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時刻はそろそろ昼食の時間に迫ってきていた。そういえば朝からほとんど食べていないことを思い出すと、急に腹の虫が泣き出し始めた。
石上家の捜査員たちは監視カメラの発見にすっかり色めきたっている。既に現場から引き返していた鑑識課の責任者も戻ってきていて、カメラ発見の経緯を藤間に詳しく問いただしていた。自分たちが発見できなかったことが相当悔しいと見える。
刈安は上司からの指示があったとかで、窓枠の歪みや家中のドアや窓を調べ始めている。恐らく窃盗の痕跡を残した人物を第一有力容疑者として捜査する方針になったのだろう。宗一郎氏の遺体発見時、家の鍵が閉まっていたので、一人娘の石上杏樹が唯一の合鍵の持ち主と思われていたが、窃盗犯が合鍵を作ったのなら話は別だ。
とりあえず杏樹の容疑はほぼ晴れたに違いない。殺害時、間違いなく氷純と一緒にいただろうし、温泉街のそれなりに人の多い場所にいたなら、目撃者なり監視カメラなりに映っているだろうし。
久市来翠はキッチンのカウンターに一人腰掛けて、忙しく動き回る人たちを遠目に眺めている。杏樹への疑惑が晴れて力が抜けたのか、あるいはあっさり事件が解決してしまいそうでつまらなくなってしまったか。…恐らく、両方だ。
久市来翠は時折、自身に根付いた善性ーーこの場でいうなら、知人が殺人者でなかったことを喜ぶ心、あるいはその父親の死を悼む心ーーとは別に、事件が自身の好奇心を満たすかもしれない期待を抱いてしまうことを後ろめたく思ってしまう。他人の不幸は痛ましい…しかしそれ以上に、心が躍る。
ーーどうかこの事件が複雑かつ難解で、自分の心を満たしてくれるものであれ。
そんな期待が拭いされないのだ。
もうすぐ松春とともに杏樹と氷純がここに来る。さて…どう声を掛けてやったものか。
「こんなところにいたのか、作家先生よ」
リビングの入り口から、藤間がひょっこり顔を出した。ベテラン捜査員からの質問攻めからやっと開放されたらしい。すっかり辟易した様子で彼は久市来の隣の椅子に腰掛けた。
「お前、この家のことどう思う?」
藤間はぶっきらぼうに聞いてきた。
「どうとは?」
「そうだな…例えばこのキッチンのカウンター。そこの大きなテレビとソファ。広い玄関に、大きな靴箱」
「どうって…普通の家族が住んでる家って感じだけど」
久市来は戸惑いを隠さず、周囲を見回した。
キッチンには調理器具や家電の類がしっかり揃っている。以前料理好きの知人が言っていた「料理が楽しくなるキッチン」とやらに雰囲気が似ている。きっとオーブンでお菓子を焼いたり、寒い日に鍋を囲んで団欒したり、このカウンターで晩酌を楽しんだりできるのだろう。時にはソファに身体を預けて映画を見たり、そこの写真集を眺めて楽しんだり。
久市来はそこまで料理好きではないし、酒もそこまで嗜まないのでこんなキッチンのある家に住んだところで宝の持ち腐れになるに違いない。自室にテレビも置かない彼は、大きい画面で映画を見るような趣味もないので、ここにある家具たちを使い熟す自信はこれっぽっちも…。
おや。
「…言われればそうだな。…これ、誰が使うんだ?」
推理作家は首を傾げる。藤間は満足そうに鼻を鳴らした。
どうやら、これらの家具類を置く家の内装とそこに住む人たちのことを別個に考えていたらしい。久市来自身がここに住む姿を想像できないのと同じく、石上宗一郎氏と石上杏樹親子がここで団欒している姿も想像できない。
親子の仲は少し前から上手くないとは言っていたが、それ以前は仲が良かったにしても、この内装は確かに意外だ。話に聞いた石上宗一郎は交友関係が狭く地味な人間で、料理や映画といった趣味はなく仕事しかしていないような人物である。あくまで主観的な話ではあるが、そういう人物はもっと機能的で素朴な家に住んでいるものではないだろうか。もし、家の中をこんな風にしようとするならば。
「奥さん…を、意識してるのかな。もしかして」
久市来の言葉に、藤間は頷いた。
「宗一郎がこの家を建てたのは、妻の菜美花が死んでからだそうだ。その時杏樹はまだ幼かったそうだから、まさか娘が料理好きになると信じてこういう家にしたってのは違うだろう。…夫婦仲はずいぶんよかったらしい。料理好きで気立てがよくて…生前周囲の間では評判が良かったそうだよ」
「刈安から聞いたのか」
「おう。ーー流石にこの家にもう一人誰か住んでるとか、娘の目がないところで女を連れ込んでるとかはないと思う。そしたらもう少しはっきり痕跡が残ってるし。でも、こういう家族団欒を求めるような家には、母親の…妻の存在を感じるな」
「……奥さんってなんで亡くなったわけ?」
「自殺だったそうだ。原因は…わからん」
「…そう、なんだ」
久市来は軽々しく聞いてしまったことを後悔した。人伝に聞くような話ではない。
まもなく、松田雷太刑事の運転する車で杏樹と氷純がやってきた。捜査員に付き添われて入ってくると、藤間と久市来を見つけて寄ってくる。
「お二人とも…ご迷惑お掛けしております」
深々と頭を下げた。固い意志を持ったような目が余計に痛々しい。久市来は迷ったまま、杏樹は捜査員に呼ばれてリビングを出て行った。ーー開いた口が、ぱくぱくと言葉を探す。
杏樹はまず遺体のあった寝室に通された。血痕だけが残されたベッドを、一人娘は虚ろな目でぼうっと眺める。抜け殻のようなその肩に、誰も声を掛けることができなかった。
「お父上の部屋で、何か変わったことはありますか?なくなっているものがあるとか、動かされているものがあるとか」
やっと振り返った杏樹に、刈安刑事が遠慮がちに尋ねた。
「……そう、ですね……」
杏樹はぐるりと室内を見回し、やがて首を横に振る。
「…すみません。あまり父の部屋に入ったことがないので」
それから杏樹は一通り家の中を見せられたが、特に気付いたことはなかった。物置部屋の金庫は、いつもは閉じていたとのことで、杏樹自身は見たことはないが、現金が入っていると父親に聞かされたそうだ。ーーもし、自分に何かあったらのために暗証番号も聞かされたそうだ。
「金庫の暗証番号を知っている人は、他にいますか」
「わかりません。そこまでは…」
杏樹はまた力無く首を振った。
彼女は庭に隠されていたカメラについて、聞かされていなかったそうだ。空き巣についても知らなかったようだが、窓が修理されたことは覚えているという。以前強風で飛んできたものでガラスが割れたんだと説明されていた。
「…わたし、本当に…父のことなにも知りませんね」
自嘲の言葉とともに、とうとう杏樹の目から涙が溢れた。
「…前はこんな風じゃなかったんです。母が…母が生きていた頃は家族三人で仲良く暮らしてたのに…。母が亡くなってから父は、わたしと何も話さなくなって、家のことも、会社のことも、なにも…わたしの進路だって、好きにしたらいいってそれだけしか言ってくれなくて」
溢れる感情を吐露するうち、杏樹は膝から力が抜けるように崩れ落ちた。緩いウェーブがかかった髪が、彼女の横顔を隠している。
杏樹は氷純と女性警官に付き添ってもらいながら、自身の部屋から必要なものを鞄に詰め込んだ。しばらく鳴梟荘の氷純の部屋に身を寄せるそうだ。今にも倒れそうな杏樹を支えて再び松春刑事の車に乗せると、氷純はさっと推理作家のところに寄ってきた。
「犯人、もう見えてるんですか」
「…いや、まだはっきりとは。一先ずは、庭の監視カメラの確認と、それから遺体の頭部探しが目下の目標だと思う」
家中を捜索したものの、切り落とされた遺体の頭は見つかっていない。現在、付近のゴミ置き場や空き地などに範囲を広げて懸命に捜索しているところだ。
「僕が言うことじゃないけど、しっかり支えてあげてね。杏樹ちゃん」
「…はい、もちろんです」
氷純は作家と探偵に、それおぞれきつい視線を投げて車に乗り込んで行った。




