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街灯が一瞬、揺れたように見えた。蜘蛛の巣だらけの無機質な光が、途端にぼやけた。
ぽたり、ぽたり。
フロントガラス越しに落ちてくる水滴が、怪しい夜の駅舎を覆っていく。クリスマスの時のイルミネーションが、バレンタインを過ぎてもまだやかましく煌めいていた。
「とうとう降ってきたぜ」
助手席の友人が、舌打ちをして恨めしげに言う。
「こんな日に迎えに来いたぁ、図々しい女どもだぜ」
「そんな言い方するな。可哀想だろ。大体、迎えを頼まれたのは俺なんだから、お前は待ってても良かったんだぞ」
「馬鹿を言え。そんじゃ誰が夕飯を作るんだ」
「いい加減自分でやんなさいよ…」
運転手は呆れ顔で友人を睨め付けた。
この藤間恭平という男は、何故か自炊というものを一才しないことにこだわっているらしく、なのに毎日外食ですませるほど裕福でもないので、日常的に誰かの食卓にどうにか相伴しようとしてくる。
普段は隣室に住むこの運転手…もとい、この売れない作家、久市来翠が夕飯当番を請け負うことで他人様への迷惑行為を防いでいるが、当の夕飯当番が外出するとなれば、これだ。
せめて運転免許くらい取っとけよ。
久市来は心の中で悪態をついた。
時刻は午後10時過ぎ。駅舎の前には久市来たちと同じく迎え待ちの車が数台並んでいる。どうやら電車の運行にトラブルがあったらしく、もう一時間近くも遅れているのだ。きっとみんなの待ち人も同じ電車に乗っていることだろう。
「キラ、今日の夕飯なに」
藤間は窓の外の雨粒を眺めながらぼんやり聞いてきた。
彼は久市来のことをキラと呼ぶ。以前はアキラと呼んでいたが、いつの間にか縮んだ。そのうちキかラだけになっているかもしれない。千と千尋方式の略式だ。
夕飯、夕飯…。
夜の10時にやっと夕飯の心配をし始めるあたり、生活リズムが整っていない。…二人とも独り身ゆえに咎められることもないのだが、こんなに自堕落に生きていると不思議と罪悪感が湧いてくる。
昨日なに食べたっけ。確か、冷蔵庫にあるもの適当にぶち込んで煮た闇鍋もどき。イベント性も冒険性もないあの鍋は闇鍋といえるのか?強いて呼ぶなら無難鍋だった。
そしてその前は確かカレー、シチュー、カレー、シチューときて、ええと…。
思考が迷走を始めたあたりで、窓をとんとん叩く音がした。助手席側の窓だ。二人組の女子が笑顔で手を振っている。久市来はにこやかに手を振り返して後部座席のスライドドアを開けた。
「やーごめんねキラ先生!急に迎え頼んじゃってさぁ」
「構わないよ。あ、荷物、よかったら後ろに置いてね」
「はぁい」
後部座席に雪崩れ込んできた二人は、パンパンに膨らんだトラベルバッグを抱えていた。斑目氷純は無遠慮に雨粒を払ってバッグを後ろに放り込む。石上杏樹は遠慮がちに「すみません」と呟きながら、そっと自分のバッグを下ろした。
二人は同じ大学の友人同士で、一泊の旅行に行っていた。本来なら電車を降りてバスで帰るはずが、件のトラブルで最終のバスを逃し、そこで隣人のよしみで久市来に泣きついてきた。今夜は雨の予報で、歩けばお土産が濡れてしまうーーなんて言って。
「どうだった?初めての温泉旅行は」
久市来は車を走らせながら訊いた。バックミラーには満足そうな女子二人の笑顔が映る。
「楽しかったよ。いやあ、温泉なんて大人にならんと楽しくないって思ってたけど、全然そんなことなかったよ。ね?旅館のバイキングがめちゃ美味しくてさあ」
「うん、私もああいうの初めて。…あ、ひいちゃん、バイキング5回も回ってたよね」
「し、失礼な。6回だ、6回。バイキングでは最低6回は回るのが礼儀だってマドマーゼル洋子が言ってたんだぞ」
「嘘だあ。誰、マドマーゼル洋子って」
「こないだテレビ出てたじゃん。お昼の番組の」
「知らないよお」
ケラケラと笑う女子二人のおかげで、車内はすっかり明るくなった。藤間といると無意味な沈黙ばかりであっという間に時間が過ぎるが、同じ無意味でもこちらの会話を聞いている方が心地いい。
助手席の藤間は頬杖をついたまま、難しそうな顔をしてサイドミラーの辺りを睨みつけている。騒がしいのは苦手らしい。
その夜は結局四人で外食して帰ることになった。本当は氷純たちの初旅行を手料理で労ってやるつもりだったが、時間が時間なので面倒になってしまったのだ。
適当なファミレスに入り、各々好きなものを注文する。
「うわぁ。雨、すごくなってきたね」
氷純がいよいようるさくなってきた雨音を心配して言った。
「杏樹、今日泊まっていくでしょ?」
「う、うん…ごめんね、お邪魔します」
「いいよいいよ、謝らなくたって。あ、キラ先生、帰りお菓子買ってもいーい?」
久市来は即座に快諾する。どうやら二人はまだ喋り足りないらしい。
「ーー5回」
不意に藤間が呟いた。雨の音に紛れて聞こえるか聞こえないかくらいの音量で。
なんだよ、と久市来が返すと、ストローを咥えていじりながら藤間は視線で石上杏樹を示した。大学の話題で夢中の彼女らは気付いていない。
「あの子がスマホの画面を開けた回数」
「そんなの数えてるのか、お前」
「目につくんだよ」
ーーといっても、杏樹がスマホを確認するのはテーブルの上に置いたそれをさりげなく開けてちらりと一瞥するくらい。スマホ依存症のように手から離さないわけでもないし、画面に見入るわけでもない。
やがて氷純もその仕草に気付いたのか、スマホを閉じた杏樹の顔を覗き込んでからかうように言った。
「なぁに杏樹ちゃん、彼氏ですか?」
え?と一瞬、間を置いて、杏樹は慌てて否定する。
「ち、違う違う!父に泊まってくるってメッセージ送ったんだけど、返ってこなくって」
「おー、あのダンディお父さん。元気?」
「う、うん、元気。いつも通りだよ」
杏樹はスマホを手に取った。
「既読はついてるんだけどな…」
苦笑する杏樹に、藤間がぶっきらぼうに聞く。
「気になるのか」
「え?」
藤間が杏樹に話しかけたのは、これが初めてのことだった。杏樹は目を丸くして、首を振った。少々困り顔で、スマホを手放す。
「いえ、別に…そこまででは」
「トーマ先生は無神経だなぁ。親子二人家族なんだから心配して当たり前でしょー?……そういえば、杏樹この前お父さんとちょっと気まずい感じするって言ってたけど、仲直りしたんだね」
「え?うん…最近はちょっとだけ話すようになったかな。…ちょっとだけね」
「へええ、よかったねぇ」
そういえば氷純からこっそり聞いたことがある。石上杏樹は一時期父親との折りが悪く、家に帰りづらいという彼女を何度か泊めたことがあるそうだ。
初めて会った頃の杏樹は、日本人形のように影を落とした美少女だった。挨拶はするが、いつも目を伏せている。そんな記憶を思い起こすと、今の笑顔からは想像もつかない。
「…………」
食卓にちょっとした沈黙が訪れた。深夜のファミレスで客はまばらなので、自分たちの声が余計目立ってしまう気がする。何を恐れているのかはわからないが、何故か杏樹も氷純も、お互い黙ったまま手を止めてしまった。
表の通りを車が通り過ぎる。ヘッドライトの残像の後に、遠くでサイレンが聞こえてきた。
「ねぇねぇ先生、デザート頼んでいい?」
重苦しくなった空気を壊すように、氷純が明るく言ってメニュー表を引っ張り出した。
「いいけど、あんま高いのだめだからね?」
「いいじゃん。聞きましたよ先生、こないだの新刊けっこう評判いいんでしょ?お祝い、お祝い!ほら杏樹、一緒に頼んじゃいな」
「誰から聞いたの。あ、二人してパフェなんて!せめてサンデーくらいにしなさい!」
結局季節のフルーツパフェを三人分追加したために、久市来の財布はすっからかんになって帰ることになった。途中コンビニで大量にお菓子を買い込み、パンパンになったビニール袋をそれぞれ抱えて女子二人は無事に自室へ帰還した。
「ーーねぇ杏樹、ほんとにお父さんと仲直りしたん?」
寝支度を整える折、鏡越しに杏樹を見つめた。
氷純の部屋は女子大生の割に物が少なく、生活感が薄い。まるで引っ越ししたてのような真新しい空気の部屋に、杏樹はいつも恐縮して隅の方で小さくなっている。
氷純の問いに、彼女は小さく首を傾げた。
「……どうなんだろ。まだ、納得……はしてないんだけど」
「ほほう?」
小さいテーブルを挟んで二人は向き合った。氷純の口調は茶化すようだが、杏樹の瞳を覗き込む表情は真剣そのものだ。
父親と娘という関係について、氷純にも思うところがある。氷純の方も解決はしていないものの、やはり家族との蟠りは無いに限ると思うのだ。
「…話はしたの。でも、どう伝えたらいいかわからなくて。父親と娘なんてベタベタしてる方が珍しいと思うし、わたしもそうしたいわけじゃない。……でも、何かわたしに隠してることがあるんじゃないかって感じがする。モヤモヤするの」
「具体的には?」
「……遅く帰ってきたり、あまり家にいなかったり?」
考えすぎじゃないか。なんて、藤間や久市来に相談したらまず言われるだろう。中年の父親があまり家に寄りつかないからと言って、そんなに心配することではない。
「わたしには仕事で遅くなってるっていうの。でも、それも嘘だったみたい。夕方に父の会社に行ったら、もうお昼で帰ったみたいだって言われて…」
「……もしかして、彼女ができたとか?」
氷純は遠慮がちにぽつりと言った。
杏樹の母親は数年前に亡くなっている。新たに相手ができただなんて、娘としては複雑だろう。
しかし氷純は首を横に振ってはっきり否定した。
「女の人じゃない。そういうんじゃない」
「ほう。女の勘…いや娘の勘かね」
杏樹は指に唇をあてて少し考え込む。違和感は感じるが言語化できないようだ。
「なんだったら探偵に素行調査でも頼んでみる?なんだったらウチのホームズ・アンド・ワトスンが初回割引で承るぜ」
氷純はいたずらっぽく笑って親指で隣室の方を指した。杏樹も応じるように微笑む。
「探偵業って免許必要なんでしょ?おたくのホームズ、免許お持ち?」
「あー、残念ながら運転免許すら持ってねぇや。ついでにマイナンバも作ってない」
「だからいっつも助手席なんだね?」
「そうだよぉ。もうね、世捨て人よ世捨て人。こないだなんてさぁ」
「ふふふ」
テーブルの上には知らないうちにポテトチップスとチョコレートが広がっていた。旅の余韻がまだ効いているのか、睡魔はまだまだ襲ってこない。話題は隣人の愚痴から大学の事務員、果ては街で見かけた変人まで。
時刻は既に12時を大きく回っていた。どちらともなくテレビを点けて、適当な動画を探る。名前も知らないゲーム実況のチャンネルを眺めているうち、二人はやっと眠りに落ちた。




