10 亀
10
アーケロン・ガメラ・ギル〇メ・玄武・クッ〇大王・亀〇人・ミュー〇ントタートルズ。
脳内に思い浮かぶ伝説級の亀たち。
目の前にいるのはそういう存在だった。いや、後半違うのも混じっていたけど。
全長にして10メートル。横幅はそれよりわずかに短く6メートルぐらいか。その体格に見合った甲羅を背負って、大木の幹みたいな太い四足が巨体を支えている。
ただし、僕の知っている亀といろいろ違う。
首と尾が2メートル近くある。甲羅の上に草が茂っている。爪がナイフみたいに鋭利。呼吸音が風鳴りになっている。
(おまけに頭は完全に竜だし。牙があるし。角が生えてるし)
異世界の亀は化け物でした。
正直、今すぐにでも回れ右して帰りたい。
なのに、その化け物の背中の上に助けるべき少女がいる。
丁度、甲羅の中心辺りで生えている草にしがみついたまま震えている。猫耳がすっかり怯えて伏せてしまっていた。
そりゃあ怖いだろうよ。離れてみてる僕だって怖いもん。
怪我をしているようには見えないけど、足を捻ってるとかはわからない。
これは河原の崖の時と同じパターンか。
光に目が眩んで崖から落ちて、たまたま下にいたのがあの化け物亀だった、と。
頼むから経験を活かして。
それでも甲羅の上だったのは救いだ。地面なら踏み潰されているか食い殺されかねない。
あ、どうも肉食っぽいよ。なんか動物の骨が転がってる。うわあ、血の跡とかえぐい。
化け物亀は眠っているのか動かない。
この枯れた渓谷は奴の巣なのかな。
どうすればいいだろう。
1、男ならステゴロ。
一口でおいしくいただかれるね。範〇さんちのようにはできないから。
2、僕が囮になって逃がす。
1秒ぐらいで食べられて、下りてきた彼女も食べられる、最悪じゃん。
3、寝ている間にトンズラ。
普通に考えてそれぐらいしかないでしょ。気が付かれないかどうか、それが問題だ。
亀なら機敏な動きはしないだろうし、ある程度距離さえ取ってしまえばなんとかなる。
考え込んでいると視線を感じた。
顔を上げると猫耳の子と目が合った。警戒中とばかりに耳がせわしなく動いている。
「しー。静かに。動かないで」
ささやくような声だけど聞こえるようだ。何度も頷いている。さすがの猫耳。ピンと立っていて誇らしげに見える。
方針は決まっているけど、どうやって逃げるか。
やはり崖を登ってもらうのが一番だよね。木の根みたいに掴まれるものはないから蔦でロープを作ろう。
「ロープを作るから、もうちょっと待ってて」
コクンコクンと頷く。
尻尾でもあったらピンと立っていそうな感じだ。
ぬう。果たして尻尾はあるのだろうか。
確かめたい。見てみたい。さわりたい。嗅がせてほしい。舐めてもいい?しかし、それは禁断の果実。ローブの下は普通のシャツとズボンだけで尻尾は見えない。もし尻尾があるならズボンの中。隠されているそれを確認しようとすればセクハラの誹りを甘んじて受けねばならない。その覚悟が僕にはあるのか。どんなに弁明しようと意味はない。僕は自身の欲望のために少女の心を食い物にしようしている事実は揺るがないからだ。それでも、それでもなお、この衝動をなかったことにはできない。確かにこの胸に芽吹き、育まれた感情は如何なる障害に阻まれても、そこに生まれたことまで否定できやしないのだから!
普通の人にはできないことを平然とやってのける!そこにしびれる!あこがれるぅ!だろ?
いや、ないよ。
ただの痴漢じゃん。
ずきゅうううううん、とかいっても犯罪だから。現代日本なら強制わいせつで逮捕だよ。
……イケメンだからですか?イケメンに限るんですか?
無心で作業していたらいつの間にか蔦がロープに超進化していました。不思議。
崖近くの木に縛って即席ロープを少女に向かって投げる。本当は先端に石でも重しにしたいけど狙いがずれて亀を起こしたら目も当てられない。
何度か失敗したけど、十回目でなんとか少女の手元に届いた。
本当なら一度下りて崖の直下から登るのが簡単だけど、気まぐれで揺れただけの尾に巻き込まれれば命はない。
ターザンのように崖まで跳ぶという手もある。ただし、失敗して落下すれば危険。かつ亀を起こしかねない。
なので、蔦を亀の甲羅に縛ってロープで繋ぐ。綱渡り、は無理でもロープに抱き着くようにすれば登ってこれる。イメージはテレビで見たレスキュー部隊の訓練。まあ、なんの訓練もなくできるとは思えないから下側にぶら下がりつつ登るようになるのだろうけど。
小声で説明すると猫耳少女は甲羅にロープを固定すると躊躇なく登り始めた。
すごい度胸だ。
いや、化け物亀の上になんかいたくないだけかも。
正規のロープでもなく、慣れない作業で、小さな女の子にはきつい工程を黙々と繰り返し少しずつ進んでいく。
僕もこっちでロープを押さえておこう。少しでも揺れが減れば登りやすいだろうから。
少女がそろそろ半分まで届きそうになった時だった。
重々しい低音がいきなり響き、地面が小さく揺れた。
僕も彼女も金縛りがかかったみたいに動きを止めて息を殺す。本能的な反応だった。
時間まで止まったのではないかと錯覚する緊張の中、ゆっくりと。本当にゆっくりと目を音源に向ける。
音源……つまり、亀の頭へ。
地面に伏せていた亀の頭が持ち上がっていた。
あ、ども。お邪魔してます。いやあ、いい天気ですね?え、湿っぽい方が落ち着く?ああ、亀ですもんね。ところで亀の頭って書くとなんかエロくないっすか?
内心で思考が空回っている間に事態は悪化した。
亀の目がロープの途中で硬直した少女に向く。
「戻って!早く!」
渡りきるのは無理。
少女は滑るようにロープを降りていく。
直後、先程まで彼女がいた辺りのロープが亀の口内に消えた。
あぶない!亀のくせして動きが速いよ!
心臓がバクバク鳴っている。動いてもないのに冷たい汗が全身から吹き出した。
落ち着け。素数を数えて落ち着くんだ。
2・4・6・8・10・12……あれ?
1・2・3・5・7・9・11・13……あれれ?
混乱が治まらない。
何が悪かったと言えば運が悪かった。亀が起きたのは外的要因ではなく内的要因だ。あともう30分ぐらい寝ててくれればよかったのに。
追撃が来る前に少女は元の位置まで戻れた。あそこなら首も尾も届かないから安全だ。
「しっかり捕まってるんだぞ!」
頷きが返ってきた。顔色が悪いけどギュッと甲羅にしがみついている。凹凸の多い甲羅なので多少の揺れなら大丈夫か。
とはいえ、子供の握力と体力では限界は近い。耳は完全に後ろに伏せてしまっていた。
できることなら僕が近くで支えてあげたいぐらいだ。けど、こうなっては亀を刺激しないよう落ち着かせて、動きを止めたところで再度アタックするしかない。
それまで耐えてくれよ。
祈りを込めて視線を送ると目が合ったのは亀だった。
なんだよ。恋しちゃうだろ。両生類でも恋したいのか?
馬鹿なことを考えていたのが伝わったわけじゃないだろうけど、ぐいっと体が前に引っ張られた。
どんなに首を伸ばしても届く距離じゃないのに、なんで?
答えは簡単。さっき亀が咥えたロープを僕は握ったままだという事実。
ぐいっと引っ張られればひょーんと引っこ抜かれるのは当然だった。
あ、死んだ。
浮いた体の落下予測地点には大口開けた化け物亀。
軌道修正不可能。なんで僕の背中にはバーニアがないんだろう?
あまりに突然の死地に現実感がついてこない。それでも残酷に絶望は近づいてくる。
亀の咢に突入する寸前、ぐっと引っ張られた。
今度も握っていたロープだった。いつまで握ってるんだよ、僕。
けど、おかげで軌道が亀の口から外れてくれた。真横で閉じられた顎に恐怖が胃の底から湧きあがってきた。
ガツンと硬いものにぶつかる。
しかも、動くよ。なに、これ?なにがどうなってるの?
僕、生きてるの?
ギュッと腕を握られる。すぐそこに見覚えのある少女の顔。
急速に理解が追いついてきた。
彼女が亀の甲羅側からロープを引っ張って助けてくれたんだね。じゃあ、ここは亀の背中の上なんだ。ぐう。ぶつけた体が痛いのも納得。
というか痛いで済んだだけ運がいい。骨折してないのは甲羅の上に結構な苔とか草が生えていたおかげだと思う。それが少しだけ落下の衝撃を緩和してくれたようだった。
理解したなら呆然としている場合じゃない。
亀がこちらを見ている。
落下点は中央部なのでやはり頭も尻尾も届かない。なんて油断してると痛い目に遭うって。
大急ぎで今度こそ途中で切れてしまったロープを引き戻す。残ったロープを何ヶ所か甲羅の隙間に引っかけて急ごしらえの足場にした。
甲羅と紐の隙間に自分と彼女の体を挟んだ。強度に不安はあるけど体ひとつで掴まっているよりずっといい。
案の定、自分の上に乗ったままの小さな獲物に化け物亀はお怒りのようでズシン、ズシンと動き回る。危なかった。ほとんどロデオみたいなものだ。こんなの支えがなかったらすぐに落とされていたよ。
なんとか即死は回避できた。
でも、こうなっては下りることさえ難しい。
窮地はまだ続いていた。




