空間に足を踏み入れ、広いテーブルの向こうに座っている占い師に声をかけた。


「あのう……仕事の悩みを見ていただけますか?」


「どうぞ」

 ピンクのブラウスに黒いショールを羽織った占い師が、右手を差し出し法子を迎える。

 法子が椅子に座ると、占い師は法子の生年月日だけを尋ねた。


「1983年11月7日です」

「お仕事の悩みですね。どんな悩みですか?」

「はい。この春から転職をしたいと考えていまして……それが正しい選択かどうか占ってください」


 以前見てもらった占い師は、「勤続何年か」とか「仕事は好きか」とか、先に色々と尋ねてきたが、この占い師は一切何も聞いてこない。法子はただ黙って彼女のすることを見ていた。


 部屋にはいい香りが満ちている。

 ほっとする香りだ。

 たいていの占い師は香を焚いて邪気を祓っている(らしい)。

 マイ・ルームにこんな香りもいいな、と法子が思っていると、「あなたは頑張り屋さんね」と占い師が言った。

「ちょっと飽きっぽいけど」


 自分ことながら、法子は吹き出しそうになった。

「どうしてわかるんですか? ――『おまえは飽きっぽい』って、よく親に言われます」


 実際、法子が学生時代から今までに凝ったのは、スキー、スノボー、スケート、ホウリング、ゴルフ、スキューバダイビング、ダンス……と様々である。(ダンスは、ジャズもかじってみたが、今はサルサに凝っている)


 そんな自分にしては、今の会社はよく続いた方だと、自負してもいたのだが。


 カードを並べ終え、占い師が耳障りのよいハスキーボイスで法子に質問をした。

「ふうん……どうして辞めちゃおうと思ったの? 別に悪くないわよ、今の職場。皆いい人だし、上司もあなたを評価してる。したいことでもあるのかしら?」


 エステをやってみたいんです、と、とりあえず法子は言ってみた。

 ――人を癒してあげたくて。


 占い師ミスティ・ローズは、じっと法子を見つめた。その目は思いのほか優しくて、法子は少し安心する。


「人を癒してあげたいんだ……たしかに、人に喜んでもらうのが大好きな人だけど、でもねぇ、エステティシャンは重労働よ。あなたは体力がないから、きっと疲れちゃう。体に対して気持ちが空回りして、苦しいわよ。あなたは癒すより、癒されるべき人なんだけどなあ」


「えっ? 私が癒された方がいいんですか?」


 ミスティ・ローズが胸の前で指を組むと、綺麗なピンクの爪がつるりと光をはじいた。


「そう。さっきも言ったけど、あなたは頑張り屋さんなの。だからぬるま湯に浸かっていると、『これでいいのかしら』って疑問が出てくるのよね。現状維持でいいのよ。頑張りすぎないこと。それよりも楽しむことが、あなたには必要――趣味はあるの?」


「今はサルサをやってます」

「楽しい?」

「はい、楽しいです」


 ミスティ・ローズは、そう、それはよかった、と頷くと、

「じゃあ結論を言いますね。転職はなさらないでいいと思います。エステティシャンの勉強をして資格は取れますが、仕事としては続きそうにありません。それよりも、今の環境に感謝しながら、楽しいと思うことをやる――そうすれば、新しいチャンスはまたやってきますよ」

 と締めくくった。


 本当はまだ迷っていたので、はっきりと「転職はしなくてよい」と聞けてよかったとは思うのだが、正直いったん決めた心を翻すには、まだ何か十分ではないと思う法子である。


 そんな法子の心を読んだように、ミスティ・ローズが言った。


「ちょっとだけ、『魂』の話をしましょう。人は『魂』を磨くために、何度も生まれ変わってくるという説があるでしょう? 私はそれを信じているわけだけど……『魂』は、ただ苦しいことを修行するためだけに生まれ変わってくるのじゃないと思うの。楽しいこと、幸せなことも経験し、刻み付けるために生まれ変わってくるのだと思ってる。あなたの生年月日から見ると、あなたは楽しむことが下手ね。あなたが飽きっぽい性格なのも、あなたの『魂』がいろんなことを楽しんでみたいからなのに、あなたは自分が楽しんだり、楽をしたりするとなぜか罪悪感を感じてしまう。だから、『もっともっと』と上を目指す。そんなに自分を苦しめなくていいのよ。そんなことをしても、あなたの『魂』が幸せになるわけじゃない」


 ――ああ、そうなんだ……

 法子は思う。

 たしかにそうだ。仕事を終えても、自分だけ先に帰るのが悪いことのように思えて、つい人の仕事まで請け負ってしまう。恋人ができても、この人といつまで続くのかとそれが不安でたまらない。


「私たちはね、自分を選んできてくれた『魂』を幸せにしてあげなくちゃいけないの。そのためには、自分を認めたり、誉めてあげることも必要じゃないかしら。よく頑張ったね、って」


 なぜか、法子の目から涙が流れ落ちた。

 ――人前では絶対に泣かないのに。

 それは、法子自身が一番驚くべきことだった。

 ――もしかしたら、もうひとりの私が泣いているのかもしれない……


「あなたはよく頑張ってる。ご褒美にエステに行かれるといいわね」


 

 すっきりとした気分でミスティ・ローズの部屋を出た法子は、階段を上がり青空を仰ぎ見た。

 今日は土曜日。


 ――これからエステに行こう。


 そう思ったのだった。


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