7歳の夢
それは、あまりに無慈悲で理不尽な人災だった。
突然寝間着のまま兄に引きずられるように屋敷を飛び出せば、外では次々と家は焼かれていて、私の手を引っ張って走ってくれている兄の掌は熱く、寒くもないのに異常に震えていた。
どこからともなく悲鳴や怒号が飛び交い、劈くように家が破壊される音に恐怖し、夜なのに熱くて赤く眩しい外の世界で、子供の私には何が起こっているのかさっぱりわからなかった。
剣や斧、はたまた私が知らない武器を振り回して下品に笑いとばす大柄な男たちは、同じ人間には見えなかった。
町の外へ駆け出すも空しく、あっさりと子供の私たち兄妹は男たちに高く高く摘まみ上げられる。
互いに固く握りしめていた手の感覚が消え失せて、私は不安で泣き叫ぶ。
視界の先では兄が剣を取り上げられ、みぞおちに重い一撃を喰らい、口から血を吐いて気絶していた。
いやあ!いやあ!と叫ぶたびに男たちの気持ちの悪い笑みは深くなる。
泣き叫ぼうと、離してと訴えても男たちは喜ぶ。私はどうしたらいいんだろう。
「■■、■■■■■。■■■■■■■■■、■■■■■■!」
男の言葉は汚すぎて、私には翻訳できなかった。
ただただ震えていると、血の滴る剣の切っ先を口の中に含ませられる。
「閉じろ」
首を振ることも、閉じることもできずに震える歯がカチカチとその剣に当たって音を立てた。
「お嬢ちゃん。イイコだからよぉ~、楽しませてくれや。おら、おら!■■■■■■!」
ズルズルとどんどん剣が口の中へ、すぐに鋭い痛みが走り始め、喉にも痛みが走り始めた。
「お~、■■■■■■、■■■■■!」
いやだいやだ、抜いて。口の中が鉄の味でいっぱい。いたい。にいさま。
涙をぽろぽろと零すと、ずるりと剣が抜かれる。
抜く際にまた痛みが走ったので、また切れたのだろう。
でも想像していたほどの痛みが来ないことに少なからずほっと息を吐く。
男は、私の唾液と血で汚れた剣をべろりと舐めていた。
ひっ、と声を上げると、身体を宙でぐるりと回転させられ、男の顔がのぞきこんでくる。
「その顔、■■■■■■。ああ、ああ。口の中も切れちまって可哀そうに」
私はいま、何をされているんだろう。気持ちが悪い。本当に吐き気がする。
男の舌が切れた口内をわざと刺激するように動き回る。
いたい、いたいやめて。やめて。嫌だ、嫌だ。気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い、
生理的でもなく、涙がボロボロ、ボロボロと散っていくのがわかる。
助けて。助けて。お願い。助けて。
ぐらりと、突然口が解放されて掴まれていた感覚が消え、ふわりと何かに包まれる。
「下種が。後悔しても許されないぞ」
どさっと大きな何かが床に沈む。
私はしばらくできなかった息を求めて大きく吸い込むと、息がどこかで止まって吸い込めなかった。
私はパニックになり、喉を押さえる。
「!喉を絞めるな。ゆっくり吐き出せ」
視界がぐるりと回り、背中をトントンと叩かれる。
ぐぐぐ、と何かが込み上げてきたので吐き出すと、それは大きな血の塊だった。
「?!が、あっ」
「大丈夫だ」
「うぇ、え」
それは口内で切れて出た自身の血だったのだろう。
出してしまえば、素直に入ってくる空気に安心する。
しかしまだ中に詰まっているような気がして、弱弱しく咳をするが、効果は無い。
「…悪い。本当にすまない。我慢してくれ」
口を塞がれたと思った瞬間、喉の奥にあった異物が吸い上げられる。
栓を抜いたように異物が喉からいなくなると、目の前で見知らぬ青年が口から血を吐きだしていた。
「息は、出来るか?もう何も詰まっていないか」
私は息絶え絶えに必死に頷く。
「そうか。良かった」
青年は心底ほっとしたとでも言うように、笑って見せた。
「お前らの父上や母上もきっと救ってやる。だから、兄貴とここで待っていられるか?」
「…はい。私がにいさまをまもります」
きょとん、と青年は月色の双眼を瞠ったが、何か眩しいものを見るかのように細めた。
そして目尻に皺を作り「頼んだぞ」と私の頭を撫でて、走って行ってしまった。
しばらくしてすぐに、煤だらけの母上と左肩から血を流す父上と共に青年は約束通り戻ってきてくれた。
私と未だに意識の戻らない兄は両親に掻き抱かれ、みんなでボロボロと涙を流した。
「本当に、本当にありがとうございます。貴方は…」
「すまないが、わけあって身分は明かせない。でも、間に合って本当によかった」
「そうですか…しかしなんとお礼を言えばいいか…!」
「お礼など。お礼より素晴らしい物を見せてもらった」
そう言って青年はにかっと、私に笑いかける。
…?私は何かしただろうか。
「よく兄貴を守ったな。すごいぞ嬢ちゃん」
がしがしと勢いよく撫でられるもんだから、私の頭はぐわんぐわんと揺らされる。
「すぐにプラナリアの騎士団が来るはずだ。そこで保護してもらうのが良いだろう。…じゃあ急ぐのでこれで」
「殿下!お急ぎください!」
「わかっている」
誰か知らない男の人に呼ばれ、馬に軽々と飛び乗る青年に、私はふらふらと導かれる。「ハルシア!?戻りなさい!」という父の静止の声もずいぶん遠くに聞こえた。
「おうじさま」
私がついそう口を滑らすと、青年はまた目を瞠る。
そして面白そうに炯々と月色の瞳を光らすと、もう一度馬から下りた。
「殿下!?何を!」
「うるせえ。先に行けシャンブレー」
青年は大股で私に近づくと、膝をつき、私に目線を合わせた。
「…嬢ちゃん、あんたきっと別嬪さんになるぜ。もう10年経ったら俺が嫁に欲しいくれえだ。あと、さっきのキスはノーカンだ。クソ野郎のも、俺のも、どっちも必ず忘れろ。覚えていていいわけがねえ」
「はい」
「でも」
青年は私の前髪をかき分け、そこに口づけを落とす。
「この口づけは忘れるな、ハルシア」
子供の私にはどう違うのかわからないけれど、なんとなくわかったような気もした。
「はい」
「ん、いい子だ」
そうして、青年は再び馬に飛び乗り、闇に紛れてあっという間にいなくなってしまった。
あっという間すぎて、夢だったのか現だったのかわからないほどだったけれど、確かにこれが、私と彼の出会いだった。
.