家出
私は小さい頃王子様に会ったことがあるの。
と言えば、友人は鼻で笑い、幼馴染はまたかと眉を顰めた。
本当だよ?私が7歳の頃、街一帯が夜襲を受けて逃げているとき、かっこいい男の人が颯爽と現れて私を助けてくれたの。
吊り橋効果?なんとでも言えばいい。当事者の私が夢じゃないのかと思うくらいあっという間の出来事だったけど、確かに、青年は悪漢から私を助け、一家を救ってくれた。
あれからあの精悍な顔立ちをひと時も忘れたことがない。
広く逞しい背中と、優しい目尻の皺。頭に乗った剣だこだらけのごつごつした掌。
そして。
幼いながらに、一目ぼれだったのだ。
あの優しいぬくもりが忘れられなくて、いつか彼にもう一度会いたい。その思いは年を重ねるにつれ膨れ上がっていった。
ある日、学舎からの帰り道、どんっと見知らぬ中年のおじさんにぶつかってしまった。
コソコソと明らかに悪いことしていますよという雰囲気でキョロキョロしているもんだから、嫌でも視界に入っていたのに。
おじさんは小さな私に気が付かなかったようで、まさかの私めがけて走ってきて勢いよくぶつかったのだった。
その拍子に彼が抱えていた荷物をばらばらと散らばる。
いてて、と転んだ拍子に打った腰をさすりつつ、さすがに悪いことしたかもと拾うのを手伝おうと散らばった紙に手を伸ばせば、「触るな!!」と大きな声を上げられてしまった。
突然の怒声に私は委縮し、さすがに何事かと周りの人が集まってくるので、おじさんは顔を真っ青にし、慌てて荷物を掻き集め、謝りもせずに走り去っていった。
何だったんだろう。手伝おうとしたのに、怒られてしまった。
ぽつんと一人残され、こんな体験は初めてだと私ハルシアはしゅんと肩を落とす。
落ち込んでいてもしょうがないので、散らばった自分の教科書やノートにいそいそと手を伸ばした。
「うん?」
教科書やノートに紛れて見覚えのない本のページを切り取ったかのような紙が落ちている。
おそらく先ほどのおじさんが落としたものだろう。しかしもうおじさんの姿を捉えることは出来ず、ならまあ良いか。と、今度会ったら返してあげようという思いは一応持ちつつ、その紙を一時的に預かることにした。
荷物を抱えて歩きながら紙切れを読んでみると、どうやらある魔法について記述されているようだった。
まだ魔法学について深く勉強しているわけでもない私が解読できるわけもなく、読めないとわかったからには紙切れへの興味は失せていた。
家に帰ると、一応なくさないようにと自分の宝物を補完する缶の中に小さく折りたたんで記憶の奥底にしまった。
そして再び私が紙切れを広げた時は王子様というべき彼に出会ってから早4年。
誕生日に幼馴染からもらった髪留めを勿体無くて使えず、大切なものとして宝物入れの缶に一時的にしまうために開けた時だった。
その頃にはある程度文字も読めるようになっており、ようやく紙切れの中身を知ることができたのだ。
紙切れの内容は、鏡の魔法についてだった。
いうなれば変化の魔法。自分が顔を知っており、且つ直接接触がある人間に鏡のように瓜二つに変化することができる魔法だった。
こんな面白おかしい魔法もあるんだなあと感心していたが、ふと気づく。
この魔法を使えば、憧れのあの人にもなれるのか、と。
それからはほんの出来心だった。いつかまたきっとあの青年に会いたいと強く強く願うばかり、たとえ中身は自分であろうともう一度あの精悍な青年に鏡越しでも会いたかったのだ。
私はこの鏡の魔法を習得するため、いつになく魔法の授業には熱心に耳を傾け、成績は中の下でありながらも必死にかじりついた。
見よう見まねで独学であったが、いつしか術は成功するように。
最初は母、次に学校の友人。兄に祖母、幾度にも練習を重ね、1年後ようやく決心をつけて青年の姿に化けてみた。
あの時の武骨な掌が目に入った瞬間、成功したのだと、そして恐る恐る鏡を覗いてみてみれば、そこには一時も忘れることがなかった憧れの顔が視界に飛び込んできた。
ああ、彼だ。と熱い何かが込み上げてきて視界が歪む。懐かしくも嬉しくて、彼の顔でつい涙を零してしまい、こうやって彼も泣くときがあるんだろうかと齢12歳にして微かな母性のような感情を抱いたことに少し笑えば、鏡の中の青年は目尻に皺を作った。
術を発動したいと思ったのは、一度でいいからどんな形でも彼に会いたいと思ったからではあったが、それが私の長年培った熱い想いを燻らせ、導火線に火をつけた。
青年への思いをどうしても断ち切れず、私はやはり本物の彼に会いたい。会いに行こう。名前も国もわからない彼だが、きっと探し出して見せる。
恋に一直線な私は青年を探す旅に出ることを決意した。
6つも歳の離れた兄は、いずれこの子爵家を継ぐために様々な教養を幼い頃から培ってきた。
文武両道まさに知勇兼備であるのに、残念ながら超のつくシスコンの兄が期間限定ではあるが、騎士になるために家を立ったのは、私がいつか王子様探しの旅に出ることを決意してからその半年後の事であった。
「長期休暇のたびに必ず帰る。きっと帰ってくる。間違っても戦場で果てるなんてことはお前に誓って絶対にしないし、お前を悲しませるようなことはしない。だからお前も知らないところで変な虫にたかられてもついて行ったりするんじゃないぞ。学校が終われば日が暮れる前に必ず帰ること、もし心がうっかり心を奪われるようなことがあってもそのクソガキが俺より剣術に秀でて立場も身分もしっかりしてて俺より背が低くてでもお前よりは高くて仕事より何よりお前を大切にできるような奴じゃないと認めない。泣かせることや心配させるなんて以ての外だ殺してやる。だから必ず相談すること。もとよりまだ12歳のお前には結婚なんてまだまだ早すぎる話だお前を溺愛する父上がそんなことするわけないとは思うがもし万が一縁談なんてものが転がり込んできたとしても」
母様に無理やり馬車に詰め込まれた兄は馬車が動き出してもその口を止めることなくハルシアへの愛のある小言を語り続けたが、いよいよ見えなくなるという時に「俺のハル!世界で一等愛している!元気で!俺がいなくて寂しくて泣いてしまったら必ず涙を拭いに飛んで行くからな!」と最後まで元気な姿を見せつけていった。
騎士になれば命を脅かされるかもしれないのに、自分の兄ながらまっこと緊張感もなく元気だなと感心しつつ呆れ半分、やはり寂しくて少しだけ涙ぐんでしまった。
母上は息子が旅立ってしまって寂しいはずなのになかなか旅立たないもんだからやっと旅立たせることができて安心し疲れ切っていた。
そして子爵の父が隣国まで出張に行けねばならなくなったのはそのつい1か月後だった。
愛する娘が懐いていた兄がいなくなって(少し)しゅんとしていたから代わりに一層可愛がってあげようと奮闘していた父だが、己もまた旅立たねばならぬ身になったと申し訳ないと涙ながらに報告してきたときはそれはもう罪悪感に駆られた。仕事だから仕方ないだろうと物わかりよく割り切ってしまっていることに。
父の旅立ちはさすが親子と言うべきか、それはもうデジャヴの領域を超してあらゆる愛の言葉を囁きこれまた馬車に母が無理やり押し込んでも紡がれる言葉は止まらず、見えなくなっても声が轟いていた。我が家のメンズの行く末が心配になっていた頃、母はこれまた別れに悲しむよりも無事夫を出立させることができたことへの達成感と肉体への疲労感に額を押さえていた。
直後に母と飲んだカモミールティーは一段と美味しかったような気がする。
さて、我が家の厄介なメンズがいなくなってからは屋敷の中はずいぶんゆっくりと時間が流れるようになった。何かと後ろから抱きつきつむじにキスを降らせる兄もおらず、珠のように撫でくり回し頬に髪に手の甲にと愛情表現してくる父もいないので静かで、寂しいものだった。
あんなに鬱陶しいと兄と父の尻を蹴りあげていた母もやはりどこか寂しそうで、母とお茶をする時間が倍以上に増えた。
近所の未だに私よりも背の低い幼馴染の男の子も私がどこか元気がないからと遊びに来てくれる時間も増えた。
少しだけ環境が変わったが、私の決意は変わらなかった。
着々と幼い頃会った青年に、王子様に会いに、私も旅立とうとしている。
私は恋に一直線ではあるが、幼いながらに無鉄砲というまでこの「家出」に対して安易に受け止めていたわけではない。
子爵令嬢といえど護衛もつけず外に出るのは、非力な少女である自分にとってどれだけ危険であるかある程度わかっていたつもりだ。
見たこともなければ遭遇したこともない盗賊や奴隷商人などの悪人も世の中に蔓延っていることも知っていたし、時と場合によっては無知な自分が騙されたり陥れられたりすることもあるだろう。
外は危ないから。と何度言われ、悪の存在を本で知り、起こった事件を幾度新聞で見かけたことか。
それでも。周りの人間もきっと彼も見ているであろう綺麗で汚い世界をこの目で見てみたいと思ったし、やはり彼に会いたかった。
この屋敷でかくまわれ、令嬢として座って微笑んでいるばかりでは彼に会うどころか世界は狭いだけだ。
そう、ハルシアは頑固だった。
厄介な父と兄がいないこの時を逃しては、チャンスは次いつになるかわからない。
狂ったようにサバイバルの知識について書かれた本を貪り読み、ナイフなどの生きていくうえで必要であろうものをちょっとずつ屋敷の各所からくすねて荷物をまとめた。さすがに金はくすねることは憚れたので、こっそり自分の物を換金して集めた。割とすごい額になってビビッている。
12年寄り添った実家を離れることは心細いし、外に出るのも一人な上、別れを世話になった誰にも伝えることができないのだ。
せっかく家出しても連れ戻されることだけは避けたかったゆえではあるが、それはずいぶん勇気がいる決断だった。
次に会う時生まれて初めて大目玉をくらうことになるのは容易に想像できるが、きっと成し遂げてみせると強く強く誓って。
「おや、エレーヌ、買い出しかい?」
門前を箒で掃く執事長のじいやに声を掛けられて汗が流れるが、ここが正念場だ。私は今侍女のエレーヌなのだ。彼女になりきらなくては。
「はい。最近町で美味しい菓子が流行っていると聞きまして。なんとも色鮮やかでサクッと口の中で溶けていくそうな。今日の奥様とお嬢様のおやつにと思いまして」
「そうかい。それはいい。気を付けていくんだよ。」
「はい。失礼します」
完璧だ。私はなんて便利な魔法を覚えてしまったんだろう。夜中にコソコソ隠れて脱走するわけでなく、あくまで堂々と昼間に正門から家出するのである。ドキドキするが、あっさりと難関を突破したできたことに小さくガッツポーズをする。
「エレーヌ!お待ちになって」
凛と澄んだ毎日聞き続けた声にドキーン!と心臓が跳ね上がる。
「…かあさ、いえ、お、奥様?どうされました?」
ばれたのかと心臓がバックバクと大太鼓のようになるができる限りの平静を保ちつつ振り返る。
「町に行かれるのよね?それなら新しい便箋を買ってきてくれないかしら。いつものとは雰囲気の違うものでルークに送りたいの」
「父様にですか。わかりました」
「え?」
「え?……ハッ!ち、違います!失礼いたしました!旦那様への便箋ですねかしこましました!今流行りの、それはもう素敵な便箋を見つけてきますので!!では!」
きょとんと執事長と一緒に目を点にしたお母様を置いて町へ駆け出す。
まずい。これはやってしまったんじゃないか。これは一刻も早く町を出なければ!母様に勘づかれる前にさっさと馬車に乗ってしまおう。
ハルシアの姿が見えなくなった頃にようやく執事長と母はそれぞれその場を解散したが、ものの10分後に本物のエレーヌが彼女の部屋を訪問し、「今から町に買い出しに行くので必要なものはないか」と尋ねてきた。
「え?」「はい?」と2人は互いに状況が読み込めず、首をかしげた。
エレーヌが母の次にハルシアの部屋を訪問すれば、そこには誰もおらず、小さな机の上に「母様へ」と書かれた手紙を発見したのは、ハルシアが正門をくぐってから15分後、追いかけられるかもしれないと慌てて馬車に乗り込み町を出たのと同時刻だった。
こうしてハルシアの小さな身にしては思い切り過ぎた冒険が始まった。
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口調がばらばらだったので一括しました。ついでに改行も16.05.18