「国家機密に触れた罪で裁かれたくなければ、婚約解消を取り下げなさい」と微笑まれたので、正式な審査をお願いしました
穀物輸入の試算表は、三枚目の途中で数字が合わなくなっていた。
リディア・ヴァレンティアは、指先でその行をなぞった。
王太子府の会議室には、紙とインクと、誰かが朝に焚いた香の残り香がこもっている。長机の端では、財務局の副官が汗を拭きながら説明を続けていた。
「――以上により、東方ロズヴァ産の小麦を四十万袋、来春までに買い付ければ、備蓄は例年並みを維持できます」
四十万袋。
リディアは、机の下で指を折った。
去年の冬、北部三州の人口台帳が改められている。移住者を加えて、およそ一割増えた。
副官の試算は、改める前の台帳を使っていた。
このまま契約すれば、来年の晩冬に、北の倉がひとつ空になる。
「殿下」
リディアが口を開くより先に、上座から声がした。
王太子アレクシスが、指先で書類の端を軽く叩いていた。
「その試算、人口は何年の台帳を使った?」
「は……昨年春の、ものですが」
「北部の改定は反映しているか」
副官の顔から、さっと色が引いた。
アレクシスは、責める調子もなく言った。
「今日はここまでにしよう。数字を洗い直してから、もう一度だ」
会議が散り、官僚たちが書類を抱えて出ていく。
最後に残ったリディアに、アレクシスは笑いかけた。
「君も気づいていただろう」
「はい。北部の台帳です」
「修正案を頼めるか。三日後の御前会議に間に合わせたい」
頼めるか、と彼は言う。
七年前に初めてこの言葉を聞いてから、彼がそのあとに「いや、いい」と続けたことは一度もなかった。
◇
その夜、リディアの私室の灯りは、二時を回っても消えなかった。
机の上には、赤い紐で綴じた書類束が三つ。赤は、王太子府で機密を意味する色だ。青い紐の予算資料がその下に四つ。ロズヴァとの過去五年の取引記録、北部三州の倉の容量、冬の輸送路の凍結日数。
侍女のアンナが淹れた紅茶は、とうに冷えて、表面に薄い膜が張っていた。
右手の中指の腹が、インクで黒く染まっている。この染みは、洗っても三日は落ちない。
買い付けを四十四万袋に増やす。
ただしロズヴァだけに頼ると値を吊り上げられるので、四万袋分は南のセルマ産に振り分ける。セルマ産は粒が小さく、粉にしたときの目減りが多い。その分を見込んで、実際は四万六千袋。
途中で一度、計算を間違えた。
輸送の日数を、夏の数字で足していた。
気づいて、線を引いて、書き直した。紙の端に小さく「冬」と書いて丸で囲んだ。こういうことを、彼女はたまにやる。
明け方、最後の頁に署名をしかけて、ペンを止めた。
この書類に、彼女の名前を書く欄はない。
いつものように、署名欄を空けたまま、書類束を青い紐で綴じた。
◇
三日後、国王臨席の御前会議で、アレクシスは修正案を読み上げた。
北部の台帳改定を見落とした財務局の誤りを、穏やかに指摘した。
ロズヴァ一国への依存の危うさを説き、セルマ産の目減りまで見込んだ数字を示した。
大臣たちが、低く唸った。
国王が、満足げに頷いた。
「見事だ、アレクシス。よくそこまで詰めた」
「恐れ入ります、父上。財務局と、夜を徹して」
リディアは、壁際の椅子に座っていた。
王太子妃候補として、会議を「見学」するための席だ。膝の上で重ねた右手の中指は、まだ黒かった。
会議のあと、回廊でアレクシスが追いついてきた。
「助かったよ。やはり君は、私に必要だ」
声は柔らかかった。彼はいつも、こういうことを本心から言う人だった。
リディアは、足を止めた。
「殿下。でしたら、そろそろ正式な補佐の職を置いていただけませんか。扱っている資料が、王妃教育の範囲を超えています」
アレクシスは、ほんの一瞬きょとんとして、それから笑った。
心の底からおかしそうに。
「何を言っている。君は王妃になるんだよ?」
回廊の窓から、午後の日差しが斜めに差していた。
アレクシスは、子どもに言い含めるように続けた。
「王妃が国のために働くのは、当然だろう」
「……では、せめて手当を」
「給与?」
アレクシスは、また笑った。
「夫婦になるのに、妻へ給与を払う夫がいるか?」
「正式な権限がなければ、官僚に指示を出すたびに、殿下のお名前を借りることになります」
「君にそんなものが必要なのか? 私に言えば済むだろう」
「では、せめて政策案を、私の名前で提出させていただくことは」
アレクシスは、困ったように眉を下げた。
「リディア。王太子妃が、夫と功績を競ってどうする」
一度も、声を荒げなかった。
最後に彼は、リディアの肩に軽く手を置いた。
「疲れているんだろう。今夜はよく休んでくれ。明日は、ロズヴァへの書簡の草案を頼みたい」
◇
十二歳のとき、リディアは王太子の婚約者に選ばれた。
最初は、本当に勉強だった。
歴代王妃の書簡を読み、外国語を覚え、税の仕組みを学んだ。王妃教育の教師は厳しかったが、リディアは嫌いではなかった。何かの仕組みが、読んでいるうちにほどけて見えてくる瞬間が好きだった。
十六のとき、アレクシスが初めて書類を一枚持ってきた。
「将来のための勉強だ。これを見て、どう思う?」
南部の関税表だった。
リディアは、三か所の誤りを見つけた。アレクシスは目を輝かせて「君は頼りになるな」と言った。
その関税表は、翌週、アレクシスの手で国王に届けられた。
十九歳の王太子が財務局の誤りを見抜いたと、王宮じゅうの評判になった。
リディアは、それを聞いて嬉しかった。
本当に、嬉しかったのだ。自分の見つけたものが、誰かの役に立ったことが。名前が出ないことなど、気にもしなかった。
あのとき、何か一言でも言っていたら、と考えることはある。
考えても、十六の自分が何と言えばよかったのかは、今でも分からない。
翌月、書類は三枚になった。
次の年には、束になった。
外交の書簡の下書き。
予算の突き合わせ。
穀物の相場の記録。
軍の糧秣の輸送計画。
使節団との交渉で、どこまで譲っていいかの目安。
赤い紐の束が、彼女の机に置かれるようになったのは、十九の頃だったと思う。
いつからだったか、正確には覚えていない。覚えていないくらい、自然に増えた。
王妃は国を支えるものだ。
そう教わってきたし、そう思ってもいた。政略の婚約なのだから、彼に愛されなくても構わない。王妃の仕事をきちんとこなすことが、自分の役目だと。
だから、変だと思わなかった。
思わないようにしていた、のかもしれない。
もう少し早く気づけばよかった、と後になってリディアは思う。
けれどそれは、ずっと後の話だ。
◇
ひと月後、王宮の小広間で、伯爵令嬢ミレーユ・セラードの誕生祝いが開かれた。
主催の名義は、ミレーユの叔母になっていた。けれど広間の花を選んだのも、楽団を呼んだのも、王太子府の裁量費であることを、リディアは知っていた。その支出の書類を突き合わせたのが、彼女自身だったからだ。
ミレーユの首元で、青い石の首飾りが光っていた。
「素敵ね」
リディアが言うと、ミレーユは戸惑ったように笑った。
「殿下が……その、リディア様もご存じだと伺っていたので」
「ええ。存じています」
ミレーユは、首飾りの留め具に指をやった。
「リディア様は、その……殿下のお仕事を、たくさん手伝っていらっしゃるのでしょう? 殿下がよく、リディア様は王妃になることが何よりの望みだと」
「そう仰っていましたか」
「ええ。だから、私のことも気になさらないのだと」
ミレーユは、それ以上は言わなかった。
リディアも、訂正しなかった。何をどう訂正すればいいのか、そのときはまだ分からなかった。
嘘ではなかった。本当に、気にしていなかった。
政略の婚約だ。愛人がいることは、はじめから聞かされていた。
問題は、そのあとだった。
宴が終わりかけた頃、アレクシスは上機嫌で、リディアを露台に誘った。夜風に、庭の薔薇の匂いが混じっていた。
「そろそろ、結婚後のことも決めておかないとな」
「はい」
「ミレーユには、東離宮を使わせようと思う。庭が広いし、王宮からも近い」
「……では、私は」
「もちろん、王妃宮だ」
アレクシスは、当然のように言った。
「私個人の予算は、どうなりますか」
「必要なものは、王宮会計に申請すればいい」
「私が、自由に使えるお金は」
アレクシスが、怪訝そうな顔をした。
心底、質問の意味が分からないという顔だった。
「王妃が、勝手に金を使ってどうする?」
リディアは、露台の手すりを握った。
石が、夜露で冷たかった。
頭の中で、何かが一枚ずつ並んでいった。王宮の管理。社交。外交の補佐。財政の補佐。慈善事業。世継ぎを産むこと。何かあれば責任を負うこと。
どれも、彼女に課されている。
その横に、どれにも「決める」という欄がなかった。
どこに住むか。何に金を使うか。誰の名前で書類を出すか。
何ひとつ。
「どうした、リディア」
「……いいえ。夜風が、冷たいだけです」
アレクシスは頷いて、自分の上着を彼女の肩にかけた。
その手つきは、とても優しかった。
◇
翌日の昼、リディアは王太子府の執務室を訪ね、机を挟んでアレクシスと向き合った。
机の上には、例によって書類が積まれていた。赤い紐が二束、青い紐が五束。どれも、本来なら今夜リディアの部屋に運ばれるはずのものだ。
「殿下。婚約を、解消してください」
アレクシスは、書類から顔を上げた。
それから、笑った。
「面白い冗談だ」
「冗談ではありません」
「……疲れているんだな」
アレクシスは、ペンを置いた。
「昨夜のミレーユのことか? 気にしないと言っていたじゃないか。それとも、最近少し感情的になっているのか。無理もない。仕事を増やしすぎた」
「私は、嫉妬について話していません」
アレクシスの眉が、わずかに動いた。
リディアは、それ以上の説明をしなかった。何を言っても、彼は自分の分かる形に置き換えるだろうと思った。
アレクシスは、しばらく黙って彼女を見ていた。
それから、穏やかに言った。
「分かった。君の言い分も、もっともだ。侍女を増やそう。自由になる予算も、多少は用意する。ミレーユと会う回数も、減らしてもいい」
「それでも、婚姻いたしません」
笑みが、消えた。
アレクシスの視線が、机の上の書類へ動いた。
赤い紐の束。青い紐の束。その横の、ロズヴァへの書簡の草案。
彼の目が、ひとつずつ数えていくのが、リディアには見えた。
外交の書簡。予算の突き合わせ。貴族たちの癖を書き留めた覚え書き。三か国語の翻訳。政策の検算。
これを、何人で埋める?
何か月かかる?
「それから」
リディアは、立ち上がった。
「今後、王太子府のお仕事も、すべてお返しします」
アレクシスが、机を叩いた。
インク壺が跳ねて、青い紐の書類に黒い点がひとつ落ちた。
「調子に乗るな」
十一年間で、初めて聞く声だった。
「お前一人いなくても、国家は回る」
以前のリディアなら、ここで頭を下げていた。
申し訳ありません、言葉が過ぎました、と。
リディアは、首を傾げた。
「そうですか」
それから、本当に安心したように、息をついた。
「では、安心しました」
その日の夕方、リディアはこれまでの仕事を、引き継ぎ書にまとめて王太子府へ届けた。
どの書類がどの棚にあるか。どの数字がどの台帳から来ているか。ロズヴァの商務官は、午前中に会うと機嫌がいいこと。
引き継ぎ書は、四十二枚になった。
最後の一枚に、署名欄があった。
リディアは、そこに自分の名前を書いた。
◇
アレクシスは、有能な男だった。
翌週には、財務局から一人、外務局から二人、若い書記官が王太子府へ移ってきた。秘書官も一人増えた。書類は三つの机に分けられ、官僚たちは毎晩遅くまで灯りをつけて働いた。アレクシス自身も、以前より長く執務室にこもった。
「ほら。問題ないだろう」
アレクシスは、王太子府の官僚たちにそう言ったらしい。
リディアは、それを父から聞いた。
実際、国は回っていた。
ロズヴァへの書簡は、予定より四日遅れて届いた。北部の輸送計画は、一度だけ数字の桁を誤って差し戻された。外務局から来た書記官の一人は、ひと月で胃を悪くして休んだ。
どれも、小さなことだった。
アレクシスが東離宮を訪ねる夜は、週に三度から、一度に減ったという。
ひと月ほど経った雨の夕方、ヴァレンティア家の裏口に、若い書記官が一人やってきた。
外務局から移ってきたうちの一人で、名をフェリクスといった。濡れた外套の下に、青い紐の束を抱えていた。
「殿下には、内密に参りました。どうしても、この数字の出どころが分からなくて」
リディアは、束を受け取らなかった。
台所の脇の小部屋で、濡れた外套を暖炉の前に掛けさせてから、言った。
「引き継ぎ書の、十七枚目を見てください。南部の関税は、二年前から改定前と改定後の二本立てで計算しています。どちらを使うかは、取引の相手国で変わります」
「十七枚目……」
「それでも分からなければ、財務局のオーレンさんに聞いてください。あの方は、関税の台帳を一番よく知っています」
フェリクスは、しばらく黙ってから、頭を下げた。
「……申し訳ありません。ご迷惑でしたね」
「いいえ。聞きに来てくださったことは、嬉しかったです」
それは本心だった。
彼は少なくとも、誰かの名前を借りずに、自分の足で来た。
フェリクスが帰ったあと、リディアは暖炉の前でしばらく手を温めていた。
束を受け取って、一晩で数字を揃えて返すことは、たぶんできた。以前の自分なら、そうしていた。
それをしなかったことが正しいのかどうか、そのときの彼女には、まだよく分からなかった。
リディアは、ヴァレンティア侯爵家の当主である父を通じて、国王へ婚約解消の願いを正式に差し出した。
父は、書状に封蝋を押す手を、一度だけ止めた。
「十一年だぞ」
「はい」
「……そうか」
父は、それ以上何も聞かなかった。
父も、娘が政策の書類を読んでいることは知っていた。王妃教育の延長だと、リディア自身がそう説明してきたのだ。機密の中身は、父にも話せなかった。
濃い紫の封蝋の上に、侯爵家の印章が沈んだ。
書状を出した翌日、王太子府から短い手紙が届いた。
アレクシスの字だった。
「一度、話をしよう。君は疲れているだけだ。明日の午後、いつもの執務室で待っている」
いつもの、という一語を、リディアは長いこと見ていた。
行かなかった。
翌日の午後、執務室の扉の前で、アレクシスが一時間待っていたと、あとで聞いた。
その一時間のあいだに、彼が何を考えたのかは分からない。
分かるのは、その一時間が終わったときに、彼が笑うのをやめたということだけだ。
その書状が王宮に届いた、二日後だった。
◇
リディアは、王太子府の小部屋に呼び出された。
窓のない部屋だった。扉の外には、近衛兵が二人立っていた。
机の上に、見覚えのある紐の束が置かれていた。赤い紐。
アレクシスは、向かいの椅子で脚を組んでいた。
昔と同じ、柔らかい笑顔だった。
「婚約を解消したいというなら、構わない」
彼は、赤い紐の束を指先で撫でた。
「ただし、その前に説明してもらおう。君は正式な官職も持たないまま、外交暗号文、国境防衛計画、国家の備蓄量、未締結の条約案を閲覧していた。国家機密管理規定の第九条。王太子府の正式な閲覧申請なく機密文書に接触した者は、間諜の嫌疑をもって取り調べる」
リディアは、黙って聞いていた。
事実だった。
彼女は、それらを全部読んでいた。読まされていた、と言うべきかもしれないが、読んだことに変わりはない。
「もちろん」
アレクシスは、身を乗り出した。
声が、いっそう優しくなった。
「私は、君を罪人にしたいわけではない」
部屋の空気が、肌にまとわりつくように重かった。
「婚約解消の願いを取り下げなさい。今後は王太子府の指示に従い、これまでの業務について外で口外しないこと。婚姻の後も同じだ。そうすれば、今回の件は私が処理する。誰も君を責めない」
「ついでに言っておくと」
アレクシスは、椅子の背にもたれた。
「間諜の嫌疑がかかった家の娘に、まともな縁談は来ない。ヴァレンティア侯爵も、枢密院の席は降りることになるだろう。私は、そんなことは望んでいない。本当だ」
リディアは、机の上の赤い紐を見た。
自分が四年間、毎晩ほどいては結び直してきた紐だった。
彼女は、しばらく黙っていた。
アレクシスは待った。待つことに慣れた人の顔で。この沈黙のあとに来る言葉を、彼はもう知っているつもりでいた。
「正式な審査を、お願いします」
アレクシスの笑みが、止まった。
「……何?」
「私が不正に国家機密へ触れたのでしたら、それは国家として調べるべきことです。殿下がお一人で処理されるべきことではありません」
アレクシスは、しばらく何も言わなかった。
リディアが初めて見る顔だった。何かが、彼の手の中から滑り落ちたときの顔だった。
◇
審査は、王立文書院で行われた。
国家機密に関わる審査であるため、立ち会いは国王の指名した三人の審査官と、当事者だけ。
審査官長は、文書院の老書記官ベルトラムだった。白髪を後ろで束ね、指にはやはりインクの染みがあった。袖口がすり切れていた。
アレクシスは、落ち着いていた。
リディアが機密に不正に接触したこと。王太子府はそれを許可していないこと。婚約者という立場を利用して、執務室に出入りしていたこと。
よどみなく、分かりやすく述べた。彼は昔から、人前で話すのが上手かった。
ベルトラムは、それを最後まで黙って聞いた。
それから、手元の帳簿を開いた。
「では、記録を確認いたします」
最初に出てきたのは、文書院の貸出簿だった。
「過去四年間、王太子府から当院へ、機密文書の閲覧請求が二百十一件ございます。請求者の欄は、すべて殿下の印章です」
「当然だ。私が請求した」
「はい。次に、当院から王太子府への配送記録です」
ベルトラムは、頁をめくった。紙の端が、何度もめくられて丸くなっていた。
「配送先の欄に、二百十一件中、百九十六件、『妃候補執務室』とございます」
アレクシスの指が、椅子の肘掛けの上で一度止まり、また動いた。
「妃候補執務室は、王太子府の補助の保管庫として使っていた。本庁舎の書庫は手狭でね。文書をそこへ届けさせたことと、彼女に閲覧を許したことは、別の話だ」
よどみのない答えだった。
審査官の一人が、なるほど、という顔で頷きかけた。
「筋は通っております」
ベルトラムも、そう言った。
それから、帳簿の別の欄を指でたどった。
「なお、配送記録のうち四件に、日付の誤記がございました。こちらの三月十二日は、正しくは十三日です。当院の配送係の不手際で、お詫び申し上げます」
ベルトラムは、細いペンで誤記に印をつけた。
机の端に置いていた眼鏡を掛け直して、淡々と続けた。
「保管のみでしたら、文書は封のまま戻るはずです。ですが、各文書に添付された回覧票が、書き込み入りで戻ってきております」
回覧票が、机の上に並べられた。
どの票の隅にも、小さな鉛筆の書き込みがあった。
「冬」と書いて丸で囲んだもの。
「要検算」。
「台帳、北部改定前?」。
リディアの字だった。
読みながら思いついたことを、隅に書く癖。直そうと思ったこともあったが、結局直らなかった。
「保管庫に置いた書類を、彼女が勝手に開いたのだろう」
アレクシスは、すぐに言った。
「婚約者として、あの部屋への出入りは自由だった。私の目の届かないところで何をしていたかまでは、把握していない」
それも、筋の通った答えだった。
「なるほど」
ベルトラムは、回覧票の一枚を光にかざした。
「こちらの票は、文書院から配送された日の翌朝、王太子府から返却されております。受領印は、殿下の秘書官のもの。配送から返却まで、一晩です。その一晩のあいだに、三頁分の検算と書き込みが入り、翌朝には殿下の執務室へ回付されたと、回付簿にございます」
アレクシスの秘書官の名前が、読み上げられた。
部屋の隅で控えていたその秘書官が、ぎくりと肩を揺らした。彼が、何か言いたげにアレクシスを見た。
「勝手に開かれた書類が、毎回、翌朝きちんと殿下の机へ届いていたことになります。二百件近く」
アレクシスは、秘書官のほうを見なかった。
「殿下」
ベルトラムは、顔を上げた。
「殿下は、リディア嬢へ機密の閲覧を許可していないと仰いました」
「その通りだ」
「ではなぜ、彼女しか知り得ない書き込みが、殿下が陛下へ提出された政策案に、毎月反映されているのでしょう」
ベルトラムの隣の審査官が、別の束を開いた。
先月の御前会議で読み上げられた、穀物輸入の修正案だった。
その下書きの余白に、同じ鉛筆の字で「冬」と書いて丸で囲んであった。
部屋が、静まった。
アレクシスは、口を開いた。閉じた。
ベルトラムは、同じ調子で問いを重ねた。
「つまり殿下は、不正に機密を得た間諜から、四年間にわたり情報の提供を受け、それを陛下へご自身の政策として献じておられた、ということになりますが」
アレクシスの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
知らなかった、と言えば。
四年間、自分の婚約者が国家機密を盗み読んでいたことに気づかず、その成果を毎月国王に献じていた王太子になる。
仕事をさせていた、と言えば。
間諜の嫌疑そのものが、消える。
リディアは、アレクシスの横顔を見ていた。
彼がこの瞬間、頭の中でいくつもの道を探して、そのどれもが行き止まりだと理解していくのを、ただ見ていた。
彼は有能な人だった。
だから、分かってしまうのだ。
「……参考に、しただけだ」
長い沈黙のあと、アレクシスは言った。
「彼女が勝手に作ったものを。私は、参考にしただけだ」
ベルトラムは、ペンを置いた。
「では殿下は、正式な権限のない者が機密をもとに作成した文書を、陛下への献策にお使いになった、と」
アレクシスは、もう答えなかった。
リディアは、最後まで一度も発言しなかった。
一度だけ、審査官から「この書き込みはあなたのものですか」と問われて、「はい」と答えた。
それだけだった。
文書院を出ると、父が石段の下で待っていた。
外套の肩に、細かい雨が乗っていた。どれくらい待っていたのか、手袋をしていない父の指先が、赤くなっていた。
「どうだった」
「記録が、全部残っていました」
「そうか」
父は、それだけ言って、彼女の外套の襟を直した。
石段の脇で、鳩が一羽、濡れた敷石をつついていた。
◇
審査は、リディアからアレクシスへ移った。
王太子府の四年分の記録が洗い直された。
アレクシスの名で出された主要な政策案のうち、どれだけにリディアの手が入っていたか。官僚たちは何人も呼ばれて、同じことを聞かれた。
妃候補執務室へ書類を運んでいたこと。
殿下の指示であったこと。
彼女に官職がないことは、皆知っていたこと。
誰も、それをおかしいとは言わなかったこと。
呼ばれた官僚の一人、財務局のオーレンは、審査官の前で額の汗を拭いながら言った。
「妃候補様の数字は、いつも正確でしたから。……その、それが普通なのだと、思っておりました。王妃になられる方なのだから、と」
審査官は、その言葉をそのまま記録に書き留めた。
若き政治の天才、と呼ばれていた王太子の評判は、半月で形を変えた。
穀物の会議で、北部の台帳の見落としに最初に気づいたのは、本当に彼だった。
それでも、彼が一人で築いたはずの像は、もう誰の目にも同じ形には見えなかった。
国王は、息子を私室に呼んだ。
そこで何が話されたのか、リディアは知らない。
ただ、あとで父から、陛下が口にしたという一言だけを聞いた。
「お前は、女を裏切ったのではない。国の制度を、私事の鎖に使ったのだ」
アレクシスの外交と行政の権限は、その日のうちに停止された。
ふた月後、王位継承権の剥奪が、枢密院の名で告示された。
牢に入れられたわけではない。
命を奪われたわけでもない。
ただ、生まれたときから自分のものだと思っていた冠が、手の届かない場所へ行った。
東離宮の庭で、アレクシスがミレーユの手を取ろうとしたのは、その告示の翌日だったという。
「私が王太子でなくなっても、君への気持ちは――」
ミレーユは、その手を外した。
「殿下。私は、あなたに愛されたいとは申しました。でも、あなたと一緒に罰を受けたいとは、申しておりません」
青い石の首飾りは、そのまま彼女の首にあった。
彼女は翌週、セラード伯爵家の領地へ帰った。
◇
冬の初め、リディアは国王の執務室に呼ばれた。
国王は、机の上に一枚の書面を置いた。
王国政策局、次席政策官。職務の範囲、俸給の額、指揮できる書記官の数、休暇の日数。末尾に、辞任の手続きが一行。
リディアは、その書面を最後の行まで読んだ。二度読んだ。
それから顔を上げた。
「陛下。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「何だ」
「辞めることも、できますか」
国王は、意外そうな顔をした。
それから、ゆっくりと頷いた。
「もちろんだ」
リディアは、ペンを取った。
今度の書面には、ちゃんと彼女の名前を書く欄があった。
執務室を出ると、回廊の窓から午後の光が差し込んでいた。
アンナが、侍女の控え室から顔を出した。
「お嬢様、お茶をお淹れしましょうか」
「ええ。温かいうちに飲むわ」
アンナは、不思議そうな顔をしてから、笑った。
◇
王都から馬車で五日。
北部の王領、ハルデンの管理館は、冬になると窓の隙間から雪が吹き込んだ。
アレクシスは、机に積まれた書類をめくっていた。
領内の小麦の収量、橋の修繕費、村々からの陳情。王都にいた頃なら、書記官が要点を一枚にまとめて持ってきたものだ。
ここには、書記官が一人しかいない。
それも、字の汚い老人だった。
「前の管理官さまは、書類はぜんぶ、わしに任せておいででしたがね」
老書記官は、着任の日にそう言った。
「元殿下は、ご自分でお読みになるので?」
「当然だ」
アレクシスはそう答えた。
答えてから、それが当然ではなかった何年もの間のことを、少しだけ思い出した。すぐに、別のことを考えた。
収量の表の合計が、合わなかった。
二度計算して、二度とも違う数字が出た。三度目で、自分が一行飛ばしていたことに気づいた。
アレクシスは、ペンを置いて、窓の外の雪を見た。
あの頃、書類は朝になると整っていた。
数字は合い、要点には印がつき、読むべき頁が上に来ていた。彼はそれを読んで、判断して、署名をすればよかった。
一晩で、あれを。
毎日。
何年も。
あのとき、正式な役職くらい与えておけばよかった、と彼は思った。
名目だけでも。そうすれば、審査で逃げ道はあった。
自由になる金も、多少は渡しておけばよかった。
あれで、女はだいたい機嫌がよくなる。
ミレーユのことも、表向きだけは控えておくべきだった。
東離宮は、少し早すぎた。
雪が、窓枠に積もっていった。
彼はそれを見ながら、同じことを、何度か順番を入れ替えて考えた。
◇
翌年の春、北部の穀物倉の視察に、王都から政策局の一行が来た。
管理館の応接間に通された一行の中に、アレクシスはリディアを見つけた。
灰色の外套に、政策局の銀の徽章。後ろに書記官を二人連れていた。
リディアは、アレクシスに型どおりの礼をした。
それから、書記官に倉の容量の帳簿を出すよう指示した。
視察が終わり、書記官たちが馬車の支度に出たあと、応接間に二人だけが残った。
「……今なら、君の価値が分かる」
アレクシスは言った。
自分でも、ずいぶん素直に言えたと思った。
リディアは、外套の釦を留めながら答えた。
「以前から、分かっていたでしょう」
アレクシスは、言葉に詰まった。
分かっていた。
あの日、執務室の机の上の書類を、ひとつずつ数えたのは自分だった。
「……なら、言い方を変えよう」
彼は、机に手をついた。
「今度は、正式な権限を与える。財産も、自由にしていい。ミレーユも、もういない。何なら――」
「殿下」
リディアが、遮った。
「殿下は、まだひとつだけ、勘違いをされています」
「何だ」
「条件を決めれば、私が戻ると思っていることです」
リディアは、もう一度礼をして、応接間を出ていった。
扉の向こうで、書記官と何か話す声がした。倉の数字のことだった。それから、馬車の車輪の音が遠ざかった。
アレクシスは、しばらく机に手をついたまま立っていた。
分からなかった。
権限も、金も、女のことも、全部こちらから差し出した。以前の自分なら、考えもしなかった条件だ。これ以上、何が足りないというのか。
窓の外で、雪解けの水が軒から落ちていた。
アレクシスは、椅子に座り直した。
机の上には、今日の分の書類がまだ残っていた。
――あのとき、もう少し上手く扱っていれば。
彼は、そう思った。
それから、合わない合計を、もう一度はじめから足し直した。
(了)




