2:目覚めた場所は青い森
背中から水の中に落ちた感覚がして、死んだはずの私は目を開ける。
顎を引けば、自分の手足が見えた。青白く光る水面に浮き上がろうと手を伸ばすが、体が重い。
ゆっくり上に向かう泡を見て、呼吸をしようと焦るが、別段苦しくはなかった。
まあ、死んでるんだし。
そう分かると不思議なもので、無理に動かず、頭を下に向けた。流れに身を任せ、行く先を見る。
次第に周りは闇に包まれて、暗く音のない世界を沈んでいく。
体はもう上手く動かせない。ゆっくりと落ちていく。
暗闇の中、どれほど経っただろうか。
考える時間があると不思議なもので、私は生前を思い出していた。
あの人は、私の愛した夫は、亡くなった後、私の前に再び姿を現すことはなかった。
幽霊でも会いたかったけれど。いつまでも会いに来てくれなかった。
死に際に迎えに来るくらいして欲しかった。
そういえば、あの人は、時間通りに待ち合わせ場所に来れない人だった。仕方ないのかも。
私のお迎えも、きっと遅刻していて…なんてね。
「ゆり!」
間違えるはずがない、底の方から懐かしいあの人の声がする。
それだけで、私の全身は熱を帯び自由になる。
凪いでいた心は揺れ、鼓動が耳の奥で鳴るのが分かった。身体を捻り、下方に向き直った。
潤んだ瞳で必死にその姿を探す。
「あ…あなた…どこ!?どこにいるの?!」
暗闇に伸ばした手の先に何かが触れた。
思わず掴み引き寄せる。
ああ、これは。生前で熊のようと形容されていた、あの人の大きな手。その先に現れるのは大きな体。
思わず腕の中へ飛び込む。
「ゆりちゃん!ごめん、遅刻した!」
「ほんと…に?」
「やぁやぁ、久しぶりだね。迎えに来たよ。」
「…もう、バカね。」
大きな体に抱き込まれてホッとする。
見上げた瞳が鳶色に光って綺麗。
映る私は泣いていた。
溢れる涙を拭う優しい指が懐かしい。
その時、背後から無数の黒い手が私を掴んだ。
首、腕、腰、足と、数を増やし、絡め取るように私を無理やりあの人から引き剥がしていく。
「いやぁ!」
暴れる私を上に向かって引き上げる無数の手。
私は、いつの間にか上から届いた青い光に向かって、背中から浮上する。
下へと手を伸ばす私を、悲しそうに見上げる瞳に胸が詰まる。こんなのってないわ。
「そうか…ゆり、必ず迎えに。」
最後に指を絡ませて繋いでいた手も、遮るように染み出た黒い液体に、滑るように分かたれた。
驚きの顔をゆっくり笑顔に変えて。
「また会えるよ。」
あの人の苦笑交じりの低い声が耳に届いた。
距離が開き、私は上へと引き上げられていく。
涙が溢れて視界が悪い。せめて見えなくなるまでその姿を見ていたいのに。
もう、ぼやけていたあの人の輪郭も見えない。
私は落ちたときと反対に、光の中へ連れて行かれた。
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目を開けると森の中だった。
大木の木漏れ日が視界にかかり、木の葉の影が緩やかに揺れている。
冷たくて心地よい爽やかな空気と、周りから聞こえる鳥の声や風の音、葉の擦れる音など様々な音が、人の生活する空間とは違う印象だ。
苔生した周囲は神秘的で、深い森の奥といったところ。
近場には小さな泉があり、耳障りよく、コポコポと湧く音がしていた。下草の、柔らかい苔の絨毯のおかけで、地面の冷たさを感じることもない。
「喉渇いたわね。」
周りを見回し、立ち上がろうと体に力を入れる。
違和感を覚えて体を見下ろすと、夢見心地でボーっとする頭が一気に覚醒する。
「…えぇ、ウソでしょ。」
鹿のような蹄を持った足。
でも、フサフサの長い尻尾や関節部に飾りのように生えている黄金の毛は、鹿のそれではない。
加えて、カラスの濡羽色をしたビロードの体に、金の模様が鱗のように入り、腹や肩には赤い飾り毛も見える。
少なくともこの体が人間ではないのが分かった。
とにかく、時間をかけて立ち上がり、慣れない体を引き摺りながら泉の傍の水溜まりを覗き込む。
映った姿はさながら…
「これ…麒麟じゃない?」
喉の渇きも忘れて見つめた自身の顔は、爬虫類のような目に、赤い角と突き出た鼻先を持つ、某飲料メーカーのロゴにもなっている、アイツだった。




