異世界で幻獣しませんか?
1:ある女性の最期の日
「おかぁさん。風が気持ちいいわねぇ。」
その間延びした声は聞きなれた娘のものだった。優しい響き。愛の詰まった余韻。昔から変わらない。
白い部屋に揺れる白いカーテン。
「…そうね、まだ暑いものね。」
次第にゆっくりとなっていく自分の鼓動が分かる。正直、息をするのも億劫になっている。あぁ、もうそろそろ逝くのだなと、窓からの涼しい風を受けながら思う。
娘が傍らの椅子に座って、ベッドに身を乗り出すようにして覗き込む。
私の一方の手を取り、空いている手で頬を優しく撫でてくれた。
柔らかく温かい綺麗な手だ。いきている、手。
娘は、毎日通えるのが私だけなのと謝るが、私はそれで構わないのよ、と言う。
最期の時をゆったりと優しい時間にしてくれた運命に感謝を。
体は毎日清められていたし、白髪で真っ白になった長髪も横になるのに邪魔にならないように耳の下あたりに結わえてある。
毎日眠っている時間が増えていたが、娘は、来るたびに、花を換えたり読書や書き物をして時間を潰して付き合ってくれた。起きているときは話し相手になってくれるし、床擦れをおこさないように、体勢を変えたりもしてくれる、できた娘だ。
毎日とても気分が良いものだが、自分で自分の体が思うように動かない歯痒さと、娘にかけている負担を考えると悲しくもなる。
自分は両親を早くに亡くしていたが、長生きしてゆっくりと死にゆく様を、愛しい娘に見せていると思うと心苦しかった。笑みを浮かべて愛しい娘を見つめる。
別れは済んでいる。
それほどの時間はあったのだから。
ふと外に視線を投げる。
綺麗な夕暮れ時、雲1つない橙色の空が、カーテンの合間より見えていた。
病院の真っ白い天井を見つめて、これまでの人生を振り返る。
貧しい田舎ではあったが、家族に囲まれ、大自然の中を駆け回り、飢えることなく過ごした幼少期。
山を1つ越えたとなり町にある学校に、幼馴染みの2人と、3人仲良く手を繋いで通った小学校。
山を越えて帰ってきた後も、過疎で廃校になった地元の学校で、これ幸いと暗くなるまで3人で遊んだっけ。さっちゃんとたかくん、どうしてるかしら。
高校から下宿をし、運良く大学に進学でき、そこで旦那と出逢い、結婚した。
子どもを産み、育て、その子たちが手元を離れてからは、それまでどうやって自分の時間を過ごしてきたかと、途方にくれた。
ようやくできた自分の時間をどう使えば良いか分からず、ぽっかりと空いた心の穴にもやっと慣れたと思ったのも束の間、娘が未来の旦那様を連れて報告に。息子が未来の嫁を連れてきて。
その時の事は今でも鮮明に覚えている。
孫ができ、忙しい日々に逆戻り。そのうち曾孫も生まれ、沢山の家族に囲まれてあっという間。
平凡だけれど幸せだったと、もう逝ってもいいと、そう思えることの何と素敵なことか。先に旅立った夫に土産話もできたし、思い残すことはない。
私は最後を悟り、名残惜しそうに帰り支度をする娘を呼び止めた。
手を握る。
「ありがとう、幸せでした。」
次第に重くなる瞼と、遠くなっていくヒグラシの声。
瞼の下から感じられる光も、次第に闇へと塗り潰される。
その間際。
「さようなら。」
私の世界は閉じた。