17,中学受験
相光学園はそこそこ有名な私立の進学校で、入学するのにはそれなりに勉強もした。六年生の時には学習塾の他にも一週間に二八時間とか、言われて、ゲームも一日一時間、テレビはほとんど見ないから学校の話題にも付いていけなかった。
アメリカの国鳥である クトウワシのマスコットが盛んに宣伝していた、84年のロサンゼルスオリンピックの頃は、がっつり夏期講習で、カールルイスの4冠も、山下泰裕の涙の金メダルも、映像を見たのはけっこう後になってからだった。
それまでしてでも、中学受験までして進学したのは、別に家が医者の家系とか、どこぞの御曹司で、将来は事業を継がなければいけない、という訳でもない。普通よりは、ちょこっとだけ裕福。だと思っていたのは、両親ともに働いていたからだ。当然負担になる私立を選んだのは、公立中学に空手部が無かったからだ。
共稼ぎだった事から、小さい時から、親の友人でもある空手の先生の道場に通っていた。小学校に上がる頃から、立ち、突き、蹴り、受け、呼吸と、基礎を教わり出していた記憶がある。
初段は十三歳にならないと受けられなかったけど、一級までは比較的順当に昇級したし、五年生の時には県大会で優勝もした。全国の本大会には怪我で出場出来なかったけど。 けっこう達成感はあった。だから、公立中学に進学すると空手部が無いと聞いて、これで空手辞められるかな、とか、思っていたけど、空手の先生に、私立に行けば空手部があると言われ、親には、どうせ私立なんて受からない、なんて言われるものだから、反骨心から火がついて、親もああ言った手前、引けなくなった。
公立に行ってのんびり道場に通うと言ったけれど、先生は、組手の相手に困らないからと、絶対に部活は経験したほうがいいと、忍ぶこと無く受験を押して来た。
結局は奇跡的に受かって、私立相光学園に入学し、晴れて空手部に入部する事が出来た訳だ。一年の時に三年生が引退して、部員が居なくなり、この秋からは活動休止じょうたいだけれど。
うちのような坊ちゃん進学校は、ちょっと粗悪な連中から、喧嘩やタカリで、すぐにカモにされるのはアリガチな話だ。
駅前で「ちょっと来いよ」と、絡まれる事もあるけど、坊ちゃん校を狙って絡んで来る様なシャバ僧なんて負ける気もしなかったし、逆に鬱憤晴らすには丁度良かったりした。
だから、東急ストアのベンチの所で、いかにも程度の低そうな奴らが、見るからに頭の良さそうな、相光の制服姿の生徒を挟んで座っていたから、割って入った。
「お兄さんたち、うちの生徒に何してんの」
急に声を掛けられて、一瞬ビクッとしたが、ブレザーの制服を見て、鼻で笑い、すぐさま凄んで来る。
「ああ、坊ちゃんが何の用だあ」と、頭を上下にゆっくり揺らして「こっちはいま、大事な商売の話をしてんだよ、ちっと、他所いっとけよ」と、相光生に肩に腕を回す。相光生は肩に蛇でも巻かれたかのように、眼鏡を曇らせて硬直している。
「いやいや、商売って、ただのタカリでしょ」
間髪入れずに返すと、手前にいた野郎が立ち上がって近づいて来る。
「おい、人聞きの悪い事言うなよ、この貴重なライターが一つ一万円のところを、特別に三千円でいいよって言ってやってるとこなんだから、邪魔するなよ。それとも何か、坊ちゃんも売ってほしいのかな、しょうがねえな、君は2万円でいいよん」
そう言って歯並びの悪い歯を見せて笑う。
「マジっすか、あの有名なライターでしょ、2万円でいいんすか、やった、ラッキー」お道化て、財布を出して中身を確認してみせ「あれ、ちょっと、足りないかなあ」と、大袈裟に言う。
「なんだよ、いくらあんだよ」
「一万八千円しかないや、ほら」っと財布の中を見せる。
「どれどれ」
ニヤけて財布を覗き込んできた顔に「そんな訳ねえだろ」と、右拳を打ち抜いた。何の防御もしていなかったので、そのまま地面を覗き込むように倒れた。
相光生の肩に手を回していたもう一人の輩が、口をあんぐりと開けて急な展開を呑み込めないでいた。相光生はといえば、先程よりも更に身体を硬直させて、自分は見ていないと言わんばかりに、足元の地面を凝視していた。
あんぐり顔の目の前に立つと、抵抗の意思を表情で見せようとするが、もう動揺が隠せない。腕を掴んで立たせようと引っ張ると、「あ、お、おう」と、どういう立場で発したのか、素直に立ち上がった。
ケンカの大半は、一、二発で決まる。殴り合いになる事など殆どない。よっぽどケンカ馴れした大物はべつだが。だから、先手必勝というのは強ち間違いじゃない。殴りあう前に戦意喪失してもらうのだ、余程の恨みでもあれば別だけど、会ったばかりの相手にそこまで争う意思なんて無いのが普通だ。もし、不意を突かれて先に良いのを一発二発と貰ったら、もうやる気も失せるから、沢田としては殴りあった方が自信あった。
空手の上達にはケンカが一番だと聞いた事があるけど、そうは思わないのはそのあたりで、、組手の状態になる事など殆どないからだ。もちろん、稽古を続けていれば体力もつくから自信はあったけど、ケンカの技術は別物で、それはケンカをこなさないと身に付かない。今回のケンカはそれすら無いだろうけど。
戦意喪失した輩は、地面に蹲り呻いている相棒を揺り起こして、チラチラこちらを覗き見ながら立ち去ろうとしている。一応、威嚇のつもりで二、三歩寄ると、足を速めて退散していった。
ベンチに目をやると、もう相光生の姿は無く、代わりに同い年くらいの紺色の学ラン姿が座っていた。沢田がきょろきょろとしていると、
「ここにいた眼鏡の人ならもう行っちゃったよ」何とも読み取りにくい表情で言った。
「ああ、そうなんだ」
別にお礼を言ってほしかった訳では無かったけど、少しだけ寂しかった。
「あれ、お礼でも言ってほしかった?友達には見えなかったから、俺がもう行けって言っちゃったんだ、悪かったか」
まるで見透かされたように言われて驚く。
「いやいや、そんなんじゃないけど」
「あんまり、弱い者いじめするなよな」
言い方に悪気があるようには聞こえなかったぇれど、心外な言葉に堪らず反論する。
「いやいや、弱い者いじめはあっちでしょ、うちの生徒にタカってたろ、見てたんじゃないの」
思わず声が荒くなる。こいつも因縁つけてくるのだろうかとも思ったけれど、そんな雰囲気ではなかったので、何が言いたいのか計り知れなかった。
「まあそうだけど、お前、最初から負ける気しなかっただろ、相手の事おちょくってたし、ケンカしたかっただけじゃねえの」
沢田は、見透かしたように淡々と話すのが腹立たしくて、ポケットの中で拳を握った。
「なにそれ、あんたもケンカしてえの」思わず言ってしまう。
「あぁ、したかったらどうしてくれんだ」
空気が変わった。目が鋭く尖り、眉が上がった。ピリピリと電気みたいなものでも放出してるかのようだ。沢田は別に呑まれた訳でもないし負けるとも思わなかったけれど、痛いところを突かれて八つ当たりするみたいで格好悪いと思い、萎えた。確かにそんな部分もあったかも知れない。うちの生徒が絡まれてるのを助けてヒーロー気取りになって、実は自分がケンカをしたかっただけだ、しかも負けないケンカ。
「チッ、またイジメたくなったら相手してくれよ」と、引いて立ち去ろうとする。
ベンチに座ったまま笑顔で「気を付けろよ~」と、手を振っている。
これが、一年前の青野春彦との出会いだった。
「ガキじゃねーっての」と、答えた。笑顔かよと、苛立ったけれど、春彦が言っていたのは気を付けて帰れよという意味では無かった。
ケンカの大半は、一、二発で終わる、シャバ憎相手なら尚更だ。そう思っていたけれど、間違っていた、クズが相手では終わらない。そういう意味の忠告の『気を付けろ』だった。
相光にも、少なからず何人かいるトッポイ連中が、顔を晴らして駆け込んできた。
ガラの悪い連中が沢田を駅前の公園に連れて来いと、相光の連中を片っ端からシメてると言う。すぐに飛び出して来たのは、頭に来たのも勿論あるけど、とばっちりじゃねえかよと、言いた気な目が堪らなかった。こんな時に一緒に付いて来るような仲間もいない事を知った。
「くそっ、駅前公園ってどれだよ」
思わず溢したのは、駅前には東口に二つ、西口に二つと、小さな街区公園があったからだ。 公園とは違うけれど、駅前といえば、駅前広場の気もする。取り敢えず一番近くの駅前広場に行ってみる。
端っこのベンチの所に項垂れて座り込む相光生が居た。その前に学ラン姿が立っている。
「ビンゴかよ」
近づくと、ベンチの前に立つのはこの前の男、春彦だった。
『アイツはこの前の・・・ふざけやがって、この野郎』怒りが沸き上がって来る。勝手に裏切られたような気分もあった。こんな事はしないタイプだと思っていたからだ。拳を固く握りしめる。
「てめー」
怒声を上げて走り寄る沢田に気づいて振り向き「よう」と軽く手を上げた。さわだは構わず、硬く握った拳で、春彦の左頬を打ち抜いた。十分な手応えがあり、これで決まったと確信して「クソ野郎が」と吐き捨てた。二歩下がってそのまま倒れるかと思ったが、踏ん張って、その反動を利用して返す。
「痛えなこの野郎」
沢田の頬に激痛が走る。痛みもさる事ながら、殴り返された事に驚いた。驚きながらも右で殴り返すと、更に重たいパンチを叩き込まれた。
堪らず前蹴りを入れるが、脚が伸びきる前に突っ込まれて受けられて威力を半減させられ、しかも間合いを詰められて、そのまま、また右を打ち抜かれた。
沢田はケンカで初めて殴り合いをしていた。向かい合う春彦が薄く笑った。自分も笑っていた事に気づく。目の前の男を改めて見ると、そんなに大きい体格ではないのに、何処にこんなパンチを打つ力があるんだろうと感心する。
「テメー」と叫びながらワンツーを打ち込むと、ワンツーを返してくる。振りだって雑で当たりそうもないのに、これが見事に打ち抜いて来る。全身がバネで出来ているのではないかと思えた。蹴りは受け流されて、右を喰らう。コイツが何故こんな事をしたのかと怒りも沸いて来る。蹴りからのコンビネーションを入れようしたが止められて、逆に3発入れられる。とこの男に負けたくないと心底思った。もはや型も崩れて食い下がる。次第に意識が薄れていく。ちきしょう、負けたくねえ。地面に倒れて、その男を見上る。ちきしょう。
「おいおい、俺らの獲物に何してんだコラ」
横から、聞き覚えのある癖の強い声がした。
「何だテメエらぞろぞろと」
頭を上下させて揺れながら近づいていく。
「お前知ってるぞ、青野とか言う川名のガキだろ」
かわな・・・コイツ、あおのって名前なのか。
「こんなにしちまってよ~、可哀そうによ~」
倒れている沢田の腹を足蹴にする。「ぐあっ」と、声が漏れる。何でコイツらがと思いながらも、合点がいった。間違いに気づく。ちきしょう。
「その足放せテメー」
『あおの』が男を蹴り飛ばした。思わず笑いが零れて、そこで意識が飛んだ。
風が吹いて視界の前の木が揺れて、緑を失いだした葉が乾いた音を立てる。その先の空は青く雲も少ない。割とすぐに、公園のベンチに寝ていると気付いた。頭に何か、タオルが掛けられている。
「気付いた、気付いたぞ」
「沢田、大丈夫か」
顔をのぞき込んで来たのは、相光の連中だった。皆の顔が近くて、堪らず起き上がろうとするが、ズキンと、痛んだ。
「大丈夫?まだ横になってた方がいいよ」と、気に掛けてくるのを、手のひらで大丈夫と示して、ゆっくり横になる。気恥ずかしかったけれど、訊いてみる。
「俺って、どうなっったの・・・かな」
「沢田がいきなり飛び出して行っちゃったから、皆で追いかけたんだけど、どこの公園だか分からなくって、駅前広場の端の方に何人か人がいるのが見えて、それで、な」
周りの連中が揃って頷く。
「何でだよ、俺のせいで巻き込んじまったのに、迷惑だったろ」
そう言った言葉には我ながら力が無かったと思う。
「何言ってんだよ、いつも俺らのせいでケンカさせちゃって、俺らだって力になりてえよっ、仲間だもん、なあ」
「おおっ」
「て、言っても、何も出来なかったけどね、この木刀使わないで済んだよ」
「ああ、俺らが行った時には、もう終わってたもんな、高校生四人相手に全員倒しちゃったもんなあ、あの人」
「俺の事殴った奴も倒れてたよ」
「沢田の友達なんだろ」
「なあ、沢田」
また風が吹いて木を揺らしたから、タオルで顔を隠した。
公衆電話の呼び出しベルが駅前の通路に短く響いた。
「沢田くんへだよ」
御木本良太が、公衆電話の受話器を渡して寄こす。電話の向こうから聞き馴染みのある仲間の声が聞こえた。
「江藤たちの居そうな場所が分かりましたよ。俺は、青野君と合流するんで、後お願いします」
良太たちに、詳細を言い残して、駅前の公衆電話を後にして階段を駆け下りる。




