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第十五話『蜃気楼』

 ひらひらと風になびく、深紅の髪の男との距離は、約5m。

 いよいよ真上に上ろうとしている太陽の元、私は、ジリっと屋上の床を踏みながら後退し、距離を取ろうとした。

 ……だが、それと同時に男は口を開き、ボソボソと何かを言った。

「……~~~~………~~……」

 距離の関係上、しっかりと聞こえはしたが、知らない言語で紡がれた言葉は、理解出来ない。

 ……どうする? 屋上唯一の出入り口は、あの青年が塞いでいて、戦いは回避出来そうもない。……自然と真空霊管を握る手にも力が入る。

 ……戦えるの? 私……

 さらにジリジリと後退していく中で、ボソボソと何かをしゃべり終えたらしい男が、今度はこちらを向き、口を開く。

「無駄な抵抗は考えないことだ」

 低く、脅すような声で発せられたその言葉は、日本語だった。

 後には、風になびくコートの奏でる、バサバサという音だけが残る。

 ……無駄な抵抗、ね。

 ……これで、もしかしたら、この人は敵じゃない、という希望は打ち砕かれたわけだ。

 ……しかし、やってみなけりゃ無駄かどうかわかんない! とは言えないな。この状況じゃあ。

 ……なんとかして、“有効な抵抗”と考えないと……

 私にできること……

「……あなたが私に何かするというのなら、私は自分で、自分の命を絶ちます」

 結局は、以前も使った、はったりの自分人質しか思いつかなかった。水月さんには有効だったけど、どうだろう?

 視線を上げれば、私の言葉を聞いた男が、明らかにお怒りだった。視線は険しくなり、口角は下がっているようにも見える。

 しかし、顔で怒っているだけで、何かしてくるわけでも、何か言い出すわけでもない。

 ……二人の間を沈黙が包み、しばしの間、にらみ合う。


 …………なんだろう? 何かがおかしい。


 私が、異変に気付いたとき、同時に、握り締めていた真空霊管から、声のような、思いのような、そんな何かが流れ込んできた。

『伏せろ! ソラ!』

 言われて、半ば転ぶようにしゃがみ込むと、私の頭上を、何かが掠めていった。視線を少し上げて確認すると、それは……

「……腕?」

「チッ…… 気付いたか……」

 男は、私の目の前に居て、恐らくは、私に首が在ったであろう位置に、右の腕を突き出している。

 ……何故? さっきまで、5m先にいたはずなのに……

『そのまま横に飛べ!』

 叫びに駆られて、わけもわからないまま、しゃがんだ姿勢で横に飛び出す。飛んだ後に、私のいた空間を見れば、悪魔のような鋭く尖った靴が、通過している。

 ……容赦の無い蹴りだな。いや、当然か。

「……面倒な奴だな。……本当に面倒だ、殺さずに捕らえるというのは」

 ごろごろと床を転がった私が立ち上がったとき、私の目の前で、男の姿が、まるで空気に溶け込むが如く掻き消えた。

 どうゆうこと? 自分の姿を消す、そんな能力? 相変わらず、理解は追いつかず、きつく結ぶ左右の手と、額や首元には、汗が滲んでいた。

『あれはただの目くらましだ! 出口に向かって走れ!』

 ……目くらまし? そういえば、こういうときって確か、敵が背後にいることが多いような……

 気付くが早いか、一直線に走りだす。後ろでは、バン! という、重いものがぶつかったような激しい衝撃音がし、建物全体が、微かにに揺れたように思う。

 チラッと振り向けば、2~3mに渡って砕けた屋上のタイルの中心、巻き上がる粉塵に覆われながら、地面に拳を付き立てている男の姿が見えた。

 ……あれは恐らく着地姿勢。後ろじゃなくて、上からくるパターンか…… しかしまあ、なんにせよ、危なかった。

 ……威力を実感したことで、噴出す冷や汗の量が、さらに増したように感じる。

 全力全開の渾身の力で疾走する私は、そのまま後ろを見ることを止めて、屋上の出入口の扉に飛びつく。だが……

「……え? なに……これ……」

 飛びついた扉には、取っ手がなかった。いや、あるのに掴めない、というのが正しい気がする。そこに見えているのに、触ろうとすると、手は取っ手をすり抜けてしまうのだ。

 ……当然の如く、扉は開けられない。

 背後から、言いようの無い嫌な気配が近づくのがわかる。もう、首や背中は汗まみれだった。

 私が焦れば焦るほど、ポタポタと、汗のしずくが床のタイルに消えていく。

 ………………暑い、のか?

 ……鼻の頭から落ちた汗が、私に当然のことを気付かせてくれた。

 思えば、五月末にしては、異様なまでに暑いように感じる。いくら日差しが強い屋上とはいえ、風が無いくらいでここまで暑くはならないはずだ。

 だとすると、これは…………そうか、そういうことか。

 バン! 不意に、私の目の前にある、扉が開け放たれ、男子生徒が二人、屋上に出てくる。

 一人は、男にしてはやや長い黒髪に、眼鏡を掛けた、細身の男性。

 もう一人は、坊主から少し伸びた程度の短髪に、広い肩幅を持った、大柄な男性。

 ……昨日もお世話になった、図書委員の二年生、孔雀先輩と歩擲先輩だった。

「大丈夫だったかい?」

「……屋上で変な霊力の動きを感じて見に来たら、なんスかこの暑さ……」

 二人は、目の前にいる私に向かって、そう言った。だが、その言葉は、少し離れた場所から聞こえている。

 ……やはり、間違いない。

 返事もしないまま、先輩達の声のする方へ、走り出す。私の居た場所では、また何かが砕けているようだが、今度は、振り返ることはしない。

「……おかしいッスね、何か居るはずなのに、姿が見えない」

「……確かに、異様だな……」

 今現在、私からは姿の見えない先輩達は、立ち止まっているようだ。そのまま、声のする場所へたどり着くと、先輩達の姿と、本物の、出口が見えた。

 同時に、先輩二人にも、私の姿が、違和感のあるように写ったのか、眉をひそめられる。

 ……一から十まで説明したいが、時間が無い。正確に伝わるかどうかわからないけど、現状を伝えなくては。

 緊張と急な全力疾走の繰り返しで、悲鳴をあげる肺をさらに無理させ、なんとか、言葉をつむぎ出す。

「……蜃気楼、です…… あの男の人は、仕組みはわかりませんが、熱と蜃気楼を使って、この屋上を歪めてます……」

「……男? ……いや、大体理解出来た」

 私の途切れ途切れの説明でも、理解した様子の二人は、私から見れば何も無い方へ、拳を構える。

「……ここにいる奴の目的は、朱城さん、ってことッスよね? ここは俺達に任せて早く逃げるッス」

「で、でも……」

「……電話が通じないんだ。先生に連絡する意味も込めて、朱城さんは逃げてくれ」

「……わかりました」

 それだけ言うと、私は、本物の出入り口へ駆け出した。落ちるような勢いで駆け下りた階段では、屋上とは異なり、涼しい風が私を包み込む。

 踊り場を過ぎた頃、上のほうから、床や壁を激しく打ち付けるような衝撃音が、階段に響いた。

 先輩たち、どうか無事で……


 ***


「……頭が痛てえ…… どうなったんだ……」

 気付くと、俺はアイゼンさんの家の地下室にて、意識を取り戻したらしかった。

 らしかった、というのは、自分でも、どうやって立ったまま気絶していたのかわからねーから。

 ロウソクの明かりで照らされた部屋は、薄暗く、儀式に使う道具が散乱している辺り、こんがらがる記憶と一致している。

 咄嗟にポケットを確認するが、そこはもぬけの殻で、騒がしかった相棒は、見つけられなかった……

 てけ子……

 痛む頭の奥底には、まるで悪夢を思い出す過程のように、平行した記憶が並んでいる。

 俺が過去の世界で出来るであろう、ありとあらゆる可能性を記憶として見せられているような、そんな悪夢だ。

 痛む頭を抑えて横に目を移せば、天井の一点を凝視している黒髪ショートの中性的な女子高生、マコちゃんが目に入った。

「……なあ、結局戻ってこれたのか?」

 一番不安に感じている質問をぶつけてみたところ、難しい顔をしているマコちゃんは、こちらを見もせずに、答えてくれた。

「……それは、間違いないでしょう」

 間違いなく、帰ってこれた、ってことか。なのにこの表情って……

「……なにか、問題でもあんのかよ?」

「…………………………ありません。私には、もう関係の無いことです」

「それって……」

「……場所は学校です。行くなら止めません」

 マコちゃんは、今度は俺のほうを見ていた。その目には、複雑な感情が渦巻いているようにも思う。

「……てめーはどうすんだよ」

「…………私は、わかりません」

「そうかよ」

 マコちゃんの目に映ってたのは、困惑と、深い悲しみなんだと、なんとなく思った。

 その目は、俺が出口へ駆け出しても変わらない。重い鉄の扉を押し開けている最中も、動かずにこちらを見つめている。

 ……人間そう簡単に寝返れるわけでもねーってことか? いや、俺の首突き出して組織に戻るとか言い出さないだけ、マシか。

「……ありがとな、助かったぜ」

 部屋の中に向かってそれだけ言うと、俺は駆け出していた。何かが起きているであろう、学校に向かって。


 ***


「なあ歩擲。これ、僕達だけでなんとかなると思うか?」

「わかんねッス。でもまあ、やるだけやるしかないッスよ」

 拳を構え、集中力を研ぎ澄まして、見えない敵と対峙する。隣では、歩擲も僕と同様に拳を構えているようだ。

 真夏にも迫る熱気や、滲む汗をも意識に外に押し出し、集中を続け、さて、どうしたものか、そう考える僕の正面に、不意に、“気配”としか言いようの無いものが迫った。

「せいっ!」

 反射的に拳を突き出すと、何かを捕らえた感触。霊体とも、無機物とも違う、その感触は、恐らく人間、だろう。

 拳を引き戻しつつ、自分が殴った辺りを注視すれば、深紅の髪を風になびかせた外人のような男が一人、口の端から血を流してこちらを睨んでいる。

「……あいつか?」

「……見たところ、普通の人間っぽいッスね」

 男は、僕達と5mほどの位置に立ち、睨みつけたまま、口の端だけ歪に吊り上げると、再度姿を消した。

 朱城さんに聞いた話だと、あれは蜃気楼を用いたトリックなのだろう。だとすれば、実体はそこにあるはずだから、

「見えるな、霊視で」

「なんとかなりそうッスね」

 僕と歩擲の目には、もう敵の姿が捉えられていた。視覚的に隠れられても、霊的に隠れることは、人間には不可能だ。

 僕と歩擲は、一直線に“視覚的には何も無い空間”を目指し駆け出すと、大きく振りかぶった拳を叩きつけようとする。しかし……

「くっ!」

「なっ!」

 僕達の拳は、敵に届く前に、熱波によって阻まれた。あまりの熱さに、後方へ飛び、距離を取る。それでもなお、熱気はこちらまで漂ってくるようだった。

「……なんつー高温ッスか…… あいつ、発熱でもしてるんスか?」

「……それはわからないが、これでは打つ手が無いな……」

 そうして手をこまねいている間にも、僕達の周囲の温度は、どんどん上がっていくようだ。

 流れる汗は止まらず、しかし、噴出す端から乾き、まるで全身の水分を絞り取られるかのような感覚に襲われる。体感温度は既にサウナを上回り、ちりちりと目や鼻の粘膜を焦がすだけでは飽き足らず、口内や咽喉の水分すら奪い始めていた。 

「……敵は、近づかずに、このまま俺達を焼き殺すつもりッスかね……」

 直ぐに乾いてしまうのなら、と、汗をぬぐうことを止め、乾燥する眼球をなんとか見開きつつ、敵を睨み続ける。

 歩擲の言うとおり、あいつは、僕達を焼き殺すつもりだろう。最悪だが、ああやってじっとしているということは、そういうことだ。

 しかし、このまま何もせずに、ただ睨み続けながら、焼け死ぬわけにはいかない。何か、あの熱の防壁に対向できる手段さえあれば……

 そうだ! アレを使えば、あるいは……

「……歩擲、走るぞ」

「……どうゆうことッスか?」

「アレだよ」

 僕が指差し、歩擲が見た先、それは屋上の貯水槽。3m以上はありそうな、その巨大なタンクまでの距離は、10mほど。中には、蓄えられた雨水が、満タン近く入っているだろう。

 歩擲は、指差しただけで、恐らく全てを理解すると、僕に対して頷く。直後、僕らは同時に駆け出し、一気にタンクまでの距離を詰めようとする。

 その間も、敵からは目を離さないよう注意していると、敵はこちらの思惑に気がついたようだった。

 僕らが駆け出した直後、奴も走り出したかと思うと、驚くべき速度で僕らとタンクまでの直線上に、僕らの進行を完全に塞ぐような形で立ちはだかった。

 ……マズイ。これでは、タンクにたどり着けない。なんと厄介な……

 ……仕方ない。

「歩擲! 僕を投げろ!」

「ええ!? ……ああ、そういうことなら、了解ッス!」

 歩擲は走りながらも、姿勢を低くし、両手のひらを重ねた形で僕の前に出した。すかさず、差し出された手のひらを、踏み台のごとく駆け登ると、その手のひらからさらに飛ぼうとする。

 歩擲は、僕が登った直後に、驚異的な筋力で僕を乗せたままの両手持ち上げ、まるでバレーのレシーブのように、僕を進行方向上空へと放り投げた。

 僕の跳躍と、歩擲の振り上げる動作は、完全に一致したタイミングで行なわれ、その結果、飛び出した僕の高度は、建物の二階にも届くのではないか、というほどになっていた。

 この高さならば、敵の頭上を易々と超え、僕を一直線にタンクまで運んでくれる、そう考えていると……

「ぐっ……」

 敵の頭上に差し掛かろうとしたとき、熱の壁が、僕を阻んだ。……身を焼く高熱は、上空にまで張られていた、というのか……

 しかし、飛び出した僕は、もう引き返すことは出来ない。このから先、タンクまで距離は耐えるしかない。

 ……高温にさらされた肌が、裂けるように痛む。口の中や眼球も、完全に水分を奪われ、悲鳴を上げている。

 ……だが、耐えろ。時間にすれば、ほんの一瞬の出来事のはずだろう?

 乾ききった眼球を見開き、ぼやけて暗い視界の先を確認すれば、タンクと思われる物が、あと少しで手が届く距離にあった。よし、いける!

「……ナウマク・サマンダボダナン・インダラヤ・ソワカ!」

 実家からは止められている真言を口にし、霊力を底上げする。詠唱後、僕の右手に光が集まり、稲光のような輝きを放つ。

 衝突するような勢いで触れたタンクに、霊力で出来た光の手袋で爪を立てるように触れ、自由落下に任せて、一気に引き裂く。

 ドパァッ!

 タンクは、まるで落雷にあったかの如く、黒く焦げて裂け、中の水が、周囲にぶちまけられる。

 身体を余すところ無く濡らす冷たい水の感触が、非常に心地よい。

 ばしゃっ…… そんな音と共に、水を滴らせたまま、一気に敵に向かって駆け出す。

 またも熱の壁に阻まれるが、今度は濡れているため、気化熱が僕の身体へのダメージを和らげ、なんとか突破出来た。

 近づいたことによって見えた敵は、右腕を引き、こちらに突きを繰り出そうとしていた。だが、気にせずに、さらに近距離まで近づく。なぜなら、

「……貴様ら、一体何者だ?」

 ……なぜなら、僕には見えていたから。同じくずぶ濡れになった歩擲が、突き出さんとするその腕を握り、攻撃を妨害しようとする姿が。

「行くぞ! 帝釈天呪雷轟波動掌!」

 バチチチチチチチチチチ!!

 空気を切り裂く雷鳴にも似た轟音と、目の眩む程の閃光が辺りを包み、まるで僕の手のひらから先で榴弾が弾けたかのような衝撃を、敵に与える。

 まともに食らった男は、屋上の果てであるフェンスまで弾け飛び、金網を大きく変形させ、絡まるようにめり込む。

「やったか!?」

 咄嗟に口をついて出たその言葉が、屋上の青空に溶け込んでいったとき、既に周囲の異様な熱気は消え失せていた。

 敵は、微動だにせず、身体の所々から白い煙、恐らくは蒸気を上げている。どうやら、勝ったらしい。

「ふう……」

 一気に抜ける肩の力を感じながら、視線を敵から歩擲に移すと、中々似合わない笑みを浮かべた様子が目に入る。

「やったッスね!」

 久しぶりにテンションの高い歩擲を見て、やっと、あの敵を倒したという実感がわいてきた。

 さあ、早く朱城さんを追いかけて、先生に連絡して、後のことは任せてしまおう、そう考え、歩擲の方へ水を垂らしながら歩いていく。

 歩く度に、服の裾や髪から水が滴り、上靴はタイルとの間でぴちゃぴちゃと音を立てていた。

 すぐに歩擲の傍まで行くと、今度は二人並んで歩き、屋上の出口を目指す。

「早く行かないとな」

「そうッスね。まあ、孔雀のアレを食らったら暫くは起きないと思うッスけど」

 二人とも疲れていたせいで、そこで会話は途切れ、ぴちゃぴちゃ、という二人分の足音だけが屋上に消えていく。

「……ところで、大丈夫ッスか? ……真言呪の反動は」

「問題無い、と言えば嘘になるが、自力で歩くくらいなら大丈夫だ」

 短い会話を交わすと、また、ぴちゃぴちゃ、という音だけが続き、歩いた後には、濡れた足跡だけが残されていく。

「それにしても、一気に寒くなったな」

「そうッスねー。あの暑さから戻った上、こんなにズブ濡れだからッスかね?」

 ぴちゃぴちゃ……パキッ………

「……ん?」

 屋上の出口が目前に迫ったとき、足元から変な音が聞こえた。視線を落としてみると、何かを踏んだ上で割ったらしい。拾い上げて確認してみれば、それは、

「……氷?」

 粉々に砕けてはいたが、手の中で溶けて無色透明な液体に変わったところを見ると、氷だろう。

「……孔雀、足跡が、凍ってるッス」

 見れば、本当に凍っていた。いや、足跡だけではなく、僕らの足元に出来ていた小さな水溜りも、それどころか僕らの服の裾から滴っていた雫までもが、凍りついていた。

「……これは、一体」

 呟きつつ、背後に、厳密にはあの男を弾き飛ばしたフェンスの方へ向き直ったとき、強い冷気が僕らを襲った。

 骨の髄まで凍りつくような風にさらされた僕らは、動くことも出来ずに、ただ前を見る。

 視線の先では、歪に大きく口の端を吊り上げた男が、フェンスから抜け出して、両手を天に向けて突き出していた。

「これは、マズイかも、ッスね……」

 隣の歩擲が、強引に身体を動かそうとした結果、凍りついた服が砕けて、バキバキと音を立てているのが聞こえる。

「そうだ、な…… くっ……」

 とうとう身体に付着した水までもが凍り始め、皮膚の感覚が無くなってきた。動かそうとするだけで関節は軋み、床と靴が凍ってくっついてしまったことも相まって、全く身動きが取れない。

 ……もはや、感覚は、冷たい、痛いを通りこしてしまったようで、麻酔を打たれたように、何も感じなくなっていた。戦うことはおろか、逃げることすら、出来ない。

 辛うじて動く眼球だけで、隣を見れば、歩擲も完全に固まっていた。

「……お、い、歩擲、しっかり、しろ……」

 このままではマズイと感じ、呼びかけるも、僕の声に対する反応はなく、その姿は氷の彫像にでもなってしまったのではないかと思わせる。

「……歩擲、お、い、ぶちゃ、く……」

 僕の方も、いよいよ声すら出なくなってきた。同時に、睡魔に似た何かに襲われ、意識が保てなくなっていく。

 これまで自分の身体だったはずの感覚が、痺れ、途切れ、死んでいくのがわかる。


 ここまでか…… ここで、終わるのか……


 全身の感覚が死に絶えたとき、僕の意識も、終わりを告げた。


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