兄の眼差し
太陽が姿を眩まそうとするこの時間帯、この石畳の坂はガーネットに染まり、燃えるようにキラキラと輝く。
私はそんなこの街の景色が好きだった。
でも今だけは、そんな綺麗な物見せてくれなくてもいいじゃないか。
どうして相も変わらず当たり前のようにそこに存在していられるのだ。
知らない顔をして、暢気に伸び始めた店先のコスモスに水やりをするおばさんにさえ嫌悪感を抱いてしまう。
どうして、彼を失っても世界は平和に回っていられるのだ。
「…ル、ハル。大丈夫か」
「…ああ、聞こえているよ」
「やはりシノノメ様に何かされたんじゃないのか?行きとはまるで別人じゃないか」
「ううん、シノノメはとても優しい女性だ。相手の気持ちを最優先に考えてくれたよ」
「そうは見えないが…」
「本当さ。本来なら俺なんかこの国に居られなくなっていたかもしれないのに、いや、処刑されていたかもしれないのに、助けてくれたのは他でもない彼女さ」
「処刑って…お前のような清廉実直の塊のような奴が一体何をしたんだ」
「悪いが言えない。…アル、たとえ君でも言えないんだ」
シノノメと約束したこと。それは、私の罪を完全に消すにはたとえ肉親でも自分が禁術を使っていたことを明かさないこと。
要するに、禁術を使っていたのを知っているのはシノノメ(あとディークさん)のみ。彼女が口を割らない限り私の罪は公になることはないのだ。
「いやまあハルとは今日初めて会ったばかりだし、そんな重大なことをホイホイ明かされても困るさ」
ははは、と笑う兄はもうすっかり昔の彼に戻ったようだった。
そして私の罪をなかったことにしてもらう代わりに、城下での“ハル”は今日で消える。
明日からは私はシノノメのもとで“侍女のハル”になるのだ。
「まあいつでも、悩みを聞くだけならできる。あまり思いつめるなよ」
そう言いつつ、兄は兄よりも背の高い私の頭を撫でる。
少し指先で掻くようにする仕草は、小さい頃から変わっていない。
「もし、」
「うん?」
「もし。大切な人がもう既にいないのだと、何年も経って今更知ってしまったら、」
ああ、私はなんて馬鹿なことを。と口を滑らせてから気づく。
兄だって妹の私を探している。そんな不安定な兄にもしも、の考えたくない問いをしてどうする。不安にさせてしまうだけではないか。
「いや、今のは忘れてくれ」
「見つけるまで、諦めない。」
兄が立ち止まり、私を真っ直ぐ見つめて凛と放つ。
「自分で確認するまで、噂なんかに惑わされたりしない。信じるだけだ」
「っでも!もう事実として知れ渡っている。もう会えないところに行ってしまったんだ」
自分で初めて“彼の死”を口に出してハッとする。
「もう、あえないのですか?」
ぐしゃり、と自分の顔が歪む。
兄が困ったように眉根を寄せたが、そこからは私に自制なんてなかった。
「悲しいです。悲しくて、悲しくて、もうどうしたらいいのかわからない。
でも、無駄じゃなかった。あなたを探して旅した1年半、無駄足なんかじゃなくて、すごく楽しかった。
つらいことも泣きたい時もたくさんあったけれど、あなたの姿で旅が出来たから、背の低い私が見えない景色が見れた。運動神経がずば抜けて秀でていない私だったら、あの時鳥に襲われていた子供を助けることができませんでした。気づけばいつもパワーもらっちゃっていたんですね。
お礼が言いたい、言いたい。とここまで来ましたが、あなたの事を探しているうちに伝えたいことが増えすぎちゃった。いくらお礼を言っても言い足りない。
出会いこそ一瞬でしたが、あなたに貰えた力はこんなにも強くて、温かい。
願わくばもう一度だけ。そうは思えど何をどうしても、もう直接お礼を言えることはないんですね。
欲がない、と散々言われてきた私だけど、私はこんなにも貪欲です。無理だとわかっていてもどうしても会いたい。どうしてもあなたに会いたいです。
聞き分けのない子は怒られるでしょうか。でも、あなたが目標で、道しるべでした。会えないなんて嘘だ。嘘だ。…嘘だ。
ゼトラスさん、あなたの名を知るのに7年かかりました。あなたを探し出すまで、あと何年かければいいんでしょうか。
ああそうか、探し出そうとしようが、もういないんですね。今度こそ無駄足になってしまいますね。
これからどうしたらいいんだろう。
ずいぶん身勝手な話ですが、あなたにお会いすることができたら、無理を言ってあなたの部下にでも何でもあなたを支える何かになりたかった。
あなたの役に少しでも立てればと思っていたんです。
信じていればきっといつかお会いできると思っていたので、いつ会えてもいいように、いつも全力で自分ができる最善を尽くしてきたつもりです。あなたに胸を張って会えるように。
そんなあなたがいなくなってしまった今、置いてきてしまった家族になんていえばいいのでしょうか。この旅は無駄になってしまったんです。ああいや、無駄なんかじゃない。弱音なんて吐いてはいけない。でもあなたに会えないとわかった今、本当にどうしたらいいのかわからない。
会えないとわかっても、会いたい気持ちがなくなることはありません。
ゼトラスさん、会いたかったです。いえ、直接お会いすることが出来なくても、なんなら、一生お会いすることが叶わなくても良かった。あなたがどこかで生きていてくれたのなら。
あの時私を助けてくださったように、どこかで誰かにまた救いの手を伸べているんだろうな。そんな想像ができて、素敵な奥様を娶っていつか温かい家庭を築いて、素敵な人生を送ってくだされば、私にとってこの上ない幸せでした。
そんなありふれた幸せも、もう叶わないのですか。
悔しいです。ゼトラスさん。…悔しいです」
彼の姿で、ボロボロとみっともなく涙を流すのはあまりにも不作法である。
そんなことにさえ頭が回らないほど、私は参っていたらしい。
そんな私に兄は、再び掌を頭に乗せた。
「お前、本当に俺の妹にそっくりだ」
驚いて兄を見れば、きょとんと眼を丸くし、本当に驚いたと言わんばかりの顔をしていた。
「俺の可愛い可愛い天使は、いつも前向きで大切な言葉を与えてくれるんだ。でも、自分が不安になった時はそんな時こそいつも前を向いていようと思う反面、不安でどうしようもない弱いところも同時にあふれ出てきてしまう。ネガティヴとポジティヴが鬩ぎ合うんだ」
幼い頃私は酷い泣き虫だった。泣いて泣いてしょうがない私を、いつも慰めてくれたのは他でもない兄である。
あの時と同じように、兄はエメラルドを細め、優しいまなざしを向けてくれた。
「酷く泣くんだこれがまた。なかなか泣き止まない。俺がなんと言葉を紡ごうが聞き入れてくれなくて、しまいには泣き疲れて眠ってしまう。でも不思議なことに、いつの間にか自分なりの答えを見つけ出して周りも巻き込んで。必ず解決してしまうのさ。本当にアイツはすごい。あんなに強くてたくましい綺麗な心を、こんなに広い王都へ来ても、俺は屋敷にいた小さくて華奢な存在のほかに見たことがないんだ」
だからお前も、俺の自慢の妹に負けてられないよな?といつもの柔和な笑顔にハッとする。
「死んだと聞かされてもそれこそただの噂かもしれない。お前の大切な人間を殺すも生かすもお前次第だろう。簡単に諦めていいのか」
「…んな、わけ、ない」
「だったら、俺よりもでかい図体で泣くな。喚くな。もう泣き言は良いだろう」
「…ああ、悪い。助かったよ」
「はは、お互い様だ」
それから兄に店まで送ってもらい、事情を説明し、大変急ではあるが明日の朝には店を出ていくことを店長に告げた。
あまりにも突然なので皆かなり戸惑っていたが、店長は理解力のある人だ。渋々ではあるが理解を示してくれた。
あれやこれやと日が沈む前に近所にだけ挨拶を済ませ、荷物をまとめていると日はすっかり沈み、たくさんあった今日の出来事を走馬灯のように思い出しつつ、疲れ果てた私は寝台に吸い込まれていった。
そして、私はあの頃の夢を見る。
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