第一話『アストラル・リターナー』
気付けば、窓からは真っ赤な西日が差し込んでいた。顔を上げると、寝てしまった前と同じく、誰もいない図書室が目に映る。
「ふぁーぁ……」
あくびをしながら、伸びをして目をこする。……まだ少し眠い。壁に掛かった時計を見上げれば、針は午後五時半を指していた。
そろそろ帰らないといけないな。部活動に入っていない生徒の下校時刻になってしまう。
私の通う学校の図書室は五時半で閉館する決まりになっている。だから図書委員の私も、下校時刻は普通の生徒と同じ。委員会活動で遅くなったと言えば、きっと何も言われないのだろうけど、下校時刻は守った方がいいように思う。
一応は女の子だし、あんまり遅くなったら危ないだろうし。
司書の先生はいい加減な人で、図書委員に貸し出しや施錠などの仕事を任せっきりにしている。普段から生徒の利用なんてほとんど無いから、これでも何とかなってはいる。
人が来ないのだから、図書委員の仕事は放課後ボーっとして図書室の戸締りをするというだけという簡単なもの。
そして今日の当番は私だった。大体いつもは本を読んで時間を過ごしているけど、どうやら今日は寝てしまったらしい。疲れてるのかな? まあ誰もいないのだし、一日くらい寝てる日があってもいいかな。
こんな感じで、私は週に三日ほど、この簡単な当番をやっている。図書委員も、この当番も自分から希望したことじゃ無いのだけれど、部活に入っていない生徒は委員会活動が強制参加で、人と話すのが苦手な私は断れる言い訳が思いつかなったため当番を押し付けられ、今のこの状態に陥っている。
だからと言って、家に早く帰ってもやることはないし、放課後遊びに行くような友達もいない。それにどうせ誰もいない家なのだ、ここで本を読んでいる方がきっと有意義だと思う。前向きに考えれば、きっとそう、だよね……?
「はぁ……」
自然とため息が漏れる。五月も半ばだというのに、未だにクラスに馴染めていない自分が、なんか悲しかった。仲のいい友達も無く、家に家族はいない。自分が凄く寂しい人間に感じる。高校生ってもっと華やかだと思っていたのにな。
さて、もう閉館時間にはなってるし、帰ろう。今日も貸し出しは無しだったので、貸し出し帳をしまって、中に人がいないのを確認して鍵をかけたら、今日の仕事も終わり。
貸し出しカウンターの上に広げていた長いこと記入の無い貸し出し帳を、カウンターの中にしまう。そして脇においておいた荷物と、引き出しの中に入れておいた図書室の鍵を持って、広い図書室の中を確認する。
上履きの底からやわらかい絨毯の感触が伝わってくる。何故か学校の中でこの図書室だけが絨毯敷きだ。足音や椅子を引く音ですら気になる人への優しい配慮? もしそうなら、優しい配慮をしたにも関わらず、人がいないってのは可哀想な話だな……
……そんなことを思いつつ、足早に中を確認する。
入り口やカウンターに比較的近い場所には、予想通り人はいない。入り口から見て奥の方も一応見て回る。この辺は蛍光灯が切れてしまっていて、この時間になると薄暗くて気味が悪い。窓から指す西日が、本棚で大きく暗い影を落としている……
さっさと終わらせて帰ろう。そう思い、民俗学関係の本が置いてある辺りに差し掛かったところで……
バサバサッ……
「っ!」
急に後ろで物音がして、思わず声が漏れてしまった。……なんの音? 何かが動くような、そんな音のように思う。後ろはさっき確認した場所なのに、やっぱり誰かいたのかな。
まさか、幽霊……?
……いやそんなまさか。そんなもの、いるはずないし。
こんなこと、一瞬でも考えちゃうなんて、今日の昼に怖い話されたからかな。……クラスで唯一私に話し掛けてくれる友達が、図書室に幽霊が出るなんていう嫌がらせのような話するから……
「……誰か、いるんですか?」
勇気を振り絞って、恐る恐る後ろを振り返って確認してみる。振り向くと、誰もいない。視線の先で音を出しそうなのはカーテンくらい。
……なんだ、やっぱり幽霊なんかじゃなかった。それにしても、なんで女子高生は怪談だとか占いだとかいうオカルティックな話題が好きなんだろう。私の友達は、私が怖がるのを知ってて話して楽しんでいる気もするけど。
そうだ、そんなことより窓が開いてて風でカーテンが揺れたのなら、窓も閉めないと。この季節に窓を開ける人なんてあまりいないから、すっかり閉まっているものだと思ってたけど。
図書室奥の方に人がいないのを確認すると、足早にさっき揺れたらしいカーテンのある窓に近づいていった。
「……えっ?」
窓を見て、思わずつぶやく。
閉まっていた。
窓は、最初から開いてなかったようだ。どういうこと? じゃあさっきの音はなに? 確認したけど、人はいなかったはずだし、落ちた本もなかったはず。
手に、嫌な汗が滲み、背筋がスーッと寒くなっていくのを感じる。私は、汗ばむ手でカバンを握り閉めて図書室の出口まで駆け出した。
やわらかい床の上を必死で蹴るが、なかなか前に進まないような錯覚に陥る。出口までの距離が、異様に長く感じる。さっきまで何の気なしに寝ていた図書室が、今は凄く怖い。もう何故か、自分の背後に何か恐ろしいものがいるような気がしてならなかった。
やっと出口までたどり着いた私は、壁を叩くように図書室の照明を落とし、勢いよく扉を開け、廊下に飛び出した。
そして、震える手で乱暴に扉を閉めて施錠しようとする。だけど焦ってしまっているのか、なかなか鍵が刺さらない。焦れば焦るほど、鍵は言うことを聞いてくれなかった。
それでもなんとか手の震えを抑えて鍵を刺し込んだ私は、乱暴に鍵を回し、引き抜いた。鍵が壊れるんじゃないかという気もするけど、そんなことを気にしている余裕は無く、鍵を引き抜いた勢いのまま再度私は走り出した。去り際に一瞬振り返った図書室の中は、まださっきと変わらず夕日に照らされた穏やかな様子のままだった。何も見なかったことに安堵しつつも、私にはそれが逆に恐ろしくも見えた。
鍵を持って職員室まで向かう間も、私は走った。夕日に照られた校舎の廊下や階段は、何故か少し薄暗く、怖かった。もちろん残っている生徒はいない。部活動の生徒は、校舎内に用はないから。
「はぁ……はぁ……」
息を切らして職員室の前まできて、中の明かりが見えたとき凄くホッとした。さっきのことは、本当になんだったんだろう。本当に幽霊なのかなぁ…… 怖いなぁ、明日からどうしよう? とりあえず、今日のところは早く鍵を返して帰ってしまおう。
扉をノックしたあと、
「失礼します」
と言って、職員室の中に入る。職員室の中は廊下と違って放課後でもいろいろな音に溢れていた。その音で、ようやく緊張が解けた気がした。
職員室内を見回すと、部活の顧問などで出払っているのかあまり先生方はいないようだった。私はいつも通り司書の先生の机に向かったが、何故か司書の先生もいない。おかしいな、部活の顧問はやってなかったはずなのに。そう思って机の上を覗くと、私に向けたらしいメモがあった。
『タバコ切れたんで買ってくるー。鍵はこの辺に置いといて→』
……いい加減な人だとは思ってたけど、ここまでだったなんて。でも仕方ないからメモの矢印の先辺りに鍵を置いておく。
さて、これで大丈夫なのか不安にはなるけど、一応鍵は返した。早く帰ろう。
「失礼しました」
そう言って、職員室を後にする。一階にある職員室から一年生の昇降口はすぐだ。今度は走らずに歩いて、私は向かっていった。
昇降口に着くと、下駄箱や出入り口など全てが、沈みかけの夕日で真っ赤に染まっていた。外を見ると、視界の先のほうにはグランドの端が見える。端の方しか見えないからか、部活動の生徒達は見えない。靴を取り出すために見た下駄箱にはもう半分も靴は残っていなかった。
まぶしいな、そう思って目を細めて外を見つめながら、靴を取り出す。学校指定のローファーはイケてもいないが、そこまでダサくも無いといった感じだ。履き心地がいいとは言えないのを何とかすれば、普通にアリだと思う。
そんなことを思いつつ靴を履き替えて、顔を上げた先に違和感を覚えた。
なんだろう?
グランドに誰かいる……? 小さな人影が、ゆらゆらと夕日に揺れるグランドをこっちに向かって歩いてきているみたいだ。
いまいちよく見えないが、小さい女の子に見える。小さな女の子が高校になんの用があるのだろう? 誰かの妹か、先生方の娘さんだろうか? もう少し様子を確かめるために、目をこすってもう一度見ると、女の子は消えていた。
「あれ? 見間違いだったかな……?」
そう、つぶやいてグランドを眺めるが、やっぱりいない。うーん、今日は不思議なことが多いな。それも怖い類のことが。ホント勘弁して欲しい……
ふと、顔を上げて昇降口に掛けてある時計を見ると、もう下校時刻間近だった。急がないと怒られる、そう思い歩き出そうとし、最初の一歩を踏み出しかけて、私は凍りついた。
なに、あれ……
視線の先には、さっきの女の子がいた。距離は先ほどの位置から私までの半分ほどまで来ている。普通に歩いた速さじゃない。でも、問題はそんなことじゃなかった。
女の子は、白いボロボロのワンピースにボロボロの白いつば広の帽子という格好だった。そして、足は裸足。おまけに、ワンピースの袖やスカートから見える手足は灰色でズタズタの擦り傷まみれ。明らかに普通じゃない。手にダランと持っている壊れた球体関節人形も異常なまでに気味が悪い。帽子のせいで表情は見えないが、見えなくてよかった。もし恐ろしい表情なんて見てしまったら、気絶してしまうかもしれない。
しかし、本当にわけがわからない。理解が追いつかない。いたずら? それともお化け? どっちにしろ怖すぎる。私が何をしたっていうの? 見間違いであって欲しい、そう願い、瞬きをすると、
「ひっ!」
女の子は私のすぐ目の前まで来ていた。血の気の無い、土と灰色の中間のような肌、ボロボロの皮膚と服、球体間接人形は四肢が無くなっていて割れかけた関節部分が、どこか悲しかった。
「うぅ……」
思わず泣きそうになった。足がガクガク震えている。立っていられるのが不思議でしょうがない。
「……この子、」
女の子はそう言って、顔を伏せたまま、私の目の前に人形を突きつけた。女の子の声は、かすれて濁って、それでも腹に響き、真夏でも鳥肌が立つような、そんな声だった。
そして私の前に突き出された人形は、髪が抜け落ちて禿げ上がり、目玉のプラスチックは黄色く濁ったように変色していて今にも零れ落ちそうで、口元には無数のヒビが入っている。
……怖い。
「……手と足がね、こわれちゃったの。だから、」
女の子は、そこで言葉を切って、伏せていた顔を上げた。まばらに抜け落ちた眉毛、唇は切れていて、そこから見える歯もまばらに抜け落ちている。すこし見えた口の中は奈落の底にでも繋がっているんじゃないかというくらいに黒い。そして人形と同じように黄色く濁って、内側から圧迫されて、光っているようにさえ見える目玉で、私を見つめた。焦点が合うはずがないような目だったが、しっかり私を見据えている。そして、口を開き、
「……あなたの手と足をちょうだい」
そう言った。なんで? なんで? なんで私なの? いやだ、こわいこわいこわいこわい……
「……い、いや、やめて」
そう、言えた。声は、なんとか出た。震える足が、勝手に一歩下がった。お願だから助けて。誰か。
「だめ」
女の子は、私の願いなんて全く無視して、そう言った。それと同時に人形を離し、私の右腕と右肩を掴んだ。
「痛い!痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……」
凄い力だった。肩も握りつぶされそうだし、腕も引きちぎられそうだった。私の肩がミシミシと音を立てている。
怖い。痛い。
なんなのこれ。
夢なら覚めてよ。
……私、ここで死ぬの? なんで? こんな痛い死に方、いやだ……
私はせめてもの抵抗で、左手で肩を抑えている手を掴んだ。
ズリュ……
嫌な音がして、腐った肉が私の手の中ですべる。冷たくやわらかい、死んだ肉の感触が手の中に伝わる。
「ひぃっ……」
悲鳴をあげ、手を離した。すると女の子の腕はグニョグニョと元の形に戻っていた。わけがわからない。気持ちが悪い。
そうしている間も、私の腕を引き千切ろうとする力は変わらない。さっきから痛すぎて頭がおかしくなりそうだった。目に涙が滲む。ギュッと目を閉じて、耐える。誰か、誰でもいいから、助けて、お願い、助けて…… 永遠にも近い時間、祈ったような気さえする。私が、そんな祈りと痛みの中にいるときだった。
ガタンッ!ガタガタンッ!
後ろで大きな物音がして、私は意識を現実に戻した。私の祈りが通じたのだろうか。気付けば、女の子は私の腕を引くのを止めているようだった。肩と腕はまだ掴まれたままではあるけど。
恐る恐る目を開くと、女の子は私の後ろを見ているようだった。焦点の定まらない黄色い目玉で、何かを睨んでいるようにも見える。何がこの子を止めてくれたのだろう? 混乱するまま、私もつられて振り向いた。
振り向いた先にあったのは、昇降口用の掃除用具入れのロッカーだった。女の子の視線の先は、確かにそこを向いていた。よく見ると、かすかに動いてガタガタと音を立てている。耳を澄ませば、なにやら中から声まで聞こえてくる。誰か入っている? 一体誰が、何の為に? わからない。今日は、わからないことだらけだ……
「……くっ! 何だここは! 暗く、狭いっ! やはり失敗だったか……ん? 少し動けるな。よし、諦めるのはまだ早そうだ。力技だが、脱出を試みるっ!」
ガタガタガタガタガタ……
中の声がはっきり聞こえたと思ったら、掃除用具入れが小刻みに振動し始めた。私も女の子も黙ってその様子を見ている。
「うおーらーーーッ!」
バッコーン!
叫び声と騒音と共に、掃除用具入れの扉が弾け飛んだ。中からは、すらりと長い足が突き出されている。突き出された足はしばらく静止した後、床に着地し、足の主が掃除用具入れから出てきた。
足の主は出てくるなり、カンッカララン……という音と共に片足を突っ込んでいたらしいバケツを遠くへ蹴り飛ばし、ベチャッ! という音を振りまきながら何故か頭の上や肩に乗っていた雑巾を投げ捨て、
「よし! 脱出成功だ! ふはは、やはりこの俺に不可能などないようだな! はーはっはっはっは!」
などと叫んだ。……なんだろう、この男の人。私を掴んだままの女の子も唖然としているように見える。
……ロッカーの中にいた男の人は、明らかに学校関係者じゃなさそうだった。黒い革製と思われるズボンに、同じ素材のロングコート、コートの下は同じようなアンダーコートを着ていた。何より異質なのは、少し青みがかった澄んだ色合いの銀髪と、モデルだと言われて信じ込む自信があるほどの整った、それも日本人離れした顔立ちだった。年齢は、若く見えるけど、外国人やハーフの人の歳はよくわからない。身長は、180cmを超えているだろう。私とは違う生き物なんじゃないかというくらい足が長い。凄まじいモデル体型だ。一体、何者……?
「……じゃま、しないでよ」
全員が唖然としている中、先に口を開いたのは女の子の方だった。さきほどまでと変わらない口調で、男の人に話かけた。
「……む? なんだ、貴様。……ん? 霊子計に反応? 霊子密度C・霊子色はイエロー・独立霊体……ということは、ふむ。貴様、サイコゴーストか。なかなかに珍しいな」
男の人の方は、気にかけた様子もなく、女の子を見たままブツブツと言っている。小声だったので、上手く聞き取れなかった。
「……なに、いってるの?……これから、この子の手と足をもらうんだから、じゃましないでよ。じゃまするなら、おじさんも殺しちゃうよ?」
そうだ、私、殺されかけてて、助けを求めてたんだ。……伝えなくちゃ、この人に。
「たす、……逃げて下さい! この子、お化けなんです! このままだと、おじさんも殺されちゃいます!」
……助けを求めようとして、口をついて出たのは、間逆の言葉だった。
なんでだろう? なんで、私はつまらない正義感のために、死ぬ道を選んだんだろう。見ず知らずの男の人でさえ、巻き込むのを躊躇う、そんな正義感が私にあったとでも言うのだろうか?
……いや、多分違うな。これまで、進んで人から遠ざかり、人との接触をなるべく絶つ、そんな生き方をしてきた。人に迷惑をかけない子になりなさいって親に言われたのを、そうゆう形でしか実行できなかったから。だから友達がいなくてもいいって思ってた。いや、強がってただけなのかな。
だけど、こんな生き方の先の、この死に方なら、いい皮肉じゃないか。悲しくなってきた。私は、最後までバカだなぁ。でも、こんな人生なら死んでしまっても……
一瞬でさまざまな思考が駆け巡る。そんな悲壮感に浸っている私に返ってきた言葉は、
「……子供達よ、よく聞け。俺は! おじさんではないっ! お兄さんだっ!」
大分見当違いの内容だった。
「それと、そこのお前、俺は殺されかけている少女を残して逃げる様な男ではない。あと俺はお兄さんだ! 覚えておけ」
私を指差して、おじさん、いやお兄さんは言った。それは、人間のものではないような、爽やかで澄んだ綺麗な声だった。
「そして、そこのお前、俺は売られた喧嘩を買わずに逃げる様な男ではない。あと俺はお兄さんだ! 覚えておけ」
女の子の方を指差してそう言った。おじさんと言われたのをよっぽど気にしているのだろう。三回も言っている。そんなに傷つくものなのだろうか、今度から人に言うときは気をつけなくては。
……いや、そんなことはどうでもいい。この人、どうするつもりなのだろう。まさか戦うのだろうか? それともお祓い? 私の中で混乱がさらに続く。
「……じゃあ、おじさんから殺して、あとでゆっくり手と足をもらえばいいね」
混乱している私を他所に、口を開いたのは女の子の方だった。女の子は私の肩と腕から手を放してくれた。
「痛っ……」
その場に座り込んで放された腕を見ると、手の跡が紫色にくっきりついていた。この分では肩も痣になっているだろう。なんとか動くから、まだ間接も嵌ったままらしい。よかった……
「でも、にげちゃだめだよ」
そう言った女の子に睨まれた私は、全身に重しが乗せられたような、重量が増したような感覚に陥る。……金縛りってやつ? なに、これ。首から下が全く動かない。無理に動かそうとすると、皮膚を引き裂かれるように痛む。
「……おじさん! この子、凄い力だから気をつけて! あと、傷もすぐ治っちゃうみたいなんです!」
なんとか出る声で、そう伝えた。このおじさんが何を出来るのかは知らないが、勝てるのだろうか?
「だーかーら! 俺は、お兄さんだ! さっきから言ってるだろう!?」
またもや見当違いなことを返してくれた。ダメだ、不安になってきた。この人、大丈夫だろうか。
おじ、いやお兄さんがそんなことを叫んでいると、
「けけけけけ……」
不気味な笑い声を上げながら、女の子が姿勢を低くしてお兄さんの方へ駆け出していた。
「チッ!」
お兄さんも私まで聞こえるくらい大きく舌打ちした後、拳を握り、姿勢を低くして駆け出す。場所は元々五クラス分しかない、そこまで広くない下駄箱。彼我の距離は5mもない。
……だから、駆け出した両者はすぐに激突した。互いの腕が交差し、その拳は一直線に相手の顔へと向かう。これは……
「クロスカウンター……」
思わずつぶやいたが、早くない? 漫画やアニメのクロスカウンターって、もっとバトルの終盤の方にある展開だったように思う。現実の戦いだから、漫画やアニメとは違うのだろうけど、夢が壊された気分だ……
「ぐふぁ……」
一拍あった後、女の子方だけが、何か唾のようなよくわからないものを口から吐き出しよろけた。よくよく見れば、腕の長さの差で、女の子の方の拳は全く届いていなかった。このお兄さん、お化けとはいえ小さい女の子相手に容赦ないな……
「ぺっ! ……わざとくろすかうんたーをさそって、りーち差であっとうするなんて。おじさんなかなかやるね。でも子どもあいてに、ひきょうじゃない?」
女の子が今の攻撃で取れたらしい奥歯を吐き捨てながら言った。もっともな意見だけど、子どもである以前にお化けであることを差し引いたら、プラマイゼロな気はする。
「ふん。人のことをおじさんおじさん言うガキに何と言われようが、構わん!」
こっちはこっちで、凄く根に持っているようだった。よっぽど嫌なのだろう、おじさんって言われるのが。
「お兄さん、強かったんですね。よかった……」
安堵のあまり、本音が漏れてしまった。この分なら、あの女の子を撃退出来るかもしれない。
「当たり前だ。なんと言っても俺は、なっ! うおっ!」
こっちを向いて、何か言いかけたお兄さんの頭のあった位置を何かが掠めていった。お兄さんは間一髪身体を捻ってそれを避けたようだったが、直後にドンッという物音が背後で響く。
お兄さんの後ろを見ると、飛んできたものの正体がわかった。この人が最初にぶち破ったロッカーの扉だ。お兄さんの後ろの壁に、大きく変形して深々と突き刺さっている。女の子が投げたのだろうか? だとしたらありえない怪力だ。
「サイコキネシスか、面倒な。俺は、飛び道具は嫌いなのだが?」
何かを理解したように、お兄さんが言った。サイコキネシスってのは物を浮かせる念力のことだったかな。よくは覚えてない。
「おじさんの好ききらいなんて、しらない。ひきょうなおじさんには、あたしも本気だすから」
女の子はそう言って、空中に箒やチリトリを浮かべていた。どうやら投げたのではなく、本当に超能力で浮かせて飛ばしたみたいだ。本当にこれ、夢なんじゃないか?
……この子、一体どういうお化けなんだろう。
一方、嫌いな攻撃手段に出られたらしいお兄さんは、
「飛び道具反対! 飛び道具カッコワルイ! 飛び道具ダメ絶対!」
そんなことを叫んでいた。かっこ悪いのは、どっちだよ。
「しらない、しらない、しらない!」
女の子は言うが早いか、浮かせていた三本の箒とチリトリ一つを一斉にお兄さんに向けて飛ばした。
「チッ!」
またもやデカデカと舌打ちしたお兄さんは、回し蹴りで飛んできた箒を真ん中から叩き割った。そのままの勢いで、さらにチリトリも殴り落とす。チリトリを殴った拳を引くときに、飛んできていた別の箒を掴み取る。そして掴んだ箒をそのまま握り締めて粉砕した。
最後の一本の箒も掴み取り、今度はそれを女の子に向けて凄い速さで投げ返した。
「凄い…… 本当に凄く強い……」
今度も本音が漏れたものだった。人間としては規格外の強さだ。箒を握りつぶすなんて。……それにしてもさっきから学校の備品を壊しすぎている気がするけど、いや、今はそれどころじゃないか。
「けけけけけ」
女の子が、また気持ち悪く笑っていた。投げ返された箒はもう女の子の目の前まで迫っているはずなのに、一切避けようとはしない。
箒は、女の子に迫り、あと10cmで触れるか、というところで見えない壁にぶつかり、真っ二つに割れて床の上に落ちた。カランカランという音が、空しく床に響く。
「チッ…… やはり防壁も使えるか。やっかいなことこの上ないな」
「けけけけけ」
お兄さんは、苦虫を噛み潰したような顔で、そんなことを言った。女の子の方は余裕そうに笑っている。なんだろう、ピンチなのかな?
「……あの、防壁ってなんですか?」
本当にピンチなら、その訳が聞きたい。聞いてどうなるものでもないけど、もしかしたら私も役に立つかもしれないし。
「念動防壁のことだ。いうなれば凄いバリヤーだ。さっきの箒を見ただろう? 攻撃をああいった様に弾き飛ばせる」
よくわからないけど、凄そうだった。本当にそうなら勝ち目は無いんじゃない?
「どうすればそのバリヤーを突破出来るんですか?」
「超至近距離からの攻撃には、念動防壁が使えなかったはずだ。隙を作って接近するほかない」
あの飛び道具の中、接近か。ピンチなんじゃないだろうか。でも隙が作れればいいなら、私でもなんとか出来るかも。
「考えても仕方が無い、俺は突っ込むぞ!」
そう宣言して、お兄さんは駆け出した。それを迎え撃つように今度はバケツと雑巾が飛んでくる。バケツはともかく、雑巾って武器になるのかな……
駆け出したお兄さんは、飛び道具を迎え撃つ為に、脚を振り上げる。
「うおりゃ!」
そして掛け声と共に、飛んできたプラスチック製の青いバケツを粉々に蹴り砕く。また学校の備品が減った。これの弁償とかどうするんだろう。……いやいや、そんなこと気にしてる場合じゃないってさっきも思ったじゃん。私、細かいこと気になる性格なんだな……
そんなことを思っていると、バケツの破壊直後を狙ったように、雑巾が次々とお兄さんに襲い掛かる。蹴りの後の隙を狙われたお兄さんは避けられないみたいだ。
そして、べちゃっ! べちゃべちゃっ! っと音を立てて雑巾が、肩、胸、頭部に被弾する。音からして余り痛くはなさそうだ。
「なんだこれは! 湿っていて気持ち悪いっ!」
やっぱり雑巾は武器になってなかった。嫌なダメージはあったようだけど。
「クソッ! 子どもだと思って甘くしてやれば…… もう許さん!」
いやいや、最初から容赦無く攻撃してなかった? だが、そう宣言したお兄さんは先ほど以上の速度で女の子に接近し、
「もらったーッ!」
叫びと共に、右腕を女の子に突き出した。だけど私には、一瞬、女の子がいびつに口元を吊り上げたように見えた。
お兄さんの手が、女の子の肩に触れようとした瞬間、女の子はバケツや雑巾を飛ばすために突き出していた手をお兄さんに向けた。
向けたと同時にお兄さんの身体が弾き飛ばされる。
「なっ! うおっ!」
うめき声をあげながら、お兄さんは落下することもなく飛ばされ、私の後ろ、さっきロッカーの扉が突き刺さっていたコンクリートの壁に叩きつけられた。ドン、と凄い音が響き、あまりの衝撃に校舎が揺れたようにも感じる。
「お兄さんっ!?」
「けけけけけ」
心配して声を荒らげる。女の子は相変わらず気味悪く笑ったままだ。壁に叩きつけられたお兄さんは、まだ背中から壁に張り付いたままだ。どういうことだろうか。
「このまま、おしつぶして、殺してあげる」
あの念力で押しつぶすということだろうか。校舎はまだ揺れているように感じる。心なしか、壁がミシミシを不安な音を立てているようにも感じる。
「……ぐ、かはっ!」
……ミシッ……ミシッ
そんな、お兄さんと校舎の叫びが聞こえたと思ったら、バンッ!という大きな音と共に、校舎の壁に穴が開いた。
「けけけけけけけ……!」
「お兄さんっ!?」
再度声を張り上げて、叫ぶが、返事はない。見えるのは、校舎の壁の大穴とその周囲に立ち込めるコンクリの粉塵だけ。お兄さんの姿は見えない。死んじゃったんだろうか……?
……普通、コンクリの壁に穴を空けるほどの力で潰された人間は、死ぬ。認めたくない現実が、私の前にはあった。
「お兄さん……」
やはり返事はない。女の子は手を下ろして、念力を使うのを止めたようだった。ということは、やはりお兄さんは……
じゃあ、次は私の番か。だから逃げてって言ったのに。どうせ死ぬなら、死ぬのは私だけでいいのに。お兄さんの死が、私に諦めをくれていた。女の子が静かに私に近づいてくる。
女の子の手が、私の肩へと伸びる。金縛りもあったが、私は抵抗しない。女の子の手が、肩に触れる、まさにその瞬間、ヒュン……という聞きなれない音が、耳に届いた。
直後、パァン! という何かが弾けた音を発して、私に向かって伸びていた女の子の腕が、肘と手首の間くらいで弾け飛んだ。
千切れた腕が、私の目の前で落ちる。
さらに連続でヒュン……ヒュン……という音が耳に届き、私と女の子の間を白いパチンコ玉くらいの何かが高速で通過する。
驚いて大穴の空いた壁に目を向けると、粉塵を切り裂いて、無数の謎の白い弾丸が飛んでくるところだった。まさか、生きていたのだろうか。なんで? どうして? 女の子も驚いたように壁の穴に向き直り、そちらに残った左腕の手のひらを向けた。
飛んできた弾丸は、女の子の周囲で、まるで見えない壁があるかの如く弾けたが、それでも女の子横顔は、鬼のような形相だった。次々飛来する弾丸のせいで、身動きが取れないようにも見える。
「ふはははは! 死んだと思ったか? 馬鹿め! 俺はコンクリートが砕ける程度の力で潰れて死ぬほど軟じゃないんだよ! ふはははは!」
そんなことを叫びながら、粉塵を切り裂いてお兄さんは現れた。右手にSF映画に出てきそうな大きめな銃のようなものを持ち、射撃の手を休めずにゆっくり歩きながら、そして高笑いを響かせながら。
「お兄さん…… よかった、無事で……」
思わず、小声でそんな声が出た。本当によかった。誰かが死んでしまうようなことになってなくて。
「……いや、無事ではない」
「えっ!?」
私の声が聞こえていたらしいお兄さんの返事に思わず、声が出る。無事じゃない? ということは、やはりどこか折れたりしてしまったということだろうか。だったら急いで病院に行かないと。この場合救急車でいいのかな? などということを瞬時に考え、今はあの子をどうにかしないといけないという基本的なことを思い出し、どうしようかと考える私の耳に届いたのは、
「俺の、俺の一張羅が、ボロボロにっ……」
今にも泣きそうな声だった。……やはり、このお兄さんは私の思いとは別の回答をしてくれる。確かに、よくみれば埃でボロボロになってはいるが、それほど大したことじゃなさそうだった。洗濯すればなんとかなりそう。
「ところで、飛び道具は嫌いだったんじゃ……?」
お兄さんも大丈夫そうなので、さっきから気になっていることを聞いてみた。あれほど反対していたのに、何事もなかったかのように銃撃ってるってどういうことなんだろう。
「ああ。使われるのは非常に嫌だが、使うのはやぶさかではない」
「……そうですか」
非常に自由な趣向だった。まあ、されて嫌なことを相手にするなとはよく言われるけど、この場合先に飛び道具を使われたのだから、目には目をみたいな感じなのかな。
「……なんで最初から使わなかったんですか?」
「塩が勿体無いからだ。天然塩は意外と高いからなっ!」
これまた自由だった。弾丸、塩なんだ。……もうツッコむのやめようかな。
「……ねぇ、おじさん。あたしの手になにしたの?」
私が呆れていると、女の子が口を開いたようだった。見ると、女の子の右腕は、切断面からドロドロと溶けていて、さっきまでのように勝手に治る素振りを見せない。うぅ気持ち悪い。溶けている腕をじっと見てたら吐き気がこみ上げてきた。
「ふはは! 効いただろう? 清められた塩の弾丸だ! 一張羅の恨みだ、クソガキッ!」
バッシュバッシュ!と連続で銃声が響く。なんだろうこの人、器が小さい、のかな。
お兄さんはそのまま、勿体無いとか言っていた銃を連射しながら女の子の方へ駆け出す。女の子は防壁を解くわけにはいかないといった感じで、動けずにいる。形勢は、一気にお兄さんに有利になったようにも見えるが、防壁を何とかしないことにはどうしようもない。
どうすれば、いいだろう……
あの防壁を突破する方法……
少しでも隙を作れれば、なんとかなるだろうか。
……考えろ、何かあの子に隙を作れそうなことがあるはずだ。お兄さんが、女の子の元に着くまでのわずかな時間で、限界まで考える。何か、私にも出来ることがあるはずだ。
……ダメだ。一つ思いついたけど、ずさんすぎる。いやでももうこれしかない。
お兄さんが念動防壁の範囲ギリギリに到達しかけた。今しかない。覚悟を決めて、限界まで息を吸い込み、そして、叫んだ。
「あっ! あんなところにUFOがっ!!」
「え? うそ!?」
「ごめん、うそ」
やった、こんなバカな引っ掛けに、女の子は引っ掛かってくれた。子供だからひっかかる子供だまし。
「チェックメイトだ。この距離では念動防壁は使えまい」
女の子が振り返った一瞬の隙をついて、お兄さんが背後を取り、銃口を女の子の後頭部に押し付けていた。
「……そんな」
「というわけで、さよならだ、クソガキ」
お兄さんは銃の横についているスイッチを親指で跳ね上げ、トリガーを引いた。そしてバシュッという音と共に、女の子の姿は銃に吸い込まれていったように見えた。
後には静まり返った昇降口があるだけ。さっきまでの戦いが嘘のような静かな決着だった。
「……あの、ありがとうございました」
身体の自由が戻った私は、立ち上がってお礼を言っておいた。一時、死を覚悟したとはいえ、死なないで済むなら、それが一番だ。
「ふはは、まあいいってことだ。俺の方も中々良いものが手に入ったしな」
不敵な笑みを浮かべ、お兄さんはそんなことを言った。手に入った? ……そうだ、あの女の子はどうなったのだろう。
「その、あの子はどうなったんですか?」
「ん? あのクソガキなら、この中だ」
そう言って、銃の横のスイッチを下げ、銃を二つに折って、中から試験管を半分にしたくらいのガラスの円柱を取り出す。中は黄色いもやが詰まっているように見える。それが、さっきの子? じゃあやっぱり、あの銃で吸い込んだということだろうか。
「その中に入っちゃってるんですか?」
「そうだ。こうやって霊体を集めるのが俺の仕事でもあるんでな」
「し、仕事……?」
そんなファンタジーな…… でもさっきまで目の前で不思議な出来事が起きていた手前、全く信じられないというわけではない…… これが夢じゃないなら、だけど。
「……お兄さんは、何者なんですか?」
聞きづらいことだったが、聞いてしまった。素手で箒やバケツを砕き、コンクリより頑丈で、幽霊に効くSFチックな銃を持ち、幽霊を集める仕事をしている、私の常識の中には、そんな仕事は存在しない。そもそも幽霊の存在だって、今まで半信半疑だった。
聞かれたお兄さんは、ニィっという音が聞こえてきそうなほど、唇の端を吊り上げて、不敵に笑った。すましていればきっとイケメンなのに、残念な表情をする人だ。
「俺か? ふははは、よくぞ聞いてくれた! 俺は、時空間跳躍型対霊体人造人間第零壱号(アストラル・リターナー ゼロワン)だ! はーはっはっはっはっ!」
唖然とする私を他所、お兄さんの高笑いが、ボロボロになった昇降口に響き渡っていた。気付けば、もう日も沈んでいる。今日は、わからないことだらけだ。これ、夢なんじゃないの?