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7,在処

「すごい、腫れてるよ」

 奥山が恐々と頬に付いた血を消毒液で拭こうとする。

「いてっ」

「ご、ごめん、血が乾いていて上手く拭けないよ」

「こんなの平気だって、ほっときゃ治るって」顔を背ける。

「傷は大したことなくても、血ぐらい拭いた方がいいよ」

「お前は彼女かよ。彼女いた事無いから分からんけど」

「は?何それ。はい、絆創膏貼って終わり」と、最後は雑に貼って終わらせる。

 

 貼られてた絆創膏の上から触ると、けっこう腫れているのがわかる。

「室戸の野郎、靴で顔蹴るか、普通よ」

 蹴られてもいない奥山が、痛そうに顔を歪める。

「お返しに、脇腹に思い切り喰らわしてやったけどな」肘を畳んでフックの型で空を切って見せる。

「最近、室戸くんと宇田川くんとケンカばっかりしてるよね」

「よそ者が気に入らないんだろ」と、ふて腐る。

「青野から、突っかかってる様に見えるけどね」

 好きでケンカしてるわけじゃないと、言う所だけど、好きでやってる。どうにもあの二人には負けたくない。


 奥山が呆れたところに、真次郎がやってきた。当然、春彦の顔を見て驚く。

「どうしたの?殴られたの?」心配そうにのぞき込む。

「青野、いじめられてるの?」真次郎がまじまじと訊く。

「はぁ、いじめられてねーし」

「辛かったら、言うんだよ。僕は味方だからね」真次郎はあくまで本気で言っている。

「そいつは、どーもっ」力を入れて言い返したので、頬が張って、いてっ、となる。

「大丈夫?黒く痣になってるね・・・でも、僕と同じだよ」

 

 真次郎が明るく言った言葉の意味が分からなかった。

「ほら、一緒」

真次郎がおもむろにシャツを捲って見せる。華奢な身体の脇腹に青黒く大きな痣がある。殴られたのか、蹴られたのか。

「お父さんに怒られちゃった」


 怒られたってレペルじゃないだろ。かなりの力を加えられている、よっぽどの力の差があるか、無抵抗の状態じゃないと脇腹にあんな痣はできないだろ。

 奥山に目をやるが、目を伏せて口を結んでいる。まあ、知っていたのだろう。

 

 うちの親もすぐ殴るけど、ここまではされない。子供の頃に神社の賽銭箱に悪戯した時は、近所のおっさんに鼻血が出るほどなぐられた。賽銭を取ろうとしたんじゃなくて、賽銭箱の中がどうなってるのか知りたくて仕方なかった。

 

 やたらとひっぱたいてくる大人は多いけど、大抵は平手打ちで、余程の事だとグーでやられる。真次郎のはそういうのとちがう、その痣の色のようにどす黒く感じた。人ん家の事は他人にはわからないけど、なんか、身体の奥の方がざわついた。


「青野、顔恐いよ」

自然と眉が上がっていたようだが、この痣見ればそりゃあ、そうだろ。極力明るい声で返す。

「おいおい、ひでーな。どんだけ、悪さしたんだよ次郎」

「言うこと聞かないから怒られちゃった」

 まるで、あっけらかんと話す真次郎と、痣とのギャップが殊更に痛々しい。

「痛いか」

「ううん、昨日までは痛かったけど、もう痛くないよ。青野の方が痛そう」

 真次郎が手を伸ばして頬をつつく。

「いてっ」

つついた方の真次郎が、ビクッと一瞬震わせ、すぐに笑顔を見せる。

「コノヤロー」

 真次郎に覆い被さって押さえ込んで、脇腹をくすぐる。

「まってまって」

 笑いが止まらない真次郎は、手足をバタバタとさてもがくが、ぬけだせない。

「まいった、まいった、ギブギブ」

真次郎がケラケラと笑う。



「最近、次郎来ねーな」

 もう桜も散ったって言うのに、億劫がって、梅雨明けまで仕舞わないと言っていた奥山の尻を叩いてこたつを片付けていた。もうここ何か月か、真次郎の顔を見ていない。

「もう6年だし、叔父さん家にも慣れたんじゃないかな」

 奥山が天然のくりくり頭をボリボリ掻きながら答えた。

「叔父さん?」

「うん、真次郎は叔父さんの家で世話になってる」

「はっ?いつから」

「今年になってから」

奥山は表情も変えずに眈々と答える。

「叔父さん家って、どこよ」

「向かい」

「はっ?向かい?」

「そう、向かい」


 なんだよ、紛らわしい言い方しやがってと、言ったが、勝手に勘違いしたんだろ、と言い返した奥山の表情は、弟の事が気掛かりなのだろう、あまり触れてほしくない空気をだしていた。

「俺は触れるぞ」

 奥山がこちらを向いて小さくため息をつく。

「そうだよね」

 天井を見て、諦めたように話し出した。


「うちの親が離婚したのは知ってるでしょ」

「ああ、姉ちゃんが母ちゃんに付いて、一緒に行ったんだろ」

「そう」確かめるようにうなずく「お母さん達が出ていってから、ご飯がさ、誰も作れないから、けっこうひどくて、業を煮やしてっていうの?お向かいの叔父さんの家が食事を作ってくれる事になったんだよ。最初は、ご飯だけお世話になってたけど、そのうちこっちに置いとけないって事になって」

奥山の話が尻つぼみになるので、察した。

「親父さんか」

奥山が小さく頷く。言葉を探しているのか、次が続かない。どう話していいのか分からないのだろう。


 そりゃあそうだろう、家族の込み入った話なんて他人にした事ないだろうし、こっちだって話された事もない。

 奥山に限らず、家族の話題なんて避けるのが常で、そういう話題はダサイとされていたところもある。そうは言っても、この閉鎖的な町では、けっこう知られてたりするらしいが。


「いつもじゃないんだ、いつも手を上げる訳じゃないんだよ。普段は普通、って言うのかな、普段でもすぐ怒るから恐いんだけど、理由もなく手を上げる事はないんだ。それに、真次郎も逆撫でするような事するから」

 奥山がくりくり頭をぼりぼりと激しく掻く。あまり気に掛けないから、寝ぐせなのか何なのか分からない程にくしゃくしゃだ。


「お前も殴られんの」

「まあ、それは殴られた事はあるけど、真次郎にするみたいにあそこまではやられた事ないよ。せいぜい平手打ちくらい」

「そうだよな」急に声が大きくなってしまって奥山がビクッとするが構わず「普通は平手打ちなんだよ、平手打ち」

「それがどうしたの」奥山が要領を得ない様子で窺う。

「だからさ、大人が平手打ち以外で、例えば、蹴りとかグーで殴るのは、もう鬱憤を発散してえだけだろう。大人って、これは躾だとか、お前が憎い訳じゃないんだとか言いながら、本当はもう殴りたくて殴ってんだって、絶対。だからやり返していいんじゃねえか、俺は今度殴られたらやり返す事にするぞ」

「もう、そんなに鼻息荒くしなくてもいいって。言う通りかもしれないけど真次郎には聞かせられないな、今でさえ反抗してるのに。ていうか、青野の場合は殴られるぐらいの事したんじゃないの」

「はあ、ふざけろ、殴られすぎてお釣り寄こせってくらいだよ。小学生の頃とかに『何で殴られるのか分かってるな』とか言って殴った先生いたけど、未だに何で殴られたか分からないし、一緒に殴られた奴が言うには、間違えられたんじゃないか、ってよ、そんな事くらいでバカスカ殴るんだぜ。大人なんて殴って早く問題を終わらしたいんだよ・・・。わるい、俺の話って訳じゃないけど逸れたな」

 久し振りに掃除をして、こたつ布団が無くなってすっきりしたテーブルに座り直して、話をつづけた。


「でも何で、叔父さん家なの。親父さんと駄目なら、母ちゃんとこ行けば良いじゃん。転校したくないとかか」

「転校はしたくないだろうけど、真次郎は僕のお母さんの子供じゃないんだ。母親は別なんだ」

「うそ、マジで」さすがに驚いて次の言葉が出なかった。流石に重いぞ。

「うん、マジ。でも、けっこう、って言うか、この近所の皆はだいたい知ってるよ」

奥山が照れ隠すようにさらりと言う。ていうか、知ってるのかよ。恐ろしいくらいの田舎的な性質だ、とても横浜とは思えないな。


「あんまり自分から話した事ないから、どう話せばいいのか分からないや」

 奥山が口元だけを少し動かして笑う。どう話していいのかなんて笑うけど、皆が知ってるって事は、どこぞの誰ぞが、この話を何度もしているのだろうに。当事者の一人の奥山は話した事が無いって事の方が笑える。


「真次郎の母親は、妾って言うか愛人って言うか、その人の子供で、家に来たのは真次郎がちょうど小学校に上がる年だから5年前。僕は詳しい事は聞かされていなかったけど、真次郎のお母さんが亡くなったからだと思う」

「思うって何だよ」

「大人が話してるのを、断片的に聞いただけだから」

「てか、次郎の奴・・・」想像以上に薄倖な境遇に深いため息が漏れる「大丈夫だったのかよ、次郎は」

「僕も8歳だか9歳だったから、良く分かってないかな。今ほどじゃないけど元気な子だったよ」

「おお、強いな次郎」何だか誇らしくすら思える。


「でも、夜になると泣くんだ。僕も何度か見た事があって、口を手で押さえて、布団にうっ伏して声を殺して泣いているんだ。」

 胸がバクンと鳴って奥の方にキュウと入っていく。チリチリとした小さな痛みを感じながら、泣いている真次郎を想像してみるが上手くいかない。

 いつも小生意気で悪戯な笑顔を見せていた、その顔しか知らない。そりゃそうだろう、母親が死んで辛いところに、更に、誰も知らない家に6歳で来る事になったんだから、そんなの普通は泣くだろ。真次郎の心情を考えるが、自分の薄っぺらな想像力に呆れる。

 情けなさもあってか、またチリチリと痛んだ。ふと、一つ違っていた事に気づく、誰も知らない訳ではなかった。

「父親はどうしてたんだよ、父親は」つい、声に苛立ちが表れる。

「お父さんは・・・」

 奥山がまた、頭をくしゃくしゃとやるから、元々くしゃくしゃの頭が更に乱れる。


「最初っていうか、真次郎が小さい時は可愛がっていたみたいだよ。叔父さん達もそう話してたし。でも、お母さん、ああ、僕のお母さんと上手くいかなかったんだ。

 お母さんが色々面倒見ようとはしてたんだけど、真次郎が嫌がったんだ。例えば、服を着替えさせようとしたら手を払って拒むし、お風呂に入れようとすると逃げ出したり、もう拒絶だよ。     来たばかりの頃は、お父さんが居ないとご飯も食べようとしなかったって聞いた。

 もともとお母さんは、真次郎が家に来ることを嫌がっていたから、その事も大分揉めたらしいけど、それを相当に我慢して世話を焼いていたんだ。だけど、懐くどころか拒絶されるのに耐えきれなくなったらしくて、どんどん関係が悪化していったんだ。でも、分からなくもないよ、真次郎はまだ母親が死んだって分かってなかったんじゃないかな、理解までは出来て無かったと思う。

 急に僕のお母さんが現れても、素直に受け入れられないだろうし、お母さんが母親を追い出したとか、どこかにやったとか、考えてもおかしくないよね。そのくらい嫌がっていたもん。

 最初は優しかったお父さんも、意固地になって拒み続けてる真次郎に、次第にきつく当たりだした。お母さんとも頻繁に揉めるようになっていって、すっかり僕の記憶では、いつも言い争ってる印象だよ。まあ、結局は離婚することになったんだけどね」


 奥山はテーブルに視線を落として、天板の模様をじっと見つめる。

 気遣いとか分からないし、出来ないし、せめて極力明るい声で言う。

「いやあ、俺ん家の環境もなかなかだけど、お前の家もスゲーな、やってらんねーだろ。こう、なんつうか、ウオーっとか、ならねえの」

 顔を上げた奥山が薄く笑う。


「ずっとこうだし、他の家の子供になった事ないから分からないけど、流石にちょっと他とは違うかなって気付いてきた。でも真次郎は他の家で生きていく事になった訳で、しかも上手く行っているとは思えない。でも、僕にどうこう出来る事でもないから。

 真次郎が家に来たときは、急に弟が出来たって、戸惑いみたいのもあったけど、やっぱり嬉しかった。でも、思っていたのと違って、家族と全然馴染まないし、父親はともかく、お母さんやお姉ちゃんを拒否してるのは、腹も立った。でも、寂しそうにしていたり泣いてるところを見ると『可哀そう』って思っちゃった。それって、家族っていうより他人事だよね」

 奥山の言葉が重くなる。家族とか他人とか、どっちも煩わしいものでしかない。そう思っていた。

「そんなの普通じゃん、可哀そうは可哀そうだろ。どう思ったとかあんまり関係ないだろ。お前が次郎の相手になってゲームしたりする事が家族とかなんじゃねえの。そうゆう相手が必要だったと思うぜ、まあ、家族とか、俺にもよくわからんけど」

 奥山が顔を上げて「青野が、そうゆう事言うなんてね」と笑い「うるせえ」と返す。


「でも、今ほど仲良くはなかったよ。真次郎は生意気だったし。青野にあんなに懐くなんて思わなかったよ。あんなに笑ってるのも初めて見た。誰にも懐かないと思ってたよ。去年くらいから青野と時々過ごすようになって、良く笑うようになって、僕や叔父さん達とも距離が縮まったと思うよ。お父さんとは相変わらずだけど」

「俺様のおかげだな」大袈裟に笑ったが、遠慮して「それでも良いんだけど、次郎が少し大人になっただけじゃねえの」

「僕もそう思う」と、奥山も顔を上げて笑い「でも、きっかけになったのは青野だと思うよ、小学生の真次郎には青野のケンカの話とか衝撃だったろうしね」


 開けっ放しの窓から、5月にしては少し冷たい風が入ってきた。こたつを仕舞うのは少し早かったかなと過るが、気持ちの良い風が頭を冷ますには丁度いい。

 身体をのけ反らせ、両腕を開いて伸びをする。

「ちょっと重たい話で喉乾いた。麦茶か何かくれよ」

 奥山が席を立ちドアを開けると、部屋に漂っていた重たい空気が換気される。飲み物を取りに行った奥山の背中に投げかける。

「ベン、氷ケチるなよ」


 庭の空間を覆うように木々が生い茂っている。若葉を付けた夏椿の木が窓の外で揺れる。まだ花を付けるのは早いだろう。

「あ~あ、もう5月も終わりだなあ」思わず洩らすと、奥山が麦茶を持って戻ってきたところだった。

「5月の終わりって、まだ15日じゃない、半分だよ」

 テーブルに麦茶を置くと、グラスの中で氷が触れてカランと鳴る。


「ああっ」

 奥山の急な大声で、口に含んだ麦茶を吐き出しそうになって咽る。

「なんだよ急に」

 何を思い出したのか、奥山が興奮気味に慌てて言い出す。


「誕生日だよ、今日が誕生日だった」

「あっそう、おめでとさん」

「違うよ、真次郎だよ。真次郎の誕生日」


「マジかよ」声の音量が上がる「次郎はどこにいるんだよ」

「わかんないけど、叔父さん家に居ると思う。自分の部屋を貰ったから」

「ちょっと連れて来いよ」

「あ、うん」

 

一瞬躊躇した奥山だが、慌てて動き出す。

「あ、待て待て。叔父さんとか友達とかで、誕生日祝ってたりするのか」

「分からないけど、毎年大したことしていないと思う。僕も、今日こんな話ししていなかったら気にもしなかったし」

「じゃあ、何も予定していなかったら連れて来いよ、何か予定あったらそっち優先させるんだぞ」

「分かった、行ってくる」と、部屋を出ようとする。


「待て待て待て」

「な、なに」奥山が振り返って、肩を落とす。

「お前、いくらある?俺は300円ある。ヤマザキのショートケーキって100円だよな、あとジュースとかほしいよな、酒とか」と、言って手のひらを出す。

「1000円でいい?あと酒は駄目だから」奥山が戻って財布から1000円を渡すと、部屋を出て行った。

 そういえば、人の誕生日を祝うなんてしたことあったかな、とか思い返しながら部屋を出た。

 庭の夏椿をくぐり、門の横にある錆び付いた奥山の自転車に跨る。

「あいつ、手入れしてないのかよ」

 錆びて重たいペダルを漕ぎだすと、耳障りな音を立てて進みだす


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