第二話 静江
チリリン、と透き通ったベルの音を響かせて、静江は恐る恐る入っていった。
占いなんて、生まれて初めてだ。
ほんとうは、ひとりで来るにはものすごく勇気が要ったのだ。
だけどこの悩みは、まだ誰にも言っていない……言えるわけがない。
『ミスティ・ローズ』というドアの名前から想像したとおり、まだ若い女の占い師が黒いクロスを敷いたテーブルの向こう側に座っていた。
薄いピンク色のブラウスの上に、黒いレース網のショールを羽織っている。
そのショールについているスワロスキーの玉が、白熱球をきらりと反射させた。
「どうぞ」
占い師は右手のひらを向けて、静江に着席を促す。笑顔はない。
(こういう時は、『いらっしゃいませ』って言うものじゃないの? なんか、偉そうで嫌だなぁ……)
少し憮然としながら、静江は手に持ったヴィトンの大きな紙袋をまず右手の椅子に置くと、自分は左側の椅子に掛けた。
「生年月日だけおっしゃってください」
(ちょっと待ってよ、いきなり?)
まだ話す体勢になっていない。
「え……っと。せんきゅうひゃく……」思考をフル回転させる。「……1986年4月28日」
「お悩みは?」
頭のエンジンがブンブン言って、うるさい。
「かっ、彼とのこと」
「じゃあ、彼の生年月日も言ってください」
とたんに心拍数が倍になった。
――言わなきゃダメ? ……そんなの当たり前じゃん。占いに来たんだから。
静江は自問自答で心を決めると、強気を起こして言った。
「1963年8月3日」
が、占い師は顔も上げなかった。またスラスラと紙に書き留め、二人の誕生日から別の数字を割り出したようだった。そしてふいに静江の顔を見、
「この人は、独身?」
と聞いた。
静江の中で罪悪感がうずく。
「――いいえ。違います」
八木弘。今年四十五歳。二児のパパ。
彼は会社の上司である。
長い時間、同じ仕事を共有することによって、二人の間には急速に愛が芽生えていったのである。もう何度もホテルの一室で体を重ねている――こんなことは、友達にだって言えなかった。
だが占い師は「そうかぁ」と言ったきり、タロットカードの束を掴むと手際よく切り始めた。
不倫なんて、世間ではよくあること。
占い師にしてみれば、何てこともない、ただの相談事なのかもしれない。
だが、まだ二十歳そこそこの静江にとっては大問題なのであった。
まさか、こんな父の年齢に近いような男性に、処女を捧げることになろうとは夢にも思わなかった……。
どちらかというと童顔の占い師は、タロットカードを並べつつ、顔に似合わぬハスキーな声でしゃべり出している。
その声は思ったよりも温かで、最初のぶっきらぼうともいえた印象を、静江は忘れつつあった。
「あなたはねぇ、とてもロマンチストなところがあるわ。本当は現実主義なのに、小説や映画のような恋愛にあこがれて、ついつい甘い罠にはまってしまいがちよ。プライドも高くって人を警戒するくせに、ふとしたことで心を全部許してしまい、コロリとだまされるの。苦労して稼いだお金を好きな男性に貢いで、最後には全部持っていかれるわ。注意してね」
八木もそうなのだろうか。
私は、最後にはだまされるのだろうか。
占い師の指が、ひらりひらりとカードをめくってゆく。
そのカードには、綺麗だがどことなく魔術的なにおいのする絵が描かれていて、静江の興味を引いた。
ヤギの頭をした怪物の前に、二人の男女が鎖で繋がれている絵。
冠を被った金髪の女性が赤い椅子にどっしりと腰掛け、足元に稲穂が揺れている絵。
それから、崖っぷちに描かれた若者と、その足元で吼える犬。
四枚目にめくられた絵には、怖い顔をして片手に剣を持った女性が、天秤を掲げている。
最初の三枚は、静江の位置から見て逆さまで、最後のカードはこちらを向いているのであった。
ミスティ・ローズ(それが占い師の名前だとしたら)は、それからまた何枚かを次々とめくり、途中しばし考える様子を見せながら、これが最後と思われる一枚をめくった。
そのカードは一見したところよさそうな――バトンを持った裸の女性を緑の葉が囲み、四隅に動物が描かれているカードであった。それは静江から見て、こちら向きである。
「綺麗なカードですね」
思わずうきうきと言った。
「これ、いいカードなんですか?」
しかしミスティ・ローズは、「うーん」と唸ると上目遣いに静江を見、小首をかしげた。
「いいカードなんだけど、でも私から見て逆位置になるの。残念ながら」
とたんに我が身がこわばるのを静江は感じていた。
(聞きたくない――嫌な結果なんか!)
「彼は優しい人ね。だから臆病なの。人を傷つけるのも、自分が傷つくのも嫌なのよ」
ミスティ・ローズは指を組み、ふうっと優しい息をつく。
「別れた方がいいと思うわ」
その言葉は死刑宣告のように静江の胸をぐさりと刺し、電気が流れたみたいに頭をしびれさせた。
彼のはにかんだような笑顔が浮かび、静江は咄嗟に、(彼を失うなんて、できない!)と思ったのである。
――彼を失うことは、世界を失うこと。そんなこと、絶対にできない。
「あなたはとても彼を愛しているのね……ほら、この冠を被った女性はあなたよ。愛に満たされているの。でも一方で悪魔が出ているわ。これは邪な愛、奪ってでも自分のものにしたいという自分勝手な妄想にとらわれているの。あなたのことを、『止まり木』としか考えていない彼は、だから戸惑っているわ。あなたの愛情の深さにうろたえ始めている……」
そしてミスティ・ローズはふっと目を上げて、唇を噛む静江を真剣な眼差しで見つめた。
「彼は離婚なんてしないよ。気持ちの弱い彼には、家庭以外にほっとできる居場所が必要だっただけなの。責任という重い荷物を下して、ほっとできる場所が」
そう、「妻と離婚を考えている」とか、「静江と結婚したい」とか、彼がそんなことを口にしたことは一度もない。
かといって、静江の方から彼に、自分のことをどう考えているのか聞くのも怖かった。
「私――彼に出会ったのは間違いだったのでしょうか?」
握り締めた拳の上に、ぽとりと涙が落ちた。
「間違いじゃないの。お互いに必要だったから出会った。お互いにとって、そういう時期だったのよ」
そう言うと、彼女はまたしなやかにタロットカードを切る。ささっと並べ、にっこりした。
「あなたには三年後、素敵な相手が現れます。その人と次の年に結婚をして、二年後に子供が生まれるわ。……うん、大丈夫。多少の喧嘩はあるけれど、幸せに暮らせるでしょう。同い年ぐらいの、とても家庭的な男性よ。この人は逃しちゃダメだからね」
だが静江は半信半疑だった。
(三年後……? 八木さん以外の男性? 考えられない)
その空気を読んだかのように、ミスティ・ローズは目の前のカードをさっと集めると、より声を低くする。
「私は不倫に賛成するわけじゃない。でも好きになってしまったら、しょうがないのよね。理屈じゃないもの。あなたがこの人を愛してしまったのも、ちゃんと意味がある。この世に生まれてきて、楽しい思い出を作るため、女としての幸せを感じるため――結ばれるかどうかなんて、今考えることじゃないわ。いい女になるレッスンをさせてもらっていると考えることよ」
「いい女になる、レッスン?」
「そう。だから『奥さんが憎い』とか、『どうして離婚してくれないの』とか思っちゃ駄目。自己嫌悪も駄目よ。彼に感謝してたくさん愛してもらいなさい。そしていつか卒業なさい」
静江の目から、またポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「私、自分が嫌でした。彼をひとり占めしたくて、でも彼にそんな気がないのもわかっていて、だからすごく恨んで……私、今無理に別れなくていいんですね?」
ミスティ・ローズがはっきりと頷く。ショールのスワロフスキーがきらきらと揺れた。
「あなたには別に運命の人がいる。その人のために、自分を磨けばいいことよ」
今は八木以外の男性は考えられない、だがそれはそれでいいのだと、静江は何となく楽になった。
八木は離婚しない。
三年後には、自分にも運命の人が現れる。
それで十分だった。
静江は澄んだベルの音を響かせてドアを開け、ミスティ・ローズの部屋を足取りも軽く出ていった。