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築30年の古めかしい洋館風外装。蔦の這い回る不気味な煉瓦調の壁は溝に黒ずみを溜め込み、おしゃれというより不気味な空気を醸している。表の車通りから背の高い木々で囲われ、建物の全体像がいまいち見えづらいというのもこの共同住宅が敬遠される原因の一つだろう。割と条件のいい土地にあるのに、ここ数年新しい住人も来なければセールス、宗教勧誘の類も寄りつかない。
実際住んでいる住人たちも、何をしているかわからない、謎だらけの不思議な面々が多い。特にいつもその辺をウロウロしているニート風の顔色の悪い男が、取り分けご近所の奥様方からあらぬ噂を寄せ付けていた。アパートの前には広めの公園があるものの、得体の知らない連中の溜まり場になっているから近づくなと、子供に言い聞かせているらしい。
そんな現代の化け物屋敷を名乗る、アパート『鳴梟荘』はそういう場所だった。
「特に朝靄がある日はいけない。機嫌の悪い吸血鬼が寝ぼけて公園まで出てきてしまうから、子供なんぞ近付こうもんなら秒で食い物にされてしまうからな」
「……久市来先生はファンタジー作家に転向する気か?応援だけはしてやるよ」
「まだミステリで頑張りたいなぁ」
久市来翠は早朝からコーヒーをお供に四苦八苦していた。昨日は遅い時間に夕飯をとったので、興が乗って次の新刊のアイデアが浮かんだ気がしたのだが、雨とか吸血鬼とかいう曖昧なワードはぼんやりとしたイメージしか掴めず、すぐにキーボードを叩く指は停滞してしまった。
そんな様子を、吸血鬼ーーもとい無職の悪友、藤間が憐みの視線で見守っている。何故自分の部屋に帰らないかは、いつものことなので放っておく。
久市来はすっかり重くなった瞼を擦り、コーヒーを淹れ直すためサーバーを持って立ち上がった。先輩作家から譲ってもらった古いデスクチェアが大袈裟に悲鳴を上げる。
薬缶の湯気を顔に当てながら、久市来の頭で夢うつつに担当編集の顔が過ぎる。次の締め切りが刻々と近づいている今、未だにプロットさえ仕上がっていないというのは非常にマズい。担当の立派な眉毛も会うたびに吊り上がってきているし、そろそろ本格的に書き始めないと非常に厳しい状況なのだ。
昔から、期日を守るということが苦手だった自覚が大いにあるのに、何故作家になぞなってしまったんだろう。筆が止まると、彼はいつものように思い悩む。それはもちろん作家業というものに強く憧れがあった故のことだ。それにしても自分の改善されない遅筆具合で、いつも担当に迷惑を掛けてしまう。こんなに仕事のできない作家を担当することになっただなんて、彼はなんて運が悪いんだろう。
サーバーに目一杯のコーヒーを淹れて戻り、またデスクチェアが悲鳴を上げる。…とほぼ同時に、玄関のインターホンが鳴った。こんな朝早くに、来客か?ソファに寝そべる藤間も身体を起こし、二人して顔を見合わせた。すると、今度は勝手に扉が開いた。
「おはよう変人ども。息災か?」
本当に勝手知ったる調子でずかずかと入ってきた男は、この部屋の扉より少し背が高い。欄間に手を掛け、仕事部屋を覗いて唇の端を吊り上げた。しっかりアイロンを掛けたスーツにネクタイを締め、天然パーマの髪を清潔に刈り込んでいる。
若き名刑事、刈安耕介の登場である。
「刈安〜!お前みたいなのを待っていた!」
「みたいなの、とはなんだ、みたいなのとは」
久市来は突然の闖入を喜んだ。藤間をどかし、ソファを進めて手早くコーヒーを差し出した。本当はケーキのひとつでも出してやりたかったが生憎冷蔵庫はすっからかん。とりあえずその辺に放っていた知人の沖縄土産ちんすこうで我慢してもらうことにする。
彼は久市来、藤間の旧友であり、日々凶悪な犯罪に立ち向かう勇敢な警察官でもある。三年前くらいから刑事課に異動となり、忙しい合間を縫ってこうして訪ねてきてくれる。刈安と書いてネタと読む、頼れる友人の一人だ。特にこういう日の久市来にとっては、救世主にも等しい。
「どうしたんだよ、こんな朝早くから。事件か?事件なのか!警察の力をもってしても解決できない大事件なのか!」
前のめりになる作家をよそに、刑事は小声で訊いた。
「なに、締め切りか?」
「そんな感じ」
藤間は淹れ直されたコーヒーを熱そうに啜りながら答えた。
刈安は他愛もない世間話を挟むが、本題を待ちきれない作家の圧に押され、やや遠慮がちに話し出した。
「仮に、で答えてほしいんだが。ーーえー、……例えば、首のない遺体が発見されたとする」
「首無し殺人!?」
死にそうな顔の久市来が素っ頓狂な声を上げる。
「遺体の首が失くなったの!」
「うるさい」
刈安にピシャリと制止され、一旦小さくなって座り直した。
「殺人事件か?」
「間違いなく。遺体はベッドに寝かされていたが、胴体しか見つかっていない。首は鋸らしき道具で切断されていた。明らかに人の手によるものだ」
ーーそりゃあそうだろう。
思わず揚げ足を取りそうになり、久市来はコーヒーカップに口をつける。隣に移動してきた藤間は、特に動じた様子なく刈安の話に耳を傾けた。
「殺害されたのは石上宗一郎、47歳。小さな食品輸入会社を経営する社長で、昨日夕方の6時に自宅を訪ねた従業員によって発見された。社長の忘れ物を届けにきたら、異臭がしたので庭の方に回り、寝室の窓を覗いたら遺体を発見したそうだ。
さっきも言ったが、寝室のベッドに寝かされた状態で首から下だけが発見。残念ながら切断に使った道具は現場には残されていなかった。
死因についてはまだ解剖の結果待ちだが、胴体の状態を見るに死んでから首を斬られたらしい。刺し傷の類もなかったし、毒物も検出されなかった。絞殺の可能性が高いとのことだ」
「身元は社長本人で間違いないのか?」
藤間がやにわに口を挟む。
「ミステリなら真っ先に疑うケースだろ」
「寝室の指紋と遺体の指紋が一致したからまず間違いない」
藤間は意味ありげに隣の作家に視線を投げた。久市来はただ首を傾げて応じる。
「ところで石上社長の自宅に置いてあった金庫が開けっぱなしで放置されていた。発見者に聞いたが、前から何も入っていなかったのか、それとも殺人に伴って中身が盗まれたのかはわからないらしい。」
「強盗の線があるってことか?」
刈安は露骨に眉間に皺を寄せる。
「強盗とは違うな。自宅は争った形跡はおろか恐ろしいほど綺麗に整頓されていた。玄関にも金庫にもピッキングでこじ開けた形跡はないから、犯人は石上社長の顔見知りで、被害者本人から招かれて侵入した可能性が高い。金庫の鍵も開けられた人物だろうな」
「ふーん…」
「現在、石上社長の唯一の家族である娘の行方を捜索中だ」
「へぇ、娘をねぇ…ん?」
藤間は何かに気付いたように、虚空に視線を留めた。刑事も露骨に大きくため息をつく。
「娘、行方不明なのか?」
「行方不明というか、帰宅してないんじゃないか?旅行だったみたいだし。ーーなんでわかるかって?石上社長の寝室からスケジュールが…」
「きゃあーっ!!」
言いかけたところで、廊下の方から悲鳴が聞こえてきた。女の声だ。
三人は誰からともなく廊下へ飛び出した。しかし、住人たちの部屋が並ぶ廊下には誰もいない。少し遅れて、奥の部屋から斑目氷純が顔を出した。ーーということは、声の主は。
やはり日頃の運動量か、刈安が先頭を切って廊下を駆け降りる。エントランスホールを通過して共用の大広間に雪崩れ込むと、予想通り石上杏樹が尻餅をついた格好で硬直している。
「杏樹!どうしたの!」
氷純が駆け寄る。
男衆は、ひとまず不審者がいないことに安堵して大きく息を吐いた。悲鳴を上げた本人も、特に怪我などはしていないようだ。
「ご、ごめんなさい、驚いちゃって。広間の方から変な音がするから、気になって見に行ったら…」
杏樹の視線を追う。
「ああ」
大広間の頭上、太い梁の上にいたそれに、住人たちは納得して声を上げた。鳴梟荘を代表する最古参の“住人”で、ここに住んでいれば誰しもが会った事がある。
むくむくとした身体とくるくる回る首。上から目線で人間どもを見下ろし、余裕たっぷりに目を細めるそれは、ここ鳴梟荘に何故か棲み着いているメスのフクロウ。その名もミセス・マープル。
「まだいたのか、あの鳥」
刈安が呆れたように呟く。
「マープルだよ!ミセス・マープル!」
「ごめんね杏樹。あの鳥、知らないうちにここに棲みついた迷子みたいでさぁ。警察に届けても飼い主見つからないから、気に入っちゃった大家さんが面倒見てるんだよ。怖かった?」
「マープルって呼んでよぉ」
一応名付け親の作家が嘆く。誰もまともにマープルと呼んでくれたためしがない。
氷純は友人を心配して声を掛けるが、杏樹は「驚いただけだから」と微笑み、むしろ梁の上のフクロウに興味津々といった様子で見上げている。動物が好きらしい。
「可愛い。撫でられるかな」
「機嫌が良ければ寄ってくるよ。あ、素手だと危ないから手袋してって大家さんが言ってた。取ってこようか?」
「いいの?」
無邪気な少女は先ほど悲鳴を上げたことなどすっかり忘れてしまったらしい。氷純と二人、連れ立って手袋を探す旅に出ていった。
その背中を見送り、藤間は小声で刈安に聞く。
「…まさか、お前が探してる石上社長の娘って」
「ああ、あの子だ。石上杏樹。昨日、首無し遺体で発見された石上宗一郎の一人娘だよ」




